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◆◆◆肥後細川家
<◆◆諸藩事情
<◆江戸時代 目次
戦史FAQ目次

肥後細川家の6つの家紋のうちの一つ,九曜紋


 【質問】
 細川重賢とは?

 【回答】
 細川家と言えば,室町幕府の管領まで務めた名門でありましたが,一度没落し,細川幽斎が将軍足利義昭から織田信長に仕え,その後,明智光秀を見限って豊臣秀吉に通じ,更にその子細川忠興が徳川家康に与して家を守り,家康によって豊前・豊後の地を与えられ,その後,加藤忠広の改易により肥後54万石に移封されました.

 現在でも,「へうげもの」など漫画や小説で登場するのは細川忠興あたりまでな訳ですが,江戸中期の細川家の当主もそれに負けず劣らず変わり者でした.

 その8代目当主,細川重賢は,どん底にあった藩財政を,宝暦の改革によって建直した名君として評価されており,「肥後の鳳凰」と呼ばれています.

 重賢は,7代目当主の宗孝が,江戸城中で旗本の板倉勝該から人違い(細川家の家紋と斬付ける相手の家紋を見誤った)で殺され,急遽部屋住みから当主を継いだものです.
 最初は部屋住みですから,当然,生活は質素で,それをそのまま大名家の生活に持って来た為に,殿様とも思えないエピソードが沢山残っています.

 例えば,居間の畳の話.
 大名家の居間と言えば,当主の生活スペースな訳で,普通は整然と綺麗な畳が並んでいて,ちょっと痛んでいても直ぐに替えるのが慣わしでしたが,重賢はそれを止めさせました.
 ある時,重賢のいない時を見計らって,それっと御役の人が痛んだ畳を替えた事があったのですが,後で鍼灸医に,
「畳が痛んでいるのを替えるなと言ったのに,取り替えてしまった.
 居間の畳を1枚取り替えると,それは国中の畳にすれば何百枚か取り替えた位になってしまい,その経費は莫大だ.
 なのに,取り替えるとは,自分にとってストレスだ」
みたいな事を愚痴って,それが御役の人の耳に入ったそうです.
 因みに,部屋住みの頃,重賢は畳が痛んで足に引っかかって煩わしいので,自分で紙を貼って凌いだとか.

 また,部屋住み時代に,重賢が何か欲しいものがあって,その購入を用人に申しつけた所,それは別途の支出になって難しいと言われました.
 その為,重賢は用人に羽織を1着下げ渡し,それを用人が質に入れて金を工面して購入した事がありました.
 昔,苦しかったときのことを忘れない様にと,以後,重賢はこの時の質札を大切に持っており,時に家老達との用談の際にその質札を見せたりもしています.

 ところで大名当主は,余程の事が無い限り,戦場での移動や狩りの際に,乗馬出来なければなりません.
 大名火消の際には,場合によっては当主自ら乗馬して,火事場に乗り込む必要もあります.
 重賢は「主馬」を名乗っていたので,乗馬についてもその乗り熟しは「主馬風」とまで言われて,家中でその真似をする人々が続出したと言います.
 その極意は,馬の性質をよく知ってから乗るというもので,必ずしも良馬を求める必要は無いと言い,25両以上の馬は買わなかったそうです.

 重賢が愛した馬は,八代高田手永の植柳産のもので,「植柳」と名付けられていました.
 この「植柳」,足は太くて背が低くその姿はぱっとしません.
 しかし,火事場や人混みなど騒がしい場所でも,全く驚かない性質を持っており,それを重賢が気に入って可愛がられたそうです.

 他にも,「八日町」「駿河沢」と名付けた馬もいましたが,これも丈夫が取り柄で,見た目が悪いものでした.
 これを馬事で乗り,相手に見せるものだから,それを見る相手を気の毒に思い,とうとう馬事掛が,余りに体裁の悪いので,良い馬をお買い上げ下さいと言上した所,重賢は,
「侍の馬は遊び道具では無い.
 それに,東国では船を持つ人が少ないので,良馬が買えるのだが,自分の領内には船が浦々にある.
 それを更に馬を求めたら,幾ら費えがあっても足りないし,家中が迷惑する.
 楽しむだけならこの馬で十分である」
と言って,頑として認めなかったそうです.

 また,ある時,唐虎白の馬乗袴の新しいものを着けて騎乗し,馬事十番に出場され,終わった後は他の門人と共に,馬の口を丁寧に自分で洗ったのですが,手に馬の泡が付いているのを見つけ,高級品の袴であろうが,新品であろうが全く意に介さず,ごしごしと袴で拭ったとか.

 こんな重賢ですが,だから良馬は乗りこなせなかったのかと言えば,然に非ず.
 1747年8月15日,お祝いの為,宗孝のご生母の映心院の住居である田町屋敷に伺っていたところ,江戸城内で宗孝が手傷を負ったとの急報があり,急遽龍之口の上屋敷に駆付けましたが,この時は奥州産の「坂戸」と言う駿馬を駆って矢の様に駆付けました.
 その間,他の者は付いて来られず,1人,孫九郎と言う御中間だけが付いて来たと言う話が残っています.

 流石に細川家の当主だ,というのは次の話.
 重賢最晩年の頃,彼の側に仕える者が,江戸で剣術の修行をして,目録とか免許を貰うのに,その御礼のお金(伝授金)を工面出来ずに拝借したいと願い出てきました.
 上屋敷の用人が,重賢に伺いを立てたが駄目で,その上司の上羽蔀と言う人が,更に拝借を願い出ます.
 重賢は即座に却下しますが,蔀は,
「先頃,片山典膳という者には能の伝授金の拝借をお許しになったではありませんか.
 遊芸でさえ拝借をお許しになるのに,武芸の伝授金拝借不可とは納得いきませぬ」
と申し上げた所,老年に達して気短になっていたのか,重賢が爆発.
「何! 蔀は武芸と遊芸との分別も知らんのか.
 それほどの馬鹿者とは思ってなかったのに,思いのほか馬鹿者だ.
 典膳は自分の物数寄で,家業でも無い遊び事を学ばせてやって迷惑であったろう.
 それに,出費までさせては済む物では無い.
 あの伝授金は貸すという建前であるが,くれてやるつもりだ.
 それに対し,武士が武芸を学ぶ為の金や身分相応の武具を備えるのは,俸禄だけで賄うべきであり,その為に俸禄はくれてやっているのだ.
 文武修行の為の出費,武具の購入の為の出費の不足を,あからさまに申し立てると言う事は,武士として恥ずべき事であるのを,御前達までが大げさに執り成して申し立てるとは,何と心得ているのか.
 武芸と遊芸の弁えも知らぬ馬鹿者よ!」
と,まあ偉い剣幕で怒り,蔀はただただ畏まり平伏して,這々の体で御前を引き下がりました.
 その後も,2〜3日は重賢の怒りは解けなかったそうで,会う人ごとに,
「蔀はこんな馬鹿だとは思わず,こんな事があってこんなに言うので,こんなに叱った」
と言ったとか.
 尤も,後の2〜3日のそれは,家臣への諫めであったのでしょうけど.

 大名家には,懇意にしている旗本が数人はいます.
 彼らに幕閣との連絡係を務めて貰う他に,幕閣の情報を教えて貰い,御手伝普請などがあれば前もって準備を整えておくか,回避する為に要路に賄賂を散蒔くとかの対策を採るのに必要な人々です.
 ある時,そうした旗本で,吉宗の側に長く務めた人が細川家にやって来ました.
 そして,時刻も過ぎたので,お食事が出されました.
 その人はお膳に向かって1つ1つ蓋を取り,
「御念の入ったお料理で御座います」
と挨拶し,また元の様に1つ1つ蓋をして,その内の1品だけを食べました.
 その行動を不審に思った重賢が,
「お口に合わない物がありましたか?」
と尋ねた所,次の様な答えが返ってきました.
「そうではありません.
 若い頃に江戸城で将軍の御側近くに仕えておりましたが,将軍の仰せには,古人の言に『肉多しと雖も食の気に勝たしめず』とあって,肉のみに限らず,何品であっても,おかずの多いのは,食の気が勝って養生に障るものである.
 菜回りは1品のみ食べ,若いうちから養生を慎む様に.
 生を保つのは忠孝の基であると諫められました.
 江戸城には数十年朝夕伺候致しましたが,将軍はいつも1品の他は召し上がらず,その仰せと,お慎みの程を窺っておりますので,私も若い時分から,何品あっても菜回りは1品のみ頂きます.
 御馳走の品を頂戴しないのは不敬な事ではありますが,将軍の仰せを守る老人の養生で御座いますので,お許し下さいまして,今日も公の御前も憚らず,1品のみ頂きましたので御座います」
 これに感銘を受けた重賢は,その夕方からおかずは1品と決めて,終生それを守りました.

 但し,奥からは時に何品か差し上げる事があり,お台所には,それを食べる際には,お台所から差し上げたものには箸も挿さず,これは台所に預け置くから,夕食や夜食の向に出せなどと言う事も命じていました.
 その際もお膳に出す際には,新しく調味する事も無く,暖めて供しただけと言う様にしています.
 そう言う意味では,極力合理主義的な人間だったようです.

 当然,お客様をもてなす際の御馳走の肴の品も,容赦なく少なく,粗末にしました.
 ある時,田楽の串50本を送られた事がありましたが,その串で田楽を焼くので,どうぞおいで下さいと言う招待状を送り主に送ってみたり.
 この様に,万事,倹約のもてなしでしたから,毎月幾度もお客様のご招待やら能の会や連歌の会がありましたが,お台所では決まった経費で事足り,別段に支出する事は無かったと言います.
 内輪でも,家老を始め近習が召し出されて御酒を下される事がありましたが,肴は大抵の場合,湯豆腐か奴豆腐と言う徹底ぶりです.

 こうした倹約家の一面は,お風呂の際にも発揮されました.
 て事で,ちょいとこの話を続ける.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/24 23:25
青文字:加筆改修部分

 さて,重賢話の続き.

 重賢は毎朝風呂に入っていました.
 夏の頃,近習がお世話をした時に,こんなことを言い出します.
「毎日この水を替えるのは勿体ないし,無駄な事だ.
 それに毎日水を替えるのは,人出を要する.
 下々の者は,家族が何人いても皆,1つの風呂で済ませておるでは無いか.
 自分一人で入るお湯を,毎日替えるのは失費であるから,これからは4,5日おきに水を替え,その間は温め返せば良いから,その様にせよ」

 近習は,それはご尤も,と言いながらも,こう反論します.
「殿様の毎日のお湯汲みは,その身をお清めになる為に御座います.
 それなのに,古い湯の穢れたのでは,お清めになりますまい.
 人の労をお厭い下さるのは有難い事ではありますが,大国の藩主の御身であられますので,風呂一つの水を汲む労力など,何でも無い事で御座います.
 どうか,今まで通りにして下さいませ」

 それでも重賢は,近習の言う事を聞きません.
 この近習は一途な人間でしたので,遂には御湯殿の入口に立ち塞がって,ご承知下さるまでは,此処をお通しいたしません,と言い張りました.
 細川家の先祖ならこう言う時は,無言のうちに刀を抜いて,刀の錆にする所でしょうが(ぉぃ),重賢はそこまで言う近習に折れます.
「そんなに言うなら,今まで通り毎日水を替えよ.
 しかしその水は,無駄に捨てては勿体ないから,これからは庭に撒く水にせよ.
 そうすれば,打ち水を汲む労力を減らす事になるであろう」

 因みに,重賢の逸話を収録した『銀臺遺事』にはこうあります.
「いつもおっしゃったのは,世の中に多いものは水火という.
 されば,水はどれだけ使っても咎め立ては無かろうが,その水を多く使い捨てる者は,総ての物をも費やす事,必ず多き者である,よくよく心得べし.
 併せて,紙も安易に求める事が出来るが,努々疎かにしてはいけない.
 包み紙も取っておいて,内々の手紙などはそれに書かれ,近習の者達が帳簿を作成した時などは,その裁ち切れ端を必ず竹釘に刺させて御側に置かれて,簡単な書き物などはそれにお書きになった」
 何か今の世の中にも通用しそうな話です.

 重賢は良く,藩の重職も召し出す事がよくあったそうです.
 何か事があって申し上げる場合は,詳しく事情を聞ないと解放されないので,新たにそうした役に就いた人は正に冷汗三斗と言う有様.
 また,申し上げた事も,納得して了承するまでには時間が掛るのですが,納得してしまうと非常に穏やかになると言う話で,決して飾り物の殿様では無い事がよく判りますし,頭も良く切れた人だと思います.

 そんなある日の朝,竹原玄路,通称勘十郎と言う人を重賢が呼びにやります.
 若党が玄路の寝ている所にやって来て,重賢の御前に出る様に伝えた所,返事はしたものの,起きない.
 この人,低血圧なのか,朝寝坊で,もし強いてでも起こそうとすると,何時も機嫌を損ねて散々に叱るので,誰もが起こすのを憚っていました.
 若党は,どうしようかと思ったけれども,叱られるのを恐れて強く起こす事も出来ない.
 そうこうしている内に,取次役の家来がやって来て,重賢が最前から待っているのに,何をやっているのかと騒ぐので,若党もとうとう寝間に走って,かくかくしかじかと玄路に言った所,玄路は大声を出して,
「何? 昨夜も12時頃まで色々議論をなさったのに,又今朝も早くから御召になるのか.
 それは無法の事である.
 勘十郎は寝ないで御奉公は出来ません,と言え!」
と言い,足で畳を強かに2つ3つ踏みならして起きません.

 取次役も興ざめして,結局,重賢の下に急ぎ帰り,その様子を申し上げた所,
「勘十郎は我が儘でないと良いのだが,今以て我が儘が止まない,おかしな男だ」
と呟いて,特に腹を立てた様子も無く,書見を始めたと言います.
 これが,先祖なら今頃血刀を(以下略.

 因みに,この竹原玄路と言う人,重賢のブレーンとも呼べる人物の1人で,重賢が藩政改革を始めるに当たって,誰を最高責任者に据えるのが良いか聞いた所,玄路は,堀平太左衛門を推挙しました.
 重賢は,元々平太左衛門以外の別の人物を考えていたので,機嫌を悪くし,奥に入ろうとすると,その袖を2回も掴んで諫止した骨のある人物です.
 人は,玄路と平太左衛門の間柄を,管仲と鮑叔牙に喩えています.

 とは言え,重賢も細川家の人間.
 ある時,前にお風呂の場面で出て来た近習に,
「お前は酒を飲むか?」
と聞き,その近習は
「相応には呑みます」
と答えましたが,ある夜,熊本で御前に召し出されて御酒を下さりました.
 かなり頂戴したものの,重賢が尚も呑め呑めと言うので,有難くひたすら頂戴したところで,殿様の面前にも関わらず,酔ってしまいました.
 そこで,失礼の無い様に退出したのですが,直ぐに呼び返されて,奇妙な命令を下されます.
「この花畑屋敷の表門から,熊本城の南大手門まで,何丁ばかりあるか,今夜足踏して,明日朝報告せよ」

 普通の人間なら好い加減酔っている所で,変な命令を下すものだ,適当に切り上げて,床に就こうなどと考える所でしょうが,この近習は,流石に殿様の性格を良く知っている.
 こんなに酔った状態でこうした命令を下すのは,何か考えのある事に違いない,此処は大事な所であると気を張り立て,心を引き締め,何度も顔を洗い,出発しました.
 とは言え,酔って足下が覚束無い状態であり,1度では安心出来ず,繰返し3度歩数を数え,大体それが同じだったので,翌朝,その事をありのまま申し上げました.

 後から聞いた所では,その夜は側近に近習の後を付けさせ,足踏している様子を確認し,その後,徒の御小姓2名に命じて,右の場所の歩数を調べていたそうです.
 もし好い加減な事をしていたら,憐れ,この近習はそれっきりになるところだったわけで,この近習,肝を冷やして以後固く大酒は慎んだと言います.

 因みに,『肥藩落穂集』と言う記録に,重賢が,
「人を見るのには酒座にて見よとは宜なるかな」
などと言っている訳で,中々気の置けない殿様であった訳です.

 ところで,重賢が行った宝暦の改革で中心になったのは堀平太左衛門です.
 その頃の御目付役に,松野七蔵と言う人がいました.
 七蔵は,平太左衛門を余り快く思っていませんでした.
 この改革を行う際,重賢が七蔵に,平太左衛門の人となりを尋ねた所,七蔵は一言,
「重用すべき人物では御座いません」
と答えています.
 その後,竹原玄路の推薦で平太左衛門を抜擢してから,また,重賢は,七蔵に,どうか,と聞きますが,七蔵は同じ答えを言います.
 更に後に,参覲交代の道中にある浜松の駅で,七蔵に行き会った際にも,平太左衛門の事をどう思うかと聞くのですが,七蔵はやはり同じ答えを言いました.

 重賢は,
「最早,平太左衛門の事は3度も押して尋ねているのに,何時も悪く言うのは,定めし悪い事柄があるのであろう.
 良くない事があるのならば,一々にその仔細を申してみよ」
と仰せになったので,七蔵は,平太左衛門の悪い点を3つ挙げ,
「この様な事があるので,重用なさる男では無いと思います」
と,自分の考えを憚る事無く答えました.
 重賢は
「その他に悪い所は存ぜぬか?」
と聞き,
「それだけか?」
とだめ押し.
 七蔵も,
「この他は存じません」
と言い返しました.
 しかし,重賢は平太左衛門の悪い事柄を5つ挙げ,
「今言った事は,其方が申し上げた事にも勝る悪い事柄である.
 それを存じながら,この様に重く信任して召し仕う自分の心を存じておるや?」
と尋ねます.
 それを聞いて,七蔵は言葉も無く,
「ただただ,恐れ入りました」
と言って平伏して退出しました.
 後に七蔵は,国元に帰ると,直ちに引き入り職を辞しますが,重賢は許さず,更に別の職を七蔵に与えたそうです.

 因みに,七蔵のエピソードに次の様な話が伝わっています.
 御物頭が,藤崎宮の富講警護の当番になりましたが,「博打の警護など出来ん」と断り,以後は御物頭から,廻役十人横目の警護に代りました.
 当時,七蔵は御目付でしたが,その物頭に向い,こう言い放ちます.
「貴様の様な馬鹿はいない.
 なるほど理屈の様であるが,それほどに悪い事であるならば,何故富講を止めさせないのか.
 力及ばずして止めさせる事が出来なければ,職を辞して然るべきであるのに,後先の考えも無く,理屈を申されるので,尻がつまらぬ事になった.
 これを馬鹿者と言わずして何ぞや」
 こう言うと呵々大笑したので,物頭は閉口したそうです.
 こうした気骨ある人物だからこそ,重賢も無碍にはしなかったのでしょう.

 また,重賢は人の口を通じて平太左衛門にこうした話が伝わる様に仕向け,
「裏でこそこそするな,何をしてもお前のすることは総てまるっとお見通しだ」
と言う感じで,平太左衛門を牽制していたと思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/25 23:15

 さて,今日は食べ物の話.
 大名家の当主にとって,鷹狩りというのは単なる遊興に非ず,その地の地理や人情を知り,村々の貧富を察し,自分の鍛錬でもあり,かつ部下に対しては軍人の慣わしを学ばせる為の軍事演習の一環でもある,とても重要な行事でした.
 重賢は政事の合間に,この鷹狩りを良くやっています.

 ある日ふと,
「この様に鷹狩りを度々行っていたのでは,弁当の費用もかなりになるであろう.
 弁当に用いる品々を,先ず生で弁当箱に詰めて見せてくれ」
と言う命令を御台所に下します.
 御台所では,その通りに取計らって差出した所,この品の値段は幾らか,これは幾らかと,そこに詰めているだけの値段を尋ね,
「これからはこの値段で弁当を作る様に,これを基本にせよ」
と言う御達しを出します.
 御料理人達からは,
「生の時はこれで弁当箱一杯になって十分になりますが,煮立てればお弁当の中が満たなくなり見苦しいので,この倍を見込んでお決め願いたい」
と反論がありましたが,重賢は笑いながら,
「人に見せる為では無い,自分の腹が朽ちれば十分であるので,見苦しいと言ってもかまいはしない.
 此の分を決まりにせよ」
と命じたと言います.
 以来,重賢の弁当箱の中はころころして,少しばかり入っているのを差し上げることになったそうです.

 さてそんなある日のこと,重賢が御側衆と蓮台寺に鷹狩りに出掛けました.
 昼になり,白川塘でお弁当を食べようと,御側衆に弁当箱を取り出させ,開けてみると,見事におかずが生の儘詰められていました.
 これはどうしたことかと家臣達は困惑しますが,どうしようもなく,有り体に申すしかありません.
 重賢も,困った様子でしたが,
「よしよし,向こうの藪陰の村に行って婆が味噌骨を貰ってこい」
と命じました.
 御側衆は「味噌骨」とは何のことか判らず,重賢に尋ねますが,
「其の方は知らなくとも,その様に申せば良い物をくれるぞ」
と言うのみ.
 仕方なく,近くの農家に赴いて,公が「味噌骨」を所望であると申した所,農家では慌てて味噌漬けの大根を取り出して,御側衆に渡したので,持ち帰って小柄で切って重賢にお渡しし,それをおかずに重賢は弁当を済ませました.

 当然,御側衆は重賢に,この様な振る舞いに及んだ御料理人を許さないと言いつのるのですが,重賢はこれを聞いて,
「真に不埒は不埒である.
 しかし,この様な間違いは滅多にある事では無い.
 屹度事情があったのであろうから,しっかり聞き糾してみる様に」
と釘を刺しました.
 帰って調べてみると,事情が判明しました.
 元々,お弁当の品々は鷹狩りに行く前の夜に,それぞれ煮て詰めておくのですが,当番の御料理人は,何時も出発の朝煮立てることにしていました.
 寒い夜だったら,前の夜煮た物よりも朝に他方が少しは冷えも少ないだろうから,と思った為です.
 ところが当番の日,年老いた父親が中風になったと夜半に知らせが来たので,取る物も取り敢えず,俄に代わりを取って家に帰り,その際,余りに動転していたので,おかずを朝煮立てていると言う申し継ぎをせず,代わりの者は,それを既に煮た物と考えて,お弁当としてお出ししたことが判りました.
 代わりの者は,何時もの通り前夜から煮立ててあると思い,改めもしないで重賢に差出してしまったので,平身低頭したそうです.

 重賢はこれを聞いて,こう言います.
「少しでも冷たいのを軽くして食べさせようと心遣いするのは,自分を愛する故であり,父の病気を聞いて,その事を忘れて,慌てて帰ったのは,孝子の情,もっともなことである.
 きっと,兼々も孝養厚い者であろう.
 よくよく平日のことを聞き糾す様に」
 果たして,この御料理人は,平素も孝養が厚いことが判りました.
 こうして,「一つの誤りで,忠孝二つの善が顕われた」と言う事で,その御料理人は叱責どころか,厚いご褒美を授かったそうです.

 因みに,『銀臺遺事』には鷹狩りについて,農作業の邪魔にならない様に,お茶一椀でも貰ったら,必ず代を与える様になど,事細かな条々が決められていたとあります.
 また,農作業をする者が道で重賢に行き会っても,よもや殿様とは知らず,そのまま通り過ぎることもよくありました.
 先祖と違い(ぉぃ),こうした無礼でも,御咎めになる事は全く無かったと言います.

 それから3代下がった11代当主の斉樹の時,重賢の鷹野での行動を色々と調べたことがあったそうです.
 その頃は未だ,重賢の治世の頃に生きていた老人がおり,彼らが言うには,お茶や弁当は至って小さく,1人で軽々と担うことが出来たので,何処へでも遅れずについて行けたこと,弁当を使うのは,畑の畦,井手の端など何処でも良く,いきなり座って食べ始め,肥やしを掛けて直ぐの畑畦でも全然厭わずに弁当を食べたと言います.
 鷹狩りの際に,大仰な大名当主は野幕を持って行き,そこに陣を敷いたりするのですが,重賢はそんなことはせず,また小便がしたくなったら,いきなり立ちション,大便ならば,人から見られない様に,御側衆が四方を取り巻いて後ろ向きにしゃがんでいる中で済ましました.
 また,大仰な大名当主ならば,物見遊山や野遊びかと見まごうほど,食事の器も色々取揃え,砂糖水や葛湯までも持参し,更に甚だしい場合は吸い物や膳椀までも備えています.
 しかし,万事合理主義的な重賢は,そんなものは全く揃えず,お茶や弁当が間に合わない時には,井手や堀の泥水を呑んで乾きを止め,雨が降っても家臣と共に笠であるので,1人傘をさすでも無く,家臣と共に濡れそぼり,疲れたからと言って1人馬に乗ったり駕籠に乗ったりする訳でも無く,常に家臣と同様に,行動されていたそうです.
 勿論,鷹狩りの本来の目的は,鍛錬の場でもあり,軍事演習でもありましたから,この様な行動をする事が本来の主旨ではありますけど.

 とは言え,そこは殿様.
 ある年の夏に詫麻原で鷹狩りをしたのですが,急に原っぱの真ん中で湯浴みをしたいと駄々をこねたりします.
 当然,そんな用意もなく,家臣一同鳩首協議していると,
「その辺の庄屋の家にお湯があるだろうから,それを貰い,盥も庄屋から借りてくれば良い」
と言って,野原の真ん中で湯浴みをしたとか.
 また,弁当の箸は脇差に挿している銀の割笄なのですが,食べ終わるとそれを傍らの土に2,3回差し込んで,懐紙で拭って脇差に挿していたのですが,ある時,その近くに馬糞があるのを見咎めた家臣が,それを指摘した所,
「馬糞が何で穢いことがあろうか,馬は豆を食うぞ」
と言って睨付けたそうです.
 田舎の馬なら,そんな豆を食らうことは無いので,そこはやっぱり殿様だ,と,言われた家臣は妙にそれがおかしかったと言います.

 また,お金については,褒賞の場合は金1両を下すことが多いので,幾ら下世話に通じていても,1両より下は知らなかったのか,鷹狩りで半切が破れていたのを見た時には,「また1両の費えになる」といつも言っていたそうです.

 ところで,お国入りした際,側に仕えている家臣に,
「其の方共,鯛を食うた事があるか?」
と尋ねたことがありました.
 みんな,
「月に2,3度は食べます」
と答えた所,
「その様に,何度も鯛を食べるか」
と感嘆されたので,何だかこちらが申し訳ない気持ちがした,と家臣が述べています.

 1785年7月の江戸の魚屋の書付にはこうあります.

 小鯛8寸(約24cm)位1枚
  冬囲のもの 代金1匁5分位
  正月,2月晦日まで 代金16匁から17〜18匁位
  7月頃 代金6匁〜3匁4,5分位

 同じ位の平目1枚は
  値段が高い時 代金4〜5匁
  値段が安い時 代金2匁5分から2匁8分5厘位

 同じくメバル1枚は
  値段が高い時 代金6〜7匁
  値段が安い時 代金1匁7〜8分から2匁位

 春先の鯛は結構高価なのが判りますが,ただ,熊本では目の前の有明海で獲れることから,これよりも安い値段で入手出来たと思われ,家臣達が月2〜3回食べるのも可能だったと思われます.
 何しろ,鯛は大坂では「猫あくび」と言う異名も持っている魚ですから.
 因みに,重賢は江戸生まれで,当主になってお国入りするまで,自分が統治する熊本という領国を見たことが無かったと言います.
 ここは,重賢が江戸の値段でものを見ていると思っておきましょう.

 ついでに,家臣の弁当でもう1つ.
 用人に,
「其の方共,弁当に時々は肴が入って居るか?」
と尋ねます.
 その用人は,
「弁当も毎日のことで御座いますので,家で食べているおかずで良いと,何時も申しつけておりますが,兎も角弁当と言えば,何かと家内共が心配してくれまして,恐れ入ることで御座いますが,毎日の様に肴を入れてくれております」
と答えています.
 此処で言う肴とは何かは判りませんが,恐らく,魚か獣肉の類と思われます.
 それを聞いて,重賢が家来の弁当を羨ましいと言ったかどうかは記録には残っていませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/26 22:59


 【質問】
 重賢時代の肥後細川家の軍事・政治組織は?

 【回答】
 さて,今日は一転肥後細川家の政治とか軍事とかの話.

 平和な時代が続くと,御厩の馬も馬場での乗り回しばかりになり,重賢の時代になると遠乗りと言う事も行わなくなっていました.
 そう言う意味では肥後軍は,平和に慣れて弛緩していた訳です.
 そこで,ある時,重賢は御馬方達へ八代への遠乗りを命じました.
 熊本から八代は11里の距離があります.
 そして,同じ日,重賢は今度は歩御小姓達に対しても,別に八代への遠足を命じます.
 勿論,御馬方はこの御徒への命令を知りません.
 馬で行った者達は,八代に着くと酒を飲み,ゆっくり過ごしてしまい,徒で行った者よりも遅く帰ってきてしまいました.

 正に,寓話の「ウサギとカメ」を地で行く様な話ですが,当然,この結果に重賢は事の他機嫌が悪く,
「歩行にも遅れる馬,何の役に立つか!
 この様では馬の甲斐が無い.
 予てから馬の脚を馴らしていないからである.
 これからは,月に2,3度は必ず遠乗りする様に」

 御馬方は大いに恥じ入り,以後御厩では月並遠乗りが決まりとなり,その後,馬場駆け,追うこと等が起きて,遂に犬追物等が復活する気運が高まって行きます.
 御厩は現在の熊本市役所の所にあり,馬場は花畑屋敷の南側に広大なものがあり,また,熊本城南側の一画,現在は文字通り,熊本市営桜の馬場駐車場と合同庁舎になっている辺りも,桜馬場として小規模のものがありました.

 御馬方の組織は,御馬方支配頭の下に御厩があり,此処には組脇1名,御馬役13名,御馬医7名,御目附2名,御横目3名,御厩御役人代役4名,御厩之者として小頭共233名,爪髪役3名,御厩故実師役2名が配されていました.
 勿論,戦場ではこれらの馬は当主の下にあり,伝令などに活用される訳です.
 また,歩御小姓は御側組の内,御側大頭の下に,御歩頭4名,組脇4名,歩御小姓80名が配されていました.

 因みに,犬追物は流鏑馬,笠懸と併せて,馬上の三物と言われている位必須の武芸でしたが,実技は戦国時代以来衰退してしまいます.
 薩摩島津家では,既に1622年に再興されていましたが,肥後細川家で犬追物が再興されたのは,実にそれから遅れて150年以上経過した1784年閏1月のこと,川尻の大慈寺河原で行われたのが始まりとされています.

 なお,重賢は,藩政改革の一環として,肥後藩内に藩校時習館と言うのを設立していますが,この中に武芸稽古所と言う部門を設け,東西に?(うてな)と言う場所を作りました.
 その教官は犬追物師2名,射術師4名から成っており,当初は大善寺河原で騎射の稽古をしていましたが,後に横手手永椎田村,現在の熊本市八幡町と川尻町辺りに4反位の土地を借り,垣廻などを整備して,毎月3度ずつ2の日に稽古することを通達し,再開の年の7月にはその稽古の場合の服装として,行縢,烏帽子,素袍を切ることと定め,12月には,知行取以下,浪人,陪臣,一領一疋共併せて47名がそこで学ぶ様になりました.
 その後,治年の代になり,花畑屋敷の近くの馬場で犬追物の見物を行い,1792年には熊本城下の元竹小屋跡に犬追物稽古場が出来ました.

 一方,重賢は政事の方も改革を行います.
 これまでは家老が毎月順番に交替で御用を務める「月番」制を採っていましたが,毎日御用番と言う制度に改めました.
 また,機密間に新たに佐弐役と言う役職が設けられ,家老家の物書が公用に携わったのが出来なくなりました.
 こうして,数十年来国家老の元にあった権力が,一気に当主専制体制へと移行し,それを重賢は堀平太左衛門に委任したので,当主の意向が直に出る様になります.
 同じ役職を数人で行う合議体は,権力の牽制という意味では良いのですが,同格ならお互いに気兼ねしたり,躊躇ったり,或いは身を入れて勤務をする人もいれば,そうで無い人もおり,また,役に適任な人もいれば,そうで無い場合もあるなど,当主が幾ら新制を志しても,全然それが表に出ない状態にありがちです.
 それが一番如実に表れたのが,阿波蜂須賀家で,当主が改革を志したのにも関わらず,結局,門閥に阻まれ,当主は押込め隠居にされてしまいました.
 当然,これでは治世の実を挙げることが出来ず,家中や領内が衰えると重賢は考えていたのです.

 これまでの細川家の政治体制は,肥後入国以前から軍事・行政の重要事項は,世襲家老である長岡(松井)佐渡守興長,有吉頼母佐英貴,長岡(米田)監物是季の3人の家老が担当し,それ以外の職務は奉行が担当していました.
 その後,肥後入国後の1640年は,3家老は公儀と他国御用を承ることとして,「大年寄」と呼び,国中の事は,興長嫡嗣の長岡(松井)式部少輔寄之,是季嫡嗣の米田与七郎是長,沢村大学吉重嫡嗣の沢村宇右衛門友好の3名が「若年寄」として担当します.
 それ以外の奉行は5人いました.

 それから120年後の重賢の代,1756年の家老は,長岡(松井)帯刀豊之,長岡(米田)助右衛門是福,有吉大膳立邑の3名が世襲家老となっており,この他に,綱利の生母から出た家の4代目である清水縫殿勝著,藤孝の弟で山名家6代目に当たる三淵志津摩澄定,一門の長岡内膳忠英の弟に当たる長岡少進季規の3名がいます.
 更に家老脇として,長岡帯刀豊之の弟で郡織衛真武,松井古城家2代目の松井典礼周之,長岡助右衛門是福の弟の米田波門是著の3名がいました.
 何れも,門閥の出です.

 これに対し,重賢から委任を受けた堀平太左衛門が大御奉行に就き,奉行が5名,副役が2名いました.
 奉行所の事務機構として12分職と言うのが定められました.
 その分職名は,役人選挙方,学校方兼帯,御勘定方,御普請御作事御掃除方,御城内方,御船方,屋敷方,御郡方,寺社方,御町方,御客屋方,類族方,御刑法方,役人考績方であり,それぞれ,都甲太兵衛が勘定,町,類族を担当し,井口庄左衛門が勘定と普請を担当,蒲池喜左衛門が役人選挙,刑法,役人考績を担当,清田新助が役人選挙,船,郡,寺社,町,客屋を担当,村山九郎次郎が役人選挙,勘定,普請,城内,屋敷,郡,刑法を担当,志水才助が勘定,普請,城内,屋敷,郡,客屋,刑法を担当,山本一角が役人選挙,船,寺社,町,類族を担当と,役人考績の蒲池を除き,残りの総ての分掌が複数人を担当する体制です.
 この勤務は極めてハードで,中には乱心したり自殺した人もいたと言います.

 こうした大胆な改革で,政事を家老から当主に取り戻した事から,門閥の家老達は,重賢と平太左衛門を敵視しました.
 特に,世襲家老の有吉大膳立邑は,平太左衛門の改革に尽く反対します.
 因みに,長岡(松井)帯刀豊之の妻は熊本新田細川家当主の細川采女正利昌の女であり,長岡(米田)助右衛門是福の妻は重賢の妹悦姫,有吉大膳立邑の妻は一門の長岡内膳忠雄の女と言う,謂わば苦労知らずに育った人達です.
 改革前までは,その世襲3家の勢いは当主にも比されるほどでした.
 それが一気に逆転したものですから,敵視するのも一塩ではありません.
 特に,有吉大膳立邑は当時28歳と未だ若く,人間が出来ていませんから,その敵視具合は殊更でした.

 その寵臣は,大膳が毎日毎日憤る姿を見て,殊の外愁い,どうにかして主人の心を休めようと種々思慮を巡らせますが,上手くいかず,遂に神仏に祈って平太左衛門を殺すしかないとまで思い詰めます.
 そして,平太左衛門が死んでも,新たに人を立てれば同じ事だ,と考え,重賢をも呪詛しようと決めました.
 こうして,有吉家の檀那寺の僧侶と共に,重賢と平太左衛門を呪詛しました.

 しかし,それが露見.
 本来なら主を呪詛するのは叛逆と同じであり,有吉家は良くて減知,悪ければ御家断絶になりかねません.
 八代城代である筆頭家老の長岡(松井)主水営之が大急ぎで八代から出て来て,重賢にお伺いを立てた所,それを聞いた重賢は,こう言います.
「自分の主人の為に愁いを除こうと図ったのは,忠と言わなければならない.
 しかし,その事柄は小児の戯の様で,これは愚忠と言うべきである.
 何様馬鹿げた事である.
 有吉家は累代の功臣の家柄であり,格別な事であるので,軽く詮議をする様に」
 まぁ,合理主義者である重賢にすれば,人を呪い殺すなどは出来ないと言う考えがあったかも知れませんが.
 こうして,評議の結果,大膳は永蟄居,その弟四郎右衛門が家を継ぎますが,大膳の跡を継ぐのでは無く,祖先の武功の家柄と言う事に対して,知行を下すと言う形が採られる事になりました.
 呪詛した僧侶,呪詛を頼んだ家臣は死刑,その他,関係者は国払いや所払いの刑に処せられ,事は終わりました.
 因みにこの詮議は,3家老家に関する事であるとして,平太左衛門などは加えず,松井と米田の両家で話し合って処分を決めました.
 平太左衛門などを加えると,また彼を恨む人が出るかも知れないと言う判断です.

 この有吉家は,細川元常,そして細川藤孝に仕えた譜代の家来で,1542年に佐々木から有吉に改め,丹後時代は安良城を預かっていました.
 その子立行は親の跡を継ぎ,1600年には西の関ヶ原と言われた豊後石垣原の戦いで軍功を挙げ,細川家の豊前入国後は家老職15,500石,以後代々家老職を務め,立邑は9代目でした.
 この立邑は32歳で永蟄居となりますが,その後も生き続け,71歳で没したと言います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/27 22:42
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 重賢時代の肥後細川家の刑罰と医術は?

 【回答】
 さて,重賢の治世,熊本では城下で盗賊などは余り出なかったと言います.

 1783年,天明の飢饉が全国を覆いますが,肥後でも同様に凶作で,約30万石の損耗が生じました.
 この為,農家が難儀していたのですが,細川家は家老堀平太左衛門の指図で,大坂より3万石の米を調達して百姓達に配したと言います.
 この他,万事改革の先頭に立ち,相当効果も上がった事から,300石から1,500石まで累進しました.
 そして,その嫡嗣を1,000石で召し出そうと重賢が言ったのですが,それは固く辞退して受けませんでした.
 自分が,分不相応な出世をした為に,ちょっとの揚げ足をも取られかねず,身綺麗にしようとした為とも言われています.
 後に,その嫡嗣は800石で召し出され,御近習役に就きましたが.

 ところで,重賢の宝暦の改革は,刑法関係から始まりました.
 1751年に穿鑿上奉行と言う役職(1756年に穿鑿頭と改称)を設け,知行取の中堅家臣を充当します.
 次いで1753年2月,幕府の『公事方御定書』の編纂に倣って,刑法典の編纂を平太左衛門以下の学識者に命じました.
 この刑法典は中国の『明律』を手本にしたもので,1754年5月,『御刑法草書』として重賢に奉呈されます.
 これには従来の刑が死罪と追放だけだったのに対し,初犯の盗人を追放しても,衣食の便を失えば,改悛しようとしても,生活が出来ないので已むなく盗心が出て来て,その地に害を及ぼす事になる,と言う考えを以て,追放刑を止めて徒刑を採用しました.

 犯罪の捜査は,「廻り役」によって行われ,逮捕された容疑者は牢に入れられ,「牢支配役」と「牢番」が監視します.
 そして,容疑者の吟味は穿鑿所で行われました.
 供述書は口書と言い,「穿鑿所物書」が作成しました.
 この口書が「刑法方奉行」に上達されると,直ちに大御奉行と合議が行われ,死刑以外は原則として15日以内に判決が下るスピード審理でした.

 これにより徒刑となった者は,小屋に収用され,1日に2人扶持(米1升)を支給されて,晴天の日は主に土木作業に,雨天には作業場で手仕事を行う生活です.
 日頃は紺染の揃いの着物を着せられ,5日ごとに眉を剃っていたので,彼らの事をまた,「眉無し」とも呼んでいます.
 こうした土木作業や手仕事により得た収入の内,半分は日々の生活費に充て,残りの半分は刑期満了時に,半分の蓄えを持って出所しました.
 この為,直ぐに生活の糧が無くなると言う弊害はなく,贅沢をしなければ兎に角糊口をしのげる位の当座の生活費はありました.

 この様に,ある程度の渡世が出来るだけの金額を持って出所したが故に,余り盗賊の類が城下に出なかった訳です.

 この刑法典『御刑法草書』は日本の法制史史上,極めて高く評価されています.
 それは,まず,法典としての形式,体裁が優秀である事,次に,追放刑を原則として廃止し,徒刑を採用した事,そして,最後に幕府や諸大名家に大きな影響を与え,以後は各地で徒刑が採用されると共に,明治政府の刑法典である『仮刑律』や『新律綱領』,『改定律例』などの制定に大きな影響を与えています.

 ところで,ある時,重賢が藪玄中なる側医を召して,
「医者は色々の書籍を見る者である.
 医書は言うに及ばず,経済の書物も見るべきである.
 何か良い事が書かれていて,自分の心得にも成るようなことを見たら知らせてくれ」
と言いました.
 玄中は,
「医書は家業の事で御座いますので見ますが,経済の書物は見ません」
と答えると,重賢は,
「病を治すは,国を治むる如しという言葉がある.
 其方が知らないと言う事は出来ない」
などと無理難題を吹っ掛けます.
 それに対して玄中はこう答えます.
「その様にお尋ねを承りました上は,一通り私の考えを申し上げます.
 医書に頭寒足熱と言う事が御座います.
 上が冷たく,下が温かであれば,無病の人で御座います.
 上が温かにして,下が冷えますれば,病気のある人で御座います.
 太守様の御身の回りを簡素に為されますならば,下は温和で御座いますでしょう」
 重賢は大変喜んで,褒美として加増しようとしたのですが,彼はきっぱりと断ったそうです.

 因みに,重賢の側にいる医師団は,御次御医師2名,御番医師19名,手伝4名から成っていました.

 肥後には藩校として医学教育が行われていました.
 これが,1756年に村井見卜の建白を受け,飽田郡宮寺村に創設され,1757年に開校した再春館です.
 幕府の医学校が出来るのが1765年と,これよりも約10年後ですから,如何に先見の明があったかが判ります.
 再春館は,付属の薬園蕃滋園が坪井竹部村(現在の熊本市薬園町)に作られ,再春館自身の建物は,後に山崎町に移転しました.
 この再春館は,1870年の藩政改革で廃止されますが,1871年にマンスフェルトを迎えた古城医学校へ,そして,熊本大学医学部に引き継がれていき,此処からは北里柴三郎等が巣立っています.

 因みに,この再春館の規則である再春館会約の冒頭には,こうあります.
「諸生は知るべし.
 官,学を起し,書を蓄え,師を立て,徒を置き,各々,教育・会輔して,以て,己が業を習いて,闔国(国中)の民をして,夭死(若死に),札痊(疫病死)の愁いなからしむ,その恵や篤し.
 汝が輩,我が公,拡仁(仁を広める)の意に沿わんと欲せば,即ち,夙(早朝)に起き,夜に寝て,博く学び,審らかに問い,汝が業を全うし,汝が徳を為すべきなり.
 豈力を尽さざるべけむや.
 謹みて荒怠(荒み怠る事)する事勿れ」

 何か,今の政治家に聞かせてやりたい気分になるのは気のせいでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/28 23:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 細川護立って誰?

 【回答】
 細川護立(ほそかわ・もりたつ)侯爵は,肥後細川家第16代当主で,貴族院議員.
 細川忠興の子孫であり,細川護熙元首相のおじいさん.
 1883年10月21日,東京市小石川区に生まれ,1970年11月18日死去.
 芸術に造詣が深く,美術品収集や芸術家のパトロンとして有名だった.
 また,明治三十年代に早くも上高地に行き,穂高にも登ったという,当時としては数少ない華族出身の山岳・スキーの愛好家で,いわば日本の山岳,スキー界の草分的存在.
 井上kojii氏などにとって,足を向けては寝られない人物.
 戦後は国宝保存会会長,財団法人日本美術刀剣保存協会会長,東洋文庫理事長などに就き,また,1950年,細川家伝来の美術品や古文書を保存する目的で,財団法人永青文庫を設立した.

 江戸時代,商人に借金しては踏み倒しを繰り返し,「貧乏細川」と悪名高かったにしては,細川家は大層なコレクションを残しましたなあ.

 【参考ページ】
http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2317.html
http://nozawakanko.jp/2012/01/post-135.php
http://www.1101.com/hosokawafamily/index.html
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

肖像写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/04/07 20:40
を加筆改修


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