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(こちらより引用)
【質問】
薩摩の外城制度とはどういうものなんでしょうか?
鶴丸城の周囲に家臣の居城を配置した,という認識で良いんでしょうか?
【回答】
薩摩藩領域に広範囲に置かれた出城群を「外城」という.
薩摩は藩主居城の鶴丸(鹿児島)城のほかに,領内を113の区画に割って,これを外城(普通には郷という)と呼んでいた.
とはいっても,実質的に支配していた南西諸島には外城は置かれていない.
島津家の分家が支配していた外城は「一所地」と言われ,他の外城とは区別された.
当然「一国一城令」に反しているので幕府から叱責されたが,
「土台が火山灰なので,壊すと被害が大きくなる」
などの言い訳をもって存続した.
実際はその外城の近くにある役所(「麓」と言われる)が藩役所としての機能を果たしていた.
「薩摩藩に対して敵対的態度をとった徳川幕府に対抗する為,防衛上の理由から中世からの城を存続させたのが外城制度」
という説明が良くされてきたが,他藩に対して大量の家臣団を抱え,全てを鹿児島城下に住まわせると財政破綻をするのが目に見えていたため,半農半士としての生活を送らせるための制度が外城制度と言う説明の方が最近では多いかと.
すなわち,4人に1人は武士という過大人口の武士を扶持するために屯田兵制度をとったのであり,1615年(元和1)の一国一城令があるから,外城といっても城郭があるわけではなく,旧城跡の山麓かまたは城跡と無関係の平地に麓集落をつくっていた.しかし戦時には郷士は地頭指揮下に1軍団を形成したから,外城と呼ばれたのは,このためである.
寛永年間(1624‐44)以後は地頭も私領主も鹿児島定府となり,こうした地頭を掛持地頭と呼んだが,辺境の固めとして需島郷や長島郷には居地頭を,また出水・高岡・大口郷には地頭代を,都城郷には中抑を,山之口・倉岡・穆佐・綾・水引郷には抑を増置した.
外城の支配は荷(郷士年寄)・組頭・横目の所三役の下に,庄屋・浦役・部当がそれぞれ百姓・浦人・野町人を支配し,その他多くの郷士役があった.
このような末端にまで及ぶ郷士支配のため,百姓一揆は起こりえなかった.
しかし江戸時代中期以降には当初の設置目的が忘れ去られ,鹿児島城下に住む家臣は「上士」麓に住む家臣は「郷士」といわれ,上士が郷士に対して過酷な差別をする温床となってしまった.
似たような物に仙台藩の「要害制度」などがある.
日本史板,2004/07/04
青文字:加筆改修部分
▼ 江戸時代,平均的な大名家の武士の全人口に占める割合は5~6%しかありません.
しかし,薩摩島津家では実に26%にも達しています.
この大量の武士を鹿児島城下だけに居住するさせることは出来ず,各地に「外城」と呼ばれる施設を113カ所置いて,そこに武士を配置しました.
当然,一国一城令に反する可能性があるのですが,形の上での城構えが無いので,そこは上手く切り抜けました.
また,1633年の幕府巡検の際にも,その分散居住の実態に対して,疑問を持たれました.
その時には,
「元々九州統一まで行った際に,結構な数の武士を抱え込み,応分の武士人口を有していたものの,九州征伐の際に6カ国を召し上げられたので,この人数を薩摩と大隅の2カ国に引き入れた,1カ所では居住場所が無く,各地に分散させている」
と言う答えをし,幕府側も特にそれ以上の追求が無かったので,事なきを得ています.
島津家がこれだけの武士を抱え込んだのには,対外的,対内的な2つの理由があると考えられます.
対外的には,中央政権との対決に備えることです.
つまり,島津家は関ヶ原の合戦では,豊臣方の西軍に付いて敗北しましたが,その豊臣氏は徳川氏によって大坂の陣で滅ぼされました.
こうした出来事から,島津家の首脳部は,徳川家が果たしてどれくらい覇権を維持するのかと不安を持っていたのでは無いかと考えられています.
そして,万一の徳川政権打倒の際には,戦力となる武士を出来るだけ温存するという方針があった訳です.
対内的には農民統治対策,特に一揆対策です.
特に,島津家がキリシタンと共に一向宗を禁制としたのは,戦国時代に各地で起きた一向一揆の発生を恐れた為であり,その鎮圧や未然防止の為に外城という制度を行って,武士を治安維持の為に配置した訳です.
事実,薩摩ではめぼしい一揆が発生しませんでした.
この外城は島津氏特有の統治制度で,外城には家中及び城主,地頭の支配下に置かれ,外城衆が配置されています.
外城衆は外城の麓集落に居住し,知行・扶持が少ないので農耕を営んで自活すると共に,地方役人として農民を支配したと広辞苑には書かれています.
外城と言うからには内城というのもあった訳で,薩摩藩の法令規制の集成である『島津家列朝制度』の「薩摩日御城地並び古城」の中に,島津貴久が1550年に移った城を「本御内」と記したのが古い例としてあるみたいで,鹿児島の島津家の当主居城を内城としたのに対し,領内各地の城を外郭防衛線として外城と称したのです.
その数は,先述の通り113カ所に達しますが,これが固まったのは1744年に私領の揖宿郡今泉を定めて後の事で,それ以前は時期によって一定せず,屡々分合廃置が行われていました.
外城には藩直轄地である地頭所と,上級家臣の知行地である私領地があり,前者が92カ所,後者が21カ所あります.
この様に区分すると,薩摩島津家の武士は鹿児島衆中と呼ばれる城下士が約4,300名と,外城衆中と呼ばれた地頭所居住の郷士が約23,300名,そして,私領に居住する家中士が約10,100名と3種類に分かれ,城下士を除く,郷士,家中士が外城に配置されました.
その人数比は城下士で約11%,外城配置の武士が約89%と,113カ所の外城に大多数の武士が配置されていたことになります.
その一方で,城下士は藩士全知行高の7割を占め,平均持高は籾換算で78石9斗と比較的高かったのに対し,郷士,家中士は知行高の残り3割に犇き合い,郷士は平均持高が籾換算で僅か4石7斗余,家中士も平均持高が籾換算で4石余にしかならず,大部分は半士半農の生活を強いられました.
元々が国防組織として出発した外城制度でしたが,幕政が安定して権力の交代が無くなるとその性格も変貌していきます.
特に,島津重豪の治世では文治主義を推進し,藩校の造士館,武芸稽古所の演武館,医学館,暦館の明時館を次々に創設する一方,外城制度にもメスを入れ,1780~1783年の間に,外城衆中を外城郷士に改め,更に郷士と改名しました.
また,外城の所三役の筆頭である「あつかい(口偏に愛)」を郷士年寄に改名し,1833年には「外城」を「郷」に改名して,地方行政機関としての性格が増していきました.
ところで,外城の制度の概要は,地頭所の例で説明すると次のようなものとなります.
外城には藩庁から地頭が任命され,現地で支配する建前でしたが,17世紀前半の寛永期から遥任の掛持地頭が多く,地頭は鹿児島城下に居住するのが一般的でした.
従って,外城に実際に住んで統治に当たったのは,郷士年寄,組頭,横目の所三役です.
郷士年寄は外城に於ける最高職で,複数の者が合議制に基づいて外城政治の中枢になっていました.
組頭は数組に編成された外城郷士の頭役で,郷士の統制,教導と外城の軍防,警衛に当たります.
そして,横目は警察と訴訟を担当しました.
外城は中世以来の山城の近くに地頭仮屋を置き,その周辺に郷士を居住させた,所謂麓集落を中心にしています.
その周囲には10カ所前後の村が分在し,農民が居住していました.
村には村政の責任者としての庄屋が,原則として1村に1人,任期7~8年で派遣され,その任務には郷士が充てられました.
その庄屋が門百姓の年貢,賦役の徴収に当たる一方で,防犯に努め,二才の教育に至るまで村政全般を管掌しました.
村は数カ所の方限,即ち旧大字程度に分割されており,名主あるいは功才と呼ばれる者が統治に当たります.
彼等は門,即ち名頭の有力者の中から数名任命され,各方限を管轄していました.
更に方限の中は,門と呼ばれる農業経営単位に分けられ,農民は門に属して耕作に当たりました.
門には名頭と呼ばれる門の長のいる農家と,一般の平百姓である名子の二種の戸で構成されていました.
因みに郷士には外城の政治に深く関わりながら,知行高を与えられていますが,それは数十石の高持士から,屋敷だけで無高の一カ所士,それに無屋敷の3種類に分かれていました.
しかも,高持士でも1石を超える者は少なく,1石未満の下級郷士が圧倒的多数でした.
従って,こうした人々は農業に精を出さざるを得ず,城下士からは「一日兵児」,つまり,1日は武士,1日は百姓の生活をしている者共と嘲られました.
しかし,城下士でも江戸時代中期以降,貨幣経済が浸透するにつれて下級武士は生活に困窮し,郷士の困窮者と共に中宿と称して一時的に外城の在に寄留することもありました.
こうした外城は麓を中心とした地域城下町だったので,生活必需品を供給する為の町として野町,浦町が形成されました.
これらの町と寺社門前に住む町人は,1852年には全人口の約2.2%ですが,野町の無い外城も全外城の約41%に達します.
野町は江戸中期までは岡町と呼ばれており,別当や町役として郷士が年行司を務め,平民である小別当を通じて,その支配に当たりました.
彼等小別当は町人ですが,半農半商が実態で,外城の必需品調達や藩御用も務めました.
なお,彼等は農民との縁組みを禁止されていました.
浦町は,その名の通り,浦と呼ばれる漁業集落の商業区域です.
浦は藩の船手,船奉行の支配を受けますが,浦町でも郷士が浦役として支配に当たりました.
浦町は約20外城で確認されており,1外城に浦町が数カ所ある場合もあります.
因みに,寺社門前とは,各外城にある総廟,祈願所,菩提寺の他,郷社・村社などのある地域で,総て郷士や郷士出身の僧や宮司が管掌していました.
つまり,島津家の家中に於いては郷士を中心とする支配形態が隅々にまで行き渡っており,この制度による支配が深く浸透していたことが伺える訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/07/28 23:15
青文字:加筆改修部分
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【質問】
五口六外城制とは?
【回答】
都城島津家の知行地は,別名「五口六外城」と呼ばれていました.
これは領内を,5つの口と6つの外城の11区画に割って統治していたからです.
都城島津氏が江戸末期に編纂した『庄内地理志』によれば,口は弓場田口,来住口,大岩田口,中尾口,鷹尾口で,外城は安永外城,山田外城,志和池外城,野々三谷外城,梶山外城,梅北外城の順で構成されています.
この他,「麓」と呼ばれる地域もありました.
5つの「口」とは中世に於ける山城で,1615年に一国一城令に伴って廃城となった「都城」(現在の都島町城山公園一帯)に5つの出入口があり,その名称を引き継いでいます.
江戸時代になると,それぞれの出入口の奉公にある地域を一定の区画としました.
6つの「外城」は前の5口を取り囲むように存在した外城と言われる地域です.
そして,麓というのは5口を中心として都城領主館のある地域です.
即ち,鹿児島島津家の鶴丸城を中心とした外城制度を,そのまま都城に移し替えたもので,五口六外城制度とは,領主館のある麓を守るために編成されたものでした.
また,麓の中でも,都城島津氏の当主が住む屋敷の周りに住む武士を4組に分け,組頭や小頭を立てて,キリシタンや一向宗,その他の取締を申しつけています.
この他,五口六外城に住む武士は,それぞれの武士の中から人柄(これは文字通りでは無く,器量と家格を指します)で役目を申しつけるとしており,それが都城島津氏の支配単位として機能していました.
六外城が置かれたのは,戦国期以前,都城外に6箇所郷立てしたところで,それぞれに城が有り,そこに城主が置かれていました.
近世になると,城割りが行われたので城主は居なくなりましたが,地頭が任命されるようになっています.
また,五口はかつで都城に城が有り,そこに北郷氏が居住していた頃に,城の警備のために5つの口を設け,それぞれに武士を配置していたのを,元和の一国一城令を機会に,城を廃止し,領主館を新地に移した際に,五口で5組だったのを4組に分けて再編し,それぞれが近隣の村々を含む事で,地域的な纏まりとして再編したのです.
なお,五口の中には,軍団編成単位では「麓」は入っていませんが,地理的には「五口」と言う場合は,「麓」を含むとされています.
弓場田口は,都城の北の裏門のことで,南郷50町村の内にありました.
弓場田口が地域名になった後,古来は川東と寺柱がその範囲に付けられ,1628年以降は郡元も属しています.
来住口は,城の東の方角で,南郷50町村の小城の下のことです.
昔は木之前村,安久村,後久村,田辺村が属していましたが,後に木之前村,下長飯村,鷺巣村,寺柱村,北田部村がその範囲であるとされています.
大岩田口は,当初後久,鷺巣,田辺の各村が属していましたが,後に安久村,南後久村,南田部村がその範囲にあるとされています.
中尾口は郡元村と中尾村が属していましたが,郡元には早水が入っていました.
しかし,1659年に郡元から早水が分離独立し,1684年以降,郡元が中尾口から離れ,横市が付けられてるようになっています.
鷹尾口も,元々は椛山村が付けられていましたが,その後川東村に変更となりました.
この様に年代により五口には変動があった様です.
こうした村々を地図上にプロットしていくと,「麓」を中心に「五口」が周辺を固め,更にその外側に「外城」が存在する形で,正に外敵からの防衛を意図している様に形作っていることが判ります.
なお,口に属している村でも,一部が麓に両属している場合もありました.
例えば,宮丸村は弓場田口,下長飯村は来住口に属していますが,同時にその一部は麓でもありました.
即ち,村の中で麓と弓場田口,或いは麓と来住口に分かれていたのです.
また,「麓」に含まれる宮丸村の中には本町,唐人町と言った町場が有り,同じく「麓」に含まれる下長飯村には,新町や片町と言った町場と武家屋敷,役所がありました.
この五口六外城にはそれぞれ●(あつかい),横目,庄屋と言った郷村役人が存在しており,●の役高は一律に4石5斗5升となっていました.
また,庄屋については村によって異なりますが,これは担当する村高に比例しています.
これは宗家の外城支配形態と同じでした.
都城の家臣の持高については,1615年の段階では,高の多い武士は「麓」を取り巻く五口に配置され,その周りに位置する六外城には持高の少ない武士が配置される傾向にあります.
つまり,領主に近い上級家臣は領主館近辺に配置し,下級家臣は外城に配置されていて,家臣団編成と同様の形態となっていました.
これら五口六外城制度の行政担当官として配置されていたのが地頭です.
彼等は殆どが都城島津氏の元の名字である北郷姓で,即ち一門衆という位置づけです.
また,彼等の中には家老になっている者も多くおり,家老で無くとも,家老の補佐役である用人との兼職も多く見受けられます.
概して,五口の地頭は用人が,六外城の地頭は家老が就任する傾向にあった様です.
彼等地頭は,江戸時代初期には任地に居住していました.
しかし,寛永期を過ぎるとこうした傾向は無くなり,任地に移動しなくなって,地頭も城下集住が行われたと考えられます.
地頭には任地の異動がありました.
例えば,北郷久宣は初め大岩田口地頭であり,その後,中尾口,志和池外城の地頭を歴任していますし,北郷久明は梶山外城の地頭,野々三谷外城の地頭を,川上久興は鷹尾口地頭,梶山外城の地頭を歴任しています.
享保期になると盛んに地頭の異動が行われていますが,これは地頭が任地に土着しないための政策で,都城島津家中の家臣統制策の一環として,地頭の徹底した所替,城下集住と言った一連の政策と同様のものでした.
ところで,地頭の役割は五口六外城のそれぞれの任地に於ける行政推進の責任者でした.
その一環として,任地にいる郷士の役職の任免に関わることや,異動に関わることについて地頭が把握,承認していました.
役人人事は総て地頭を通す必要がありましたし,また,もう1つ重要な役割として,軍団編成時に於ける軍団人数のとりまとめと取締を行っていました.
とは言え,江戸時代も安定してくると地頭が任地に赴くことは無くなります.
その代わりに,この五口六外城で行政を担っていたのが,●であり,地頭は彼等の報告を受けて,それを追認するだけの存在となっていきました.
●=「口愛」
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/24 14:45
青文字:加筆改修部分
【質問】
薩摩藩における一向宗弾圧について教えられたし.
【回答】
島津家と言えば,南九州の薩摩を領地に持つ国持大名ですが,そもそも島津家は鎌倉幕府から大隅,薩摩,日向の守護職に任ぜられると言う名門です.
その薩摩入りには2つの説があり,初代忠久が守護職に任ぜられる前の1186年8月2日に薩摩入りしたと言うものと,1192年9月4日に幕府から守護職に任ぜられ,1196年7月に京都を発ち,8月23日に薩摩入りをしたと言うものがありますが,兎にも角にも,以後650年余の間,消長はありますが,少なくとも薩摩には島津家が君臨し続けました.
初代の忠久は,禅宗の感応寺を野田村に創建し,千光祖師を開山として島津家の菩提寺とし,祈願所としては鎮国山と号し,別に扈従してきた宣阿上人の為に,時宗の浄光明寺をも建立する仏教信者であり,法名は時宗流に得仏阿弥陀仏と号しました.
以後,戦国期になると,第14代忠良は日新斉と称し,又は愚谷軒と号して,仏教崇拝の念篤く,また儒学にも造詣が深いものがありました.
第15代貴久は大中と称し,
「仏を信ぜざる者は,我が子孫にあらず」
と訓戒し,ザビエルによるキリスト教布教に嫌悪感を示しましたし,第16代義久は軍神摩利支天と称えられ,九州を統一目前となりますが,それが秀吉の九州征伐を招き,遂に屈した義久は1587年4月25日,太平寺で剃髪して龍伯と号し,和を乞うています.
その後,島津は秀吉の尖兵として,朝鮮に渡りますが,その軍費は当初は寺社領の3分の2,後に寺社領の全てを没収して充当する計画でした.
しかし,秀吉の命に背き,薩摩では霧島岑権現,福昌寺,泰平寺,南林寺,興国寺の寺領には全く手をつけませんでした.
第17代義弘も関ヶ原に敗れ,剃髪して惟新となり,僧衣をまとい,安心立命して治世しました.
時代は下って幕末.
この国事多難な時期でも,第27代斉興は累代切っての崇仏家でした.
斉興自身も英明な当主であり,国事多難な時期には朝廷や幕府双方からの信頼も篤く,参議宰相として縦横無尽に活躍しましたし,領内の治世でも財政改革を行い,藩債の返済を実行したことは勿論,海防や武備の充実をも図っています.
一方で,江戸では増上寺,大円寺,明王院に寄付をし,京都では東福寺大広間大客殿の修理をし,伏見では宇治万福寺永代供養祠堂への寄付,高野山恵光院,蓮金院の修理,地元でも福昌寺,南泉寺,南林寺,明国寺,大乗院,浄光寺,興国寺,不断光院,常磐千眼寺などの修理など,崇仏家の一端を覗かせています.
この斉興の奥方である賢章院も又,夫に劣らぬ篤信家でした.
彼女は鳥取池田家池田治道の三女で,生後半年で母を,8歳の時に父を失い,継母の手によって成長しました.
生来聡明で,和漢の学に通じ,詩歌を良くし,取り分け仏法を深く信じ,且つ又仏典にも詳しい才女で,殊に婦道に於ては節操堅く才色兼備の奥方でした.
彼女は4男1女をもうけますが,その長子が斉彬になります.
賢章院は,厳格の一面がある反面,大変温厚優雅で,万事につけて慈悲の心が深く,身分の上下の差別をせず,全て丁寧に接し,仏の教えを信じて朝な夕なに仏前に向かって,暇さえあればお経を読み,念仏していました.
当然,斉興の跡を継いだ第28代斉彬も,母の影響を受けて相当の崇仏家でした.
財政逼迫の折でも,菩提寺の福昌寺に詣でた際,仏壇に須弥壇の無いことに気づき,これを建てさせています.
須弥壇は仏座とも言い,目立ちませんが仏様を祀るのに必要で,仏教寺院でも大切な荘厳の1つですが,普通はなかなかこれに気がつきません.
それに気がつく斉彬も,相当荘厳の知識があったと言うべきでしょう.
また,島津家の表向きの信仰は観音信仰でしたが,斉彬自身は阿弥陀仏を信仰していたと言います.
阿弥陀如来の小像を,輿の中や兜の中に秘めていたと伝えられる程です.
これも斉興や賢章院等の影響と言われています.
ただ,これだけ崇敬篤い島津家でも,たった1つの宗派だけは,タブーとされていました.
それは一向宗でした.
とは言っても,徳川家康や織田信長,豊臣秀吉が行った様な念仏弾圧が為された訳ではなく,先述の様に時宗として念仏は信奉していましたし,義久は妙国寺を建立したり,南無阿弥陀仏の六字名号を踏まえた道歌を詠じています.
更に,義弘も大隅佐作村に願成寺を建立して,念仏三昧の道場としていますから,念仏憎しで弾圧した訳ではありません.
そこには秀吉の影が付き纏っていたと言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/17 22:03
九州制覇目前だった島津家の前に立ちはだかったのが,本州の中央部と西半分を抑えた豊臣秀吉です.
秀吉は,大友家の嘆願を受容れ,四国勢,中国勢を先鋒とした大軍団を九州に送り込みます.
島津勢は,四国勢との一戦には勝利しますが,その後,秀吉や弟の豊臣秀長が率いる本隊にはじわじわと押され,遂には千内川(現在の川内川)での合戦で敗れ,義久は一門の勧めで伊集院の雲窓院で剃髪し,名を龍伯と改めて秀吉の面前に額づき,やっとのことで薩摩・大隅を安堵されました.
ところが,この合戦に義久も義弘は間に合わず,遠く日向の都於郡にいました.
秀吉は,その持ち前の快速を飛ばし,遂に義久と義弘の参戦を許さなかった訳です.
この快速の原因として,『太宰管内志』では,京都六条本願寺の門徒の存在をあげています.
九州にいた本願寺の僧の中に,八代海に臨む獅子島出身の僧がおり,この僧が秀吉の問いに答えて,
「最も即効的な攻め方としては,千代への道は山道で,道程は遠くて,その上山が険しいので,そこを避けて海上を経ての道がある」
と教えたそうです.
それで秀吉の諸軍勢は,難なく千代に向けて進軍できたと言います.
これは,伏見城で秀吉から義久に打ち明けられた後,義久は立腹し,薩摩に帰った義久はその僧を即座に磔にしたと言います.
この他にも異説があり,本願寺の顕如下向説,教如下向説,下間下向説があります.
顕如下向説は,顕如が秀吉と共に九州に下向し,その命によって一向宗門徒が兵糧等を提供すると共に,獅子島の僧が道案内をしたと言うもので,この功により,秀吉は顕如に京都六条に10万坪の敷地を贈与したと言うもの.
尤も,京都六条の10万坪寄進は,どちらかと言えば大坂の地を欲した秀吉が,替え地として顕如に提供した土地と言われています.
教如下向説も,顕如下向説と本筋では変わらないのですが,教如が下向して薩摩に入ってくると,他国者がしきりに領内に入って来るようになり,その時に,一向宗門徒が領内を偵察したからと言うもの.
下間下向説は,下間頼康,仲孝が下向して攻め込む秀吉の案内を努め,その結果,下間氏は秀吉から1万坪の屋敷を賜ったと言うものです.
この様に,秀吉による九州平定を切っ掛けに,薩摩で一向宗弾圧が繰り広げられたかと言えば然に非ず.
その一向宗禁令が記録化された最古のものは,義弘が1597年3月27日に再度の朝鮮出兵に出陣するに当たり,留守を守る重臣達に残した掟の最後に,この様な条があります.
>一,一向宗の事,先祖以来御禁制之儀に候の条,彼宗体に成候者は曲事たるべき事
これはあくまでも,令ではなくあくまでも重臣に対する掟でしかありません.
これが決定的になったとされるのが,1599年に起きた,伊集院右衛門大夫忠棟入道幸侃が反旗を翻した,庄内の乱です.
伊集院家は,島津第2代忠時の7男俊忠から分かれた家系で,島津の支族として三世続けて重職に就き,国老に命じられていました.
元々,秀吉の統治手法は,有力家中の中の家老クラスの有力者と懇意にしておき,彼を通じて豊臣家の指令を下すと言うもので,それを虎の威を借る狐となってしまえば,内訌を起こす可能性もあります.
それがうまく制御できたのが,上杉家に対する直江兼続であり,毛利家の小早川隆景だった訳です.
島津家では,それが伊集院家だったのですが,忠棟は性格的にうまく制御できず,しかも,義久には男子が無かった事から,忠棟の野望はいや増します.
義久としては,末娘の亀寿に養子を迎えて,自分の血脈を残す以外方法はありませんでした.
義久は弟である義弘の次男を婿養子として,家督を継がせようとしていましたが,忠棟は秀吉の威を借りて,主家に自分の子孫を押し込もうと考えたのです.
また,それが上手くいかない場合の保険として,新しい城地を物色し,守るに安く攻めるに難い都城に目をつけます.
この地は元々北郷氏の領地だったのですが,秀吉の意向を笠に着て遂に都城8万石を手に入れ,その威勢は島津家を凌ぐほどのものがありました.
因みに,島津義弘の次男である久保は,落馬事故であっけなく此の世を去りますが,それは忠棟の手の者が作った落とし穴に填ったためであるとか,義弘の弟歳久の死も忠棟の讒言によるものであるなどと噂されました.
北条攻めから以降,伊集院家の島津からの独立傾向は益々強くなっていきますが,島津家には世継ぎ問題があり,強く出られませんでした.
こうした中,家久は1599年3月9日,伏見邸の茶亭に忠棟を招き入れ,手討ちにしてしまいます.
その話を聞いた忠棟の子,源二郎忠直は,直ちに都城に立て籠って反乱を起こしました.
これが庄内の乱と呼ばれるものであり,島津家の存亡に関わる重大問題になりました.
当時,庄内には都城を牙城として,勝岡,山之口,安永,山田,野々美谷,志和池,梅北,恒吉,財部,末吉,梶山,高城の12の外城があり,攻防は激しく,1600年3月15日に源二郎忠直は力尽きて家久に降り,家康は戦後の措置として,禄2万石を忠直に与えて帖佐に移し,母と弟たちは阿多に住まわせて終結させます.
この伊集院忠棟は,かねてから熱心な一向念仏の信奉者でした.
この忠棟が討たれ,忠直が庄内の乱を起こして,島津本家の心胆を寒からしめた訳です.
この時以来,
「一向宗は,親兄弟の忠孝の道を欠くものであり,又,徒党を組んで人間としての情誼に欠けるものである」
と見なされ,一向宗弾圧が決定的になりました.
関ヶ原の合戦を挟んで,領内がまだ騒然としている時期である1601年8月7日には,恒久,義弘,義久の三者連署の家中取締が為され,一向宗への帰依を戒める様になります.
1606年8月には,島津家久の家臣伊地知民部少輔他49名が,一向宗を信じない旨の起請文を出していますので,この頃には一向宗弾圧も過酷さを増してきたのでしょう.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/18 22:39
さて,「一向宗」と言うのは,鎌倉期には元々時宗の事を指していましたが,親鸞の没後約40年を経た1303年頃には,浄土真宗の門徒も一向宗と呼ばれる様になります.
浄土真宗が一向宗と呼ばれる様になったのは,浄土真宗では「一心一向に仏たすけたまへ」と念仏する事から,親鸞教を一向宗と呼んだ訳です.
しかし,親鸞聖人は,その著作である『教行信証文類』で「浄土真実の教」と書いており,『和讃』にも「浄土真宗」とはっきり記しているので,親鸞からすれば,浄土真宗を一向宗と同一視されるのは意に反したもので,江戸期,本願寺は,再三にわたって宗名変更の願いを幕府に伺い出ましたが様を得ず,1789年3月に漸く輪王寺宮から「三万日御預け」,つまり,3万日後に許可するとの申し渡しがありました.
その3万日後である1872年3月14日に漸く,「浄土真宗」と名乗る事にしたもので,それ以前は一向宗に含められていました.
この浄土真宗の教えは,他の既存の宗旨と違い,如来の救いには君臣・上下の差別は無く,人間は皆平等であり,阿弥陀如来の前には主上臣下全て凡夫であると説いています.
「親鸞は弟子を一人も持たず候」と言い,「世々生々みな父母兄弟」と説き,念仏の信者には全て「御同朋,御同行」と呼びかけます.
この様な専修念仏の信仰思想は,人類無差別平等の一流であり,その思想は時の権力者には受容れられるものではありませんでした.
それ故,各地に於て一向宗は弾圧を繰り返し受け,一方で弾圧を受ければ受けるほど一宗の結束は固くなり,本願念仏の信者は地下に潜って庶民の心の大きな支えとなっていきました.
鎌倉時代には法然上人の専修念仏が,主に弾圧を受けました.
特に,上人の弟子であった住蓮,安楽が,後鳥羽上皇の宮女である鈴虫,松虫を落髪させて法然門下に入れた事が発覚し,既成教団の讒言もあって,上皇の怒りに触れて,1207年に住蓮と安楽の2名が死罪に処され,法然は讃岐に,親鸞は越後に流され,専修念仏が禁じられた承元の法難は有名です.
この時,法然上人は
「われたとひ死刑に処さるるとも,如何でか念仏を停止すべきや」
と言い,親鸞聖人も
「それがし辺地に赴かずんば,如何でか辺地の群類を化せんや」
と言って,
「是れなお師教の恩沢なり」
と,却って流罪になった事を喜んでいます.
その後も度々念仏は禁止の法難に遭いましたが,蓮如の頃から再び激しくなっていきます.
1465年正月8日,比叡山延暦寺の僧徒が東大谷の本願寺を襲撃して焼き払い,蓮如は暫く近江に潜伏し,堅田に逃れましたし,1532年には山科本願寺が日蓮宗の徒によって焼き討ちされています.
更に,1570年から1580年に掛けては大坂の石山本願寺が,織田信長の伽藍引き渡し要求に応じなかったために,数回にわたって攻撃されましたし,徳川家康も自身の家臣が四分五裂すると言う目に遭っています.
この様に,一向宗は幾度となく法難に遭ってきた訳ですが,江戸期に於ては,東西本願寺が成立して一応,その信教の自由は認められていました.
ところが,伊集院家の反乱に懲りた薩摩島津家では,一向宗の庶民的集団性の強さが恐れられ,
「一向宗は親兄弟の忠孝の道を欠く」とか,「徒党を組んで人間の情誼に欠ける」,
そして,
「一向宗は一揆を起こすのが好きで,領主に反抗する」
ものとしてこれを憎み,排撃し,迫害に及びました.
その弾圧により,死罪に処せられた人々の総数はよく分っていませんが,1920年代に古老に聞き取り調査をした記録ですから,幕末頃としても,300名を超えています.
『西本願寺文書』の記録では,薩摩に於て1843年の春までに没収された本尊は2,000幅にも上り,検挙された一向宗の信徒は14万人となっています.
因みに1862年10月,島津忠義の後見人となった島津久光は,鹿児島城内宝蔵の古金5万両を新金15万両に交換して,集成館などの費用に充て,更に軍備増強などを実施する為,他家へ米の輸出を禁止し,銅銭に最も多かった抜銭も禁止し,馬の輸出も禁じています.
更に,この時期に宗門役所を設け,宗門改を実施して,一向宗とキリスト教を禁じました.
この宗門改により,各郡村居住の人員を明らかにして,生存者や死亡者の数を調べ,老若男女を問わず,年1分の人頭税を徴税しています.
その上げ高は,人頭税が年額およそ1,500両,人員数約90万人であり,勿論,一向宗の科料金が重要な財源となります.
こうして得た資金は,困窮している家中の士に無利息で貸し出されましたが,もとより返す宛のない金であり,これは家中の士に対する一種の救恤金として使用されました.
この他,水戸を真似して,寺院の統廃合を進め,寺領も没収し,仏具を鋳潰したり等,これによる収入も莫大な額に上っています.
また,12月24日には琉球通宝なる貨幣を鋳造し,安田鉄蔵と言う者にそれを請け負わせて鋳造を始めました.
鉄蔵は1枚60文で請け負いますが,実費は34文に過ぎませんでした.
で,その鐚銭を薩摩島津家では264文として流通させるという事を行い,1ヶ月に10万両,年間120万両余の鋳造を行い,3年間で290万両を超える膨大な額に上ります.
これらの鐚銭は,京都や大坂での軍用金として使用されています.
その上,台は銀,表面を金で貼り付ける贋金作りにも手を染めました.
この贋金は,銅の中から金銀を吹き分ける事が出来る,腕利きの三浦屋伝兵衛と言う吹き金職人を連れてきて,約800万両の贋金を造り,これらの贋金と琉球通宝なる鐚銭が,討幕の原資となった訳です.
さて,話を戻して,薩摩で一向宗信者との疑いを一度受けると,直ちに役人に連行され,拷問を含む厳しい取り調べが行われました.
これは明治になった後も,西南戦争で薩摩が瓦解するまで,1877年頃まで行われていた様です.
拷問は男性の場合は,良く時代劇に出て来る「石抱き」が行われています.
これは,幅30センチ,長さ1メートル,厚さ10センチ,重さ4キロ程の平たい石を使うもので,三角の割木を並べた上に容疑者を正座させて,膝の間に三角の割木を挟み,膝の上にこの石を1枚,2枚と徐々に積み重ね,前後にゆらゆらと揺り動かします.
5枚ほどになると,石の高さは顎の下に及び,この頃には足の骨が砕け,下手をすれば絶命すると言うものです.
また,水に浸して塩をつけた縄で手を縛り,両手を柱に括り付けておくと,乾くに従って,水で膨張していた縄が縮んで手に食い込み,縄につけてあった塩が傷口に染み込んで,痛みを増幅させる拷問,女性の場合は,腰の高さに水を浸し,塩をつけた縄を張り,その上を跨がせて歩かせ,止まると役人が突き倒して無理に歩かせると言うものもありました.
こうした拷問に堪えきれずに,一向宗信者と白状した場合,軽い場合は転宗を強制されますが,戸籍には「前一向宗」と朱書きされ,一生前科者扱いとなり,重罪ならば死罪,磔,次いで流罪,所移しとして辺鄙な所に移されます.
武士ならば農民に,農民ならば下人へと一段身分を落とされるのです.
この様な状態では,念仏信者も地下に潜るしか有りません.
所謂,「かくれ念仏」です.
一方,本願寺も薩摩の信者を,特に丁寧な扱いをしています.
『諸事心得之記』にはこうあります.
――――――
一,薩マ講中カラ申物等願イノ節ハ何ニテモ御免アラセラレ,且ツ御取扱等モ,格別之儀ハ由緒之レ有リ,講中ニテノ事ニハ之レ無シ
薩州ハ御宗門御弘通国禁ニ候フ処,国法ニ背キ忍ヒテ御宗門ヲ帰依シ奉ル.
且ツハ御馳走筋モ余国ト違ヒ格別精出スモ之有リ,殊ニ御末寺一ヶ寺モ之無キ国柄ニテ,御本廟ヲ崇敬シ奉リ御法義相続致シ候コト奇特之至ニ候.
既ニ法事等相ヒ勤メ候砌ハ,各参詣ノ族乗船致シ,海中ヘ乗出シ船中ニオヰテ勤行等致シ法事ヲ営ムノ由,裏方ニハ一人モ門徒同行之無キ由,御本山計リナリ,口伝之有リ.
右等ノ訳柄故,格外ノ御取扱ナリ.
右講中ノ義ハ,上京之有リ候トモ,随分ソ略之無ク取扱遣シ申スベキ事
――――――
こうした状況ですから,一向宗信者は,屡々山を越え,海を越えて,隣国に逃散する事もありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/19 23:19
さて,上つ方が我が儘を言うのは,昔も似た様なもので,一向宗を信じていた人々は,ある日突然,領主からその信仰罷り成らぬと言われ,弾圧されると言うものでした.
従って,薩摩から逃げようとする訳ですが,南は船で逃げるしか無く,北への逃亡路は,肥後へは沿岸部を抑えられたら後は険しい山道です.
日向方面はそれに比べるとまだマシで,その道を辿って,隣国に逃げる信徒が多数いました.
その多くは,隣の飫肥伊東家に逃れてきました.
それは文化・文政の頃から始まり,天保年間にピークとなりました.
それも農民ばかりでなく,農民に姿を窶していた武家も集団で逃走しています.
彼らは,清武方面に逃れる事が多かったそうです.
清武は中野,本町を中心として,飫肥伊東家5万1,000石の支城として重要な役割を果たしています.
当時,と言うか,代々飫肥には,外様の伊東家5万石が封ぜられていました.
伊東家と言えば,従来から日向で勢力を誇っていた名族で,島津に追われて一端領地を明け渡すも,秀吉の九州征伐に従い,勢力を回復しました.
従って,島津は不倶戴天の敵であり,1627年から1675年に掛けて「牛の峠論所」と呼ばれる境界線を巡る争論が,評定所の裁定で,伊東家有利の判定が出るまで争いを起こしています.
天保期の飫肥伊東家の当主は,第11代伊東祐民,第12代祐丕,第13代祐相の時代で,この時期の伊東家は,開学の時代でした.
祐民は円満な仁徳の持ち主で,1801年11月に初めて学問所を設立して,儒学の研鑽を始めましたが,21歳で卒去します.
次いで,その庶弟である祐丕が第12代当主を襲封しますが,2年後にはあっけなくこれも卒去,祐民が死んだ時に既に奥方が懐妊しており生まれたのが祐相で,祐相が僅か3歳で当主になりました.
祐丕の頃,飫肥板敷の安国寺重職に梅木海州と言う学僧がいました.
海州は多くの弟子を養成し,学問所の松井義彰と共に飫肥伊東家の学問の素地を築きます.
1827年10月には,清武中野に郷校の「明教堂」が設立されました.
この郷校には,清武にいた安井滄洲,安井息軒父子も活躍しています.
安井息軒は後に昌平黌に学び,幕末や明治初年に学者として活躍した人です.
1828年に江戸から初めてお国入りした祐相は,学問を好み早くから学問所を改造しようと言う念願がありましたが,1830年7月に漸くその願いが達せられて,1831年に「振徳堂」が竣工します.
こうした学問が盛んな様や平和な様子,町が発展している様子は,都城方面にいる人々の噂に上らぬはずはなく,飫肥,清武の郷は実に平和で住みよい所であり,しかも,薩摩に全くない一向宗寺院もある夢の様な場所とされた訳です.
この様な噂を耳にして,住み難い薩摩島津家を捨てて,飫肥伊東家へと逃れる人々が急増します.
特に一向宗信徒は,多数が移住してくる様になってきます.
その数は,その頃に調査されただけでも,500人を超えるとされています.
あるときには都城の領民が,山道を抜け出して飫肥伊東家の清武,松叶方面に逃げは知り,山狩家(山仮屋)方面の山中へと深く隠れ住んでいました.
こうした逃散は,記録に残っているだけでも弘化年間まで幾度となく繰り返されています.
現在の日南海岸の迫地とか鏡洲,田上,山上,今江,熊野,會山寺,木花方面の土地はそうした隠れ住むのに格好の土地であり,その山中に逃れ去った信者の数は優に5,000人を超えるほどになっています.
現在では5,000人程度はさほどではありませんが,その当時,5,000人と言えば大変な数です.
しかも,労働集約産業である農業が主力であった頃に,これだけの人数が消えるのは痛手です.
当然,島津家は1843年に伊東家に対し,その逃散住民の送還を依頼しています.
このため,表向き伊東家は調査に乗り出して,全てを送還した事にしたものの,実際には目こぼしが多く行われたようですし,送還されても再び,弾圧の厳しさに堪えかねた逃散が繰り返されました.
で,再び送還を要請されて,遂には,伊東家も佐土原記作と言う家中の士を鹿児島に遣わせて,薩摩側の逃走取り締まり強化を要請しに行っています.
そんな1841年,一つの事件が起こります.
清武城下の熊野今江村に,一向宗の寺院がありました.
この寺は白雲山善明寺と言う寺で,1558年に道修と言う僧が熊野島山村に開基した名刹でした.
100年余の間,島山の法城として栄えていたのですが,1662年に日向を襲った大地震の為に倒壊してしまいます.
その後,今江に移り,飫肥浄念寺の末寺として再興しました.
更に,1737年には飫肥伊東家中の鬼塚新二郎と言う者が,新しく堂宇を建立し,十代の法灯を継ぐことになります.
当時の住職知慶には跡継ぎがいなかったので,別の家中の士の息子を得度させて浄雪と名乗らせます.
善明寺には多数の信徒が出入りしました.
夜になると法座が開かれて,近在から多くの参詣者がやって来ます.
その中には,薩摩から逃散してきた人々もいました.
毎月15日の御逮夜には,満堂の参詣者によって賑わい,高らかに「正信念仏偈」が唱えられていました.
これを薩摩の役人が聞きつけ,飫肥伊東家に連絡しますが,伊東家では一向宗を咎めている訳でもなく,何も対応を取りませんでした.
この知慶法師は68歳の時,1838年に入寂しました.
後に残されたのは,若い浄雪と前住職夫人のヨシでした.
因みに,ヨシは知慶と2歳違いで,知慶がいなくなると深酒をする事が多くなりました.
さて,6月の梅雨のある日.
いつもの様に酒に酔って帰ってきたヨシは,善明寺の門前にある小川にかかる細い橋を渡ろうとして,誤って足を滑らせ,頭から真っ逆さまに小川に転げ落ちて溺死してしまいました.
翌朝,夜明けと共に養母を捜しに出かけようとした浄雪は,門前の小川の中に真っ逆さまに突き刺さる様にして死んでいるヨシの姿を見つけました.
早速近隣に知らせ,役人の検視が行われましたが,薩摩から幾度となく一向宗に対する厳しい委嘱を受けていた役人は,浄雪を責め,養母殺しの重罪人に仕立て上げられ,磔刑に処せられました.
因みに,この時連行された浄雪は,自らの身の潔白を示すべく,「緋の衣」を信徒に手渡して,後の事を依頼したと言います.
その後,主のいなくなった善明寺は廃され,1842年世話人稲城徳次の尽力によって,郡司分長昌寺に合祀されて,浄土真宗長昌寺として現在に至っています.
ところが,現在残っている浄雪の位牌には,1841年に磔刑となった日にちではなく,1866年1月16日往生となっていたりします.
即ち,隣の大藩である薩摩島津家の顔を立てて,表向き善明寺を廃し,浄雪を磔刑に処したとしたものの,実際には密かに浄雪を放免し,かつ善明寺も合祀という形で復活させたとしか考えられません.
大藩の顔色を伺いつつも,したたかに生きる小藩の矜恃を見た様な感じがします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/20 22:57
隠れ切支丹と同じく,庄内の乱以降,薩摩の一向宗門徒も,弾圧されてから地下に潜りました.
庄内の乱以降,伊集院家は帖佐と阿多に分かれ住みましたが,一向宗門徒は他にもいて,分家の日置島津家や花岡島津家は,一向宗専修念仏の篤信者であり,その家臣達にも多くの一向宗門徒がいました.
彼らは表向き,一向宗の信仰を捨てたふりをしていますが,その代わり,仏飯講,焼香講,煙草講,或いは単に御講と言って,講組織を形成して,その中で信仰を維持しています.
講が寺院の代わりになり,講組織は無形のお寺だった訳です.
その一部は弾圧が厳しくなると,日向の海岸地域に逃げ込んだり,飫肥伊東家の田野や清武に逃げ込んだりしましたが,一方で霧島山麓奥深く逃れ,それこそ,隠れ切支丹の様に独自の進化を遂げたものもありました.
霧島山麓地方の信仰は,表面上は神道の形式を取っています.
現在でも,彼らは霧島講を自称して神社神道を標榜し,その行事にも参加していますが,これはあくまでも表向きの事.
内には深く浄土真宗的信仰を蔵しており,心には南無阿弥陀仏を念じて,浄土往生を願う真宗的な浄土信仰を保っています.
彼ら,かくれ念仏講の事を,一般には「カヤカベ」と呼んでいます.
カヤカベの所在は霧島山の西側ですが,研究では,東側の北諸県郡山田町の辺りにも,これに類似した物があるとされています.
こちらの方は,純然たる浄土信仰と言うよりも,神道や土俗信仰が混交して,雑信仰となっています.
因みに,現在でも清武地方の田舎に行くと,神道者の間でも,死者の当り日の祭りを行って,それを「法事」と言い,神社に参る事を「てらまいり」と呼び,神社などに以て参るお供えの事を「ブッショマイ(仏性米)」と呼んでいますし,浄土真宗の門徒の中でも,「おかがみ講」と名付けて仏事を営んでいる集落もあります.
更に葬式も,神道式でするとは言え,白・紅・黒・灰・赤・青・黄・赤・白と言う,所謂仏式の八幡(阿弥陀如来の随行身を指す)の旗を立てて墓地へ行く風習が残っていたりします.
ところで,仏飯講と言う組織は,鹿児島県の姶良,曾於,肝属の三郡と宮崎県の北諸郡,西諸郡に跨がる広大な地域に跨がる組織で,講員総数が数千に上った全国でも希な大講でした.
これは,諸県郡蓼池(現在の宮崎県北諸県郡三股町)の藤左衛門と言う農民が作り出した組織です.
藤左衛門は,一向宗禁制で公に念仏できないのを残念に思い,親鸞作の『正信偈』を当世風にアレンジして,酒宴の席で唄わせ,それと知られない様に念仏を流布したと言われる,中々の知恵者でした.
因みに,この唄は現在都城方面で「ごったん」として復活しています.
1772年になると,こうした藤左衛門流の布教により,念仏の声はいつの間にか四隣に波及していき,やがて講結成の気運が高まりましたが,諸県地方は一向宗禁制の為に寺院が無く,本願寺と直結する方法がありません.
そこで,藤左衛門は大淀川を下って,宮崎市瓜生野柏田にある直純寺まで足を運びました.
この寺は,薩摩領の都城周辺のかくれ念仏達が,人目を避けて小舟をかって大淀川を下り,禁制を破ってこの知に赴き,一向宗の門徒になったと言う寺でした.
そもそも,この地は宮崎城下にあり,関ヶ原の合戦までは延岡の高橋元種の領地でした.
関ヶ原の合戦で,元種は西軍に付き,宮崎城は権堂平左衛門種盛を城代に,約3,000の兵で守備していましたが,東軍方となった伊東家に攻め込まれます.
宮崎城は関ヶ原の戦以後も持ち堪えていましたが,1601年10月1日に種盛を始めとして,長男忠右衛門,次男八右衛門等は悉く討ち死にしました.
しかし,落城の際,末子百千代は落ち延びることが出来,後に出家して,一向宗の僧侶となって,名前を永伝と改めました.
永伝は父兄の菩提を念じて,寺院建立の意図がありましたが,1614年に有馬直純がこの地に入部します.
直純は,宮崎城落城の際の種盛父子の忠節に心を打たれ,永伝とその子門解に援助を行い,1647年に寺院を建立させます.
永伝は,直純の徳を称えて直純の名を取って寺号を直純寺とし,初代住職には門解が就任しました.
この直純寺は西に霧島連峰を臨み,直下に大淀川を流れる位置にあり,薩摩のかくれ門徒達には好都合な位置にありました.
そこで,幕末の頃には都城周辺の門徒は,挙って,或いは人目を避けて小舟に乗って大淀川を下ったり,夜闇に乗じて陸路霧島連山を走破し,身命を掛けて直純寺を目指したと言い,参詣の足は陸続として絶えなかったそうです.
そして藤左衛門は,1773年に京都西本願寺に講の設立を願い出ます.
これはかねてより,秘密の旦那寺となっていた直純寺を通じて願い出たもので,それに対し,本山からは仏飯講と言う名称を与えて認可します.
この仏飯講とは,本願寺の阿弥陀堂や宗祖聖人に供える,仏飯の料を献上する為の講であり,この時には銀子120目を献上しています.
その後,講員はどんどん増え,1798年には仏飯講に1~3番までの組が出来ました.
二番組が発祥地で,西の西諸県郡が一番組,南の曾於郡が三番組となり,急速に講は広がり,島津家の度重なる弾圧にもめげず,念仏信仰は脈々と受け継がれています.
この仏飯講の他に,焼香講,煙草講もありましたが,何れも性格は同じです.
幕末には,弾圧が益々酷くなり,本山への上納金も滞りがちになりましたが,その間,相当の冥加金を本山に送り届けたと考えられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/21 23:19