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◆◆◆北陸諸藩 Klánok Hokuriku
<◆◆諸藩事情 Klánok
<◆江戸時代 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
越前松平家について教えてください.
【回答】
越前松平家は,初代将軍徳川家康の次男秀康の子孫をいう.
秀康は豊臣秀吉の養子となり,ついで関東の名族結城晴朝の養子となって結城氏を称した.
1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,越前国67万石を領有して北ノ庄(福井)城に住し,2代将軍秀忠の代には将軍の兄として特別の待遇を受けた.
2代忠直は松平氏を称し,暴政を行ったという理由で23年(元和9)配流され,秀康次男忠昌が福井52万5000石をついで3代となった.
忠昌の子孫は領地高の変遷はあるが福井に住し,1818年(文政1)以降32万石を領有した(福井藩).
一方,忠直の長男光長は,父配流のとき越後高田25万石を与えられたが,越後騒動の結果1681年(天和1)所領を没収された.
養子宣富の代98年(元禄11) ,美作津山10万石に封ぜられ,以後津山松平家と呼ばれる(津山藩).
越前家では,福井城主の忠昌系と,その兄忠直系の津山家との間で本家争いがある.
そのほか秀康の子で大名となったのは,三男直政,四男直基,六男直良である.
直政は1638年(寛永15)出雲松江18万6000石に入封,子孫も同地を領有した(松江藩).
直基は結城氏の名跡を継ぐが松平を称し,48年(慶安1)播磨姫路15万石,子孫は各地に転封され,5代朝矩の1767年(明和4)武蔵川越に入封(川越藩),のち17万石となり1867年(慶応3)11代直克のとき上野前橋に居城を移した(前橋藩).
直良は1644年(正保1)越前大野5万石,2代直明の代82年(天和2)播磨明石6万石に移封
(明石藩),9代斉宣は1840年(天保11)2万石加増されて8万石となるが,将軍家斉の子だったため10万石の格式を与えられた.
以上の5家のほか,福井松平家4代光通の長男直堅を祖とし,直堅の孫直之が1717年(享保2),越後糸魚川1万石に入封した糸魚川松平家,松江松平家祖直政次男近栄,同じく三男隆政を祖として1666年(寛文6)創立された出雲広瀬松平家(3万石),と出雲母里(もり)松平家(1万石)があり,合わせて8大名が存在した.
こう見ると,御三家より下じゃないかな.
日本史板,2002/12/31
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,どこかから転載された文章であるようにも思われるが,
google検索では確認できず.
そのため,著作権が発生しない範囲で,元レスから抜粋した.
【質問】
大聖寺城下町の自治組織について教えられたし.
【回答】
さて,今日は地方自治の話.
と言っても,例によって大聖寺な訳だが(苦笑.
殆どの時代劇では武士が総ての政を司っていて,町民や農民は唯々諾々とそれに従うだけと言う描かれ方をしています.
しかし,実態はと言えば,武士だけでなく町人や農民も行政の一端を担っていました.
農村の場合は,「十村」と呼ばれるのがそれで,村役人として幾つかの村を束ねるのが役目です.
勿論,武士から命令を受ける事もありますが,多くの場合は村役人の裁量で統治が行われています.
城下町の場合の町行政は大名家側の役人と町人側の役人により行われました.
前者の執務場所は町奉行所であり,後者は一般に町会所ですが,町奉行所に町役人が同席する場合と,逆に町会所に大名家側役人が同席したり,他に独立の執務場所を持つ場合がありました.
町会所を町人側役人のみで使用するのは自立性の高い湊町であることが多く,町奉行所に町役人を詰めさせるのは大名家の力の強い都市であり,町会所に大名家側の役人が同席するのは両者の中間とされています.
前田家の統治した金沢,富山,大聖寺何れの場合も,この3つのパターンの内,最後の町会所に大名家側役人が同席するパターンでした.
大聖寺城下町に町会所が出来たのは18世紀後半から19世紀初頭で,町会所の中に町奉行以下の大名家側役人が執務する町役所が置かれ,町人側が執務する町会所と区別されています.
大名家側役人の階層構造は,町奉行→町下代(後に帳前)→横目→町付足軽となっており,町奉行の制度は大聖寺前田家成立時には既にあったものと見られ,2名制で1年交替に勤務しました.
一方の町方の役人は,町年寄→本町肝煎・地子肝煎・永町肝煎→組合頭→十人組となっています.
町年寄は大坂と同様に複数制で富裕な町人から選出されて算用場が任命するもので,5名から16名まで時代によって人数が変わります.
金沢城下町の場合は,3名が行政プロパーとして世襲制でその地位に就いて町年寄家格と言うものがありましたが,財力の乏しい小大名家では,行政のプロパーを養うより町行政の赤字を補填出来る家財を持つ町人が選ばれていた為,人数が不確定となっていたようです.
基本的に輪番制で,1名のみ当番として勤務し,何か重要な事柄を協議する場合のみ全員が出席すると言うものでした.
町役人に選ばれると,3人扶持(凡そ5石4斗7升5合,後に米100俵)を宛がわれ,町役は免除となりました.
町年寄内にも階級があり,首位の町年寄は町年寄上席,次いで一般の町年寄,この下に町年寄並,更に町年寄次列,町年寄次列並,町年寄見習となっていました.
但し,町年寄並は1756年以降,町年寄次列以下は1866年以降に出て来た役職です.
その職務は,町肝煎から持ち込まれる町人達の願い,伺い,断り書等の書状について,上達の有無を判断し,上達を決めたものには奥書をして町奉行所に送るのがまず1つ.
この上達の可否は町奉行所から町年寄に取り次ぎ,更に町年寄から町肝煎に取り次いでいます.
ただ,簡単なものは書き付けではなく肝煎名前による小紙で上申しています.
2つ目の役目として,軽犯罪,微罪の町人の尋問があります.
こうした犯罪は町奉行所に持ち込まず,吟味とか詮議は町会所で実施し,当番町年寄が町奉行と共に行いました.
3つ目はキリシタン宗門徒の監視,また町人家族の病死の際には,町年寄2名が出席し,組合の者達,組合頭,肝煎も同席の上,檀那寺の住職立ち会いで死骸を確かめ,病死かどうかを見極めて証文を取り土葬する役割も持っていました.
4つ目が本町,地子町の役銀の徴収で,春と秋の2回に徴収し,町年寄が奥書を行った後,町奉行の承認を得ることになります.
5つ目は火災の際の警戒で,近所に火事が起きた場合は当然出動しますが,遠方の火事でも大火に発展しそうだと見極めた場合,町役人全員が町会所に詰め,重要書類の安全と保管に努める事になります.
但し,大火でも町年寄の居宅が風下にあって延焼の虞がない場合は,詰めなくても良いとされていました.
最後に,町会所から町民に対して行う貸付銀の貸付と徴収があります.
これは町年寄の責任で行い,担当の肝煎を督励して徴収し,毎月の収支を計算して帳前に報告し,見届印を受けねばなりません.
これ以外の仕事として,町の風紀維持,商人・職人の勤倹の奨励,忠孝・節義の賞揚,火付け盗賊を戒め,訴訟の調停と言った細かなものがありました.
町肝煎は,町役人の下で仕事をしますが,人別の吟味,担当する町の戸数,人数の把握,具体的には出生・死亡・旅行・婚姻・離縁・失踪・奉公稼ぎの把握,職業調査,御当主必需品調達,御当主と一門や巡見使,代官などが通過する場合の送迎や宿泊,御当主一門の使者に対する応待,飛脚による進物受取の心得,役所払下げ品の入札,更に本町肝煎には遊行上人の廻国の際の応対があり,町奉行が町回りをする場合の町民の心得の示達,本町の春秋徴収銀の割付,関所・木戸・木戸番所前の道路清掃,溝修復,家の売買,家財の譲渡・跡式相続・遺言状・家賃・捨子・処罪人・喧嘩・火事の処理,吟味者・入牢者の番・賄いなどの町役割付が仕事でした.
一方で見返りもあり,御当主必需品調達には塩問屋の兼任や,新京枡裁許や役所払下げ品の入札がありました.
役所払下げ品の入札は,城下町での市中価格よりも安価に品物が購入出来ると言うものでした.
地子肝煎は,地子町で本町同様の職務を行うもので,永町肝煎は同所に置かれた大聖寺前田家の年貢米を保管する藩蔵の防火を町民に依頼する為に設けられた職です.
町役人の格式ですが,1863年2月6日,本家の第13代当主である前田斉泰が上洛する途中,大聖寺領に宿泊することになり,町民に諸注意が出ました.
斉泰一行は寺町(紺屋町)から山田町を通り居館に入り,翌朝の出発には中町から慈光院への通行となるので,通り路は武士町・町人町に至るまで掃除を致し,通路には砂を撒き,盛砂をするように命じ,使者の武士は麻裃の着用,家老も麻裃を着用して敷地天神下まで出迎える.
発駕の際には関所外の木戸際で見送り,町奉行2名も麻裃を着用して敷地天神下で出迎え,発駕には同様に関所外の木戸際で見送るとされました.
普請奉行・目付は麻裃着用は同様ですが,山田町本善寺で出迎えて,発駕は本町の札の辻横で見送るとされています.
町役人も同様に,全員麻裃を着用して曾宇村まで出向き,村の出口で出迎え,発駕寺には越前町木戸で見送るように指示が出されましたが,肝煎以下の送迎は許されませんでした.
この他,本陣付の徒目付は麻裃を着用して本陣や裏口近辺の警備に当たり,作事横目2名も同様の服装で本陣付近だけでなく,離れた武家居住地,町人居住地を頻繁に見回り,火の用心には特に注意を行っていました.
辻々には警戒する武士が立っていましたが,これも麻裃を着用していました.
これを統べるのが盗賊改方で,警戒は厳しく,通行時には武士の鉄炮演習も禁止され,また一般の武士・町人が斉泰の行列を見る事や前髪のある少年,女性を除いて横小路から垣間見ることも禁じられ,狂気じみた者達は事前にチェックされて拘束されました.
因みに盗賊改方は元禄期に設置された捜査機関でした.
元々,大聖寺でも犯罪の検挙は町奉行所の専管事項でしたが,元禄期になると貨幣経済の浸透からインフレーションが進み,不作や凶作の繰り返しで農村部では富裕農民と貧窮農民に階層が分化して凶悪犯罪が続出,しかも犯罪は城下町とか郡方を問わずに発生した為,城下町の治安を統べる町奉行と郡方の治安を預かる郡奉行が権限外に逃げる犯罪者を追って右往左往し,犯罪者の検挙を困難にしました.
この為,加賀前田本家では1691年に盗賊改方が設置されたことから,その制度を真似て大聖寺前田家でも少し遅れて盗賊改方を設置したようです.
この盗賊改方の犯罪人捕縛権限は,領内全域として,城下町・農村地域に限らず強権的に捜査や逮捕が出来るものでした.
幕府の火付盗賊改が常置されたのが1786年ですから,それよりは先行していたと考えられています.
この盗賊改方配下で捕手として活躍したのが被差別部落の人々だったそうです.
ところで,1863年2月27日には本家の先代当主だった利義の未亡人である松現院が大聖寺館にやってきます.
この時の出迎えについては郡奉行・十村は裃着用で領地の境まで,町奉行は裃着用で敷地橋詰まで,町年寄や町肝煎も裃着用で下新町の木戸際まで,地子肝煎,永町肝煎は羽織袴着用で敷地天神下まで出迎えるよう指示が出されました.
此の場合は,町年寄と町肝煎は同待遇であり,地子肝煎,永町肝煎はこれ以下とされています.
因みに,幕末期には火災の場合に限り,末年寄,肝煎,組合頭には脇差の帯刀が許されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/08 22:55
江戸時代,農民の監視と密告を行う為の組織として有名なのが五人組.
しかし,町人では異なり,大聖寺城下町の場合は,十人組を作っていました.
十人組はその名の通り道路を隔てて5軒が向き合って並ぶものですが,間口などの関係上時には10軒以上あったり,10軒以下だったりすることがあります.
こうした十人組は,隣保扶助と跡式相続の為の組織で,相互監視をする為のものではありませんでした.
そう言う意味で,農村と都市部では統治のやり方が違った訳です.
但し,都市部の場合は膨張するに従って,先に見たように下層農民が流入し,時には彼らが騒擾を起こすことがあった為,十人組内に与頭や組惣代を置くようになりました.
この十人組が挟む道路は組共通の広場としての機能を持っていました.
また,この道路は子供達の遊び場でもありました.
子供達は何時も親の視線を背に感じながら安心して遊ぶことが出来ますし,親たちも仕事をしながら子供達の遊びぶりを見ることが出来ます.
時にこの道路は夫婦喧嘩をする場所でもありました.
自分の属する十人組に面する道路であれば,物を投げようが叫ぼうが罵ろうが泣こうがお構いなしです.
但し,物を投げてそれが隣の十人組の道路に飛んだ場合は,喧嘩が終わった後,組内の者が物が飛んだ組の人たちに挨拶に行かなければならない決まりでした.
そう言う意味では「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とは良く言ったもので,場所を提供するから思う存分Let's
Fight!だった訳です.
もう一つ重要なのが跡式相続です.
武家社会では家と禄,ある程度の職の相続だった訳ですが,町人社会の場合は財産と暖簾の相続です.
城下町を建設していた当初は,城郭の建設や武家屋敷の建設促進の為,職人を大切にしました.
従って,城下町建設に際しては,大工集団に武家同様の拝領地を与え,城下町の中心部に紺屋や鍛冶職人を住まわせました.
しかし,城郭や城下町の建設が終わると,領内で生産された米を貨幣に換え,農村での生産物が城下町に住む武家の需要に何時でも対応出来るような流通体制を取ることが大名家の重要な政策となり,職人は等閑視されていき,商人が重視される様になります.
そうすると,当初,拝領地を与えてまで住まわせていた職人の価値は薄れ,城下町中心部から町末に追い出されていき,跡地に一般の商人が入って,商人の町になって行きました.
また,当初は門閥的御用町人が担っていた流通も,依頼の商品を請け負って納入すると言う今日の商社的な形態から,店を構えて商いをする商店が増えていき,遂には御用町人に代わって新興の商人層が町の支配層に進出することになりました.
江戸中期になると武家は年貢では収入を得られない状態となり,年貢米に積み足す収入として収入の多い商品に課税し,町人から莫大な御用銀を上納させることで大名家の財政を支えることになっていました.
大名家にとって,町人という層は金の成る木であり,その跡式相続は御用銀を納める積極的な意味を持っていました.
領主は貧窮町民に対しては相互扶助で大名家の負担を無くし,御用銀を上納する町人は好ましい存在と見ていました.
但し,相続に干渉することは御用銀を上納し得ない状態になる事を恐れ,相続問題には領主が出て来るのは好ましくなく,町人自らの手で解決すべきであると考えた訳です.
その為,相続に際しては必ず遺言にして自主的,かつ自治的な判断に任せることになります.
そこで,十人組が出て来る訳です.
1843年の町方達書に依れば,商家の主人が亡くなった場合の相続は,病気中に十人組と町肝煎が話し合い,生前に書かせていた遺言によって行う事,遺言は生存中であれば何度書き改めさせても良いこと,突然に亡くなった場合は町肝煎から町奉行に報告し,報告があれば町足軽を派遣して家財を改め,十人組・町肝煎・町足軽の封印の後,後で処理すること等と定めています.
なお,遺言を書き改めたい場合は十人組が立会って封を切り,中の遺言書は破棄します.
新たな遺言書を確認し,包紙に包み,十人組全員の印を捺し,組合で保管することと定めています.
時々,時代劇で遺言書を勝手に改竄して,跡目相続を別の人物にするなんてのがありますが,遺言書が全然別の所にあるので,彼方此方に手を回さなければこうした事をすることは出来ません.
亭主が死ぬと一族から遺言状の開封願いが組合や組合頭に提出されます.
組合頭は,亭主の倅,娘,妻女,実父,弟,妹,甥,叔母等について,何町に居住し,何の何兵衛の武士奉公人であるとか,男ならば何町何屋の養子,女ならば何町何屋誰の妻女,何町何屋誰母など「何町何屋故誰一類附」つまり,親類一同の名前を提出させました.
これと同時に「遺言状前証文」に全員の署名を行わせます.
これは遺言状開封は全員参加が原則であった為,当日の紛争を避ける為,遺言状の内容がどの様なもので,亭主の遺産が誰に譲渡されようと,遺言状の文面に従うことを前もって約束させる為のものです.
こうして,親類一同の名前が出されると組与が署名,捺印して肝煎に送り,肝煎はこれを点検して,遺言状の開封日を親類のそれぞれに知らせました.
遺言状の披見は亭主死亡後7日目を慣例として,肝煎が日を定め,組合頭宅で行いました.
そして,親類一同立ち会いの下で肝煎が遺言状の封を開き,内容は見ないまま両端に割印を押して親類に手渡します.
そして,遺言状を各人が読み,遺言状の内容を親類一同が同意すると,「遺言状後証文」を肝煎に提出します.
これもまた,遺言状に異議が無い旨を申し伝えると共に,此の後この相続に異議のある者が出た場合は,親類間で処理すると言うものでした.
これが町役人クラス,特に町年寄になると遺言状を作成する場所として町奉行所が指定され,遺言書の宛先は町奉行所宛てになっています.
町役人が死亡すると,忌明け後に遺言状の開封を許され,町奉行所の御敷台内にて開封を許されました.
その後,跡目が奉行所内で家財相続を許されることになります.
この町人相続の本質は家財であり,それは町人が所有する財産の総てを指し,居宅,諸道具,金銀や債権は元より,営業上の諸帳簿,営業権を含むとされています.
なお,町役人が隠居する場合は,単に老齢の為とか病身である為と言った理由では許されませんでした.
町人の負担とされる町役が負担しきれなくなった場合にのみ許されたのです.
この原則は,隠居願いだけでなく,町内で家を購入しようとする者についても,町役を負担出来ない者は無条件で拒否されました.
町役とは,夜番,自身番などの見廻りや町内に預けられた軽犯罪人の預かりや牢番人,牢賄や遺言状提出,そのチェックに加え,町で割り当てた打銀の納入があります.
総じて,財産がないと,そして余力がないと全然勤まらない仕事だった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/09 22:51
さて,大聖寺の話も好い加減何処かで打ち切りにしないとと思いつつ,まだ性懲りもなく続けてみたり.
大名が怖がったものは,将軍や幕府だけではありません.
一方では農民の百姓一揆や都市下層住民の打毀しも非常に恐れました.
先日の正徳一揆の場合でも,早駕籠や早馬が差し立てられ,それが江戸表に着くや否や,幕閣の老中に宗家と合わせて慌てて報告に行っている様に,農民一揆の対応を誤ると,幕閣に目を付けられ,領地支配不行届として,最悪の場合は御取潰しに遭ったり,そこまで行かなくても,家格を下げられたり,禄高を減らされたり,領地を移転させられたり,当主の登城停止や隠居に発展したりもします.
別の地への移封では,同石高でも場所によって米がよく実る土地と全然実らない土地とでは出来高が全く異なります.
大名家の左遷先として一番多かったのが陸奥棚倉で,幕閣でしくじったり,権力闘争に敗れた場合は必ずと言って言い程この地に移されています.
御陰で,棚倉の支配者は目まぐるしく代わり,8家16名を数えていたりする訳です.
余談は扨措き,この様に大名家は一揆や打毀しを恐れました.
特に北陸の加賀や能登,越前,越中と言った場所は戦国時代,「百姓の持ちたる国」と言われた程,一向一揆が盛んだった土地だけに,加賀,富山,大聖寺の各前田家の歴代当主や家中の士達は,一揆を起こした門徒やその子孫に対して格段の恐怖を抱いていました.
例えば,大聖寺の正徳一揆が,武士達にとっては一向一揆の再来に写っていた様で,一揆に参加する農民達に足の竦む思いがしたと言う記録も残っています.
また,都市の騒擾は米価の高騰を巡るものが多く,騒擾が社会不安を増大させて一向一揆が再発するのではないかと言う事を恐れました.
そこで大名家では屡々庶民の救済を行うと共に,富裕町人達にもこうした救済を行うよう命じています.
1830年10月,米価が高騰したことから下層民の中から餓死する者が出始めました.
この為,民政を担当する町奉行所では政庁に対して救済を願い,家中から米や銭等による救済を行いました.
11月にも越前米の価格が高騰した時も政庁は米の取締りを命じ米価の引き下げを図りました.
また,1831年10月になると前田家の救済だけでなく,富裕な町人達による施しが行われました.
1833年10月28日,米価が高騰して下層民の生活が脅かされた為,家中から町々に救米を出し,12月中町の火除け地に米蔵を建てて,凶作・不作で米価が高騰した際にこの米蔵から米を放出して下層民を救済しようとしています.
1834年2月3日にも米価が高く下層民が生活困窮を訴えた為,町役所は下層民に対する救済を実施しました.
これだけではなく,1831年10月下荒町から出火して多くの罹災者が出た為,家中から類焼した油屋孫右衛門組の七日市屋庄左衛門に120匁,山下屋義右衛門に90匁,吉田屋喜左衛門に80匁,味噌屋兵助,大坂屋弥三兵衛,松野屋重助にそれぞれ75匁,崎屋長太郎,尾山屋甚助,直下屋清右衛門に各々65匁,鍛冶屋武右衛門に55匁,油屋孫右衛門,同人持屋にそれぞれ40匁,合わせて845匁を支出,庄屋七郎右衛門組の福井屋宗次郎に90匁,坂本屋太助,岡屋七左衛門に各々80匁,松野屋七右衛門に65匁,福田屋十太郎,枡田屋利八に各々60匁,庄屋七郎右衛門持家に30匁の合わせて465匁,両組合わせて1貫310匁を復興資金として貸与しています.
この資金は無利子であり,返済は1831年から1861年までの30年賦としています.
これも,税収の減収や奉公人の逃散,それに伴う下層民の増加を防止する為のものでした.
物価上昇に対しても,政庁は対応しています.
例えば1848年8月,酒,醤油,酢,糀,蒟蒻,豆腐,麩,油,蝋燭,鬢付の価格を定価より出来るだけ安く売ること,そして,貧乏人だからと言って好い加減な品を売らないように業界を指導しています.
更に糀を除く9品目及び味噌,綿,鉄釘の価格引き下げも命じました.
また,1863年11月にも塩の小売価格の引き下げと現銀売りを命じ,且つ糀の小売価格引き下げ,玄米7合で糀1升との交換を定め,更に油を除く11品の価格引き下げと現銀売りを命じています.
幕末に向けてインフレーションが進む中で,1864年11月には再び塩の小売家格を下げて現銀売りとし,玄米7合5勺と糀1升との交換を遵守するように命じました.
この様に,大名家では例え庶民生活と雖も蔑ろにせず,ある時はセーフティーネットを張り,あるときは業界を指導して庶民が爆発しないように気を配っていた訳です.
先に見たように,火事の救済にも気を配りました.
大聖寺城下町では,1693年の大火で当主の居館も全焼していますし,1729年に400戸が焼失,1758年には200戸余,1760年には武家屋敷を含めて1,252戸の焼失,1796年には120戸の焼失と,火災が頻発しました.
この様な状況では当然,政庁も城下町の防火に関心を寄せたのも頷けます.
当然のことながら,放火は厳罰に処され,放火に対する刑罰は梟首,つまり斬首の上台座に据えて晒すさらし首の事です.
記録にはありませんが,1689年4月に塩屋長太郎が放火の罪で捕まり,多分梟首になったと考えられています.
また,1760年8月11日には,放火で入牢していたすぎと言う女性が牢死したのですが,彼女は死んだ後に吸坂で梟首となっています.
火の用心については町奉行所から町役人に度々触れが出されており,1785年正月28日に続き2月28日にも火の用心について触れています.
1787年8月1日には家の建て込んでいる所で花火を上げないことを触れ,1840年には
「町中に火の用心及び夜番が油断無く見回ることを申付けよ.
もし,火事ともなれば町奉行は早々に火消役人を引き連れて出動し,消火に当たること.
消火後は火の様子を見届け,焼失の家数を調べ政庁に報告せよ」
と町奉行に命じています.
また,火災の場合,伝馬肝煎は札の辻に駆けつけ,札の辻に近い火災であれば人足を使って制札を外して安全な場所へと移し,鎮火後に制札を移した場所を町奉行に報告する事とされました.
1840年以後にも屡々触れが出され,毎年3月になると,全国火災予防週間なんてのみたいに,火を扱う家持人,借家人の囲炉裏,釜場,薪置場所や鍛冶屋の鞴場を役人が検分すると共に,借家人に対しても家主が火の用心を厳しく言い聞かすこととされました.
また,灰汁を炊く作業は町中は勿論,町端であっても民家に近い所での作業を禁じられています.
町内には常備の消火用天水桶,水桶を常に満水にしておき,水漏れのない様に修理する,大風の日には夜歩きを許されている目付衆や廻り番が入口で声を掛け,掛けられた家々は名前を言って返事するようにしていました.
更に烈風の日になると,時間を定めず夜回りを厳重にし,町火消を務める鳶の者も平常から夜回りをしていたのを,時間を定めずに多く見回らせるように指導しています.
時には町奉行自ら全員を随えて町々を見廻り,立り番,木戸番は拍子木を3つ続けて打ち,間を開けて同様に打ちながら不審者だけでなく火事に気をつけ,若し火事を見つけたら,早速「火事だ!」と叫んで拍子木を早打ちすることとされています.
火事でも半鐘が鳴ることのない小火の場合は,近所の者が駆けつけて消火に当たり,火事場係の役人が出動しない前に消火した場合は,近くの組合頭の検分で済ませます.
大火の場合は鳶が駆付け消火に当たりましたが,町方五組の火消係の役人も働き人足を連れて駆付け,火事場奉行の指揮下で消火に当たりました.
この他,役所を始めとするそれぞれの詰所に係の役人と人足を規定通り駆付けさせると定めていました.
もう1つの災害は水害です.
大聖寺川は蛇行していたので,屡々大水となり,橋が落ちたり,民家が潰されたりしており,その数は1671年から1866年までの約200年の間に28回を数えています.
正に数年に一度の割合で洪水が起きていた訳です.
この為,1728年6月の大洪水の様に,洪水が発生した場合には,近郷の吉崎湊,塩屋湊,瀬越湊から櫓や櫂を漕ぐことに熟練した者による助船を置くことにしました.
吉崎湊では御門前に1艘,繰船を西の爪に1艘,四丁町(永町)に1艘,下新町に1艘の計4艘,塩屋湊が御門前に1艘,上新町(荒町)に1艘,御居宅に2艘,三枚橋・専称寺・ひへだ町・十一町辺に1艘,小嶋町に1艘の計6艘,瀬越湊が御門前に1艘,観音町・新道近辺に1艘,福田橋詰に1艘,穴虫口に1艘,御徒士町(金子・木呂場・弓町一帯)に1艘の計5艘,合わせて15艘を城下町の浸水地帯に派遣して被災者の救助に当たりました.
1783年7月11日の大洪水ではその15艘だけでは追いつかず,更に救助船は7艘を追加して22艘で救助に当たりました.
以後,救助船は22艘が用意されることになっていますが,内3艘については傭船の名目で1艘に付き500文が政庁から支給されています.
しかし,1807年9月の洪水では何故か救助船が来ずに,被災者は難儀したとあります.
もしかしたら,お金をけちったのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/10 22:54