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【質問】 大聖寺の城下町について教えられたし.
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【質問】
大聖寺の城下町について教えられたし.
【回答】
北陸の加賀市に大聖寺と言う駅があります.
1583年5月,羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦,北ノ庄城攻めで柴田勝家を滅ぼし,その論功行賞により,丹羽長秀に越前若狭の一部,加賀の江沼,能美の2郡を与え,与力として溝口秀勝を若狭高浜5,000石から江沼郡内に4万6,000石で封じました.
溝口秀勝は,大聖寺西部丘陵地,後の錦城山に城を築き15年に亘って統治します.
1598年,秀勝は越後新発田に6万石で移され,代わって朝鮮での行動を秀吉に譴責されて,筑前・筑後・肥前に渡る領地を没収された小早川秀秋が北ノ庄に転封されると,その家臣で,秀秋と不和になり,秀吉の元に戻っていた山口宗永が,大聖寺6万余石に封ぜられます.
山口正弘(宗永から改名)は山城国宇治田原城主の出であり,父の時代から信長に仕えて,信長横死後には家康の伊賀越えにも援助を与えたとも言われています.
本能寺の変後は秀吉に付き,賤ヶ岳の戦にも参戦していますが,武将としてのそれよりも地方巧者として秀吉に重用され,頼りない甥の秀俊(後の小早川秀秋)に,行政補佐として付けられています.
その後,朝鮮の役で何かと問題行動の多かった秀秋に愛想を尽かせて,日本に戻ると小早川家を出て,秀吉に戻った訳です.
秀吉としては,多分,秀秋の牽制の為に行ったのでしょうが,後に秀秋は家康などの取成しで,元の領地に戻り,山口家だけが大聖寺に残りました.
1600年7月19日に石田三成が挙兵すると,前田利長は家康の命により,7月26日に西軍方として旗幟を鮮明にしていた小松城の丹羽長重,大聖寺城の山口正弘を討つ為,総勢25,000名の兵を率いて金沢を進発しました.
8月2日,利長は第1の攻略目標を大聖寺城に置き,江沼郡松山に陣を敷き城主の山口正弘,同じく加賀国内に1万石余を領して,この時,同時に籠城していた修弘の父子に降伏を薦めますが,両者ともこれを拒否した為,3日早朝に松山を出発し,大聖寺城を攻撃しようとしました.
しかし,修弘はそれを察知し,南郷に待ち伏せして前田軍を攻撃,鬨の声を上げて,鉄炮を乱射して利長軍を混乱に陥れます.
これに対し,先鋒を務めていた長連龍は軍を立て直して攻撃,利長の弟である利政の軍もこれに応じて追撃し,城の大手鯰橋に迫りました.
修弘主従20騎は長槍を構えてこれを防ぎ,凄惨な死闘を繰返しましたが,前田勢の鉄炮乱射の前に突き崩され,城内に撤退しました.
城攻めが始まると,数の差は如何ともし難く,時間と共に山口軍の損害は激増し,長連龍の家臣,富田帯刀は蓆の指物で山口軍を突き崩しながら,塀を乗り越え鐘ヶ丸に押し入ろうとします.
これを見た連龍の軍勢は競って鐘ヶ丸に侵入,城兵は武器を捨てて敗走し,城主の正弘は自刃,修弘は山崎長門の家臣木崎長左衛門に首を与えました.
吏僚派の武将とは言え,両軍の死闘は,『越登賀三州志』に依れば,「迸血川を為し枕屍麻を乱すが如し」と形容され,利長の前に並べられた城方の武将の首級は544首に達したと伝えられています.
落城と共に火が放たれ,城は灰燼に帰しました.
結局,関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に終わり,城主の居なくなった大聖寺は前田氏の領地となって,城代が置かれましたが,1615年の一国一城令が出されると,大聖寺城は廃城となります.
1639年,三代当主の前田利常は,隠居する際に,自領から次男の利次に越中百塚(後に富山に移転)10万石,三男の利治に南加賀の大聖寺7万石を分封して支藩とし,大聖寺に再び大名家が置かれることになりました.
但し城は築かれず,山口氏時代に家臣の居住地であった大聖寺城の麓の山下に,館を建てるに留まりました.
この館は当初「城」と呼ばれていましたが,1702年からは「御屋鋪」と称することが決まりました.
こうして大聖寺を統治することになった前田利治ですが,利治は大聖寺町に入ると,山口氏時代の城下町であった京町,旅籠町を核にして新城下町を建設することになります.
山下に先ず居館を築くと,大聖寺川の分流を居館の周囲に導いて水濠とすると,その分流と南から流れる鯰川を結んだ空間に京町・旅籠町の他に「本役の町」・片原町・福田町・御大工町・横町・寺町が成立していきました.
鯰川の外側には魚町が出来,その外側には後に中町・関町となる集落が成立,更に,横町の南端から東に六分役の町・四分役の町が成立しました.
つまり,大聖寺川と鯰川を大聖寺館の外堀であり,両川の間の町は内町であり,鯰川の外側と大聖寺川の縊れ部分,六分役の町の入口,鯰川の縊れ部分を結ぶ東側は外町となっていました.
こう言った町の構造は,幕藩体制成立期に新設又は改修された城下町に多く見られる形態で,町人居住地を濠で郭内居住町人と郭外居住町人に二分する階層的身分制や軍事都市としての配慮が積極的に現れているとされ,以前取り上げた,松江城下町や中津城下町,広島城下町,鳥取城下町などの例が多いものです.
「本役の町」は後に本町となりますが,京町の西に隣接し,京町・旅籠町と共に本役を負担する町です.
本役と言うのは,公用荷や人を運ぶ馬の費用である伝馬役,当主が使役する人夫の費用である町夫役,当主やその一門,家臣,諸大名,公卿などの宿泊費である寄宿役を負担するもので,これらを負担する町人のことを本町人と呼び,本町人が居住する地区を本町と呼びました.
因みに,この負担がない町人は地子町人であり,地子町人が居住する町は地子町と呼ばれます.
武士は戦時には石高に応じた旗・指物・槍・鉄炮・大筒・小筒などを準備し,家臣を引き連れて参陣しなければなりません.
また,城普請を始め,石を運び,陣地を築き,濠を掘ると言う軍役もあり,大聖寺館の濠を掘り,石を積み,川を巡らすのも軍役の一つです.
農民も,土地を持っている百姓は本百姓であり,本百姓には年貢を納める他,道普請・川普請・橋普請などの労働を負担する百姓役がありました.
それの無い,つまり土地を持っていない百姓は大聖寺では頭振と呼ばれています.
所謂,水呑百姓の事です.
職人,商人は一般に町人と総称されますが,一部の職人役を負担する職人を除く職人と商人の内,地所と居宅を所有し,町並役を負担するか,地子銀を上納するのが公的な町人とされ,他は町人と見做されませんでした.
以前,大坂の町家を取上げた際に,借家人と家持ちで負担が違うと言う話を書きましたが,それと同じです.
江戸時代は一般に,領内の土地は,その領主のものとされていました.
従って,農民が支払う年貢も土地の使用料ですし,町人居住地でも使用料である地子を支払うものとされ,地子銀を徴収されています.
地子銀を納付する人々を地子町人,地子町町人とされますが,本町人は各種の役目を果たす必要があることから地子銀を免除されており,格式の高い町人とされていました.
また,初期の本町人は当主に対する功績があったり,当主に招かれて居住した商人や手工業者が多く,彼らは又御用商人として特権を持つことも多かったりします.
更に本町や地子町に居住する町人は,一定の負担をしている訳ですから,町内の運営や神社の氏子の寄り合いに参加し,発言が出来ましたが,居宅を有しない借家人,間借人等の一般町人は法制上町人ではありませんから,町の運営に参加することも出来ませんでした.
初期の本町は京町・旅籠町・そして文字通りの本町,片原町,魚町であり,地子町には四分役の福田町,三分役の横町(後に鍛冶町と改名),六分役の町(後に下新町),四分役の町,三分役の町です.
こうした六分とか三分は,町並役を除く町役の負担率を表わしていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/30 22:23
本町である京町は山口氏統治時代に出来た町で,都から招かれた町人達が核になって出来たものです.
初代当主の利治が館を築いた際,大手門を京町に開いているのも,当主がこの町を重視した事が伺えます.
とは言え,大手門に対し馬出し路の北側と京町路の南側とが直角に連なり,城内を見通せぬ様になっています.
この京町で最大の居宅を有する町人が越前屋市右衛門で間口15間の角屋に1軒,向かい合って間口15間の角屋,更に裏側の片原町に間口1間半の計3軒の居宅を有しています.
当時の京町居住の町人としては,他に角屋彦左衛門,大津屋安斎,油屋十右衛門,紺屋次左衛門,桶屋藤兵衛,千福屋五兵衛,塩屋長左衛門,吉崎屋作左衛門,桶屋茂助,吉崎屋喜右衛門,一丸屋小左衛門,桶屋惣兵衛,板屋与左衛門,美濃屋次右衛門,木綿屋久兵衛,千福屋伝三郎,草鞋屋伊右衛門,美濃屋三左衛門他20軒があります.
角屋彦左衛門は越前屋市右衛門と間口15間の家に同居している商人と見られ,美濃屋三左衛門は間口12間半の居宅を有し,紺屋次左衛門は間口10間半,大津屋安斎が8間,他に6間台が10軒,5間台が2軒,4間台が3軒となっていました.
出身地は,最初の越前屋は越前商人,大津屋は近江商人,美濃屋は美濃商人と見られ,一丸屋や千福屋は京都の出身と思われます.
油屋も,当時油は貴重品だったので,上層階級を相手にする富裕商人の職業であり,恐らく京都出身商人と考えられます.
塩屋は塩商人,紺屋は紺染を扱う商人であり,木綿屋はその名の通り木綿商人,草鞋屋は草鞋など履物類を扱った商人で,桶屋は職人を多数使用して桶を作る職人の棟梁であろうし,板屋は屋根の木羽板職人の親方と思われます.
因みに,江戸時代初頭の城下町では,桶・曲物職人,大工,鍛冶,大鋸職人,紺屋職人等は商人の上位として重視され,時代は古いですが,文禄年間の会津若松城下町の場合,商人が30%,職人70%になっており,商人よりも職人が重視されていることが判ります.
これは時代が下ると,大都市では職人は町の中心から周縁に追いやられ,商人が町の中心部を独占するのですが,地方の小城下町では江戸時代中期に至るまで,職人がまだ25%ほど町の中心部に住んでいました.
本町でも京町に続き格の高いのが,旅籠町です.
これは慈光院の門前町として発達した核になって出来た町で,寛永期で戸数14軒,その中には間口10間1尺の若狭屋与三兵衛,間口7間の橘屋四郎兵衛を始め,米屋,味噌屋,能登商人,領内の山代村出身者が営む旅籠などの名前もあります.
これら京町と旅籠町は大手門に向かう4間道路で,城郭正面に作られた本通りの町,つまり,竪町に当たります.
大手門通りが御馬出と交叉する地点は目貫の場所で,高札場・晒場・伝馬問屋が設けられる事が多かったりします.
なお,高札場は,別名「札の辻」とも呼ばれています.
本役の町は,京町や旅籠町とは違って家数36軒,最大の居宅は8間2尺2寸と旅籠町と変わりませんが,他の居宅は小居宅が多く,全体的にこぢんまりとしています.
この町に住む米屋六郎右衛門は,山口氏統治時代からの商家であり,酒造を営んでいました.
因みに,大聖寺城攻めの際,利長の軍勢でこの店にて酒を買った者がおり,その際,こそ泥を働いて捕まえられ,この店の前で首を刎ねられた者がいたとか.
他に本役の町には樽屋,扇子屋がありましたが,米屋以外はいずれも1750~70年頃には没落してしまいました.
酒造業者を大名家が優遇したのは,年貢米を城下町に集め,市場を開設する為です.
酒造には米を多く消費するので,米の消費が恒常的に行われます.
つまり,領主側は年貢米を効率的に売却する先として,酒造業者を優遇した訳です.
しかし,17世紀中頃になると流通の進歩で大坂に米を回漕するルートが出来たのと,大消費地である大坂の米市場で売却した方が有利になった事から,酒造商人の優遇は無くなり,酒造業者も没落が始まります.
本役の町に住む人々の出身地は,川崎,熊坂,金津,篠原,北川,美濃,能登,京都の平野など,領内の加賀前田家領は元より,美濃や京都など各地から集まっていました.
また,この場所には,米,油,紙,綿,布などを扱う商人を始め,風呂商売や石職人も居住していたと考えられています.
この時期の風呂屋は,風俗営業であり,湯女が接待しました.
次いで地子町.
片原町は文字通り片側は荒地で,戸数も8軒しかありません.
1軒は越前屋市右衛門居宅の延長ですが,残りは間口は6間台が2軒,5間台が3軒,4間台が2軒で質屋などがあり,本役の町より間口の規模は大きいものがあります.
ただ,発展途上の町でした.
福田町には紺屋を屋号とする人々が多くおり,染物職人の集住地であったと思われます.
この人々の居宅は,大は間口7間から小は3間であったことから,親方層と職人達が混住していたと見られています.
地子銀は免除されている代り,藩命があれば,当主の居館だけでなく寺社の建築・修復に動員されました.
こうした職人役を負担した職人は他に鍛冶,大鋸,畳刺等もいます.
寺町は慈光院の跡地に出来た町です.
慈光院は,1398年に創建した越前の真言宗寺院滝谷寺の僧睿憲が,大聖寺城の西後ろの山,現在の錦城山の西方の山に大聖寺を創建しましたが,天文年間の一向門徒と朝倉義景との戦で焼失,後に大聖寺の寺町近辺に寺院を再建し,大聖寺慈光院と称しました.
前田利治入国後は,城下町整備により南西の「山の下」に移され,跡地に町民が居住して寺町と称されました.
この寺は,1868年以降の廃仏毀釈で本尊は山代薬王院に移って姿を消し,同寺が別当を務めていた加賀神明宮が跡地に出現しています.
魚町は外町に位置し戸数が9軒,間口5間から3間の居宅が混在していました.
魚町の名の通り,魚の振売り商人であったと思われます.
魚町に続く,後の中町から越前道,関町の通りには86軒の戸数を数えますが,屋号を有する町民は30軒余,他は屋号を有しない町民達で,恐らく農村から入り武士や町人の奉公人,或いは棒手振,或いは労働力を提供す人々でした.
この他,六分役の町には6軒中5軒が鍛冶職人,四分役の町は71軒で8軒が屋号を有し,残りは屋号を有さず,これらも奉公人,棒手振,労働力提供者であると考えられています.
城下町創建当初の商業は初め,中世的な市場商業であり,一定の町に固定して行われますが,大都市では店舗が出来,同業者達の町が出来,魚市場や青物市場が出来ていき,中規模の城下町でも17世紀前半には市場商業が消滅していきました.
金沢の場合は,店舗が出来ていくのは元禄期に入ってからで,東北では,まだ17世紀の段階でも市場商業が店舗商業の中に残っていました.
また,生産が成熟しない農村では消費のみを行う城下町を支えることが出来ず,城下町の経済もそれに引きずられて発展を止めてしまいます.
この対策として,大名家では各町で開催する市を奨励し,各町が特定の商品を売買する専売権を許可しますが,こうした専売権を持つ町は,専業問屋とは相容れませんから,17世紀中期頃には消滅してしまいました.
金沢城下町では,前田家が必要とする米や木材,他の商品の売買は領外である敦賀湊の高島屋伝右衛門や宮腰湊の中山主計に依頼していました.
彼らは請負商人と呼ばれ,自分の運送船と商品保管用の倉庫を持ち,商品を販売し,金融をも行い,諸大名家から依頼された年貢米を売却し,出陣時には軍事物資を調達して依頼主に輸送するのが任務でした.
一方で城下町の商人は,経済力や才覚は必要なく,当主の依頼で必需品を調達するのが関の山.
これも,京都や大津などの伝手を頼るもので,城下町に店舗を持って小売をすることがありません.
大聖寺でも城下町が出来た1639年頃には店舗がありませんでした.
初期の請負商人は取り分が極めて大きな旨味のある商売でした.
このため,加賀前田家では手許に残る分を多くする為に,領内の廻船業者を手懐け,掌握して新しい問屋の育成を行います.
この結果,中山主計も当主に懐柔されて新興の廻船業者となり,河北郡粟崎村では木屋藤右衛門が現れました.
金沢城下町でも,今町に浅野屋惣右衛門が,堤町に越前屋孫兵衛,下堤町に金谷彦四郎,武蔵庄兵衛,博労町に竹屋仁兵衛,菓子屋吉蔵,中町に紙屋庄三郎,片町に香林坊喜兵衛,堂後屋三郎右衛門,袋町に浅野屋次郎兵衛,越前屋喜兵衛,新保屋次郎右衛門,南町に中屋彦右衛門,平野屋半助,川南町に宮竹屋喜左衛門,尾張町に森下屋八左衛門,十間町に本吉屋宗右衛門など,領主が城下町に招いた新興の招請商人が現れますが,大聖寺でも京町や本役の町と言った本町居住の本町人の中で大きな居宅地を持つ町人が新興の商人となり,当主の御用聞町人として様々な特権を与えられていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/31 22:46
さて,元禄期と言えば,江戸時代でも第1のバブルが来た時代です.
大聖寺も御多分に洩れず,その余録にありついています.
しかし,「本役の町」とされていたのが本町に改められ,同時期に旅籠町は山田町となり,寺町には紺屋が集住して紺屋町を作り,横町にも鍛冶職人が集住して鍛冶町を作りましたが,全体の城下町の大きさは変わっていません.
旅籠町が山田町に改名したのは,伊勢山田町にあった大神宮を勧進して加賀神明宮を設置したからと言われ,現在でも山田町には「神明屋敷」という社地があります.
魚町には相変わらず魚類の振売商人が集住していましたが,城下だけでなく農村地帯にも売り歩くようになり,それが当時としては貴重な動物蛋白源として売れて,それに目を付けた人々が振売商人として新たに参入し,西魚町・東魚町に発展してきました.
また,城下町整備当初は町名を持たなかった町並も,中町,関町,下新町と呼ばれるようになり,東魚町に隣接して家数5軒の五軒丁と言う町が出来ました.
因みに東魚町の方は,五軒丁と歴史が違うとして一線を画す為,鯰川の流れを分けて五軒丁を囲い,外町の外町にしています.
共同井戸は御馬出前,京町通左側の角家,深井屋市郎右衛門前,八間道に面して置かれ,本町正面,中町通を越えた地点に札の辻が置かれました.
更に,本町町並の右角家にある金沢屋伊兵衛居宅に隣接して鐘撞堂が設置されました.
このお堂は,時の鐘を鳴らす為に1667年に本町と八間道の間に建設されたもので,時鐘も同時期に作られ,維持費として町中として銀100匁を納めていました.
京町で最大の居宅は,寛永期の越前屋市右衛門に代って,間口15間,奥行24間3尺の吉崎屋嘉兵衛居宅であり,同じく間口15間ですが奥行はやや浅い深井屋市郎右衛門居宅となっています.
吉崎屋は,寛永期にあった吉崎屋喜右衛門の裔で,家業が発展したものと思われます.
間口12間の蝋燭屋理右衛門は,寛永期の美濃屋三左衛門に代って進出したもの,間口10間3尺の紺屋三郎右衛門は紺屋次左衛門の裔で,そのまま代が変わったもの,間口6間の千福屋七兵衛はその名前から寛永期の千福屋の代が変わったもので,桶屋長兵衛は桶屋惣兵衛の裔です.
他に,代替わりしたらしい,糀屋伊右衛門,木綿屋久兵衛はそのまま残っていますが,大店は殆どが残っているものの,全住民の70%が寛永期から交代したと考えられます.
本町では間口6間2尺2寸の樽屋新次郎,最小が3間4寸の小松屋伊左衛門であり,旧家の米屋六郎右衛門は,間口3間3尺5寸の家の他,4間3尺2寸の居宅を所有しています.
他に幕末に伝馬問屋・伝馬肝煎を務めた板屋太郎兵衛は本町に居住しており,間口3間4尺を有していました.
出身地は,金沢城下や石川郡の松任,能美郡の小松,北村の他に伊勢の津や越前,美濃からの移住者もいますが,領内移住者もまた増加しています.
地子町では,御大工町は福田町に含まれていますが,大工は17軒,桶屋が3軒,塗師屋を屋号とする家が2軒,他に木地屋,鞘屋,白銀屋,紺屋,鉈屋,雛人形屋を屋号とする家が各1軒で,恐らく職人町を形成していたものと考えられます.
紺屋町では8軒総てが紺屋を屋号とし,鍛冶町は鍛冶屋,機屋を屋号とする家が多く,六分役町から下新町は町口から鍛冶屋,紺屋を屋号とする家,大工を肩書きにする家も多かったり.
魚町から発展した西魚町は14軒中総てが「うを屋」或いは「魚屋」を屋号とする魚商人ですが,東魚町ではそれに加えて,塩屋,中野屋,紺屋,塗師屋,桶屋など新しく転入した人々と思われる店が出来ています.
因みにこの時期,金沢城下では魚の需要が増えたことから,当主に願い出て魚類を振売用と店売用に分けています.
漁獲量が少なければ店売用の魚屋に出し,漁獲量が多ければ,安い魚である小アジ,小シイ,小カマス,小ツクラ,小ガレイ,ズワイガニ,ハマグリを振売用としました.
漁獲量が余りにも多くて店売用の魚屋が買わなければ,四十物(干物や塩蔵に魚を加工する)商人や振売商人に出しています.
こうした振売を中心とする小商人達は,問屋から鑑札を受けて商いました.
金沢の支藩である大聖寺でもこの影響を受け,同じ政策を採っていたと考えられています.
なお,五軒丁では木挽,大工が多かったそうです.
中町は寛永期には屋号を持たない庶民の町でしたが,元禄になると65軒が屋号を持つ町人となっていました.
居宅の間口も大は8間から小は2間までと様々です.
また,中町から西南に越前道が延びていましたが,此処に沿って町並が続いています.
此処は後の越前町ですが,元禄期は町名が無く,町民総てが屋号を持っていました.
この頃から薬種商として,若杉屋,江戸屋,北村屋,木薬屋と言った屋号を持つ人々が出て来ました.
1677年頃,大聖寺前田家では薬種商に対する統制を始め,若杉屋与三兵衛,蝋燭屋庄三郎,越前屋次郎右衛門,江戸屋儀左衛門が町会所に対して,毒物・毒薬を売買しない,唐薬・和薬の区別をはっきり表記する,上方からの薬は買った店の誓詞を取っておく,和・漢の区別も明らかにする,薬屋仲間で調合の薬の販売は処方箋通り正しく配合したものだけに限定して販売し,聞き伝えの調合薬の販売は行わないなどの誓詞を提出しています.
因みに,地元産の薬は1両に付き4匁,上方からの薬は1両に付き5匁を利益として販売するとしています.
更に1695年になると,薬種商人の若杉屋与三兵衛,江戸屋儀左衛門,北村屋又三郎,木薬屋三太郎の4名は,他国・他領から来た薬屋に依怙贔屓せずに薬の内容を調査し,不審がなければ大聖寺城下町での販売を許可し,不審があれば販売を差し止める権利を与え,反面,薬酒の値段を気儘に上げることはしない,誰であろうと薬種を購入したい者には,上品・中品・下品を紛れの無いように売る,どの種類であろうと無いものを有るように答えたり,値段をこれ又気儘に釣上げたりしない,調合には間違いないように入念に製造するとの誓詞を町奉行の稲垣源八郎,大井市兵衛に提出しています.
一方,元禄期には農村も農民の階層分化が進み,貧窮化した農民は農村を捨てて都市に流入して下層民となり,村に残った農民は農間余業に精を出し,都市に近い場所では都市向けの商品作物を作るようになります.
大聖寺前田領内でも,山中村と山代村が温泉地として湯治客を集客するようになり,浜村は製塩を生業として利益を上げ,この他,山方村,菅谷村,下谷村で糸を,新保村,佐美村が真綿を,串村と中津原村が蚕種を生産して利益を上げています.
元禄バブルの後には更にこの動きは加速し,1707年に石川郡の十村役である土屋又三郎が書いた『耕稼春秋』には,石川郡を中心に栽培された商品作物として,大麦,小麦,粟,稗,大豆,小豆,黍,唐黍,胡麻,麻,自生の麻,藍,紅花,蕪菜,大根,木綿,菜種,煙草,藺草,菅,瓜,西瓜,胡瓜,氈瓜,ぼぶら,芋,瓢箪,糸瓜,根深,葱,浅葱,大蒜,牛蒡,人参,萵苣,茗荷,蕗,紫蘇,芥子,藜,辛子,慈姑,芹,生姜,春菊,ぼうふ,なんば,酸漿,荏胡麻等を挙げており,これは江沼郡でも同じと見られています.
これらは生産地は大聖寺領内ですが,金沢に移出されて,金沢名産としてラベルが貼り替えられたものも少なくありませんでした.
他に大聖寺前田家では,商品作物の名産品として茶がありました.
茶は,農民にとって大切な現銀収入源であり,能美郡と共に栽培面積は極めて大きなものでした.
大聖寺の「正徳一揆」では,茶でぼろ儲けして農民に利益を還元しなかった茶問屋の襲撃が起きたくらいです.
土屋又三郎は大聖寺のお茶を「悪茶」として切り捨てていますが,大聖寺の茶は古くから越前の敦賀湊に大量に送られて,そこから移出されており,その地位は不動であったことから,「悪茶」であろう筈は無く,相当の質があったものと考えられます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/01 22:08
さて,〔略〕,大聖寺領内にも農民は多数いました.
元禄期に階層分化が進み,食い詰めた農民は,大聖寺城下町に流入し,その下層民として日雇や棒手振を生業とする様になり,それが立ち行かなくなれば乞食として城下を彷徨することになります.
乞食がもし町付足軽に見つかれば,見つかり次第非人頭に渡されました.
城下に住む人々の内,武士は兎も角,町民は本町に住み町並役を負担する本町人,地子町に居住して地子銀を上納する地子町町人,いずれをも負担しない町民に大別されます.
前二者は比較的生計が安定していたのに比べ,普通の町民は土地も居宅も持っていなかったので,借家人や間借り人と言う位置にいました.
つまり,彼らは其の日暮しの人々だった訳です.
ところが,彼らも社会が発展してくると重要視されます.
特に武家の奉公人である小者・草履取・中間と呼ばれる人々は武家社会の充実と共に不足がちとなりました.
知行持ちならば,知行地の農民を勝手に大聖寺城下町に連れてきて使用していましたが,農繁期には農村部も猫の手も借りたい時期に,こうした事をされてはたまりません.
そこで,農業に不適当と見做された農民の中から1年契約で都市へ連れ出す様になります.
確かに仕事は大変でしたが,それでも農業に比べれば遙かに楽であり,御飯の食い逸れも余りなく,しかも給金も幾ばくかは頂けます.
そこで1年間武家に奉公した後,年季が明けると今度は町屋に奉公し,そこからは才覚次第で給金を貯めて商人となったり,或いは地子町に家を建てて城下町の町人となる者も出て来ました.
このため,大聖寺前田家では1692年に,領内の百姓は男女の別なく他国・他領に出てはならない,男女ともに町方へ奉公に出してはならない,こうした百姓は町方に出てしまうともう百姓として働かないからと言うことで禁令を発しますが,農業の人手不足,武士奉公人の不足も解消せず,遂に家中に奉公人奉行という役職を設置して武士奉公人確保に奔走しました.
奉公人奉行の木村安兵衛と宮部新兵衛は,年期が来た後,無断で町方に奉公した者や,城下町に無職でいる者,能美郡の農家に奉公している者などを呼び返すことを命じ,農村では過重負担になっている奉公人を使用し,持ち高の少ない農民が奉公人を持つことを禁じました.
この様に,武家奉公人が町方奉公人になったり,武家奉公人のまま城下町に居着き,遂には城下町と農村の間に家を構えたりする者は多くおり,この様な小商人,職人の居住する地は,魚町の南側や下新町の末端,越前町,大聖寺川を越えた道路沿いの地の敷地や相生町に広がり,貧窮町民は日雇・棒手振として借家や間借りで生活拠点を確保しました.
こうした小商人や棒手振は,城下町以外に農村に出かけて,農民に対し,干菓子・飴おこし・団子・餅類・心太と言った嗜好品や,魚類や鳥類,酒や酒粕,帯,襷,小間物を売るようになっていきます.
当然,これには小銭が入用となり,それが駄目なら米・小豆・豆類の物々交換も行うようになったり,棒手振から出発して遂に店を構え,奉公人として農村にいた人々を雇い入れる事で,城下町に出る農民も続出した為,生産力が落ちることを恐れた大聖寺前田家では,遂に1692年,城下町の小商人や棒手振の行商を禁じる布告を出しています.
しかし,この流れは一向に止まず,1698年になると再び禁止令が出されて,取締専門の横目足軽が農村に派遣されて監視に当たっています.
因みに,横目足軽は不正を糾明する算用場内の横目付きの足軽のことです.
ところで,分家された1639年頃でも,既に年貢米だけでは大名家の運営は出来ず,年貢米を売却して資金を稼ぐと共に,年貢以外に商品生産を奨励するようになっています.
例えば,加賀前田本家では,能登の海浜に居住する農民には米作りをさせず,塩手米と呼ばれる米を貸し出して,それを食料にさせ,年貢米の代わりに塩を作る様に仕向けていました.
出来た塩は,前田家が一手に集荷し,領民に専売しました.
こうした塩は全領民が購入する生活必需品だけに,優れた収入源でした.
また,越中前田家では,藩米を貸付けて布や絹を生産させ,年貢米の代わりに上納させましたが,これらは貴重品でもあった為,京都や近江の商人を介して容易に貨幣と交換することが出来ました.
この様な生産物は,生産地の本百姓でも有力な農民が集荷して,城下町の商人に送り,商人達は,これを更に京都や近江の商人に送っています.
大聖寺前田家ではこの商品生産が茶でした.
最初に大聖寺前田家が茶の生産に介入し始めたのは1681年で,金沢町人の香林坊源兵衛,高岡屋太右衛門が初めて問屋商人に任命され,1686年に庄村の平石六兵衛,小松町の町人茶屋三郎右衛門が任命されて1698年まで務め,1699年から串村の甚四郎が務めたとされています.
つまり,当初は金沢の茶商人によって支配され,1698年に至ると,大聖寺前田家が流通市場を主体的に把握することを狙って,串村の茶問屋甚四郎を頂点とした領内の商人に集荷統制されました.
家中では茶を重要な換金作物として認識し,口銭漏れの無いように厳しく取り締まると共に,農民の現銀収入が円滑に行われるように気遣いした訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/02 21:24
大聖寺では茶の栽培を商品生産の中心に据えたのですが,1683年7月26日に前田家から茶問屋に対する「覚」として,茶問屋設置理由と職務内容が17項目に亘って書かれています.
その要旨は,以下のようなものでした.
1. 大聖寺の茶問屋は金沢城下町町人の香林坊源兵衛,高岡屋太郎右衛門の2名に任せる.
2. 領内の問屋を串村・作見村・大聖寺城下町に設置する
3. 他領から茶商人を招きすぎて売り手が困らないようにする.
4. 茶は現銀売りとし,茶を売った農民に対しては現銀が速やかに支払われるようにする.
5. 茶仲買商人がいない時に農民が茶代金を請求した場合は,両者話し合いの上,暫定支払いを為し,後日
売却した時に,差引計算をする.
なお,その場で売却したい場合は,その時の値段で買い受け,代銀を農民に支払う.
6. 男女,子供に依らず,茶を持参した場合は平等に扱う.
7. 茶の口銭は代銀10匁に付き6分とする.
8. 農民が他領に売りたいと問屋に申し出た場合は,1斤当り3厘の口銭を徴収する.
9. 他領の商人が領内で直買いした場合も1斤当り3厘の口銭を徴収する.
なお,問屋に断りを入れずに直買いした場合は,荷を差し押さえる.
10.茶の重量は,5月31日までは300目を1斤で計算し,6月1日以降は400目を1斤として計算する.
11.口銭の内半分は大聖寺前田家に上納し,半分は問屋の収入とする.
12.口銭の前銀として100枚を上納し,本計算の際に差し引きする.
13.武士,町方,農民の私飲用には口銭は徴収しない.
14.他領の商人への売買は依怙贔屓しない.また,馬方に至るまで争論は差し控える様,自らは勿論手代にも
諭しておくこと.
もし,筋の通らない争論があった場合は問屋の落ち度とする.
15.茶の移出に関する取締は,上口には問屋に登録されている印鑑と集載した一覧を合わせて検印,下口も
串村問屋で同様に改める.
脇道や浦方では問屋から役人を派遣して吟味する他,算用場からも横目役人を派遣して吟味する.
16.領内での店売りの茶,競売りの茶は問屋から鑑札を発行し,口銭を徴収する.
17.此の後,問屋は困ったことがあれば算用場に相談し,農民に難儀を掛けるな
時代に応じて,1条目の商人は代わっていきますが,1698年になると,算用場は茶問屋甚五郎に対し,「茶問屋定書」を示しました.
こちらも全部で16項目ありますが,「覚」から変わったのは,第1条の茶の取仕切りを茶問屋甚五郎とした他,第2条での領内問屋から作見村が外れ,2カ所となった事,第4条の農民保護規定が削除され,第6条(旧第7条)は口銭が6分から僅か2文に減らされ,売却の口銭も2文となり,問屋を通るだけの茶は1斤に銭3文の口銭徴収を定め,第8条で他領に売りたいと願い出た場合の口銭は1斤に3文と値上がりしています.
第10条は第13条に移り,第11条は茶1斤に付き口銭は3文以内で,2文は大聖寺前田家に上納,1文を問屋収入としました.
第12条は削除され,第13条が12条にされ,最後の第17条も削除されました.
つまり,農民保護規定は軒並み削除され,口銭は安く止め置かれていますが,実際には商人側はこれだけの口銭で満足した訳ではなく,仲買人的な商人が出て来て,不当な口銭や手数料を徴収したと見られています.
そして,これが後の一揆の原因になった訳です.
因みに,茶問屋の大聖寺前田家への貢献ですが,藩政中期末頃の時点で,越前町にある茶屋4軒から,商売税である運上銀が43匁,茶の運上銀は6貫目ほどに達しています.
2つ目の藩収入の柱は絹です.
絹運上銀は,銀7貫500匁で生産高は凡そ4万反前後と見られています.
絹生産は庄村で盛んになって,後に此処で発展した絹問屋が大聖寺城下町に進出してきます.
その代表的なのが沢屋で,代々絹道役として,絹織物の検査,生産量に関係する町役人を務めました.
他に城下町に糸問屋北川屋があり,絹屋に糸を提供していました.
庄村には,少なくとも京屋,餅屋の2軒が絹問屋としてあり,ここで農民が生産した絹や糸を集め,城下町の沢屋に出荷していたと見られます.
3つ目の藩収入の柱は紙です.
紙は,紙屋谷と呼ばれた中田村,長谷田村,上原村,塚谷村の4か村で生産され,藩政中期の時点では運上銀は860匁に達しましたが,紙の量産が方々で為されて,価格が下がってくると運上銀は激減し,1844年になると124.6匁足らずまで下がってしまいました.
生産された紙は,家中で使用される料紙を始め過書紙・相滝半紙・並延・中折・広連紙・中連紙・端不伸から帳紙・傘紙・合羽紙・茶紙・鳥子紙・塵紙にまで及びました.
大聖寺城下町には紙問屋徳田屋などがありましたが,農民の評判は芳しいものではありませんでした.
一揆後,紙屋谷4ヶ村の農民14名が,大聖寺城下町である福田町の麦屋の一角を借り,紙商売を始めています.
彼らの商売は,家中の士には納得ずくで販売し,町人や郡方の紙は末尾3の付く市日に売買し,値段は他国や他領の紙よりも安価で,家中の士相手には幾ら紙の値段が高くなっても安価に販売する事になっていました.
この様に商人が農民の生産したものを買い取って,他国に転売して利益を上げている訳ですが,これらは総じて安価に買い叩かれていたり,不当に口銭や手数料を取っていた結果でした.
こうして得た利益を原資に,吉田屋の様に農村での貸銀を行っていた商人もいました.
吉田屋の場合は,領内の正村,上川崎村,西住村,塩浜村,星戸村,作見村,西崎村,九谷村,上木村,横北村,小菅村,上野村,加茂村,松山村,弓波村,大菅村,荒谷村,敷地村,下福田村で合わせて銀4貫800匁を貸付けています.
当然,その利子は高めに設定されており,これからも高い利潤を上げていたと想定出来ます.
一方,大聖寺前田家の農民に対する態度は,1692年の時点で,
「農業について村役人に不服を言う者があれば,村役人として牢に入れ,或いは村から追い出し,農業に精を出す者と入れ替えても良い.
耕作をしない者は打ち殺しても良いが,その際は当主の耳に入れる様に」
と,真に残忍な布告を出しています.
とは言え,この布告,1655年に本家の加賀前田家が改作法を導入する際に,前田利常が1655年3月11日,1656年8月7日,1657年2月21日に布告した内容と全く同じものであり,本家に比べると,大聖寺前田家が,先進諸国で貨幣経済に転換しつつあったこの時代に至っても,農民の年貢に頼った経済体系を取っていた事を物語っています.
こうした後進性が,益々商人を増長させて,逆に農民の生活を困窮させ,困窮した農民が全領内で大一揆(正徳一揆)を引き起こした遠因です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/03 22:03
おらこんな村嫌だー
〔略〕
さて,正徳一揆の後でも武家奉公人の不足は一向に減らず,奉公人奉行の村田政太夫と飯田源左衛門は領内の十村役に対し臨時に武家奉公人75名の割当を指示しましたが,人手不足は一向に解消しませんでした.
奉公人奉行は一層領内の村々から補充する様指示をしていますが,奉公人達は年期を終えると,続いての武家法光を嫌い,一方で農村に帰って農業をするのも厭い,町方奉公人となる為に居所を替え,又は居所を偽って城下町に留まり藩庁を困らせています.
謂わば,18世紀初頭の時代は空前の売手市場だった訳です.
このため,1723年には武家奉公人に対し,藩庁からは,「主人が気に入らなければ,奉公人奉行に申し出よ,別の奉公人と替えよう.但し武家奉公人だけは辞めないで貰いたい」と言う哀願に似た依頼まで出しています.
また,武家側も奉公人が居着かなくなるのを恐れて給銀を挙げる動きが出て来ます.
1765年になると武家奉公人の雇用は武士と奉公人希望者との相互の話し合いで決められ,結果を奉公人奉行に伝えるだけとなりました.
更に,1785年になると,奉公人の公定給銀が公布される様になります.
これによると,奉公人の格付けは上中下と荒子に分かれ,上の小者は春40匁,暮20匁の合計60匁,中の小者は春34匁,暮20匁の計54匁,下の小者は春28匁,暮15匁の計43匁,最下級の荒子では春23匁,暮12匁の計35匁とされました.
これは奉公人不足で,相互の話し合いが為されるとは言え,給銀相場は暴騰した為,その抑制に制定された訳ですが,奉公人不足は尚続き,公定給銀に幾ばくかをプラスした額が相場になりました.
例えば,任地手当と言うべきものは江戸詰,他国詰の家中の士に随行する小者の場合は,5~10匁が割増として支払われ,江戸に3年留まり,更に1年延長して留まった場合は,10匁を更に増やすと言った具合.
しかし,こうした状況でも武家奉公人から町方奉公人への転身は後を絶たず,また,農民を嫌って町方奉公人への転身も多くなり,藩庁の文書で,「最早,百姓に立ち戻りがたい者達である」と嘆いていたりします.
女性の場合も,山中温泉,山代温泉,粟津温泉に奉公する者が多くなり,これまた藩庁の内部文書に,「近年,女奉公人の風儀が悪くなったのは,全く山中,山代の為である」と嘆きが書かれていたりします.
この様に町方奉公人として転身する者が多くなってくると,農村の農業労働力不足が著しくなります.
農業労働力不足は取りも直さず,大聖寺前田家を支える年貢収入及び商品作物からの運上金不足に直結し,自領の経済力の低下に繋がります.
このため,1791年12月に,大聖寺前田家では,「町方の奉公は許されていないのに,最近はルーズだ.今後は男女とも決して町方へ奉公に出てはならない」と言う通達を出し,農村に商人風の者を見かければ農民とし,棒手振などの商いも止めさせ,武士奉公人か農業労働者に切り替える様にと言う指示を出しています.
また,1692年以来,城下町の小商人が農村で商うのを屡々禁じましたが,抑えきれず,1735年に棒手振達に課していた天秤棒に対する課税,これを棒役と言うのですが,これを停止し,鑑札を取上げてしまいました.
これでめげる様な棒手振達ではなく,無鑑札の棒手振の商いは増え,しかも,その動きを封じたことで農民達への生活物資,特に魚類の不足が不満となり,農民側からの苦情が出たと思われ,1749年に再び鑑札を交付します.
しかし,1749年になると城下町商人が行う郡地での商いを禁止し,それを無視して農村に入って商いをする者は,村番人や村役人が厳しく対処する様に命じました.
特に油振売の棒役は再び停止され,振売商人35名の鑑札は取上げられています.
これは,油振売商人が農村に入り込むことで領内の農民が夜中,行燈などを点けて過ごす様になった事と,高価な油の消費を農民にとっての浪費と見做した為です.
とは言え,城下の振売商人の規制は,小商人の困窮化に繋がり,一揆ほどではないにしろ,打毀しが起こりかねない情勢となった事から,1768年には再び農村での振売りを条件付で認める様になります.
この条件とは,これまで1人1枚の交付だった鑑札を5人で1枚とし,5人はローテーションを組んで農村に商いに行くと言うもので,扱う商品も油,糀,塩汁,塩鯖,もみ鱈類,蓑,笊笥,杓子,新保笠,古金買に限りました.
19世紀に入ると,この鑑札も意味をなさず,無鑑札で農村に入り,商いをする商人が出て来た為,これらにも済し崩し的に鑑札を渡すようになり,糀鑑札は25枚,古金買鑑札を45枚,油鑑札を55枚,塩鑑札を54枚,小商鑑札を329枚の合計508枚を手渡しました.
5人に鑑札1枚として,城下町から農村に出て商いをする小商人の数は540名でしたが,実際にこうした無鑑札小商人を加えると3,000名を越える一大勢力となっていました.
更に,城下町だけでなく,在郷町と呼ばれる郡地に発達した町にいる小商人も増加していました.
大聖寺前田家の場合は,「町」と言う単位はありませんでしたが,「村」の中で商人地主や仲買人が住んでいたり,小商人が住んで商いをする村続きの集落が存在し,串村,月津村,山中村,山代村,粟津村,庄村,御越村などで1,089枚の鑑札が渡されていたりします.
一方,町方奉公人の給銀はと言えば,1815~59年の例で言えば,奉公始めの年は給銀が男で最高150匁に達し,最低が15匁と差が著しくあります.
例えば途中奉公,つまり,仮採用の場合は,15匁と最低ランクの給料となります.
最初の年は結構低い給料で,武家奉公よりも安い給料で働かされますが,2年目以降は30匁,次いで35匁,40匁,70匁,80匁と増えていきます.
一種の年功序列の制度と言えるでしょう.
それなりに経験を積んだり,算盤が上手に使えるなどの特技があった場合は,初年度でも100匁の給銀となり,2年目には120匁になって行ってます.
女性の場合,高い方で55匁,低いのは30匁で,平均すると42.5匁となり,差が余りないのですが,男女雇用機会均等法などが無い時代です.
男の方は年功序列的に経験を積めば上がっていくのに対し,女性の場合は2年目以降は最初の給銀と変わらないのが特徴です.
例えば,初年度50匁貰っていた女性の場合,55匁に賃銀がアップしたのは4年目になってからです.
因みに彼らの給銀も盆暮れの2回が原則ですが,実際には奉公人の親族が前借りすることが多く,奉公人の手に渡る賃銀は極めて少ないのが実際です.
また,主人から足袋や絹物,帯,前掛けが支給されることもありますが,これは主人からの供与品ではなく,給銀から差し引かれるものです.
なお,安政年間と言いますから1850年代後半頃には,骨折賃として賃銀とは別に男に200文,女に100文が盆暮れに支給される様になりました.
これは現在の賞与に該当するものと考えられます.
こうした町人奉公人は,城下町と農村が大体半々か城下町対農村が6:4位の割合で入ってきます.
その奉公先へは,店に出入りしていた商人や職人,農民の紹介が主だったと考えられます.
ところで,天保期に14代当主利鬯の求めに応じ,藩政に対する意見書を提出した家中の士である小原文英と言う人の書物に『愚尽録草稿』と言うものがあります.
この中に,百姓を嫌って城下町に流れる世情を次の様に書いています.
――――――
世の中は次第に狡猾になり,農村への奉公は重労働の上,給料が少ないからと行って嫌い,町家奉公人になるものが多くなった為,百姓奉公人が減り,村によっては耕作人のいない水田が出来,山方の畠では荒地になったものもある.
これは国の病根とも言うことが出来る.
百姓奉公を嫌って町家奉公し,身体を気楽に使い,利潤のみを追いかけることから,百姓に戻る者は10人の内1人でもおれば稀なことである.
百姓は武士と同様であって,商人の様に儲けることに長じ,ずるい気風が身に染みていてはどうしようもない.
この為,彼らは百姓に戻らず天秤棒を荷って農村に入り,主婦や老婆を誑かして食べ物・小間物の商いをした.
これは百姓にとっては大聖寺城下町まで行かないで済む便利なことではあるが,無用の消費と驕りを生じさせることになる.
便利さは作る者を少なくし,徒食の人々を増やすこととなり国の衰えともなる.
また,凶作,飢饉ともなれば徒食の人は最初に飢餓に及び,家中の手を煩わす事になるだけでなく,益々農業労働を嫌い,農家奉公を嫌うこととなり,家中の手の届き難い人々となる.
――――――
何処かの国の現在の状況に極めて似ている様なのは気のせいでしょうか.
此の後,文英は続けて,こう書きます.
――――――
この様な者により,城下町では借家が多くなり,裏町では一軒を真ん中で仕切り割屋として二軒分に使うことが多くなった.
一町の内片側を借家にするだけでなく,田地さえも埋めて田原町など,借家の町を作った.
この様なことでは農業は廃亡する,廃亡を防ぐには城下に農民が集まらぬ手立てを講ずることが大切である.
借家を増加しない様にすれば,流入した農民も居場所が無くなり,村に帰って農業に精を出す事になる.
城下町に居場所が無くなると,村で油屋,紺屋,絹屋などを営む者も出て来ると思うので厳重に取り締まらなければならない.
尤も,病気がちであるとか,身体が不自由な為農業の出来ない者は仕方のないことであるので,村に住みながら綿打ち,草履作り,小細工などをするのは止むを得ない.
――――――
まぁ,一種カンボジアのPol Potや文化大革命の毛沢東も真っ青な提言をしているのですが,実際にはこれ以降も農村から城下町へ流入する農民は後を立たず,下層民として町を下支えし,城下町の町末に居住していきました.
そして,彼らの流入が城下町の人口を増加させ,町の数を増やしていくことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/05 23:22
昨日,大聖寺城下町に農村の人口が流入する話を書いたのですが,では一体どれくらいの人口があったかと言えば,残念ながら戸籍みたいなものが残されて居らず,大聖寺城下町の人口の数は不明です.
但し,1786年に調べられた町方戸数の数は明らかになっており,それによると865軒となっていました.
因みに,1754年の金沢城下町の町方戸数は13,070軒,それに比べると15分の1にしか過ぎません,では,もう1つの支藩であった富山城下町はどれくらいかと言えば,現在,こちらも県庁所在地になっていますが,1779年の時点で6,079軒と,大聖寺城下町の7倍はあります.
但し,同規模の他家の城下町と比べてみると….
例えば,下総古河土井家の古河城下町では5万石時代の1763年で727軒,7万石時代の1822年には816軒,8万石時代の1866年には869軒であり,三河吉田松平家の吉田城下町の場合,1750年に1,087軒,近江膳所本多氏6万石の膳所城下町では1714年に478軒,遠州浜松井上家7万石の浜松城下町では1759年に283軒,丹波篠山青山家5万石の篠山城下町では1756年に523軒であり,吉田と浜松を除けば,大体規模が似た様な城下町を形成していました.
まぁ,加賀前田家100万石とか富山前田家10万石よりも大聖寺前田家の石高は7万石程度ですから,分相応ではありますが.
1872年の大聖寺の戸数は2,058軒となっています.
これは町方だけでなく武家戸数も含めての数であり,町方戸数は幕末時点で本町とされる京町,本町,福田町,荒町,中町,魚町を合わせて1,000~1,500軒と推定されています.
大体,100年近くの間にほぼ2.5倍になっています.
つまり,それだけ人口が城下町に集中したと言うことになります.
幕末期には本町に旅籠が軒を並べ,朝夕の旅人の出入りが多いと記録に残されています.
この旅籠は元々山田町(以前の横町)の地にありましたが,慈光院が移動した後は,慈光院の参詣客目当ての旅籠は寂れていきました.
しかし,城下町として,また宿駅として,伝馬15疋が配置され,中町の火除け地に人馬継立問屋,つまり,伝馬問屋が置かれると,大聖寺館と城下町の核であった京町と,馬借集住地の越前町との中間にある本町に旅籠が集中し始め,大聖寺城下町で本陣を務め,伝馬肝煎,伝馬問屋を兼ねる板屋太郎兵衛は1847年に,「茶屋,旅籠等之繁昌,誠,東海道ニも劣らずと覚申し候」と持参するほどに殷賑を極めました.
そうした旅籠で働く人々も勿論,農村からやって来たのでしょうから,益々,農村の人手不足感は増したと考えられるべきでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/06 23:40
さて,今日も簡易版で.
大聖寺城下町の町人達の職業として,運上銀を上納していた職業を高額納税者順に並べると,先ず来るのが,7貫500匁を上納していた絹商人が来て,次いで6貫匁を上納していた茶商人がこれに続きます.
3番目は3貫匁を上納していた酒造業者,以下は団栗の背競べで,1貫400匁上納の醤油商売,1貫匁上納の室商売,897.5匁上納の煙草商売,700匁上納の豆腐商売,543.63匁上納の油商売,500匁上納の鬢付問屋,同じく500匁上納の蝋燭商売,400匁上納の鍛冶があり,387.65匁上納の木綿商売,322.5匁上納の蒟蒻商売,301匁上納の油種問屋,300匁上納の紺屋,215匁上納の薬種商売,110匁上納の味噌商売,86匁上納の八百屋商売,56匁上納の煮売商売,46.5匁上納の酢商売,43匁上納の菓子商売,同額の古金商売,そっして八百屋問屋と続き,35匁上納の飴商売と続いています.
この他に商業では,質商売,鍋商売,呉服,小間物,魚鳥,紙,合羽,塩小売,米仲買,銭屋,菅笠,薪炭,両替,清酒,陶器,塗物,赤物,茶商,紅商,糸商,荒物,武具商がありました.
更に零細の棒手振商人には油,糀,塩汁,塩鯖・もみ鱈を扱う魚商,箕,笊笥,杓子や新保笠,古金買などがありました.
手工業では鍛冶の他,大工,大鋸,木挽,壁塗,建具,指物,表具,畳指,石伐など建築関係の職人や武士用の具足師,甲冑師,靭師,鞘師,柄巻師,研師と言った武具関係の職人,桶,下駄(足駄),袴,鋳物,土焼物,桧物,煙管,針,鍬柄,葛籠,菓子細工,袋物職,蒔絵,錺職,厨子職,仏師,判木,印判彫り,仕立物職,髪結,洗張りや屋根職,他に博労,奉公人口入,湯風呂屋がありました.
1781年には紙問屋が紙の販売権を確保し,利益を伸ばす為に紙を他国,他領に移出することを願い出て,その代わりに運上銀の上納を藩庁に働きかけて,1782年11月に許可されました.
藩末には富裕な薬種商人である二見屋彦左衛門,寺井屋五兵衛,北村屋忠兵衛,油屋五兵衛,味噌屋八左衛門,吉崎屋市郎兵衛の6名に銀5枚を税として上納する様命じられ,1811年には二見屋に代わって羽織屋半兵衛が,油屋に代わって吉田屋伝右衛門が,吉崎屋に代わって別所屋権兵衛が薬種商人として税の上納を命じられています.
こうした商業の保護を時には大名家が行っており,1804年になると質屋が経営困難となり,藩庁に対して借銀を頼み許されています.
この様な借入銀を御仕入銀と言いました.
質屋に対して大聖寺前田家が御仕入銀を貸したのは,質商売の人々の強い願いがあったのは勿論ですが,藩庁側も質屋の経営破綻は民衆の反乱に繋がると警戒したのでしょうし,景気梃入れの狙いもあったものと考えられます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/07 23:59
さて,以前船場でも通りの名を織り込んだ戯歌がありましたが,大聖寺でも同様のものがあります.
尤もこれは,越前万歳の一つである『大聖寺尽し』と呼ばれるもので,幕末から明治初頭の大聖寺の町と道を歌詞に織り込んだものです.
――――――
敷島の大和の国は浦安の 民も安かれ喜びを よろずの神に末かけて 栄え栄えと祈るなり
十万石の御城下で 大聖寺の町を 才蔵の太鼓に送られて 玉を敷きたる敷地町から 石部の神社に初詣で 行き来る人は敷地橋 清き流れの永町や 皮屋小路に菅生橋 十にも足らぬ七軒町 菅生町を通り行く 金子・木呂場・市佐坊 目は見えねどイボ橋や あづさ弓町・荒町を 鍛冶町までも出て見れば 願いかなえる願成寺 うそではないぞえ本善寺 暖かそうな綿屋小路を通り抜け 秋の実りはへいだ(稗田)町 山と積み出す俵町 音で脅かす鉄砲町 私と貴方のその仲は 何もせんぞえ専称寺 時世と時節が来たなれば しっぽりぬれて松縁寺 一本橋の町中に 掛け渡したる一本の 橋の通りも恐ろしや 十一町を通り過ぎ 東横町や慈福院 五軒町には新屋敷 突き当たりたるその寺は 奥の細道全昌寺 庄兵衛谷には下屋敷 梅に喜ぶうぐいすの ホーホケキョの久法寺 濁りに染まぬ蓮光寺 真如の月も清らかに 殿様眠る実性院 弥陀に近づく正覚寺 母の心は鬼子母神 お百度参る宗寿寺 イロハの坂を上り詰め 拝む仏は本光寺 山の下なる大杉の 森にかこまるお社は 山下神社と伏し拝む 東田町や西田町 行っては戻る袋町 中新道には間新道晋門品 第二十五番は観音町 はんやはらみつたなまぐさい 魚町通りを通り過ぎ 春(俊)馬いななく馬場通 穴虫までも来て見れば 化粧化はいの今出町 行き来る人をかえさじと せきとどめたる関町や 朝の別れはなみだ橋 五徳の橋を横に見て 加賀にあっても越前町とは胴欲な 三ツ屋町を通り過ぎ 私と貴方の中町は 嘘では無いぞえ本町ぞ 泉屋小路に鯰橋 死んだら持って来い慶徳寺 破れ太鼓の豪攝寺 高く登れば山田町 京町通で夜が明けて 明けの鐘付く寺町や 法ヶ坊にはケイカ楼 手にすえていく鷹匠町 片原町には福田町 私と貴方の仲町で 江沼神社を伏し拝む 八間道を通り過ぎ 新橋渡れば馬場町 新組町や殿町や 北片原町通り抜け 新町の通りに出てみれば 福田橋をば横に見て 色の変わらぬ松ヶ根町 今夜必ず相生町 囁き事でも耳聞山 一文橋とは胴欲な そこで才蔵がリンキ橋 よむ(も)ぎに混じる麻畠 行く末永う亀町と 大名竹と何時までも 永き契りは藤ノ木で 祝い数えて舞い納む 上から下への御寿命を揃えてみれば 神の間半年 先々を栄えて お祝いの御万歳
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とまぁこんな具合.
時に,1740年代まで町方の者が夜分唄をうたいながら武士居住地域を通ることは厳しく禁じられており,郡方の者が城下町を足駄や木履を履いて通行することは禁じられていました.
しかし,18世紀後半には商業が発達して町域が更に広がり,それと共に町人の自立意識が高まっていき,1780年代には武士居住地域に於ける町民の放歌は影を潜め,農民の足駄,木履での城下町通行も自由になりました.
町人達自身も,町内の者は勿論,旅人の子供であっても,店先で足を投げ出したり,足腰を伸ばしたり,或いは歩く人を弥次ったりする人を厳しく取り締まる様になりました.
大聖寺城下町が成立した頃の道は京町前の道幅が8間(約14.4m),京町・本町・旅籠町を通るそれぞれの道幅が4間(約7.2m),片原町・福田町・寺町・大工町・魚町を通るそれぞれの道幅は3間(約5.4m)となっていましたが,主要幹線とされたこれらの道も総延長はたいした距離がありませんでした.
17世紀末から18世紀初頭の元禄期になると,京町・本町・山田町(旧旅籠町)・中町・下新町が4間,西魚町が3間3尺(約6.3m),福田町・東魚町・鍛冶町が3間,和泉屋小路が2間(約3.6m)と比較的こぢんまりとした道幅の生活道路が殆どでした.
京町の八間道は,当主の祝事や祭礼時の城下町町民の踊りの場であり,町内を通る生活道路は町を構成する人々,特に子供達の遊び場となっていました…時には夫婦喧嘩の場になったのは先に見たとおりです.
生活道路では道を歩くだけが機能ではなく,子供達が独楽を回して遊んだり,大道芸人や猿回しなどが出て手品や曲芸を行ったり,飴屋が子供達に飴を売り,心太売りが心太を売ったりしていました.
祭礼時には提灯が吊されて町の人々が往来する場でもありましたが,普段はこのほか,町居住の職人の作業場としても利用されました.
大工は此処で木を挽き,鉋で削り,竹職人は此処で竹を割り,桶屋は竹の輪を巻いたり,石屋は石を持ち出して細工をし,染物職人は染めた布や木綿を小さい鉄爪の付いた竹の細棒で張ったりしました.
こうした作業場でもあったことから,町屋が出格子や押入を作る為に道路にはみ出すことを禁じ,新たに生活道路を作る場合は,役所で無闇矢鱈に線を引くのではなく,生活の場として機能する様に町内で十分な話し合いが持たれました.
また,1827年8月から1828年の2月にかけて城下に多数の犬が徘徊した出来事がありましたが,町奉行はこれらの犬を病犬として屠殺を命じました.
これは犬が徘徊することで城下町の品位を汚すと判断しただけでなく,町民の生活道路を脅かすとの判断があったものと考えられています.
まぁ,今なら動物愛護教会が飛んできますが.
町家は朝と夕方に必ず家の前を掃除することとされ,早朝に起きた町民は,朝の挨拶を済ますと同時に,家の前の塵埃を除去し,箒で掃き,水を打ちました.
夕方にも同様に,塵芥,馬糞,牛糞を除去すると共に,農民が町家の屎尿くみ取りで零していった糞尿の始末を行っています.
冬の場合は,雪が降ります.
この為,冬は早朝より除雪に掛り,夕方にも同様に除雪作業を行いました.
これは人々の通行は元より,伝馬や飛脚の往来をスムースにする面もありました.
また,家の前を流れる溝の汚水が隣家との境で滞らぬ様に相互に水捌けに注意し,また,川にも塵芥が滞って増水の際に氾濫の原因とならない様に除去することとされました.
更に,春と秋の2回,地域を挙げて大掃除を実施し,屋内の畳や床板を上げて掃除,或いは採光の明り窓を持つヒブグラ組に登って塵を落とす作業も行っています.
溝や川の汚泥や塵芥を除去するのは十人組,組合の主要作業と規定され,こうした掃除終了後には,町奉行所の目付足軽が検分すると言う厳重なものだったりします.
また,共有の建物の場合は,町会所から賃銀を支給して,掃除を行わせています.
これは火除け地の屋敷,鐘撞き堂,藩関係の建物の他,橋詰,大木戸や道の掃除,川筋や石垣の掃除も含まれます.
ところで,城下町創建当初の大聖寺には町家の入口に小便桶が置かれていました.
要は,此処で小便をしていた訳で,屋内の便所は小用以外の施設に留まっていました.
この為,前通りは夏ともなるとその臭気は気絶するほどであったと言い,風呂屋でも入口に小便所があり,用を足してから入浴する様になっていましたが,これまた不潔で臭気が鼻を突いたと言います.
更に,居宅の奥まった場所にある便所は,肥壺を埋めた程度の簡便なものだったので,家中に悪臭を漂わせていました.
長屋では共同便所が置かれていますし,公衆便所として,町の要所に小便桶が置かれている状況でした.
そう言う意味では,余りパリのことを悪くは言えません.
農民達はこうした下肥を入手する為に,「朝の一仕事」と称して早朝に荷車を引いて城下町に入り,出入りの武士,商人,職人などの家で屎尿を汲取りました.
当時の「糞桶」は蓋無しだった為に,屎尿が町の道路に飛び散り,早朝から悪臭を充満させましたし,夕方にも同じような汲取りがあって,食事の用意をしているのに屎尿の悪臭が混じることも屡々ありました.
この様な汲取りが行われたが為に,住民達は朝な夕なに掃除をする様になった訳です.
勿論,当主やその一門,幕府巡見使一行や遊行上人が通行する場合は農民の汲取りを禁じ,清掃を厳しく命じ,目障りの無い様に町役人が見回りました.
因みに,小便桶が姿を消したのは,1767年頃のこと.
「都めきて」小便桶を置かなくなったそうですが,少なくとも18世紀後半に至るまでは小便桶が残っていたそうです.
余談ながら,1772~80年頃に和蘭商館の医者として来日したツンペルが真夏の日差しの中,商館長と共に江戸に登る際,伊勢桑名の城下町でこの臭気にやられて,駕籠の戸も開けられず,ガスで目が痛くなり,腫れ上がった瞼からは出血し,悪臭で失神せんばかりだと記録に残していますから,相当なものだったのかも知れません.
それにしても,我がご先祖様は我慢強いですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/11 23:58
さて,大聖寺の話もいよいよ佳境に入ってきたり.
最後の話は,「人外の者」とされた賤民についてです.
教科書では,賤民を穢多とか非人とかとしていたのですが,大聖寺ではこれを番太・皮屋と称していました.
因みに,金沢の本家では,藤内・皮多(太)・物吉・??癩・舞々と名付けられて細分化されています.
勿論,こうした言葉は今は使用禁止となっていますが,古典文学では屡々登場する言葉でもあります.
例えば,「番太」は,好色五人女にも出て来たりして,当時は普通に使われていた言葉でした.
こうした身分が出来たのは江戸時代初期の事ではなく,世の中が落ち着いた元禄バブルの頃です.
初期の頃は,当主の権力が強く,戦国の遺風も残っており,耕作に精を出さず,領主に反抗する様な農民は,牢に入れたり,村から追い出したり,時には斬殺したりもしています.
加賀前田家の場合は,耳を削ぎ,鼻を削ぎ,磔や獄門に処したりしていましたが,分家である大聖寺前田家も同じ統治方法を採ったものと考えられています.
ところが,元禄になると,貨幣経済が浸透し始め,商品作物を売りさばいて富裕になる農民が出る一方で,そうした貨幣経済について行けずに破綻する零細自作農が多く出て来ます.
こうした貧窮農民は都市へと出て下層民を形成し,その中から棒手振とは言え,成功する人々も出て来ます.
そうなると,不作や凶作が起きた際には都市に逃亡したり,或いは富裕農民を巻き込んで,百姓一揆を起こして年貢の減免を願うなど,行動が過激化し,かつ,当主に対しても物怖じしない態度を取ることが多くなります.
こうした事が高じると,下手をすれば再び幕府や領主権力がひっくり返ることになりかねません.
また,大名家や幕府の生活を支えているのは基本的に年貢です.
年貢が納入されないと,大名家も幕府も忽ち困ります.
そこで,編み出された統治手法が,農民の下に更に賤民階層を設けて,反抗する農民達には賤民の存在を知らせ,反抗する者は賤民階層に落とすと脅し,かつ,農民の下に階層を設けて,農民層の優越感を持たせると言う,飴と鞭の政策を採ったのがこうした人々の興りです.
大聖寺前田家の番太は,加賀前田家で言う藤内に当り,皮屋は同じく皮多に当たります.
「番太」は,番太郎,番人とも呼ばれ,「人外の者」とされました.
番太とは,家中の盗賊改方の配下として警察や行刑の業務に携わる者を指し,正式の役職名でもありました.
彼らは目明かしとして十手・取縄を持って,城下町や領内の村々を警邏し,浪人,浮浪者,座頭,盲女などを訊問し,城下町や村内の不穏な動きや,時には役人の横暴を探り,上層部に報告するのが役目でした.
この為,番太は城下町町民や村民から怖い存在となり,更に政庁は町民や農民との交際・結婚を禁じた事から益々隔離され,今日に至る差別が続いた訳です.
この番太を統率したのが,庄村の新平や与三郎で,彼らの名前は代々継がれています.
庄村には「新平廓内」と呼ばれた場所がありましたが,これは新平に率いられた番太の人々が居住した場所で,新平は廓内に居住する人々の頭分でした.
1680年になると何代目かの新平が乞食頭に命じられ,1700年には与三郎が乞食の取締りを行う非人頭を勤めました.
大聖寺前田家では非人頭を乞食頭とも呼んでいます.
この「非人」は全国的に「人非の者」とされた「穢多・非人」の非人ではなく,「人外の者」とされた乞食(物乞い)と,「人外の者」ではない乞食の両者を指しています.
両者とも,農民や町人が零落して乞食になった者ですが,単に生活が逼迫したり,職にあぶれたり,病気になったり等の場合は,「人外の者」ではない乞食の扱いとなり,まだ抜け出せる余地がありました.
しかし,乞食が既に生業となってしまい,親子二代に亘って乞食となった者は,非人身分に貶されて,非人頭の支配下に入り,乞食札を与えられて「人外の者」と言う扱いになりました.
1721年の時点で,この乞食札を与えられた乞食は男26名,女43名の合計69名を数えました.
一代限りの乞食も一応非人頭の支配下にありましたが,一時的に貧人小屋に収容されることがあっても,復活の余地があり,生活を再建すれば旧の居住地や職業に復帰することが出来ました.
この他,都市や農村の下層民が一時的に家業から離れて物貰いとなった場合,「貧人」と言う扱いになります.
「貧人」は非人頭に支配された訳ではなく,城下町では町奉行,農村では他家で大庄屋に当たる十村の支配下にある人々で,彼らは町奉行や郡奉行が発行する勧進札の所有を義務づけられ,札を無くした場合は札1枚に付3匁を支払えば再発行を認められました…と言っても相当高い金ですが.
1804年の段階で,勧進札は729枚が発行されています.
彼らは,貧人小屋に収容され,生活の援助を受けていましたが,1825年の時点で小屋に収用された者の世話をする人足が35名もいたそうです.
それでも,今の社会に比べれば,まだいくらか再起の余地があったのではないでしょうか.
時に,非人頭などになる人々はどういった人々か,と言えば,生まれつきそうした身分の下に彼らはあった訳ではありません.
元々,こうした「人外の者」になる前はきちんとした身分がありました.
例えば,本家である加賀前田家の藤内の場合は,上杉謙信と七尾城で戦い,利非ずして敗れた畠山氏の将兵を出自とする者達がいました.
敗残の兵士達は,上杉方の落武者狩りから逃れ,羽咋郡のとある村落に隠れ,村人達と共に薬種を掘り,また,食べる為に農業に精を出しました.
掘った薬種は村人と共に遠く仙台辺りまで行商し「藤内」仲間となっていきました.
元々,藤内の生業は薬種を掘る事で,薬種掘りから薬種業,更に薬剤師やそこから発展して医師も出たと見られ,幕末には金沢城下町を始め領内各地で「藤内医者」と呼ばれた人々が開業していました.
この他,一揆に参加して故郷に帰れなくなった人,年貢を払えずに村を捨てた人,或いは元々乞食だった人など,様々の出自の人々が,主に無税の川原や荒蕪地に住んで平和に暮らしていました.
ところが,先の様な理由で,こうした人々を一網打尽にして,ある日突然領主に連れ出されて,被差別民とされた訳です.
こうした番太や藤内の中には武士の出自も少なくなく,或いはいろいろな事情で一時的に身を隠していた人々で,決して異種の人々ではありませんでした.
更にこうした人々には戦国時代からの伎芸人,様々な職人,寺社に隷属して境内の掃除を行っていた人々,流浪の人なども含んでいきます.
大聖寺から離れますが,金沢の藤内は江戸初期には,金沢城内の掃除を担っていたりもしました.
ところが,元禄期になるとバブル経済の為に人々が富裕になり,その富を狙って食い詰めた貧民などが富裕者を襲う盗賊が金沢でも続発します.
1691年,加賀前田家は治安維持を理由に都市・農村を越えて逮捕出来る盗賊改方を加賀・能登・越中に置き,その手足となる下僚に藤内頭の三右衛門を任命,三右衛門率いる党内は盗賊改方配下の目明かしとなりました.
城下町では藤内は十手・取縄を持って町中を巡邏しましたが,時には大黒舞,鉄輪切,簾切,節季候,春駒,鳥追いと言った伎芸人に変装していました.
因みに,江戸の場合はこうした目明かしは普通の町人がなっていましたので,決して銭形平次は「人外の者」ではありません.
あくまでも金沢や大聖寺の話です.
でもって,藤内は農村部にも配置され,十手・取縄を持って盗賊取締,不審者訊問,百姓一揆と逃散の防止,村役人の横暴の取締に当たりました.
この他,牢舎内の罪人の世話や磔,獄門の業務にも携わっています.
こうした藤内は一応前田家の公職にあった人々なので,当然,業務に対する給銀は与えられていました.
ただ,その支給額は低かった為,前田家では兼職を認めていました.
それが隠亡と呼ばれる村の死人を荼毘に付す仕事で,これは元々村民共同の奉仕行為だったのが藩命により藤内に渡され,村から手当が出る様になっていました.
多くの藤内はこの隠亡を兼職にしていますが,あくまでも余技,他に草履や灯心作り,産婆や医者として別途の収入を得た人々もいたりします.
これは藤内の例ですが,これを見ても判る様に,彼らは決して乞食などをしていた訳ではないのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/12 23:01
さて,今日は大聖寺噺の最後.
昨日は被差別民の中でも藤内や番太,乞食を紹介しましたが,今日は皮屋または皮多について少々.
皮屋と言うのは,本家で言う皮多に当り,大聖寺城下町の外れに居住し,前田家や寺社,武士,町民,農民達が注文する太鼓を作ったり,太鼓の皮を張り替えたりと,皮革関係の業種に従事しています.
皮屋が居住する場所は,一般に革屋小路と呼ばれ,播磨屋を屋号にした名前の人々がその頭分として代々受け継いでいました.
播磨屋は政庁に対して一定の皮革を納め,運上銀を150匁上納して皮革業を営んでいます.
この播磨屋は屋号に書かれている通り,大聖寺生え抜きの人々ではなく,遠く播磨国から招かれた人々でした.
加賀の皮多も,1611年に播磨国から招かれ,その頃は苗字帯刀まで許された存在でした.
彼らが何故招かれたかと言えば,衰えたりとは言え未だ豊臣家は大坂に厳として存在しており,天下はどう転ぶか予断を許さない状況だったりします.
この為,刀の柄や槍の柄,弓の腱など,動物の皮革や筋が使われることが多く,そうした物資を供給する為にも革屋は必要なものとされ,地場にそうした業者を持たない加賀前田家は,皮革業者をその先進地帯である播磨から招聘した訳です.
その後,元和偃武を経て大坂冬の陣,大坂夏の陣で豊臣家は滅びますが,未だ徳川幕府は安定せず,結果,大聖寺前田家が分家により成立した際にも,播磨から皮革業を営む者を招聘したのです.
しかし,1637~38年に起きた島原の乱以後,大きな戦闘は無くなり,後は1651年に未遂に終わった由井正雪の乱以後,幕府の屋台骨は強固になり,政権が安定し,平和が戻ってきます.
こうなると,戦争に必要だった皮革業は不要業種になっていきました.
また,平和になって仏教思想が浸透し,牛馬の皮を剥ぐことを穢れとする様になると,彼らの地位は相対的に低下していき,元禄期になると,苗字帯刀の特権も失われ,更に部落政策を推進する中で,こうした穢れ仕事をする人々も穢多として被差別民に組み込まれてしまいました.
正に天国から地獄への転落です.
本家にはこの他,物吉・??癩・舞々と呼ばれる人々もいました.
彼らは竹の子の皮草履,足駄の緒を作り,武家や町家の祝い事には「ものよし,ものよし」と祝いの言葉を言って祝儀を得て生活の足しにしていました.
一方で,物吉はハンセン病患者を引き取って看病し,死ぬと死骸を近くの墓地に埋葬する人々でもあったので,??癩とも呼ばれています.
舞々は年頭に武家や町方に祝い事があると,出向いて舞いや唄を謳って銭を得る遊芸人です.
こうした被差別の人たちに対する政策は,江戸中期頃までは未だ穏健だったのですが,幕府や大名家の崩壊が迫って来つつあった1830~40年代の天保期になると狂気に変わっていきます.
それは,「人外の民」であることを強調し,土地の所有を禁じ,町民や農民達との交際,火や食事を共にする事の徹底した禁止に現れました.
こうした政府の態度は一般の住民達にも伝播し,例えば,1831年1月23日,河北郡の部落が出火した際には火消達はこれを放置し,80軒有った部落の内,9軒を残して焼失してしまう事態を招いたり,4月14日に再度出火した際にも,燃えるままに任せ遂に全焼したと言う状況になったりしました.
こうした事が積み重なって,現在に至っている訳ですが,こうした差別が強化されたのはほんの百数十年前からのものでしかなかったりします.
この他,大聖寺では実態は不明ながら被差別扱いされていた「長峰者」と呼ばれる人々もいました.
彼らは1726年の段階で男18名,女14名の合わせて32名が確認されています.
更に,座頭や盲女も差別された人々でした.
座頭は東町の当りに多く住み,この当りを通称座頭町と呼んでいました.
1721年の段階で領内に座頭は30名,盲女8名が,何れも按摩などで生計を立てていました.
ただ,こちらは「人外の者」とまでは行かなかった様で,正月・盆・暮,吉凶に際して鳥目や祝儀として幾ばくかの銀子を渡すことが慣習化されていたと考えられています.
最後に,藤内や番太の話を再び少しだけ.
明治維新になると,ご一新と言うことで盗賊改方は廃止となり,加賀の藤内,大聖寺の番太は目明し役を罷免されることになります.
しかし,加賀藩領の羽咋郡や鹿島郡ではなお,藤内に対し,盗賊を逮捕したり不審者の訊問権を与えていました.
1871年11月に領内に捕亡屯所が設置されると捕亡卒が置かれると,彼らはこれに採用され,1872年1月に捕亡卒が邏卒と改められると藤内や番太がそれに任命されました.
邏卒は腕とズボンに金筋の付いた黒詰襟の洋服に六尺棒を小脇に抱え,昼は旗,夜は提灯を持って巡邏しましたが,この邏卒のスマートな出で立ちは,部落の人達のあこがれの的となったそうです.
1873~74年,邏卒は番人と改称されましたが,「番人」は以前の被差別民を連想させるとして,藤内以外から採用されていた人達から反対の声が上がり,再び邏卒に戻された経緯があります.
因みに,1875年6月に邏卒は巡査に改められます.
この時,邏卒に任じられていた藤内や番太は排除されてしまい,その後には所謂,「平民」が採用されました.
時に,1871年8月28日,新政府は「穢多・非人の名称を廃し,身分・職業共に平民と同格たるべき事」との布告を発し,府県にも「穢多・非人の名称が廃止されたので,平民の籍に編入して身分・職業共に同一となるべく取扱い可きである,但し,地租などの免除が為されていた経緯から,再調査して大蔵省に伺い出ること」と言う指示を出しました.
これが解放令賤民廃止令と言われているものですが,1872年に全国的な戸籍調査が行われ,所謂壬申戸籍が作成されます.
この際,旧公卿や大名は華族に,武士は士族,農民,職人,商人達は平民となりましたが,被差別部落住民は新平民とされ,新たな差別を生み出しました.
これを閲覧すれば何処に被差別部落があり,誰が被差別民なのかが一目瞭然となります.
結局,明治政府の多くの政策と同様,この政策も掛け声倒れに終わりました.
なお,現在この壬申戸籍の閲覧は禁止されています.
この時期の石川県に於ける被差別部落住民は11,695人以上とされていますが,現在に至っても,こうした差別は未だ無くなっておらず,時々,「部落名鑑」などど銘打った本が出回ったりするなど,より奥深くに入ってしまい,余り改善はされていないのが実情です.
最近はこれに「勝ち組,負け組」なんてのも加わってますから厄介ですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/13 21:33