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『伊予吉田藩 (シリーズ藩物語)』(宇神幸男著,現代書館,2013/04)

『栗山大膳 黒田騒動その後』(小野重喜著,花乱社,2014)

 舞台は筑前黒田家.
 その筆頭家老だった栗山大膳が,黒田家二代目当主の黒田忠之と確執の挙げ句,領内での戦闘寸前の状態に迄なり,大膳はお恐れ乍らと幕府九州目付役の竹中采女正に訴えたのが黒田騒動の始まりです.
 当時は将軍家光の時代で,武人から能吏の世に移ってきましたが,まだまだ戦国の遺風が残っている時代でした.
 幕府の威光は,後の世よりも低く見られていましたが,武人と文官との対立が生じた結果,領内での戦闘が起き,家中取締不行届きで家のお取り潰しが相次いでいました.

 黒田家の場合も,初代長政が死去し,2代目当主としては未だ経験の浅い忠之が就任します.
 しかし,忠之は戦国の世に苦労して領国を手に入れた長政等の様な経験を持たず,物心ついたときには黒田家は既に中津とか福岡と言った広大な領地を有していました.
 こうした坊ちゃん育ちの忠之は,苦労も無く育ったため,自分の発する命令は全員が聞くのに慣れてしまい,領内で横暴な振る舞いをする様になりました.
 また,野心溢れる若者でしたので,家を保つと言うよりも,その家を如何に大きくするかに関心が向いていました.

 一方,栗山大膳は,父親の利安が播磨の小大名だった小寺家に仕えていた黒田孝高に仕官し,その小姓となって頭角を現わしていきます.
 利安は孝高の絶大な信頼を得て出世街道を上り,孝高が隠居して長政に家督を譲る際,家老として長政に仕え,朝鮮の役では,僅か2,700の戦力で4万の大軍を撃退するという大功を挙げています.
 また,施政官としても優秀で,朝鮮で占領した領土を能く治めたそうです.

 その息子である大膳利章は,中津時代に耶馬溪白米城で生まれます.
 関ヶ原の戦いの結果,筑前国主となった黒田家に於いて,利安は引き続き家老職となり,東部の要である上座郡志波に15,000石の封土を擁しました.
 これは国境沿いの細川忠興との対立に備えたものとされています.

 さて,黒田孝高の死去に際して,利安は長政の後見人にされました.
 関ヶ原で縦横無尽に活躍して家康の勝利に貢献した長政でしたが,家康はまだ黒田家に対する疑念を払拭しきれず,大坂冬の陣にて長政の出陣は差し止められました.
 そこで,利安が提案して,世嗣忠之を東上させ,家康に御目見得させる事にします.
 これにより,家康の嫌疑も解け,夏の陣の際に出た出陣命令には,忠之を担ぎ,自ら1万の兵を率いて兵庫まで出陣することにします.
 これらの行動は幕府の信頼を得ることに成功し,長政の地位は安泰となります.

 しかし,長政が死去するとまた利安も隠居し,代って息子の利章が家老となります.
 ところが,代替わりした忠之は権力を一手に集中して,思うままに政治を行うことに専心し,利章等五月蠅い家老を遠ざけるようになります.

 この頃,鳳凰丸事件が起きます.
 巨大な軍船とそれを碇泊させる港を幕府の許可無く築造したのです.
 幕府は怒りを露わにしますが,黒田家一体となっての弁明で何とかお咎めはありませんでした.
 更に忠之は行動をエスカレートさせ,小姓の倉八十太夫宗重を寵愛し,彼に新編の足軽200名を預け,9,000石を与えた上,2万石に上る領地の代官に任命します.
 宗重は,当主の威光を嵩に着て,横暴な振る舞いを多発し,遂には藩政が混乱する状態になりました.

 しかし,利章以外の家老は忠之に迎合し,遂に利章は孤立してしまいます.
 そこで,利章は腹をくくり,家老職の辞職願を出して采地に引き籠もりました.
 この対立は忠之が折れたことで一端は収まりましたが,重しになっていた利安の死後,再び対立が生じ,秀忠死後の当主お国入りの際,利章の出迎えがなかったことで頂点に達しました.

 そして冒頭のように幕府への訴えと言う挙に出たのです.
 ただ,その後の争論では,忠之の政治を批判しながらも,忠之を暴君として訴えたいと言う訳では無く,その性格が高じて黒田家を滅亡に導くのでは無いかと言う危惧が,大膳がこの様な行動に出たのだと言う弁明をしています.
 つまり,家を存続させたいが故の忠義の行動だ,と言う訳です.

 幕府の裁定は,黒田忠之は家中取締不行届きにつき筑前を召上げると言うもの,但し,その召上げた領地は,父祖の勲功に鑑み即日公議より拝領すると言う計らいでした.
 当然,喧嘩両成敗の観点から栗山大膳も黒田家から追放されますが,こちらは南部重直にお預けとなりました.
 しかしながら,完全に幽閉された訳では無く,150人扶持を宛がわれた上,領地内2~3里四方の行動は自由という比較的穏便な措置になります.

 因みに,もし幕府の裁定が更に苛酷なものとなる可能性があった場合に備え,大膳は黒田家の血族である梶原平十郎影尚に,家康が長政に送り,長政の死の間際に大膳が受け継いでいた感状を幕閣に提出せよと命じていました.
 この感状は,関ヶ原合戦時の長政の忠節を謝し,黒田家子々孫々に至るまで粗略にしないとのことが書かれていましたから,これが万一に備えての切り札となったのです.

 こうして,大膳は南部家に預けられます.
 しかし,此の地で大膳は伸び伸びと暮らし,林羅山との書簡を楽しんだり,禅僧との交歓を楽しんだりしています.
 そして,此の地で大往生を遂げたのです.

 大膳が南部家に流謫されたため,子孫は南部家に代々仕えることになります.
 この本の後段は子孫について,調べたことを書いています.
 また,南部家に行かなかった縁者についても触れています.
 その縁者は,国許でもそれなりの地位に就いた人もいましたが,直系については,或いは中津時代の縁を頼って秋月家に仕官したり,或いは毛利家に仕官したりしています.

 これまた,先日の浅井長政の話のように,一気に処断された訳でなく,日本の様々な地で生き延びていた訳です.
 この様に,意外に日本の武家というのは敗れても生き延びるケースが多かったりするのです.

------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/09/09 23:59

 【質問】
 藩の領外での業務には,どのようなものがあったか?

 【回答】
 さて,日本の片隅にある日向飫肥でお仕事をしている家中士の面々も,何年かすると国許を出て,外に出て行く機会があります.
 それが「旅役」と呼ばれるもので,妻子を国許に置いての単身赴任でした.

 飫肥伊東家の大坂蔵屋敷は土佐堀三丁目にありました.
 江戸堀川を挟んで対岸に高鍋秋月家の蔵屋敷があります.
 以前にも触れましたが,諸家の蔵屋敷は舟運の便が良い中之島を中心に,土佐堀川,江戸堀川縁に設けられ,元禄期には100近い蔵屋敷が並んでいました.
 此処に国許からの産物が送られ,売り捌かれ,一方,国許に必要なものを此処で調達しました.
 従って出入りする商人もかなりの数に上り,藩財政の最前線基地の様相を呈していました.

 飫肥伊東家では,江戸屋敷の他に大坂蔵屋敷を設け留守居を置いていました.
 蔵屋敷を預かる大坂留守居は,大坂蔵番とも呼ばれ,上身の者は3年詰とか4年詰として予め人気を決めて任命され,業務に当たっていました.
 一方,下級武士が担う役としては,諸物品の調達係である買物役,米売手代,米売役,貯役,脇買物,手代買物,銀役,留守居筆者,米方と言った常設の役の他,借銀払役の様に臨時役もありました.
 下級武士の任期は基本的に2年とされましたが,任期が延長され長期に及ぶ詰越もありました.
 尤も,その場合は,場所柄だけに酒色に溺れる心配もあり,また上方や江戸詰の勤務では,身分の上下を問わず出奔の例もありました.
 なお,家中士の場合はこの様に逃亡する事を欠落と言うのが一般的ですが,飫肥伊東家では出奔で統一しています.

 貿易港と言えば,九州諸家は特に長崎にも俵物である鱶鰭の移出を行っています.
 此処には蔵屋敷は置かず,用達商人に仕事を委任し,その町屋敷で諸事務を代行させるに過ぎません.
 元禄期には長崎浦五島町の守田与三右衛門が窓口となっており,その後,18世紀初頭の宝永頃からはモト東浜町の町乙名服部三右衛門と新町の樋口長兵衛,19世紀初頭の寛政から文政に掛けては糸屋武兵衛となっています.
 この糸屋武兵衛は,高鍋秋月家とも掛け持ちの用達商人でした.

 彼ら用達商人は,産物の椎茸や鱶鰭と言った俵物の販売を扱わせただけで無く,操船を誤って自領に漂着した唐船が流れ着いた際の外国人や船を長崎に回漕した際の長崎奉行所との交渉も担っていました.

 そして政治の中心は江戸です.
 江戸への参勤交代は,国許の発駕の日を3月1日としていました.
 これは余程の事が無い限り変更されません.
 その為の準備として,当主が他家の領内を通行する場合には,先方に予め使者を遣わし,「御馳走」と言う特別の気遣いをしないように連絡しました…と言っても,連絡を受けた方は道路整備などを入念に行って応接に万全を期す訳ですが….

 例えば,飫肥の隣国は佐土原島津家です.
 此処は,出立の翌日午前10時頃に通過します.
 1692年の佐土原側の対応は以下の通りでした.

――――――
 伊東出雲守祐実様御通行について先案内の使者として稲沢彦左衛門殿がみえる.
 客屋に於て取り次ぐ.
 料理相伴役として上山半右衛門が当り,「宮仕表」には小姓が詰めて宇宿伝左衛門が罷り出てその案内の知らせを受ける.
 朝10時頃,伊東侯がお通りになり,宇宿伝左衛門が五日町へ出掛け,伊東侯に御目見得した.
 佐土原側の先警備の古市分右衛門,田中紋右衛門に金子百疋(金一分)をそれぞれ賜り,人馬肝煎役の井上清大夫と小牧七左衛門にもそれぞれ金子百疋を賜った.
 一ツ瀬川の渡し場では御船奉行町田弥次右衛門が下役を引連れて罷り出ていて,渡しの任に当たり,弥次右衛門には「金子三百疋」,その下役には「金子百疋」を賜った.
 新田庄屋の所には,郡奉行海江田彦右ヱ門が下役を連れて出ていて,彦右ヱ門には「紗綾二巻」,下役には「金子百疋」を賜った.
――――――

と,こう言う形での応接が既に定例になっています.
 同じ日の高鍋秋月家でも大方同じように応接しています.
 こうした謝礼は1つの城下で3両2分となっていました.

 遠国大名は如何に費用が掛るかがよく判る記録です.

 逆に帰国の為,高鍋秋月家の領内を通行した場合は,清武と細島の間の1泊を高鍋領内の都農町本陣に宿泊するのが定例であり,ごく稀に城下に宿泊する場合もありました.
 こちらは,翌年の5月に行われます.

 なお,飫肥伊東家が高鍋秋月家の城下を出立した翌日の3月3日が,高鍋秋月家の参勤の出発日でした.

 こうして,当主は参勤交代をする訳ですが,それに随行する家中士は,各部署毎の役目に応じて派遣される者と,そして,当主の奥向きの世話をする者,上士の身分の中で,下級武士を付人として同行させる者の3種類がありました.
 参勤交代は,平常時の軍事動員とされ,道中の宿場での宿泊所は本陣です.
 当主に従う家老,用人,本締,表役,供頭など各役が揃い,さながら動く藩庁でした.
 その内,幾人かは当主が帰国している間の江戸屋敷を守りました.
 留守居として,幕府や諸家との折衝に当たった他,飫肥伊東家の江戸での政務に当たった訳です.

 江戸に於ける大名屋敷というのは,当初は幕府から与えられた土地であり,当主の私有地ではありませんでした.
 その為,幕府の命令があれば直ちに屋敷を明け渡さなければなりませんでした.
 屋敷の入れ替えもありました.
 しかし,屋敷内の普請や造作は各大名家の負担で行いました.

 この仕組みが変わったのが明暦の大火で,上屋敷,中屋敷,下屋敷の3種類の屋敷が設けられます.
 上屋敷は当主やその家族が住む公邸で,西の丸下,大名小路,外桜田周辺に置かれています.
 中屋敷は外堀の内縁に沿った地域に置かれ,隠居した前当主や嫡嗣などの住居と上屋敷が地震や火災などで罹災した場合の予備屋敷として機能します.
 下屋敷は江戸湾の湊口,河岸地や四谷,駒込,本所など周辺に配置され,国許から回漕される物資を納める蔵を置くと共に,その他当主休息用の別邸としての機能もありました.

 飫肥伊東家の上屋敷は外桜田大手寄十四丁にあり,4,438坪の敷地を有していました.
 1864年の切絵図では,外桜田の堀に沿って東の幸橋から新橋の間に,松平甲斐守,伊東修理太夫,亀井隠岐守と屋敷が並んでいて,道路を隔てた正面向い側には南部信濃守の屋敷があります.
 中屋敷は田町にあって,田町屋敷と呼ばれ,1,438坪の敷地で間口が27間5寸,奥行54間の屋敷でした.
 下屋敷は千駄ヶ谷にあり,これは7,080坪と広大な敷地を有していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/28 23:24

 日向諸家の参勤交代については前も少し触れましたが,飫肥伊東家の場合,江戸初期には周囲が敵ばかりだった事もあり,その遺恨も残っていたからなのか,油津から直接上方へ船で赴き,そこから東海道を陸路江戸に向かうルートを採っていたのが,1704年に御用船が内海沖で難破してからは,安全策を採って,先に見たように細島まで陸路,そこから船で上方にと言うルートを採るようになったとされています.

 ところが,既に1704年以前の資料でも「島道中」と呼ばれる陸路を採る事が確認されており,それより前の元禄期には定まった道中である事が考えられています.
 そして,3月1日の出立も年中行事としてこの頃には確立していたようです.

 海路から陸路になったのは理由があります.
 特にこの頃になると,各大名領の街道筋が整備され,陸路が容易に採れるようになりました.
 参勤交代と言う行事は将軍家に対する各大名家の奉公であり,その道中の安全を街道筋の大名家が保証するのもまた奉公と言う事になります.
 街道が整備されると共に,日向国内の赤江川,一ツ瀬川,小丸川,耳川と言った飫肥から細島間の河川では渡し船が確保されなければなりませんでした.

 一ツ瀬川は佐土原島津家が,小丸川や耳川では高鍋秋月家が渡し船を確保しなければなりません.
 これを,「御馳走船」と呼びました.

 特に高鍋秋月家にとっては,領内街道を参勤交代で往来する大名家の通行が頻繁になるにつれて,支障が生じてきました.
 その原因は特に河川に橋を設けていなかった為です.

 1756年に定められた「川々出船并人員数」では,先ず城下の小丸川では潮の干満に左右される為,水量が多い満水の場合は「御座船」1艘と「蝶(こぶね)」3艘を「御馳走船」,即ち高鍋秋月家の奉仕の船とするとしています.
 船が対岸に渡り,相手の川越役人が引き取ったら,高鍋秋月家も引き取ることなっていましたが,先方が残りの人々をも渡してくれるように頼んだ場合,役人同士が相談して1艘に付費用が幾らと賃金を決めて船を出すことにする事になっていました.
 一方,川の水が満水で無ければ徒渡り出来ますので,「御座船」1艘だけを御馳走船として差し出すことになっていました.

 垂門川の場合は,人足20名を御馳走とし,名貫川では満水の場合に人足80名,中程度の場合は40名,水が少ない干水の場合には人足15名の御馳走とし,先方の川越し役人が引き退いたらこちらも退くことになっていました.
 此処の場合も,先方が残りの人々に対しても人足を望んだ場合,役人同士で賃金を決めて人足を用意する事になっていました.

 心見川と石並川では,川の水が多い場合は人足を差出し,水が少ない干川の場合は人足を差し出さないとしています.

 この様な取決めを決めたのは,馳走だと言うので,通行者が全部通行するのに終日手間取り,高鍋秋月家は難儀することになった為です.

 また,当主一行が昼飯の休憩や宿泊をする本陣の整備が必要とされました.
 飫肥伊東家の場合は,高鍋秋月家領下の高鍋町や都農町がそうでしたし,薩摩島津家が「東目」通行をする場合は,高城町が必要でした.
 薩摩島津家でも細島までの街道は「島街道」と呼んでおり,現在の都農町名貫で飫肥からの街道と薩摩からの街道は合流していました.

 当然,高鍋領内のこれら2つの街道は秋月家が整備しなければならず,本陣となる3つの町の整備には意を尽しています.
 この為,これらの町の責任者には上級武士を充てて,町作りをしています.

 飫肥伊東家の場合,飫肥城下から清武を経て,延岡領飛地の宮崎,佐土原領,高鍋領を通り,1692年以降天領となった細島から船で上方に向かいます.
 この行程には3日を要しました.
 その間,2つの城下町では,家老が挨拶に出向いてくるのが恒例であり,こうした付き合いの中で,他家の様子も把握出来る様になっていました.

 参勤交代の規模は,年によって異なりますが,元禄頃には直接の御供が100~150名でした.
 大身の薩摩島津家の場合は,飫肥や高鍋の3~4倍の規模でした.
 因みに,飫肥伊東家では飫肥城下の出発の他,清武から他領に入り,日向国内の細島までの道中を「総御供」で移動していました.
 細島からの船は5~7艘の船団を組んでおり,普通は御供の人数に相当する船頭や水主と言った船乗りが必要とされています.
 基本的にこれには藩の御用船を充当しますが,不足の場合は廻船問屋の持ち船を雇いこれに充てました.
 1847年になると,従士,足軽,小人,夫卒を入れて300名の大人数に達し,これに同数の船乗りが加わるので大人数の移動となります.

 飫肥から江戸までは凡そ1ヶ月を要します.
 1843年の場合,4月23日に飫肥城下を出立となりました.
 供奉する人々は,家老1名,用人2名,本締1名,奥方付1名,表役2名,供頭2名,給人厩方1名,小姓4名,中小姓14名,医師3名,小納戸2名,手習2名,押合方右筆3名の他,従士,足軽,小人,夫卒,これに加え,臨時で江戸屋敷の普請造作のために大工などの職人,伯楽なども加えています.
 以前は3月1日だったのに,出発が遅れたのは,1842年以降当主が奏者に任命された為,参勤交代の時期が「四月お暇」から「六月お暇」となった為,国許の出発も3月から5月に延ばされました.
 この様に,当主が幕府から命じられる役目により,在江戸期間に変動が発生しています.

 4月25日に細島着,そこから船で大坂に向かい,5月13日に大坂木津川に入り,14日に伏見の藩邸に到着しています.
 5月16日に伏見を出発し,17日に守山を出発,以降,坂の下,桑名,鳴海,御油,浜松,金谷,江尻,三島,小田原と宿泊しつつ日を重ねながら東海道を下り,28日に箱根を超えて,6月1日に江戸上屋敷桜田藩邸に到着しました.

 因みに,江戸から京に上る場合は,戸塚,小田原,沼津,江尻,金谷,浜松,赤坂,宮,四日市,土山,大津,伏見というコースで,上り下りとも概ね1日に約10里移動する計算で旅程を立てていました.

 東海道中は,天候にも左右され,桑名,新居,天竜川,富士川,六郷川等7つの船渡しがあり,大井川,安倍川,酒匂川等5箇所での徒渡しがありましたから出水で直ぐに渡れない場合もありました.
 また,新居と箱根の御番所では,何れも総御供をして通り,この2つの関所では大名駕籠も戸を開いて通るなどの厳重な決まりもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/03 23:02

 飫肥伊東家が江戸に到着する前には菩提寺のある芝高輪の東禅寺まで江戸留守居の者が出迎えるのが通例でした.
 江戸迄の片道だけでも1ヶ月,随員150名前後の人達の旅費,1年分の江戸滞在費及び留守居の江戸屋敷の経費を加えるとその費えは膨大な額に上り,少なく見積もっても道中だけで軽く千数百両が吹っ飛びます.

 大身の大名家,例えば肥後細川家になると文化年間で銀126貫803匁を費やしました.
 仮に1両を銀65匁と計算すると,約2,000両になります.

 こうした費用は普通2つの形で持参します.
 1つは「御道中用」で,「御在所持越」として飫肥で調達して持参し,道中の費用に充てる金です.
 もう1つは,国許で十分な費用を調達出来なかった場合,江戸滞在の費用は飫肥から送られる上着の年貢米や諸産物の収入を引き当てて上方や江戸の商人が発行する「為替金」と言う形での調達でした.
 毎年,全国で300近い諸侯が国許から参勤の為に道中や江戸で多くの費用を費やしました.
 飫肥の様に南端に近いと,参勤の為に要する多額の費用は領外に持ち出されることになり,自領内を通過する諸侯はいないので,草鞋1足分の銭も落ちませんでした.
 一向持ち出しです.

 因みに,先に見たように,参勤交代の行程は1日約10里となっています.
 10里では普通2足の草鞋が必要となります.
 つまり,街道筋を大名が通過すると,その草鞋を求めるだけでも街道筋に銭が落ちた訳です.
 それだけ,参勤交代による日本全国に波及する経済効果はありました.

 また,本陣の宿料として宿場毎に1両が必要で,「伊東大和守様御本陣」と書いた関札料が伏見や守山,高宮,荻原,鳴海,浜松,箱根,金川でそれぞれ100疋(2,500文),旅籠代は1名当り平均191文でしたし,1775年の諸事覚によれば,江戸御供の人々の旅費は1泊124文,日当が60文でした.
 江戸留守居が命ぜられた場合の道中になると,1泊90文,日当45文の計算となります.
 因みに,こうした本陣などへの大名一行の宿泊には団体旅費としての計算が為され,個人旅行よりも安上がりだったそうです.

 飫肥伊東家の場合,江戸時代半ば頃から江戸御供には,大阪に着いた時に必要な経費である給銀が10ヶ月分として支給され,これらは道中及び江戸の滞在中に必要な経費を補うものとして渡されました.
 当然,幾度も江戸に上るとそれだけ家計に及ぼす影響が大きく,下級武士に対しては,3度目になると銀1枚が下賜されました.
 また江戸詰の合力米(臨時手当)は,1748年の会所「取極」では「給人は銀3枚,中小姓は銀2枚,徒士は1両,土器筆算は30匁」とされていました.

 ところで,伊東家に於て大名が帰国している江戸桜田屋敷には,1850年の場合で,留守家老以下30名,奥方付7名,押合8名,その他5名の合計50名が務めていました.
 これに中屋敷,下屋敷を加えると100名を優に超えます.
 当然,彼らは国許から来ている人々で,単身赴任者が多かった訳です.

 一方,1年の内で国許の城内が最も静かで閑な時期は,旧暦の3~4月,つまり今の5月頃であり初夏の頃です.
 この時期は,当主在国の年でも,また参勤の年でも不在です.
 参勤の年には当主は3月1日に国許を出立し,在国の年でも4月にならないと江戸から帰国出来ませんから,国元に着くのは幾ら早くとも4月末になってしまいます.
 この間,城内の年中行事は少なく,4月や5月の行事は「御礼之無し」と書かれています.
 端午の節句ですら,当主が帰っていないので「御礼之無し」となります.

 しかし,江戸屋敷は参勤してくる当主を迎え入れる準備や当主の帰国の準備でこの時期は逆に大忙しとなります.
 また,当主に御供する人々も帰国の準備に追われました.

 時に,江戸詰の人々の重要な業務の1つとして,情報収集と言うのがあります.
 勿論,参勤交代時でも道々情報の収集を行っているのですが,物や権力の集まる江戸に於てはその収集を積極的に行い,分析し,当主の判断に役立てなければなりません.
 特に移封とかになるとかならないと言った事は極めて重要な情報であり,各大名家は積極的に幕閣の用人と接触したり,幕閣に顔が利く旗本などの窓口を通して,常に情報を仕入れるようにしていました.

 ただ,元禄頃は後の世の様に,留守居役の情報交換を肴にした飲み会などは余り行われず,従って,自領に直接関係の無い場合は余り情報収集に積極的ではありませんでした.

 例えば,1690年9月に延岡有馬家領内で山陰組の百姓1,422名が隣の高鍋秋月家に逃散する事件が発生しました.
 延岡有馬家は元より,高鍋秋月家も対応に苦慮している時でも,飫肥伊東家は当事者では無かった為か積極的に情報収集をした形跡がありません.
 この時,延岡の北隣にある佐伯毛利家では,国境に近い庄屋や瓦職人等まで動員して情報収集に当たっています.
 尤も,細島は飫肥伊東家にとって参勤交代の通路であり,当時は有馬家の領地だったので,この辺りでの情報収集は行ったと考えられます.

 とは言え,当事者に直接関係の無い大名諸家が気にしたのは,原因とか参加農民の行方よりも,幕府が裁定する当主の交代が最大の関心事だったようで,誰が,何処から,どれくらいの石高で入封して来るか,延岡領はどうなるのかについての情報を主に収集していました.
 この有馬家の騒動は,先述のように,結果として,有馬家は糸魚川に移封となり,跡地には譜代の大名である三浦氏が配置され,日向国内は細島も含め幕府の天領が増えることになりました.
 これは外様大名が犇めく九州の諸大名にとっては大きな驚きで,当時の将軍であった綱吉率いる幕府が狙いとする所でもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/04 23:39


 【質問】
 江戸で泣くほどド貧乏の藩はどこだろう?
 筆硬のアルバイトもしなくちゃならなくなった京都の帝はんたちはおいといて.

 【回答】
828 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 20:19:01.77 ID:n3VIlG8E0

 藩札が紙くずになった佐土原藩の悪口はそこまでだ.


829 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 20:20:01.41 ID:6nB2pGjO0

 藩札が紙くずになったのなら,ニセ札を刷ればいいじゃない(某藩)


836 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 20:46:27.90 ID:Xn8Uu3j20>>827

 超高速!参勤交代でネタにされた湯長谷藩はどうだろう?……と思って調べてみたら,内政の良さもあってか,そんなに悪くなかった.


837 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 20:51:05.77 ID:n3VIlG8E0

 1万石以上が大名だが,大名になると義務や必要経費が大幅に増えるので,だいたい2-3万石ぐらいまでの大名家は火の車であるのが普通だったらしい.


838 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 20:56:46.24 ID:UAJ0h2jfO

 貧乏藩といえば,家老職の渡辺崋山ですら僅か80石だった田原藩.
 水は無いわ風は強いわという悪条件で,無理やり米を作ったので悲惨な事に.
 今では日本トップクラスの大園芸地帯.


841 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 21:01:01.48 ID:+/1IAG3W0

 一揆発生件数ぶっちぎりの南部さんを忘れるな.
 あそこは気候的に米できにくくて飢饉起きまくりなのに,見栄で無駄な散財しまるような内政だから,貧乏以前の問題だけどさ.
「ほんのお隣なのに,伊達領は別天地でした」
とか領民に言われちゃうレベル.


851 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 21:20:06.71 ID:R4IOJwbO0

 隣の伊達は一揆が少ないことで有名な藩だから,南部の実情知ってドン引きだったらしいしな…


857 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 21:32:37.29 ID:Xn8Uu3j20
>>851
 旧南部領生まれの人と,仙台で話す機会があったんだよ.
「仙台の街,まーくん[伊達政宗]推しが凄いけど,やんちゃされてた周辺地域の人は引かない?」
って訊いてみたら,
「昔飢饉だったか一揆のときに世話になったから,伊達にはあまり悪いイメージない」
って.
 子々孫々までこういう記憶って残るんだなと思った.


918 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 23:47:20.89 ID:/DU4IMCw0
>>857
 二度目の直訴の時は,
南部「と,言うわけで首謀者返して」
伊達「ふざけんな.殺されると分かってて返せると思うか?」
(ゴゴゴゴゴゴゴゴ)
みたいなやり取りしてるから,大名には
「他国の者でも自分を頼ってきた民草を護らねば,武士の沽券に関わる」
というような意識があるみたいだな.


919 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/01(日) 23:55:28.72 ID:Xn8Uu3j20
>>918
 だって一度目のときに,
「首謀者処分しないから返して幕府にチクらないでください」
って南部を信用して返したら,藩境越えるや否やバッサリだもんよ.
 頼られた伊達としても面目丸潰れだわな.

 二度目は同じ轍を踏まず,幕府にチクりましたとさ.


920 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/02(月) 00:14:28.85 ID:C1cNZRej0
>>919
 んで二度目の一揆のリーダー達は幕府に対し,
「南部家が要望聞いてくれそうになかったら,自分らの地域は幕府の天領にして下さい.
 第二希望で伊達さんちの飛び地にして下さい.
 伊達さんとこ来たら,あまりの差に愕然としましたわー.
 お隣でこんなに違うなんて,南部の藩政どんだけ最悪なの」
とブチまけたので,南部の面目丸潰れに.

漫画板,2015/02/01(日)~02/02(月)
青文字:加筆改修部分

35 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/02(月) 22:39:06.80 ID:8pQEiamr0

 一揆勢にとっての最大の問題は,気候地理条件による凶作より,そんな状況で悪政敷きまくる藩主だからなあ.
 藩越境までしたのは,藩のトップが元凶だから他藩に頼ろうって事だし.

 いざ仙台入ったら,気候は南部とそう変わらないのに,一揆は少ないと聞くし,もう見て分かるレベルの差があったんだろう.
「あ,やっぱ生活苦しいのは気候より,今の南部の殿様がサイテーなせいなんだ」
「伊達の殿様だったらあんな酷い事しないよね.仙台見りゃ分かるもん」
と.

 当時の南部藩主って,水戸黄門の悪代官にもこんなのいねーぞってくらい,無駄遣い浪費に重税に約束反故に,と悪政フルコンプ決めてるんだよな.


42 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/02(月) 22:54:35.18 ID:af16tlpY0
>>35
 仙台藩だから仙台って言っても間違いではないんだが,当時の藩境は今の釜石市だから何か違和感あるな.

 君側の三奸の一人に田鎖左膳ってやつがいるんだが,藩主交代絡みのいざこざで恨みを買って,なぜか吉田松陰がこいつの暗殺計画に参加してたりして面白い.
 当時の江戸社会は意外と狭いな.


601 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2015/02/06(金) 12:52:08.31 ID:16AtZSwZ0

 南部藩が民からの収奪に走ったきっかけも,幕府が10万国の南部藩に仕事を押し付けるために,
「お前んとこ実は20万国あるよな,そうだよな」
と,領地も追加せずに,20万石にして20万石相当の負担を押し付けたからで.

 南部から逃げた農民を伊達が構いきれなくなったのも,幕府から警備を押し付けられたからで.

 結局,御恩と奉公の封建制が,もう無理だったってことになる.

漫画板,2015/02/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 交代寄合とは?

 【回答】
 江戸期には参勤交代と言う制度がありました.
 これは,領主が1年毎に江戸と知行地との生活を繰り返すことですが,関東の領主の場合は,半年毎,水戸徳川家や役職に就いている領主は,参勤交代をしない定府になっていました.
 この参勤交代と言う制度が該当したのは,大名家ばかりではありません.
 一部の家格の高い旗本にも,参勤交代をする人々がいました.
 良く,時代物の小説で,旗本は将軍の直轄軍なので,江戸を離れるにも許可が要るとなっていますが,これらの旗本たちは対象外でした.
 この旗本たちの事をを交代寄合と言います.

 一般的に,その石高は3,000石以上とされていますが,実際にはそれよりも低い石高の旗本でも参勤交代をして,交代寄合に属していた家もありますので,一概には言えません.
 又,非職の者のみ交代寄合とすると述べる資料もありますが,実際には寺社奉行となって,かつ,交代寄合の儘の家もあります.
 つまり,交代寄合と言うのは,世襲の格式を表すものです.

 それが一般の武鑑に掲出されたのは,1703年以降ですが,実際には1682年,既に信州伊那山本5,000石を領す近藤重信が,
「小身の身なので,参勤交代が困難だ」
と言う嘆願書を幕府に提出しているので,その頃には既に参勤交代をしていたことが判ります.
 因みに,近藤家は嘆願が認められ,一般の旗本に格下げされました.

 元々,江戸期の政治体制や法体系は,慣習法に基づいていました.
 参勤交代と言う制度もその一つで,細かい規程がないので,誰がどの様にどんな方法で,参勤交代をするのか,今ひとつ明確になっていませんでした.
 しかし,制度として大枠は存在しているので,どの家でもその制度に従わないと,幕閣に睨まれて,知行地を失いかねなかった訳です.
 先に,旗本は「将軍の直轄軍」と書きましたが,実際には,これも大雑把な幕府の制度で,大名の家臣を除く万石未満の家を,将軍の直轄軍に属する譜代家臣は元より,中世豪族の生き残り,大名になりきれなかった戦国武将,外様大名の分家や没落名門の子孫などを一括して括ってしまった為に,参勤交代する旗本が生まれた訳です.

 その旗本の参勤交代を整理し,制度化したのが1703年以降で,当初は19家で,そのうち12家は江戸前期に「御寄合」として格付けされた格式の高い家でした.
 この数は1710年代の宝永年間に28家,1730年代の享保年間に33家となり,以後,若干の入り繰りがあるものの,33家の儘で推移します.

 制度上,当初は「交代御寄合衆」だけでしたが,1735年頃に細分化され,交替御寄合表向御礼衆と言う格式が高く,石高の高い旗本家と,交替御寄合衆に分けられました.

 元禄期には,
三河設楽郡新城7,000石を領する元大名の菅沼家,
三河宝飯郡西郡4,500石を領する元大名の竹谷松平家,
常陸新治郡志筑8,000石の中世豪族本堂家,
美濃不破郡岩手5,000石の秀吉の軍師だった竹中半兵衛の子孫である竹中家,
近江高島郡朽木4,700石余で,分地により大名から旗本になった朽木家,
豊後速見郡立石5,000石を領する,豊臣家姻戚で外様大名分家である木下家,
備中川上郡成羽5,000石を領する,外様大名分家の山崎家,
越前南條郡白崎3,000石で元大名の金森家,
下野那須郡に封土を持つ那須衆の福原,芦野,大田原家,美濃石津郡多良に封土を持つ美濃衆の高木(西),(東),(北)の各家,
信濃伊那郡に封土を持つ信濃衆の知久,小笠原,座光寺の各家,
肥後球磨郡米良に居る豪族米良家,
陸奥松前7,000石を封じ,後に大名格となる松前家
が交替御寄合でした.

 宝永期に,
下総香取郡飯笹6,000石の元大名久松松平家,
出羽由利郡矢島8,000石の元大名生駒家,
但馬七味郡村岡6,700石の元守護大名山名家,
陸奥岩瀬郡横田5,000石の元大名溝口家,
大和十市郡田原本5,000石で,秀吉の武将だった平野長泰の子孫である平野家,
近江蒲生郡大森5,000石の元大名・最上家,
肥前五嶋松浦郡富江3,000石の外様大名分家である五嶋家,
日向那珂郡飫肥2,000石の外様大名分家である伊東家,
上野新田郡100余石でありながら,徳川家の先祖である(とされる)新田氏末裔の岩松氏
が新たに任ぜられました.

 正徳期に一瞬だけ,遠江宝飯郡5,000石の外様大名分家である鍋島家が交代寄合に列せられますが,享保期に消え,更に正徳期には那須衆の元大名那須家が1,000石で列せられることになります.
 享保期に,
備中都宇郡撫川5,000石で元大名の戸川家,
遠江引佐郡気賀3,400石で近藤家
が気賀関防衛の功を以て列せられ,
三河衆の三河加茂郡松平400余石の松平支流である松平家
渥美郡大崎に600石を領する旗本中嶋家
が昇格し,松前家が大名に列せられて抜けます.
 因みに,高家の山名家も一時期だけ,交代寄合に降格された事がありました.

 元文期に細分化され,表向御礼衆に列せられたのが,上記の内,菅沼,久松松平(明治のみ),竹谷松平,駿河有渡郡久能で1,800石を有し,久能山を守護する旗本の榊原家,本堂,生駒,山名,播磨神埼郡福本6,000石の元大名松平(池田)家,戸川,竹中,溝口,朽木,平野,木下,山崎,最上,近藤,金森,五嶋,伊東の各家でした.
 残りが交替御寄合になりますが,最初は溝口,近藤,伊東家は格式は高いものの,交替御寄合に据え置かれ,その後,表向御礼衆に編入されました.
 交替御寄合の内,那須衆,信濃衆,美濃衆,三河衆は何れも,三河の中嶋家を除いて中世の土豪達で,四州として御寄合衆でも格が高く,別に郷士と言う位置づけで呼ばれていました.

 以後,若干の入り繰りは有りましたが,概ねこの陣容で明治維新を迎えます.

 しかし,彼らは万石以下だった為に,一部を除いて華族に列せられることなく,維新では平民とされてしまいます.

 戊辰戦争では,山名家や朽木家は上手く立ち回りましたが,生駒家は,その対応に苦慮し,結局山名家を通じて恭順を申し入れています.
 この戦争で,抵抗した交代寄合旗本は,陸軍奉行だった竹中家の重固で,鳥羽・伏見戦争,江戸,箱館と転戦して降伏,この結果,官位剥奪,領地没収と言う処置を受けました.

 一方で,馬鹿を見たのが座光寺家で,鳥羽・伏見の戦いの時には朝廷に500両を献じ,農兵を含め普通の旗本の10倍に近い100名で大砲を装備した軍を編成し,うち当主を含め49名を戊辰戦争に派遣したのですが,銃は淀の安藤家からミニエー銃を借り,東山道軍に合流し,官軍の先鋒となります.
 そこで,下にも置かれぬ扱いをされますが,熊谷で梁田戦争に遭遇しました.
 この戦争は,梁田宿に駐屯する幕軍900名を,薩摩,長州,大垣藩兵が中心の官軍200名が蹴散らしたものですが,座光寺家の兵士達は,虚報に釣られて方向を間違え,仕方なしに弁当を食べていると,砲声が聞こえ,慌てて向かおうとするも,領主の乗馬は家老が乗り潰し,全員,重い装備で3里半の道を駆けたものの,結局戦闘に間に合いませんでした.

 こうした軍の経費は全部自弁でしたが,賞典禄が付いて万石になり,諸侯になればしめたものです.
 ところが,山吹藩と称しても良いとされていたのに,その約束は反故となり,廃藩置県では幕府から封じられていた1,100石は,僅か75石に減封され,一般の旗本同様の処分で,解体されてしまいました.

 なんか切ないものがありますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月08日22:12


 【質問】
 尾張家5代,五郎太が3歳で亡くなった時,「17歳未満の者による末期養子の禁」が,全く取りざたされなかったのは何故なんでしょ?
 継友への甥→叔父の逆行相続も,何事もなかったかのよう.
 福井松平家で重昌が16歳で亡くなった時も,当然のように続いているのは何故?
 伊達家,南部家,宗家などでは,必死になって隠しているのに.

 【回答】
 一応,末期養子は慶安時代に禁が解かれてる.
 実際は手続きが複雑で,いろいろなんだけど.

 どうして慶安に解禁が解除されたかというと,政情不安につながる意味が大きい.
 つまり改易とか末期養子の禁とかの意味合いが,時代と共に違ってきてて,幕府にとって重要なのは,いたづらな改易よりも,社会安定第一ということになってきたということ.

 隠してた,というのは,手続きのミスや他に何かヤマしいことがあって,そういう事情があったのかもしれない.
 だから改易を恐れてたということなんだけど,それは各藩に理由があるわけで,幕府側の事情ではない.
 解禁ってなんだったの?というのは,あくまで幕府側の事情なんだが,個別で各藩がヤマしいことをしてたら,やはり改易を恐れてしまうことになる.

 実際に幕府が解禁した,と言っても段階的だから,各藩は本当に安心できたかは別問題.
 幕府もサジひとつでどうにでもなる,と.
 解禁はうまい作戦とは思うし,個別の事情でいろいろ発生することにもなる.

 結局,末期養子を認めるには江戸幕府の許可が必要で,親藩と外様では幕府の査定に差があった可能性も.
 福井藩主では,藩主松平斉善が19歳で没した時にも子はなかったが,松平斉善が11代将軍の実子でありながら,福井藩の養子に入った人物であったことから,兄である12代将軍徳川家慶が,特別の配慮で,12歳の松平慶永を死後養子とすることを認めている.
 徳川幕府は開幕以来,外様を警戒し冷遇する風潮があったということ.

 ゴチャゴチャしたレスで悪いが,慶安の解禁は正雪事件で幕府がビビって方針転換,このあたりが重要だから,幕府の政策変更という観点から捉えるべきで,それを押さえた上で個別の事情を考えていくと言うのが,方法的にはいいのかな.

日本史板,2011/12/21(水)~12/22(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 尾張徳川家の下級家臣の生活について教えられたし.

 【回答】

 さて,尾張徳川家に限らず,幕府や各大名家の下級家臣は,その支配下毎に組屋敷と言うものを拝領して,其所で生活するようになっていました.
 尾張徳川家の場合は,1組18~20軒程度で構成され,1軒の広さは120~130坪程度ですから,今の小さな家4軒分以上くらいの広さがあります.
 此処に,草葺き平屋建ての4間の狭い(と言っても現在の目から見れば充分広いですが)独立家屋を建て,家の裏には細長い畑が附属しており,この畑で大麦,蕎麦,大豆,綿,野菜などを作ります.
 要は,この畑を以て自活しろと言う訳です.

 御手筒組同心は,御亭下と呼ぶ場所,これは3代当主綱誠の御下屋敷の下と言う意味ですが,現在の東区百人町,黒門町,筒井町辺りに組屋敷がありました.
 御手筒組同心とは,当主の参勤交代時,熱田社参詣,定光寺参詣,鷹狩りの際に主君の鉄炮を持って随行し,供奉して警護をする役目で,御役目の無い日は射撃訓練や主君の鉄炮の手入れ,所定の番所への交代勤務などを行っています.
 当主の側に使える身でありながら,世禄は僅かに平均切米7石と2人扶持しかありません.
 2人扶持とは1日1升の米であり,御目見後の新人の際には全員同じで6石2人扶持が支給されます.
 切米は玄米が原則ですので,これを精米すると更に実入りは減ります.
 但し,実際には貨幣で貰う事が多かった様です.

 この切米の支給単位も,現在のサラリーマンのように個人に支給される訳ではなく,組単位で行われ,1軒1人の単位で,組に纏めて支給されるものです.
 御手筒組同心の組は15軒あり,1835年暮れに貰えた切米は,1人当り2斗5升として,37石5斗となります.
 此処から,支給手数料として蔵出料と言うのが2斗4升差引かれたので,組に入る手取りは37石2斗6升.
 当時の切米相場は,7斗6升で1両であり,金額換算で49両ありました.
 しかし,借金やその利子の返済により,15人の手許に残ったのは金5両3分に銀3匁8分2厘であり,これでは年越しが叶いません.
 そこで,組一同相談の結果,この組では20両の新借金をして年を越す事になりました.
 折角,年俸が支給されても,それでは生活出来ないくらい,貧乏している訳です.

 当然,生活する為には,この年俸だけでは食べていけません.
 其所で,家全体で内職に励む事になります.
 勤務しない者は早朝から,勤務から帰って来ると,一服もせずに直ぐに内職に取りかかります.
 今のサラリーマンの方が余程恵まれていますね.
 こうして野球を見たり,ブログを書いている暇があるのですから….

 内職の種類も様々で,指物業,仕立物,洗濯に糊張りする洗濯屋,飾り細工,麻糸を撚って松脂で固めて,弓の弦を作ってみたり,唐紙細工や表具師,傘細工,彫り物,下駄の鼻緒作りやすげ替え,刀の鞘細工に竹細工,筆結い,塗師など有りと有らゆる内職を行っており,御手筒組同心15軒の内,14軒までがこうした内職をしている状態でした.
 こうした内職は夫婦でやっている事も多かったりするのですが,子育てなどで余裕が無かったりするなど職のない細君でも,元結いに使う紙縒を作ったりして小銭を稼いでいました.

 他の組屋敷でも同様ですが,別の組屋敷では45軒有る内の34軒が大工を内職としていたりします.
 専門大工顔負けで,注文があった時に大工仕事をする居職とか,逆に大工道具を肩に担ぎ,注文がないかを探して歩く出職もいたり…と.
 この他,金工職1名,小細工2名,弦師1名,塗師1名,指物師1名,張付職1名…無職は僅かに1名のみ.

 下級家臣でもこんな町人と変わらない状態ですが,中級家臣でも同様です.
 100石取りが実際に手に出来る米は,生産高に幾ばくかの貢租が賦課されます.
 今の源泉徴収みたいなもので,逃れる術はありません.
 18世紀末頃の尾張徳川家の場合は,免四つ取りか免三つ半取りのいずれかが適用されていました.
 100石の場合だと,実際の手取りは免四つ取りで40石,免三つ半取りでは35石になります.
 幕末になると,免三つ半取りが主流となっていたようです.

 例えば,120石取りの場合,幕末の手取り平均は約38石8斗9升,大体39石としましょう.
 此処から知行高に合せて上納するお役米が8.4石,家族と家来,使用人の飯米を1人年間1石8斗2升と計算すると,家族構成が父,夫婦2人,子供3人の6人程度に加え,槍持と鉄炮持ち,下男が2~3人として,合計9人分の米が必要で,これを合算すると16石3斗8升,差引き残りは23石2斗となります.

 下級家臣よりマシですが,これでも相当苦しく,特に中級以上だと体面を保たねばならなかったりするので,生活費が幾らあっても足りません.
 で,これまた借金に頼るしか有りません.
 尾張徳川家の場合,この辺が意外に捌けていて,尾張家成立の時点から届出1本で,仕事の他の副業,つまり職芸を許可する様になっていました.

 要は,家計の苦しい者は御家から与えられた仕事以外に,余技を以てそれで暮らしの足しになるお金を儲けよ,二足のわらじを履いても構わない,とした訳です.
 内職が盛んになる背景にはこうした施策があった訳です.
 尤も,武芸の家であれば届けを出していなくとも,副業は出来ました.
 つまり,門弟を抱えて武術指南をし,その月謝を家計に組入れる事で,副業と同様の形になっていた訳です.

 中級家臣の御目見格の人々でも,堂々と副業を遣っていたりします.
 世情騒然としていた1854~60年の安政年間に,近松某と八尾某と言う2名の家臣は,自分の屋敷内に500羽以上の鶏を柵飼いしていたとされ,その他にも100~200羽の養鶏をやっていた家臣が10数名いたようです.
 近松某の鶏は,羽毛は赤黄色,胡桃冠で臑の長い鶏で,雄1貫匁(約3.7kg),雌700~800匁(約2.6kg)前後のもので,一名を「カピタン」又の名を「近松種」と称していました.
 又,八尾某の鶏は,中躯の軍鶏を改良して採卵鶏としたもので,これは「八尾種」と呼ばれて特に産卵能力に優れており,当時から評判になったと言われています.

 この近松某と八尾某が如何なる役職の人物かは記録に残っていませんが,250石取りの寄合組八尾鉞太郎の子孫である八尾吉之助は,1886年,10歳で北海道に渡り北海道八雲開拓団幼年舎に応募,幼年舎を出てからは,養鶏を始めて,後に北海道有数の養鶏家となっており,鉞太郎がその八尾某だったのではないか,と言われています.

 それにしても,江戸の大名家家臣と今のサラリーマン生活のよく似ている事よ….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/09 22:28


 【質問】
 彦根藩の特産品「薬用牛肉」について教えられたし.

 【回答】
 江戸期に生牛屠畜と牛肉生産を公認されていたのは,彦根井伊家だけでした.
 彦根井伊家の場合,譜代筆頭として西国外様大名家に睨みを利かさなければならない為,軍事力として4,000名余の武士と雑兵を抱えており,彼等に供給する為にも牛皮や馬皮が欠かせなかった事もあります.
 皮革の製造が盛んになると,幕府に対し,陣太鼓用に毎年献上されたり,尾張徳川家など近隣大名家へ販売されたりするようになります.
 当然,残った肉は食用にも供される様になります.

 例えば,井伊直澄の家臣である花木伝右衛門は,明から渡った『本草綱目』の記述を元に,元禄年間に黄牛の良肉を用いた反本丸と称する薬用牛肉を製造したのが記録にあります.
 これはビタミン剤的に利用された様で,形状は不明ですが干肉か味噌漬けに近いものではないか,と言われています.
 当時は,生類憐みの令が出ていた時代ですが,漢方で言う牛黄と同様に,牛胆として薬用に利用しているとして,カムフラージュしてたりした訳です.

 肉食については,江戸時代初期は未だ戦国の遺風が残り,比較的肉食禁忌に関する制限は弱かったのですが,寛文から延宝に掛けては,忌避意識が強まり,獣肉店が消滅し,元禄から享保にかけてはほぼ絶滅します.
 しかし,宝暦から天明期になると再び復活するようになり,天保期以降は獣肉店に関する記述も増えていきます.

 そんな中でも,彦根井伊家では,牛肉を「薬」として生産し,味噌漬けを「養生肉」と称して,将軍家は元より,各地の大名家にも送っていました.
 これは一般にも販売され,例えば赤穂浪士で有名な大石良雄は,義士の最年長者である堀部弥兵衛に「彦根之産,黄牛の味噌漬養老品故其許には重畳かと存候」と贈られた牛肉をお裾分けしたりしています.

 この牛肉は毎年12月になると,将軍家を始めとして諸侯からの所望により薬用として贈られました.
 その中には,老中松平越中守,細川越中守,毛利石見守,太田備中守,松平伊豆守,牧野備前守,安藤対馬守,松平定信,佐竹壱岐守,稲垣信濃守,内藤播磨守,巨勢日向守,松平和泉守,松平丹波守,水戸宰相,脇坂中務大輔,水戸中納言…等々となっています.
 その中で,水戸斉昭も牛肉愛用者の1人であり,井伊直亮への礼状が残っていたりします.

 味噌漬以外の干牛肉については,塩加減を最も少なくする為,1年で最も気温の低い陰暦1月5日~2月2,3日までの寒の時期しか生産できませんでした.
 寒の厳しい冷気と,清冷な寒の水が不可欠の条件であり,夏には生産できず,例え所望されても,あり合わせのものしか献上出来なかったりします.
 これは,今のビーフジャーキーの様なものでしょうか.

 因みに,この牛肉の製造と献上,贈物ですが,「愛牛先生」,「近江の赤牛」こと,井伊直弼によって中止されました.
 彼は若い頃,僧侶の資格を得ていた為,殺生を嫌い,領内の牛屠殺禁止令を出します.
 この為,領内で牛肉を生産する事が出来ず,これを不満とした諸侯,特に水戸斉昭は強硬に申入れをしますが,これを一蹴した為,以後,井伊家と水戸家の仲が悪くなった…と言うまことしやかな噂が流れたりしました.

 正に食い物の恨みは恐ろしい…です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/25 23:49


 【質問】
 水戸黄門は本当に漫遊したのか?

 【回答】
 徳川光圀と言うお人は,日本中を旅した訳ではありません.
 『水戸黄門漫遊記』と言うのがどう言う訳か人口に膾炙して,越後の縮緬問屋の隠居として,日本国中を廻って,悪をバッタバッタと懲らしめると言う話になっていきました.
 因みに,助三郎と格之進でしたっけ,俗に助さん格さんの両名は元々は俳人だったりします.
 それが,江戸末期から明治初期に掛けて,段平を振り回して,切った張ったの大立ち回りをするようになりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34


 【質問】
 重臣に「あいつ謀反たくらんでますって! ぶっ殺しちゃってください!」と,幕府直訴をされた黒田忠之は暗君?

 【回答】
 忠之は黒田長政の長男,黒田官兵衛から数えて三代目だが,とんでもすぎたと評されることが多い.
 愚鈍な人物とされ,長政は一時,忠之を廃嫡して,三男・長興を後継者にすることも検討したが,家老・栗山大膳によって反対され,廃嫡話はなくなった.

 しかし,藩主についた忠之のとった行動は,やっぱりトンデモだった.

 忠之が藩政で重用したのが,小姓上がりで,内政でも武功でも功績のない,身分の低い美少年だったので,長政時代からの旧臣が思いきり反発してお家騒動.
 長政が廃嫡しようとしたとき,庇ってくれてた守役の栗山利章
さえ,疎んじて殺そうとした.
 そのため家臣を統率しきれず,島原の乱においても,家臣は忠之の指揮には従わず,家老・黒田一成の指揮で戦ったという.

 太平の時代になぜか軍拡して幕府に睨まれたのも,何考えてるのか不明.
 大船・鳳凰丸を建造し,足軽200人を新規に召抱えるなど,軍拡路線をとったため,幕府から咎めまで受けている.

 挙句,その筆頭家老・栗山を初めとする宿老たちとの間の軋轢から,栗山による幕府直訴に至っている.
 これが世に言う
黒田騒動.
 この一件,利章が自分の身を捨てて,黒田家と忠之を救おうとした,という説もある.
 だとしたら,なんかもう利章があまりに立派すぎるから,忠之がDQNにしか見えない.


308 名無しさん@お腹いっぱい.[] 投稿日:2006/09/29 02:19:24  ID:fza4M9Z2

 長政がわりと早めに死んじゃったので,隠居として若い忠之をフォローしてやれなかったのも大きいかもね.
 逆に光之は隠居してから長生きしすぎて,息子と対立したけど.


763 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2014/01/06(月) 17:10:44.52 ID:gzsur3/H0

 いやいや,24家もあった重臣を,13家に削減した忠之は,立派な改革者.
 もしもそのまま
重臣が24家もあったら,財政は圧迫するわ,藩の中は絶えざる内部抗争でガタガタになるわで,きっとお家騒動が起こったり,ニセ札作らざるを得ないほど藩財政が悪化してたりしたと思うよ.

 …あれ?

漫画板,2014/01/06(月)
戦国板,2006/09/28(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田騒動の後,関ヶ原の後で傘下に入った薦野立花家の立花実山とかが重用されるようになったのは,何でだろう?

 【回答】
 光之が新参の立花実山を重用したのも,忠之が旧臣遠ざけたのも一緒の理由.
 孝高・長政時代以来の旧臣の,大きすぎる発言権をそいで,中央集権化を図った.
 ただ,忠之はやり方がヘタクソすぎたので,大失敗に終った.

 次代の光之は名君だったのと,登用した実山らが有能だったから上手くいった.
 新参の立花らと組んだ光之が,旧臣の重臣クラスを粛清しまくって,この時期に力ずくで武断から文治へ転換させている.

戦国板,2006/09/28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 江戸時代の黒田家は,なぜ財政破綻していたの?

 【回答】
・長政が実際の石高より多めに表高を申告したので,もともと財政が困窮し易い体質.
(長政は筑前入封後の検地で,如水が豊前貰った時とは逆に,実高よりかなり多めに表高を申告して,実より名を取った.
 江戸時代の黒田家の,実高と表高の差が,他の大名家よりあまり離れていないのは,そのせい)
 軍役でも,参勤交代でも,お手伝い普請でも過重な負担に苦しむ.

・長崎警備や島原の乱もあって,3代目の忠之の末期からいきなり財政難に.

・藩札を発行する時2回連続して騙したので,最後には領民に信用がなくなり,3回目に発行した時には藩札が流通しなかった.

・当然,財政は借金まみれだが,その借金を踏み倒すのさえ下手くそ…
 何の考えもなく大坂商人の借金を踏み倒し,報復として大坂の米市場で,筑前米を取引から締め出される.
 現金収入の道を絶たれ,さらに困窮.
 慌てて殿さま自ら手をついて,謝ってなんとか許してもらう破目に.

・バブルな開発計画ばかり立て,他藩から財政再建のエキスパートを雇っても,全く倹約できない放漫財政を続ける.

・維新のときは財政難で大変困る.
 そこで藩ぐるみで,偽の太政官札を刷ってみた.
 藩士がそれを使って,必要物資を購入する末期状態.
 それが新政府にばれて,倒幕藩なのに廃藩置県の前に取り潰された唯一の藩になった…

 なお,如水の名誉のために言っておくと,黒田家直系は7代目で絶えてしまい,福岡藩は以降関係のない他家の養子がずっと藩主だった
 もっとも,黒田家は如水と長政以降,急速にダメになっていく感じ.
 4代目がややましで,そのあとはすぐ血筋が絶えてしまった.

戦国板,2006/08/17
青文字:加筆改修部分


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