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秋月種茂公胸像(高鍋町美術館)
(こちらより引用)
【質問】
存寄とは?
【回答】
米沢上杉家の名君として知られる上杉鷹山.
この人は元々養子で,元々は日向高鍋秋月家の部屋住みとなっていた人です.
秋月家は筑前を根城にしていた,九州地生えの大名で,その後,秀吉の九州征伐に島津方として抵抗した為,秀吉によって筑前から日向高鍋に飛ばされることになります.
江戸初期の秋月家は,中世的権力を維持していた家臣団と,近世的権力を確立しようとしていた領主側との攻防が,激しさを増していました.
もしこれが幕閣に知れたら,家中不行届で即刻お取り潰しに遭う位のものです.
初期の騒擾は,初代当主である秋月種長の継嗣問題に始まります.
この種長に男子が無く,改易を免れる為に,女子雄チョウに長野種貞と言う人物を迎えますが,種貞を当主に掲げることは,筑前以来当主と同格を誇ってきた家臣団が納得しませんでした.
この結果,種貞は廃嫡され,その子供で幼少の種春を2代当主にしますが,当主を巡って側近や執政間の抗争が絶えませんでした.
種春が成人になると,外戚佐久間氏の助言による改革,中でも幕府諸役に対応する為の藩財政の窮乏対策,家中士の宛行地の大幅削減,知行地に対する反銀の制度下などに反発がありました.
反銀は,家中士の知行高に応じて課せられた税金で,1610年,1612年,1613年,1620年,1622年と石高10石につき銀10匁から50匁が課せられたもので,初めは臨時税でしたが,1638年からは毎年10石に付き10匁(後7匁)と,3月限り収めさせる恒常的なものとなりました.
その後も,家中の紛争は絶えませんでした.
特に家格形成に伴う家老,用人,奉行,大目付,組頭と言った執政の座を巡る抗争が殆どでした.
こうして,敗れた方は秋月家を去り,大幅な家中士の入れ替えが進みました.
そして,家禄や家格に制約された役付が決まってきます.
例えば,家禄100石以上,家格給人で無いと家老には付けないとか言うもの.
後に帰参した者もいましたが,多くの新たな取立や召抱えが為され,それらの人々が当主の信を得て藩政の主流を占める様になります.
当然,こうした新参者に対する筑前以来の家臣が更に反発し,騒擾が更に深まりました.
結局,江戸中期になると,筑前時代からの上士の家臣は,意外に少なくなっていきました.
天和期を過ぎると漸く混乱も終息して,新たに召し抱えられた家臣を中心に,家格,役職などの組織の整備,兵力増強,法治体制の強化が必要に応じて次々に行われました.
勿論,秋月家の仕来りに疎い新参の上士にとっては,広く家中士の意見を聞き,対応することが求められました.
こうして,領国経営の為に藩政当局が行ったのが,「存寄」と言う手段です.
これは,家中士に積極的に藩政に対して献言や献策をさせる「下位上聞」の体制です.
大藩などでは屡々こうした施策は上位者のみで行われ,それが庶民や下級武士のニーズに合わないものだったりするのですが,秋月家では,上級家士のみだけでなく,下級役人或いは庄屋や町別当に至るまで,それぞれの立場から意見を出し,或いは意見を求めます.
出された献策は,直ぐに時宜に適った施策か否か,適否を検討し,優れたものは即採用します.
当然,こうした仕組みを整えても,運営体制がきちんとしていないと,画餅に帰してしまいます.
その為には領内の実情をよく知り,時代の動きに適応できる存寄が出せる人である事,それを聞く事が出来る人であること,そして適正な判断を下せる人物である事が求められていました.
勿論,高鍋秋月家ではこうした観点から,中間層の実務家に対する人材育成を行っています.
「存寄」は,早くは17世紀後半には見られます.
採用された存寄は,時宜に応じた施策として採用され,また,役人の「心得」「覚」として明文化され,やがては「条目」「定」「目安」と言った藩法として,藩政の中に位置づけられたものも有ります.
「存寄」制度の生まれたもう1つの背景は,高鍋秋月家と言う領地の特殊さに有ります.
表高は3万石である秋月家の領地は,秋月城下の城付地の他,中部にある諸県,薩摩国境にある福島の3箇所に分れており,その領地は居城から1〜2日の距離にあります.
それに,新納,野別府の城付地の殆どは,「ハル」と呼ばれる水利の悪い畑作地及び未開の野地で,江戸期には最も旱魃が恐れられた場所です.
従って,伊東家の項でも触れた様に,こちらも広大な山林と豊饒の海から産品を作り出さねばならない,つまり,知恵が必要な訳です.
当時の各大名家は,何をするにも総て自主財源が建前でした.
不測の事態が発生した場合には,一応,幕府からの拝借金があるのですが,毎回毎回宛に出来るものでは有りません.
自主財源で,あらゆる負担に耐えるのが建前です.
こうした状況から,高鍋秋月家の方針は,「省略」(=節約倹約と同義)をして,知恵を出して生きていかねば成りませんでした.
居城と言っても,武家屋敷を分散する「小路屋敷」の制を採りますが,「小路」に沿った長く連なる白壁や石垣の構えすら,満足に設けない武家屋敷ばかりです.
知恵を出さずば生き残れませんでした.
孟子的には,「政事無ければ即ち財用足らず」と言う訳で,善政も求められました.
この様な知恵を出し合うことで,元禄期には草高が表高の倍である6万石余に達し,橘南谿の『東西遊記』では,九州の仁政として,大藩の肥後細川家と共に,秋月家は挙げられていたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/02 22:40
青文字:加筆改修部分
【質問】
秋月種茂による藩政改革について教えられたし.
【回答】
上杉鷹山と言えば,昨今も良く取り上げられているので非常に有名なのですが,その兄である秋月種茂と言う人は余り知られていません.
実は,上杉鷹山が米沢上杉家の改革を行おうとした際に,影響を受けた人物の一人だったりします.
秋月種茂は,7代当主に当り,先代種美が1760年に致仕したのを受けて18歳で襲封し,1788年まで28年間当主の座に留まります.
その弟が松三郎,上杉家に入って治憲,隠居して鷹山になる訳です.
その種茂,最初の御国入りの際には大人しくしていましたが,1763年5月13日,2度目の御国入りをしました.
そして,早速改革を開始します.
その最初の施策は人事一新でした.
6月に家老小坂平兵衛に,「御目通遠慮」と「慎み」,つまり謹慎を命じました.
そして,9月には家老職と知行300石中100石を召上げて「隠居慎み」を命じ,息子の平右ヱ門には父の知行の残り200石を与え,「御次番」を解任しました.
その理由は,「職分を相守らず,不行跡」.
特に,先代種美の側室の子である秋月大助(忠快)の「見覚悟世話」を命じられていたにも関わらず,大助とその母,その他不実の輩を誘って,時々町浦津の「下賤宅」に遊参し,夜宴を開いたと言う理由で,大助の母も「慎み」,内証世話方は「念入」,坊主賢寿は出家の身でありながら,不似合いの行跡,特に平兵衛「不実を以て入魂」に付き「所替」となり,目付中は風聞にも目視の廉で「精勤」を命じられました.
「念入」「精勤」は,現在で言う「訓告」とか「戒告」と言った類の処罰です.
こうして,先ず改革の阻害要因になりそうな,先代当主に連なる人々に対する先制攻撃を仕掛け,新しい人材の登用を開始します.
萩原御蔵役頭取任用,後に藩校明倫堂設立の中心人物となる財津十郎兵衛の父である先代に対しては,以前受けた罰である「石山勤方不宜,知行二歩召上」を元に戻し,十郎兵衛には上京修学を命じました.
その他,田村織右ヱ門を用人に,泥谷承左ヱ衛門を家老格に登用して,人材の入れ替えを図りました.
更に,10月には家老手塚甚五左衛門に飛地である福島と諸県の巡検を,小田藤兵衛には,城付地の「郷廻」を命じ,郷村と飛地の村々の実情を把握し,藩政の「更張」つまり緩みを改め直す一歩としました.
正にこれらの施策は,後に上杉鷹山が行った,米沢上杉家の改革と相通じるものがあります.
ところで,こんな上からの改革だけでは,先ず反発が来ます.
しかし,昔から秋月家中には「存寄」と言う制度が存在しました.
藩庁の役職任命は,家老と用人は当主が任命しますが,奉行,物頭,郡代,代官などは家老の名で,それ以下は用人の名で任命される形となっており,上下の役に関わらず役目に就く場合には任命書が渡され,それに対して自署の誓書を差出すのが慣わしでしたが,高鍋秋月家の場合は,藩政にとって益になる意見は,速やかに自分の「存寄」として申し上げることを誓うと言う条項がありました.
先代の話になりますが,1756年に家老に就任したばかりの三好善太夫重道と言う人から,「存寄」が出されます.
これは,現当主である種美が参覲交代出立前に,「学問・武芸の振興」「農耕の出精」「倹約」の3点について提唱したにも関わらず,一向にその成果が上がらない,このままでは当主の言明が反故になりそうで,これから先,この様な当主の命令でも務められない様であれば,御政道の障りになると考え,担当者である稽古改役人と中都合(用人)にどの様な考えと対策があるかと,問うたものです.
先ず,改役の存寄は以下の様なものでした.
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学問・武芸の稽古を活発にするために,稽古道具などを拵えて戴き,その点については不足はありません.
しかしながら,貧士に於いては,書籍やその他必要なもので家から貸し出されないものも有り,特に弓馬,大筒に至っては費用が嵩み,稽古の効果は認めながらも物入になってしまっては,当主の厚恩に報いるどころか浪費になってしまいます.
勿論,年々の物入が多くなっては,長く続きません.
人材を育てる稽古は,永久に途切れることのない手当を決めて,それから入用銀を支出して,尚余銀があれば書籍その他の必要な品物を整えれば,藩治も行届く事になり,稽古も一段と盛んになります.
城下の小丸川,藻広毛川筋の空地を,諸郷中に準じて新田を開くことを申し出た者を,直ぐに耕作人として命じて戴ければ,「浮世人」など耕地が少なくて困っている者は直ぐに申し出ることでしょう.
また,飛地福島郷中の耕作に差し支えの無い母駄馬を買い入れ,ここ新納地域の貧しい百姓に貸して戴ければ,田地も開け,自然余裕が出て来て,そこで育てた子馬は売り払うことにすれば,諸稽古の入用費に充てることが出来ると思われます.
新田開発と母駄馬の購入に必要な費用は,今,藩の御銀から貸し出せば,3〜4年の後には返納させることが出来る様になると思われます.
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これを受けて,中都合で当時寺社奉行だった小田岡右衛門は,政事を預かる立場から以下の様な存寄を家老に提出しました.
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稽古改役から申上げた点については,上下共に,特に稽古人どもは発憤しますし,その上隣藩等にも聞こえが良いので早速手配して欲しい.
その掛役として適任者は,物頭の武末丈右衛門,給人の萱島新五左衛門,給人の甲佐又助,この3人で玉薬本払と御貸本役係,物頭の田村織右衛門と給人綾部八五郎が新田開発と牛馬役係,以上の様に仕事を分けて請けさせれば,効果のある仕事をする事が出来ます.
川除筋の新田開発の見分については,今まで通りでも間違いは無いかと思われますが,万一間違いがあっても自分はその役目は務まらないと,直ぐ自分から検分役を下りさせ,是非無く正しく支配が行われる様に,改役の内から指名して川除見分を命じる事にすれば,正直に見分することになり,下々の者まで納得して仕事をする様になります.
また諸稽古が盛んにならないのは,改役が微権(権限が弱い)で諸士が信服していないことに依ると思われます.
先生の叱正も度々に及んでいますが,命令に従っていません.
これからは諸役交替(人事異動)の時,稽古改役からそれぞれの役に相応の者を印封して推挙させる様にすべきでしょう.
城内でも角の屋敷の稽古所(後の明倫堂)付近は,大勢の人が集まる場所であり,そこで稽古に精を入れ,人柄もよく知られている人が役に選ばれることも有ろうし,改役から推挙された者が選ばれたり,更には改役から重ねて役に任命されれば名誉なことにも成ります.
この様に,稽古に更に精を入れる様な手段を執ることにしたらどうでしょうか.
諸奉公人,小役その他の者でも懈怠無く精出す様に根本から手を尽さなければ,抜群の効果を上げられる策を持つ者はいないと思われます.
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稽古改役から出された「存寄」を無下に否定する訳では無く,それを解釈してより実現性の高い方策に結びつけています.
これを受けて,家老三好善太夫が下した結論は以下の通りでした.
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中都合の小田岡右衛門の存寄も出されているが,大筒は余程の物入りとなり,また用不足のものも有り,最も必要な大切なものから備えるというのが良法であろう.
新田開発,母駄馬の購入の手配は速やかに命じ,右の様な出銀を備えた上で稽古についても定めるというのが,良い方法である.
小田岡右衛門の存寄の通り,稽古改役の他に稽古御用専任の用係として勘定所から中小姓の中元寺又兵衛を加える.
更に稽古役人が吟味役と共に人柄を選んで,諸役人を決める事にして,人柄の良いものを数人印封書で出させて,その中から吟味して任命する.
尤も,右の者の中から任命しなくとも,表向きにその様な人選が行われるという風聞が出れば,稽古の成果も上がる様になる.
川除場の開田については,条件が同じでは無いと聞くが,以後は吟味方から1人ずつ立会うことにする.
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江戸時代は「封建制」と言う言葉で括られがちで,上意下達しか無いと思われがちです.
しかし実際には,当主が考えた政策をどの様に実行するかと言う点では上意下達に見えますが,それを効率よく進めるのにはどの様にするか,直接担当者から策を出させ,中間管理職は特に人事を中心に成果の上がる方法を上位者に示し,これに基づいて家老が決定を下して,政策が進められていくと言う流れになっています.
余談ですが,この三好重道と言う家老,秋月松三郎が上杉家に養子に出る際に,「はなむけのことば」と言うものを贈ったことで知られていますが,これも形式と言い,中身と言い,秋月家中で行われていた「存寄」そのものなのです.
こうして見てみると,現在の会社や役所の方が,江戸期の高鍋秋月家より遙かに遅れている感無きにしも非ずですねぇ.
何しろ,上は方針を示そうとしないし,下はそれに応える術を持っていないのですから…(苦笑
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/03 23:00
青文字:加筆改修部分
【質問】
高鍋秋月家の家中士統制策について教えられたし.
【回答】
高鍋秋月家は,17世紀からは内紛の連続でした.
以前,秋田の安東家でも触れた様に,大名が移封されると,前任地で長く培ってきた武臣が付いてきます.
しかし,一方でその旧知から離れたくない家臣がいますから,新知ではその不足分を補ったり,加増されるとその分行政権を行使する家臣が必要なので,こうした家臣を補います.
こうした家臣は,泰平の世では武芸は不要なので,多くは能吏となる人材が登用されます.
また,中世からの権力構造を引き摺った大名家では,往々にして昔からの知行持ちが当主と同格を誇る場合があり,それを排除する為に,当主側は新しく取り立てた家臣を重用して,今までの知行持ちを城下に住まわせ,知行を蔵米に切り替えるなどの動きをしようとします.
譜代と新参,譜代と当主などの関係が複雑に入り乱れ,機会があれば,譜代は新参を敵視し,新参も譜代を追放しようとしていた時代が17世紀でした.
高鍋秋月家の家中士統制策で特徴的なのが,屋敷替えです.
こうした屋敷は何処の大名家でもそうですが,特に高鍋では子々孫々にまで保障されたものでは有りませんでした.
家中士はそれぞれの家格と役付に応じて,「屋敷小路」(島)に配され,絶えず屋敷替えが行われます.
しかも,家格によっては城下に屋敷が無い場合もありました.
こんな状態なので,高鍋秋月家の城下町は非常に質素となっていたのです.
高鍋秋月家の奉公には番方と役方の2種類があり,番方は「組(与)」に組織され(これを番入という),軍事,警察権を行使する,所謂武家本来の活動をするものであり,役方は行政上の役職です.
高鍋秋月家では1638年頃は,給人と組足軽の2種しか無く,合計も300名弱でした.
それが,1661年には給人が倍に増え,組足軽も増えて合計が約400名に,
1685年には給人と中小姓,組足軽と門番の4階級に分れ約450名まで増加し,
1690年には給人,小姓,中小姓,徒士,組足軽,門番に分れ,門番は100人門番と言って100名増加して約700名弱に,
1702年には家臣総数は余り変わりませんが,これらの家格に徒士と組足軽の間に組外と言う家格が増え,
1706年になると大小姓が給人と小姓の間に設置され,総数も約700名強に増加,
1730年には給人から政事執政を分離して,30〜40名が執政となり,給人が40〜60名になって,総数も約900名へと増加します.
そして,1744年には大小姓が小給と改称され,一時的に大小姓と小姓がこれに統合されますが,
1750年には再び小姓が復活すると言う状態で,最終的に1,000名近い家臣数に膨れ上がっています.
因みに,大小姓が小給になったのは,吉宗が隠居して「大御所」となった時,「おおこしょう」だと「おおごしょ」に通じて恐れ多いとして改められたものです.
この家格,大体1693年頃にはほぼ出来上がっており,御目見家士の家格を「座」と言います.
文字通り,城内書院での礼席での位置を表しているものです.
給人層最上位に位置する家老は,書院上段の間と二の間の間より敷居際,二の間の内にて「御礼」をします.
物頭(組頭)は二の間の中の畳,用人,大目付,奉行も同じです.
給人は二の間末座の畳,中小姓は二の間と三の間の敷居際,三の間の内,上の畳となっており,徒士は三の間の末座の畳です.
また,城内の詰所も,書院は給人から中小姓,広間が徒士でした.
此処までが御目見の階層で,組足軽,門番は御目見にはなっていません.
更に,それぞれの座には「世襲」と「一代」が加えられ,その上に「並」「格」と言った扱いが追加され,幼少などで家督を継いでいない場合は,家格のみ有って家禄は当人には宛がわれていない,「無息」と言う扱いになっています.
因みに,こうした家格の他,「旅勤」と言う江戸や上方他地方機関の役人となる場合もありました.
ただ,この同一地位の役は3年で変わるのが原則で,これは飛地福島であっても,1765年以降は3年交替になっています.
こうした家禄の支給は,普通は米にて行われますが,中には大豆の場合もありました.
この支給方法が固まったのは,「御蔵方定目」として1769年に明文化されたものです.
扶持給でも3人扶持以上の者は,支給米の3分の1が等級の低い赤米で渡され,年貢米として渡される御蔵入米は真米,赤米共に1俵を4斗2升入りとされています.
御蔵入の大豆の場合も1俵は4斗2升としますが,支給高については1俵を4斗とする様にしています.
更に,扶持の支給は,月初めの4日程は日数計算とし,5日以後は残り月計算で支給していました.
この御蔵方定目を「存寄」として提議したのが,千手八太郎と言う人物です.
この人は,筑前からの譜代,祖父は家格が最高の給人であり,物頭から重役にまで進んだのですが,父親が権力闘争に敗れたのか,1744年に突然隠居を命じられ,家禄も100石から,家格も御目見最下位の徒士に落とされ給与も15石となり,居住地も城下から西北の楠木村になってしまいます.
父は隠居,更に家督を継いだ八太郎は,幼少に付き半知とされたのです.
その後,この逆境にもめげずに奉公し,1747年に番入りして半知の禄を取り戻すと,1765年に徒士から中小姓となって家禄も20石に上って,目付になります.
その後,家格は小給になり,ここに格付けされた役職を主に歴任しつつ,藩校明倫堂で指導に当たりました.
役職では,目付,蔵方,代官,山元頭取,検者の他,御用船建造の責任者など臨時に任命された役職も多く務めましたが,その多くは藩財政や監察,地方政治に関する役職でした.
『論語』では,「用を節して人を愛す」と説いています.
政治に携わる者は,人民の税金を基に仕事をしているので,費用の節約に心懸け,人々の働きによって納められた税金を無駄遣いせず,そこから生まれる財と政の余裕を,人々の福利の増進に役立てると言う訳です.
八太郎の考えの根本は,政治も学問もそれを行う組織も,衆庶に判りやすく簡略にすること,そしてその施策は判るまで繰返し説明する事,更にはそれが出来る人材を育て,求める事を心懸けていました.
八太郎が高鍋秋月家の財政の基本と考えたのは,当然のことながら,「入るを量りて,以て出ずるを為す」と言う『礼記』に書かれていた言葉で,これは現在でも通じる健全財政の基本です.
財は民を活かすことこそ意味があります.
『礼記』にはまたこうあります.
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国に九年の蓄え無きを,不足と言う.
六年の蓄え無きを急と言う.
三年の蓄え無きを,国,その国に非ずという.
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あ,何処かの国に聞かせたい台詞だって?
とは言うものの,現実はとても厳しいものがありました.
移封大名であり,公高僅か3万石に過ぎない高鍋秋月家は,幕初から財政で苦しみました.
特に,藩財政の基礎が確立されていない初期の頃は,筑前から御供した戦国時代以来の家臣に宛がった知行地が多く,財政を圧迫していました.
1621年の段階で,公高3万石に対し,歩行以上241名の知行地だけでも13,650石と公高の半分に達そうかと言う勢いで,その分,藩財政に投入できる金額は限られます.
当然,こうした家中士への知行配当替を行って,大幅に知行地を削減するのは,家中士の生活に打撃を与え,騒擾の原因になったりしましたが,必要な策でした.
更に,過大な軍役,手伝普請,参覲交代の道中費用,江戸屋敷の入費や国元での常襲する台風や洪水の対策費など,限られた収入の中では,幾らあっても足りるものでは有りません.
増税しか能がない人達は,説明も無しに,しかも入りを抑えずに,自分たちの懐も痛ませず,ただただ苛斂誅求で,結局信を失うのではないか,と思ったりするのですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/04 23:20
青文字:加筆改修部分
【質問】
高鍋秋月家の財政状況は?
【回答】
千手八太郎が生きていた18世紀後半の頃は,流石に軍役や手伝普請は少なくなってきていますが,参覲交代には道中費だけで1,500両の出費があり,更に1666年から1846年にかけての180年間に,26回も割当のあった「公家馳走役」には,多額の費用が掛りました.
この公家馳走役,正役になってしまうと,年間7,000〜9,000両と言う莫大な費用が掛ります.
控役に回ったとしても,3,000〜4,000両の仕送りが求められました.
1779年の場合は,1年延ばすと,最初は4,000両と言われていたのが,翌年には10,000両ととてつもない額です.
この為,高鍋秋月家では,非常用の軍用金として朱印蔵に収めてあるものから,金銀を支出して遣り繰りしています.
八太郎が生きた秋月種茂の時代,当主自らも「省畧」,つまり倹約を進めました.
1763年,「御物入三分の一」を減ずる「省畧」を諸役方に命じ,自らも江戸の藩費200両を100両に半減しました.
国元に在邑の場合も,「食物一式台所支配」を1年銀18貫に限るとして,率先したのです.
尤も,この秋月家,元禄期には既に草高6万石と称されていましたが,それでも未開地の多い場所なので,農家の創出が課題とされ,八太郎の存寄にも,二子以上の貧民に10歳までは養育料を支給し,18歳になると基金を与えて,民戸を創出すると言うものがあります.
ただ,商品経済に代りつつあった時代に,米中心の経済では成り立っていかない状態になっています.
そこで,緊急対策として家中士からの反銀や町人からの借上が為され,合わせて豊富な林産資源を利用した林業に力が注がれました.
しかも,「上ツ木」中心の山林経営,つまり,良木を伐りだし,市場に出す政策から,雑木に付加価値を付けて売る,製炭などの「下ツ木」政策への転換です.
具体的には,藩直営の御手山から,民力利用の「歩一山」によって植林政策を進めたのです.
例えば,植林者に10本に付き5本,立山は3歩,つまり1町歩の仕立に3反歩を与える方法で植林を進めました.
これは上杉治憲が進めた漆,櫨,楮の百万本植樹政策と同様ですが,高鍋秋月家では既に1701年にはこの方式で茶,漆,楮,杉,檜の仕立運上について取決め,積極的に民力による植林を進めています.
上杉家の施策が紅花以外余り効果を上げ得なかったのは,皮肉にも,兄と山を越えた隣の肥後細川家が,同じ方法で林産業を活性化し,それによって得られた付加価値商品を,上方市場に送り込んで市場を開拓してしまい,ブランドを確立してしまっていた為であり,この大名2家の市場占有率が,非常に高かったからでもありました.
因みに,八太郎の時代に,飛地「福島」での木材売上代銀を見ると,1773年には銀30貫180匁6分が,1787年には銀47貫97匁8厘5毛,1789年には一挙に倍の113貫16匁9分9厘7毛となり,1795年でも銀41貫540匁で安定しています.
仮に銀60匁を1両とすると,約500両と言う安定した収入を得ている訳です.
ところで,八太郎が書いた『自求録』には,随所に彼の治世に関する世界観が出ています.
で,面白いから幾つか紹介.
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ある医学書に「百病は気より生ず」とある.
「気」と言うのは,一般的にはあらゆる生命の根源になるものを意味すると説き,翻って世の中を見ると,高貴の人は常に病気多く,身分の低いものは病が少ない…つまり,これこそ病は気から生ずるというべきである.
一方で,君子は常に精気を養って,身体は日々盛んであり,これに反して小人は常に精気を害って日々病を生じる…これは「理」の常である.
しかし,世の中の人には,学問をすることによって病を生ずるという者がある.
これは,差し迫って無理を下から起こることであって,理には当たらない.
総ての者が固滞して緩急の道に達しない為に起こるもので有る.
人が天から受ける精気というものは,分量に限界がある.
「修身,斎家,治国,平天下」
これは朱子学が最も中心とする学問理念であるが,この仕事を1人で行うとすれば,それは心気を損ない傷つけ,父母が与えてくれた身体を害することになり,不孝不義の何者でも無い.
だから例えば,農家の長であれば,家内の衣食や小さな事は,皆妻や娘に任せて,ただ重要な点だけを聞いて,上手く成功することを求めて,自分自身は農事に務める様に心懸ければ,農事も上手く行き,家族を養う二十分のものが得られ,泰然として家を維持する事が出来るもので有る.
それがもし,朝夕,家にいて,妻や娘の事に細々と口を出せば,自分が為さねばならぬ農事は上手く行かず,家内の事もまた上手く行かぬもので有る.
また,上級武士で官職にある者は,自分の家のことの対外は妻子や奉公人に任せて,ただその要点のみを聞いて成功を求め,出来るだけ余計な雑事を省いて,心々年々官公事を宜敷することを第一とすれば,官公事も上手く行き,精気も損なわれることは無い.
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嫁が,とか,妻がどうとかと言い訳しているようじゃ,まともな政策も出来ないと言うことでしょうか.
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官公事に臨んでは,聡明な人であっても精神努力しなければ事は成就しないのに,今の官人は往々にして,自分の家のこと,飲食,小事などに汲々として,ほんの一時,役所にあって公事に着くが,その間でも公事に専心していない.
或いは早く帰ることばかりを考えて,常に腰を落ち着けていない.
家に帰っても公事のことを考えることなど全く心に無い.
これでは,公事は上手く収まらない.
例え自分は愚なりと雖も,専心,公事に尽せば,これもまた忠臣の徒と言われる資格はあろう.
また天下国家を治める君主は別にしても,小事は衆官に任せ,本務以外のことは省いて精神を養い,真要を執って天下を治めることが肝要である.
その要点は何と言っても,人材を得て,それに任せ,成功を求める事にある.
公事にはそれぞれ人を得れば,小事にしろ大事にしろ治まらないことは無い.
しかしながら,人を用いると言っても,君一人の判断で総ての衆官を求めるのでは無くして,先ず4,5人の宰相と執政を主君が得れば,その人々がそれぞれ部下の優れた人材を挙げてくる.
軍隊に一例を取れば,例え百万の軍兵が有っても,大軍を制御するのに,少数の者で行う方法がある.
例えば什伍の組織を作れば,大将,元帥が直接指示を下す人は3〜5人に過ぎない.
この様に物事は,要点を得て簡約に収めることが大切である.
複雑にすれば却って,大切な点,要を失って治まらなくなる.
そして大切なのは,4〜5人の宰相と市政に優れた人材を得るのは主君の聡明さに有る.
君公がもし私見で人材を見て選び,邪知姦佞の者を登用し大臣としたならば,国家は必ず乱れる.
だから,君公は天下国家を治める為に要事に聖学に従い,究理尽性の良い人材を用い,君公が自分自身の聡明さを十分に発揮して,自分の明徳を明らかにすることである.
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ま,少なくともケーバサイトを見ている様な大臣じゃ,まともに仕事が出来ようはずも無く,震災から1年経って,彼方此方に会議や審議会や協議会を作っても,物事が前に進む訳はありません.
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ある年,穀物が不作で,地方役人がその役職を辞任するところが4箇所も出た.
役人は民を救うという策を持っていないことを,自ら恐れてのことであった.
飢饉の時,八太郎は家人に命じて,自分もまた家人にも厳しく倹約をさせた.
朝夕の食事には薄い粥を用いさせ,昼飯には炒豆を掌半分だけで済ませた.
そして一方では,大竃に濃い粥を用意させ,来る民衆に食べさせた.
人の為になる事は恐れず行う事を喜びとする八太郎の行動を聞く人の悪言は,「彼は既に病気である」.
しかし,彼にすれば,「悪に従うは疾の如し」であった.
彼は言う.
帳簿の行間が語る所を見て,自ら何をなすべきかを知るべきである.
役人にとって民を大切にすることは,親が子供を育てるのと同じである.
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更に彼は,役人は利を興し,害を除くことを恐れてはいけないと説き,「存寄」については例えそれが登用されなくても,提案することだけでも民の為になる事は少なくないと考えています.
管理職は椅子にただノンベンダラリと座っていれば良いのでは無く,報告書や帳簿の行間を読み解き,常に現場に思いを馳せよと説いています.
実際,八太郎は蔵方の役人となっても,自分の職場で執務をしている姿を見た者は無く,常に現場を飛び回っていたと言います.
その職場の席も見窄らしいもので,ある商人が新しく作り直すことを言い募ってきますが,
「私の席が粗末だからと言って,貴方が憂えることは無い」
と言って,申し出を蹴飛ばしたりもしています.
普通に付き合うには,この人,中々難しい人物かも知れませんが,庶民から見れば頼りになる存在だったのかも知れません.
今の世の中,この国に八太郎はいるのかいな,と思うのですが,さて.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/05 23:22
青文字:加筆改修部分
【質問】
高鍋秋月家の代官のお仕事は?
【回答】
江戸期の大名家の行政機関も,幕府をそのまま小型化した様な感じでした.
高鍋秋月家も御多分に洩れず,地方の行政機関担当者として,代官を各地に配置しています.
代官以外,普通の人事異動は一般には6月に行われますが,代官に関しては,1月が人事異動月となっていました.
これは,前年末の年貢を始めとする「勘定」が総て終わった事を境に行われると言う意味になります.
ただ,年貢や運上の不納や延納が発生して勘定が遅れてしまうと,異動も遅れることになります.
代官の任期は,先述の様に3年1詰が原則でしたが,18世紀後半の江戸屋敷詰は2詰心得,大坂蔵役などの交替は3年の出入心得となっています.
この時期の高鍋秋月家の代官は勘定奉行の支配にあり,城付地新納と野別府,福島山西と福島山東,そして諸県と分地に1名ずつ,合計6名が配置されていました.
城付地新納以外では,野別府には都農町もあり,野別府代官は高鍋秋月家にとって重要な役目でした.
代官役は身分上,「中小姓」や「小給」と呼ばれる階層で,その有能な人材を見込まれ,「一代」限りの身分で登用された者等もいました.
代官と勘定奉行を繋ぐ中間管理職として,郡代がいますが,この郡代には最上家格の「給人」から任命され,代官から昇任することはありません.
但し,場合によっては臨時的な職である「総代代官」役に任命される場合もありました.
代官は,地方の行政機関担当者であり,収税担当者でもあります.
この為,常に第一線に立つ気構えが無ければなりません.
また,単に役所の中でふんぞり返っているだけでは駄目で,在郷民に直接接して,問題があればその対処法を的確に指示しなければならない存在でもあります.
特に,飢饉が襲ってきた場合には領民を救済する必要があり,一方で,藩財政の為の税収を確保しなければならないと言う,相反する政事を強いられる事になり,そのコントロールを保たねば,場合によっては一揆や逃散になりかねません.
当然のことながら,八太郎の様な有為な人材は,代官として第一線で働く事になります.
八太郎は,野別府代官として1781年11月に,林形右衛門が新納代官に横滑りした後を襲い,1785年正月12日まで勤め上げています.
どうやら林代官の勘定が遅れ,結局1月の人事異動には間に合わなかったようです.
時に,この1781年から全国的に不作の年となり,天明の大飢饉が始まる前年となっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/06 23:19
青文字:加筆改修部分
【質問】
高鍋秋月家における天明の飢饉の様子は?
【回答】
天明に入って直ぐの1781年,高鍋の地は大干魃に見舞われ,翌1782年は全国的に大凶作の年でした.
高鍋秋月家中の城付の村々でも,大風雨と田虫付が心配されています.
この頃,新納の林形右衛門と野別府の千住八太郎両代官の存寄により,毎年2月と8月の3日には新納7ヶ村と中通りの内蚊口,13日には中通りの内平田,高城,石河内,それに野別府両名と心見の庄屋・名主を代官所に呼び出し,農作物の出来具合や状況報告を聞くことになっていました.
7月24日,両代官が郷中見聞を行った所,田虫が一夜の内に稲穂を食いつぶし,一昼夜も放置していたら収穫皆無になる事が分ります.
この為,こうした田を見つけたら直ぐに報告させ,刈上げを行うかどうかを吟味することにしました.
そして,事は収穫に絡む重大事なので,農作物から目を離さない様に,中小姓と徒士の中から日置,三納代,長谷に6名,椎木,高城,持田,鴫野に6名,中鶴,蚊口に4名,上江に4名を充てて,2名ずつ毎日油断無く見廻り,庄屋村役と虫付の状況を十分に吟味させました.
また,大雨後の対策として,
「雨の為時機を失い,刈上げが出来なく朽ち果てたので,捨てる事にした」
と言うものについては,充分に調べた上で,改めて刈上げさせる様に命じた所,大雨後でも被害を訴える者が少なくなりました.
こうした対策を採ってしても,凶作は免れ得ませんでした.
米の値段は日毎に上がり,1升が60文,65文,70文,75文,80文前後に達しましたし,その米の値段に引き摺られて,他の穀物も同様に値上がりし出します.
未だ高鍋は未だマシな方で,他の地域では全く米が取れずに,米1升が150文位にまで跳ね上がった地域もあり,全国的な凶作は1732年以来半世紀ぶりでした.
時代劇ならこんな場合,農民は放置される事が多いのですが,それでは基幹産業である農業が立ち行きませんし,農民がいなくなれば,武士の給料である米を生産する人間がいなくなり,自分たちが困ります.
この為,地方の第1線にある行政機関である代官は,当然その救済策が迫られました.
例えば,都農町の場合.
この都農町は,当時凡そ106軒の家があり,人口500名,日向国では主要街道筋にある宿場町で,高鍋秋月家の御仮屋(本陣)が設置され,それを中心に町人の問屋,下宿があり,駅馬と飛脚用の水主も備えられていました.
先ず,1782年6月15日,町人55軒が「赤米拝借5石5斗(1軒宛1斗)」を願い出て許されます.
手続きは町部当が困窮者の家族名簿を作り,代官に願い出ます.
代官は藩庁に取次ぎ,それが認められると藩勘定方から,都農町の場合は美々津御蔵で受け取ることを指示されました.
因みに,新納代官支配下では城下萩原御蔵で受け取ることになっています.
1783年,前年の凶作故に作物の持越が出来なかった事から,
2月9日に62軒が「裸麦(大麦)9石6斗」(1軒宛2斗)を,
3月には69軒が「赤米4石8斗5升」を,
更に6月25日には34軒が「裸麦5石1斗」を,
7月10日には39軒が「裸麦5石8斗」を,
そして1784年3月にはまたも37軒が拝借米を願い出て,何れも許可されて貸し出されていました.
このうち,1782年3月の69件の内,61軒が3度目,6軒が2度目でこの人々には7升,初めて拝借米を申請した2軒の人々には,8升の拝借を許し,何れも美々津御蔵から支出されています.
借りた人々は何れも,出来秋には年貢と共に返納することを約束しています.
更に米や麦が足りなくなったり,それすら手に入らない人々に対して,代官は飢餓対策の1つとして,「松皮」を食べる事を周知しており,この「松皮」については,前後3回に亘って広報されていました.
1783年8月9日の廻文ではこう書いています.
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松の皮を食物に致し候儀,大坂表より申し来たり候に付,皆誠に拵え候て食べ候,しかも宜しきに付,随分取り候て食物に致し候よう仰せ付けられ候.
尤も,雄松(黒松)の皮,古木の皮第一に宜しく,雌松(赤松)の皮も食べられ候らえども,是は苦み,渋味是あり候.
松の甘皮は宜しからず候.
拵え方は松の皮を臼にて搗き,又挽き臼にて引き候て粉に為し,篩にて振るい,米の粉か麦の粉を半分混ぜ候えば上々に候.
3勺に1勺の米の粉,麦の粉混ぜ候ても宜しく候,米の粉,麦の粉を下に置き,上に松の粉を置き蒸し候て,米の粉麦の粉蒸せ候えば随分搗き交ぜ候て,団子に致し食べ候.
こふせんに致し食べ候ても宜しく候.
一向米の粉麦の粉混ぜ申さず候ても食べ候よし,右食物になり,寿命の薬,痰などの薬にもなり候.
毒になり候儀は一向これ無く候.
先ず少し拵え食べ見候様に,一統申付けらる可く候.
委細は面談にて申し置くべく候.
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先ずはやってみて,その後修正が有ったのでしょう.
同じ8月でも,一部文面を替えた廻文が出て来ました.
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黒松荒皮選りて用い,内皮は苦みありて用いられず.
右荒川を叩き粉にして,蓋の能く合わせたる鍋に入れ,水沢山にして掻き混ぜ,暫く煮て,そのまま蓋を取らず一夜おけば渋味,苦み,匂い除く也.
翌日,味噌こし,またはそふけ(笊)に敷布を敷き移し置く也.
1. 右の粉1升に米の粉,麦の粉,蕎麦粉2〜3合入れてよし.
ふつぐさの類尤も宜し.
何にしても能く搗き交ぜ湯煮して用いてよし.
2. 右の粉炒りて茶の子にして良し.
上方にて駕籠舁き渡世する者共,朝3椀食べ,茶飲み出るに昼まで食事に及ばず候よし.
3. 病に障り無く,痰の病,けんひき(肩こり),胸の焼ける薬によし.
右の他松実皮用方ありと雖も,先掛かり入用の事ばかりを記し,郷中浦津の者共,早く合点致すため,この旨一統に申し諭すべし.
尤も委細の事,承りたきものは,支配預りより承るべき事.
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確かに漢方薬で松の皮と言うのもあったかと思いますが,今はこれを食べる事すらありません.
こんなものでも食べなければ餓死する可能性がある訳で,つくづく,我々の先祖はギリギリの状態でで生きていたんだなぁと思ってみたり.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/07 23:18
青文字:加筆改修部分
さて,昨日は天明の飢饉に触れたのですが,この大変な1784年と言う年に,当主種茂は,その様な領民や部下の苦労を知ってか知らずか,自ら筆を執って,『郷閭学規』,『郷閭学規聖語国字解』と言う2つの書物を著し,これを領民に読み聞かせよと言ってきました.
『郷閭学規』の「郷閭」とは「村里の人々」,「規」は「手本」の事で,「村里の人々のための教科書」の意味です.
『郷閭学規聖語国字解』は,「学規」に述べられている孔子や孟子の言葉を,平易な言葉で述べた注釈書であり,前者は広く領民一般に村役などから読み聞かせるもの,後者はその村役の為のあんちょこ的なものでした.
「学規」は全部で12箇条からなり,最初の1条は序文,君臣,親子への孝行,父母の務め,母の心懸,兄弟睦まじく,嫁の孝行,夫婦睦まじく,女の三従,親類并在所,敬老,分相応の職分と,身近な生活の中の人倫の在り方を説いたものが11箇条です.
各条の末尾に,論語,孟子,大学う,小学から聖の言葉を引用しています.
…とまぁ,こんな感じで種茂の仁政を顕わしたものとして,後世には名高いものなのですが,出した時代がよりによって,天明の飢饉の真っ最中.
領民達は赤米や大豆の貸し出しを藩政当局に要求している状態であり,藩政当局も「松の皮を食べて飢えを凌げ」とか言っている時に,のんびり学問なんぞやっておれる訳など有りません.
それでも1782年7月6日,城内代官所に於いて,野別府代官千手八太郎に『郷閭学規』『郷閭学規聖語国字解』の2冊が箱入りで渡され,それらは各支配下の庄屋や部当に配布していきます.
そして,郷閭学規は毎月16日,郷中の老若男女を呼び寄せ,文章の趣旨を守る様に庄屋部当から詳しく語り聞かせ,郷閭学規聖語国字解は,読み聞かせる必要は無いが庄屋,部当が日頃目を通しておく様にと言う命令を下しました.
こうして,7月16日に最初の読み聞かせが行われています.
とは言え,農繁期の,しかも田虫や旱魃などで忙しい農民達や町の住民達と,英明と称えられた当主との板挟みに遭ったのが代官です.
その苦悩の胸中を,八太郎は同じ年に『損益二卦』と言う文章で著しています.
そもそもの切っ掛けは,種茂が朱子学の入門書である『近思録』を読んで,その講説を八太郎に求めたものです.
これに対し,八太郎はかつて師匠から聞いた講説を,息子の春太郎興重に記述させました.
そして,「損益二卦」については八太郎の説を追記させて献上しました.
それによれば,損と益について八太郎が思う事として,以下の様に書いています.
------------
『文章軌範』では,「有余を損じて不足を補う」とあります.
つまり,余裕の有る者から重く取り立てて,不足を補うものです.
これが天意であり,政事の要道になります.
かつて宇井先生(八太郎の師匠)は,『近思録』のこの所では,損益二卦の義を懇切丁寧に説明されました.
今,私も密かに考えるに,『易経』の包犠氏以来,列聖が相伝されている「微意」があり,それは後に『大学』に伝えられて,その意味が明らかにされています.
「曰く,君主が財を集めれば,民は散る.財を散らせば,民は集まる.
亦云う,聚斂の臣(税を重くして厳しく取立,その富を増やす役人の事)がいるよりも,寧ろ盗臣がある方がましで有る.」
こうした宇井先生が示した教えを最近,切に考えます.
察するに,上が損をして下に財を振る舞えば,民力は日に日に増して,民戸は日々に増え,田野は日々に開けます.
上下と富,菽粟(穀物の事)は水火の様な関係に有ります.
そして,民は情け深く人情に厚い政治を常に期待します.
仰ぎては,君相に親しみ,父母を愛し,伏しては妻子を養い,孤独を憐れみ,争いは止み,これを試しても盗まず,更に余裕が生まれ礼儀を極める様になります.
益卦の義とは正に此の事です.
一方,聚斂の義,これは国家の益に関わる事であり,それ以外に意味はありません.
下を損じて,上を増せば,民の力は日々に衰えて,民戸は日々に減り,田野は日毎に荒れ,此処に生きる者は寡く,上下共に乏しく,民は人の道を外れた事を常とする様になります.
仰ぎては父母に仕え,伏しては妻子を養う事すら為しません.
上は君相を怨み,下は争奪して,盗賊は日々に蜂起します.
これは皆,収斂の臣が引き起こした事で,遂に波乱を来します.
これこそ,損卦の真の義です.
これこそ,国家の損で無くして何の損でしょうか.
後の世にこの真実を知るものは寡くないでしょう.
------------
今,何処ぞの国の上つ方は,増税に躍起です.
「君主が財を集むれば,民は散る」と言う基本理念が判っていないと,遂には波乱を来す事が分らないのでしょうか.
先ずは,我が身を律しなければ,民は誰も付いてくる事はありませんわな.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/08 23:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
高鍋秋月家の飛び地,福島について教えられたし.
【回答】
さて,高鍋秋月家は先述の様に,領地が3分割されていました.
その中の最大の飛地は,8郷18村13,638石1斗7升からなる福島です.
福島の地は,山西3郷と山東5郷に更に分れています.
山西は町方として上町,中町,今町,塩町の4つの町,在方として,西方郷には西方村,高松村,奴久見村,一氏村の4ヶ村,北方郷には,北方村,秋山村,大屋取村の3ヶ村,南方郷には,南方村,奈留村,大平村の3ヶ村,それに津口として金谷,崎田,湊浦の3つの津がありました.
山東は本郷仮屋郷として崎田村及び本城村の一部,本城坂元郷として本城村など3ヶ村,都井(土肥)郷として都井村,御崎村,大納村,市木川南郷には市木村,市来川北郷には海北村,六郎坊村,市木村の一部が属しています.
この中で特に自治が行届いていた地域が都井(土肥)郷です.
現在の串間市都井に当たるこの地は,山と海に挟まれ,気候は温暖で田地は1,000石ほど,山草木に恵まれた280余戸の地域で,農業従事者に没落者は無く,盗賊もおらず,賭博で身代を費やす人もおらず,昼は耕し,夜は縄を綯う様な生活で,年貢の納入は怠る事が無く,農作業の隙に山に入って竹木を伐り,家屋を修理すると共に,その余りは売却して諸課役の銭を収め,私生活の費用の足しにしています.
防犯防火対策として,村の端に小屋を作って,決められた時間に夜回りをしたり,義倉を大庄屋の屋敷に建てて豊年には余剰の穀物を集めて,凶作時にこれを分配して食糧の不足を補っているので,凶作時でも役人や領主に救いを求める事も無く,年貢の収入が滞ったり,欠ける事も無かったと云います.
これは,大庄屋が農民達をきちんと把握しているからであるとされ,「良将が士卒を率いるが如し」と言われました.
この為,当主から代官になる者に対し必ず言われたのが,「土肥郷の様な治世を望む」と言うものでした.
ところで,当主は国許に帰っても,羽を伸ばす事が出来ません.
特に,高鍋秋月家の場合は,領内巡視と言っても,領地が3箇所に分れているので,当主が領内巡検に出掛けた際にも複雑な手続きが必要です.
例えば,1777年9月,秋月種茂は福嶋巡検を実施します.
まず4月12日,参覲交代の御暇で江戸からの帰国に当り,幕府御用番の松平周防守に届を出す必要がありました.
幾ら自分の領内巡検と言っても,実際には他家の領地を通り,場合によっては宿泊も必要です.
その場合は,必ず幕閣に手続きをする必要がありました.
その内容は概略次の様なものです.
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私種茂の領分日向国高鍋の内福島という所があります.
今度,帰国の暇を頂きましたので在国中にこの地に赴き,30日程も滞在し,巡検したいと思います.
この地は他国領内も通り,又他国領内に止宿もしなくてはなりませんので,此の点をお伺い申上げます.
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これに対し,幕閣からは次の様な質問がありました.
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秋月山城守領分の福島巡検について,他国領内に止宿する点について先例があるが,止宿は自分領内か,他国領内か.
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これについても,書面で下記の様に答えました.
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山城守種茂の曾祖父長門守の巡見の時は自領内に止宿しましたが,何分城下から20里も離れていますので,伊東大和守様の領内(飫肥伊東家領内)を通行するので,同国内に往復共に一宿する事になります.
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とまぁ,こうした書状の遣り取りの結果,4月20日に漸く許可が下りましたが,これだけでは終わりません.
実際の巡見時にも,その発着の日時を詳しく幕府は元より,長崎奉行や日田代官所にも報告しています.
飫肥領内での宿泊は,1817年8月に領内巡見を行った種任の場合,飫肥と清武の中間に有る山中の山仮屋の番所で仮泊しており,種茂も同様の場所に止まったと考えられます.
こうした巡見は,大名家によって様々で,当主自らが行う場合と,家老が命を受けて派遣される場合とがありました.
と言っても,先述の様な手続きの煩瑣さから言っても,後者が大多数を占め,当主が巡見する事は余りありません.
で,1777年5月19日,種茂は江戸から帰国し,高鍋に入城しました.
6月になると,福島巡見の御供並御用掛都合に,家老の小国岡右衛門,巡見御供並用人に鈴木丹右衛門が任命され,この2名を中心に準備が進められました.
こうして9月2日,23日から発駕する旨を薩摩島津家,飫肥伊東家,佐土原島津家,清武,延岡内藤家,日田代官所,富高の各地に飛脚で使者が立てられ,15日には巡見中は留守を預かる用人以下役人の藩庁出仕が命ぜられました.
16日,飫肥伊東家の清武から途中同所御仮屋に立ち寄り,お休み頂く様にとの知らせが届きましたが,こちらは断る事にしました.
9月23日,暁方八ツ時(午前2時頃)に高鍋城を発駕し,藩領境の三納代(現在の新富町)まで見送りを受けました.
この日の順路は,飫肥城下までは飫肥伊東家の参覲交代路と同じで,一行は供揃で各城下等を通り,応接を受けます.
島津家の佐土原城下を通り,清武を経て山仮屋に着き,同所で小休止の後,翌日暁方八ツ時に再び発駕し,伊東家の飫肥城下を経て,楠原,酒谷入口から塚田,荻峯,榎原を通り,福島奈留村古大内の虎渓庵に暮六ツ(午後6時)に着いて,同所に宿泊.
翌25日,福島居住の諸士の出迎えを受けて,福島郡本の御仮屋に着きました.
因みに,この時の御仮屋は,現在の串間市役所の地にありました.
この地で新しい代官の任命などを執り行い,以後,ほぼ1ヶ月に亘って領内巡見が続き,10月7日に高鍋に帰着しています.
この巡見の内容は残念ながら記録に残っていないのですが,1817年9月22日から10月8日まで,種茂とほぼ同じ日程で,孫の9代種任も福島巡見を行っています.
それによれば,種任は,8日間掛けて領内の福島山西,福島山東の諸郷,町,津,浦を隈無く廻りました.
最初に訪れたのは,藩祖の菩提寺西林院ですが,以後は各村々の僅か数軒の集落も疎かにせず,詳細に見て回ります.
交通手段は,雨天とか難所で無い限りは馬か歩行,雨天の場合のみ駕籠が用いられました.
1日の行程の内,数カ所の集落では,「御入込御覧」と称して,集落毎に軒数を訊ね,人口の動向,特に空家があれば,その理由を聞きました.
休憩の庄屋元では,「唐薯と大根の煮染」と煎茶の応接のみです.
この他,各地に設置した代官所,庄屋,勘定屋,番所の他,古川の義倉田や烽火,浜塩業(塩炊)も見学しています.
なお,山東の場合は,郡本の御仮屋から遠い為,都井と市木の庄屋元に宿泊します.
こうした領主の巡見は,民心掌握にも非常に効果を齎した様で,屡々大庄屋達は,こうした際に領主から問われた事を走り書きして備忘録とした後,後に能書の人にお願いしてきちんと清書し,家々の名誉として子々孫々にまで伝えたと言います.
他に,福島諸士への御目見と褒賞,文武の上覧,寺社参詣,70歳以上の老人の敬老行事,郷の経営で優秀な地区への褒賞の他,近隣の薩摩島津家や飫肥伊東家の使者の引見などを行っています.
こうした領主巡見は単に領主の物見遊山では無く,実際の政治も役立てられているのです.
そう言えば,うちの宗主国の市長がこの地を訪れたなんて話は合併以後とんと聞きません.
何時も何をしているのか見えませんねぇ.
何十キロも離れているのではなく,市役所からはほんの数キロなのに,姿を見せない為政者って一体何なのでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/10 23:03
青文字:加筆改修部分
【質問】
「郷中義倉」とは?
【回答】
天明の大飢饉では,各地で餓死者を多く出しましたが,その反省も込めて,1788年に福島山西三方,つまり,西方4ヶ村,北方3ヶ村,南方3ヶ村の10ヶ村地域から代官千手八太郎に対し,「郷中義倉」と呼ばれる備蓄倉庫の設立意見が出されます.
これは藩庁に取り上げられ,義倉の設置が決まり,折り返し代官に対して運営上の取決めである「御条目」の策定と義倉に対する「存寄」があれば出す様に命じられました.
これに対し,当時代官だった八太郎は,次の様な存寄を出しました.
------------
此の度の義倉の御条目原案は朱子の社倉に基づいて定めるものですが,南宋と今の時代とは異なり,また日本と中国との国の違いもあるので,大方の内容は朱子社倉の意に従うとしても,実施に当たっては,領民がよくよく納得して,なるほどと信用できるものでは無くては,実施に移しにくいと思われます.
兎も角,簡単で人々が従いやすい様にしたいものだと考えています.
易経に次の様にあります.
「乾は易きを以て知り,坤は簡を以て能す,易は即ち知り易く,簡は即ち従い易し,
知り易ければ即ち親しみ有り,従い易ければ即ち功有る」と.
簡単で有れば,人は従い易く,その成果も上がる事と思います.
「古礼」(孟子や孔子時代の教え)は大変難しく,煩わしくて人々が従いにくい為,朱子が「家礼」として簡約に,解り易くされた事によって,世に広く行われる様になりました.
我国では,その「家礼」でさえも行われにくく,その上更に簡約にして,実行されるようにと,先学者によって解釈検討が為されてきました.
此の事によって考えますのは,今までの「拝借制度」(拝借米)については,何の「費」(損害)も無く,ただ制度で「優」に優れて,その制度の目的とする領民への恵が行届く事が無く,言葉だけの「愛」(慈しみ)に終わっています.
ただ形だけが立派に整っています.
今度の義倉も,今までの拝借米の「形合」で,1斗に付き5合の利息が付くばかりの違いで行われれば,簡単で従い易く,長く続けられ,人々の益にもなると思われます.
物事は,事細かく煩雑に法を定めて行われると,人々は恐れ多い事だとは言いながら,その法は実際には行われず空文になってしまいます. この様な事は今までにも能く見聞きした事です.
朱子も米穀の出入については,官法で事難しく定めては,人々の益にはならないと念を押しています.
後の時代の損害を恐れて,大事を取り,念には念を入れるのは良いのですが,それも度が過ぎて煩雑になり過ぎて,却って損費が多くなるので,その最も大切な点を主として,枝葉の所は簡単にしたいと思います.
此の度特別に義倉を建て,義倉米を取り集めるに付いては,蔵役下役の他数人の役人を任命する事無しには済まないでしょうが,それでは負担費用も軽くないでしょう.
貸出し米1斗に5合の利息では,100石に5石の利息となります.
それでは年々の倉庫の修理も間に合わない位の事で,9年,10年後には,此の度定められた形で真米,赤米を返納していては残米は1つも無くなって,それっきりで終わってしまうことになるでしょう.
朱子の社倉米は,元米(資本米)が600石で利息は1斗に2升宛としています.
その利息は大変な高額のものとは思われないけれども,朱子の方式通りとする事は難しい.
かと言って,現時の状況から見て,今すぐ1斗に5合より以上の利を付けることは難しく思われます.
私は古い時代の教えに拘るものですが,今回は朱子の大意を用いて,時宜に応じて簡単にしたいものと思います.
それで原案の意を受けて,私の存寄を書き認めて呈上致しますので,更に吟味を重ねられ,条目が成り立つ様にお願いします.
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更に,提案は続きます.
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一,義倉の名称については,先年,坂田宇平次殿が,此処福島の郡代をされていた時に義倉の取立があり,それ以後福島院中の者は,義倉の名はよく知っていますが,社倉の名は殆ど知っている者がいません.
義倉と言えば直ぐ合点するようですので,義倉では良いのではと考えますが,朱子が名付けた社倉にあやかって社倉とされるのが良いと思います.
一,豊作が続いた年には,3年,5年と米の蓄えがされるので,今秋から籾の上納を命ずるのはご尤ものことと思いますが,籾の上納については,今までの「囲米」でさえ,郷中の管理運営が難しいと言われています.
その理由は,籾1升は,米4合5勺の割合で納められますが,鼠などの被害も多く,また籾の俵詰が良くても,問題は米にした時の米質の善し悪しであります.
地味(土性)が悪い田に肥料を強く入れて,上手く出来た米は,米に擢った場合には,米(玄米)の量が少ない.
その様な他人が生産して納めた籾を,拝借して受け取ったり,返納の籾として帰されるのは良い顔はされない.
これまで行ってきた囲米の籾も,玄米に擢って納める事を命ぜられる時は,それぞれが納めておいた籾を受け取って,それを擢り米にして納める様にすれば良いと思います.
社倉に今秋返納する者で,来春に借りる様な事態は無いでしょう.
その他の人で借りる者が多ければ,自分自身が収めたものを借り米として受け取ることは難しいと思われます.
先ずは籾では無く米を貸し,米を返納する様にして,後年に格別に量が増えて,米で管理運営が出来なくなった時に(米に擢ると保存に限界がある事を言っている)籾上納を命ぜられる様にすると,領民は社倉のことを能く理解して,少々迷惑になっても全体の利益と考えて,籾上納の場合でも難渋したり,不満を持つことは無いと思われます.
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流石に,農民の間に入って,その考えを理解している代官です.
ともすれば,行政官僚は机上でものを考えがちです.
現在の復興政策は,東京の霞ヶ関という,震災や原発事故から殆ど被害を受けていない場所で,机上の空論を振り回して作っているのに過ぎないものばかりで,中身が全然伴っていません.
そう言う意味に於いて,江戸期の地方代官に劣った政策しか出せないのではないでしょうか.
復興庁だか何だか知りませんが,東京に本部を置くと,地方に出先機関を置いても,官僚達は東京の方を向いてしか仕事をしないのではないでしょうか.
本当に復興を考えているのなら,日清戦争中に政府が広島に移った様に,仙台辺りに政府を一時的に移転させて復興政策を考えると言うのが,本来の行政の姿では無いかと思うのですがねぇ.
ま,上つ方にまともな人間がいないから,まともな思考が出来ないのも当然と言えば当然ですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/11 23:25
青文字:加筆改修部分
さて,義倉を設けるに当たっては先ず資本,即ち米が必要です.
それに投入できる真米は8石6斗3合5勺7才,赤米が80石3斗2升3合8勺3才です.
これらは,福島山西三方郷中で,2年前に年貢を取り立てた際に未納となった分です.
未納分は,年賦上納となっていたのですが,1786年には凶作があった為,取立収納できず,10年の年賦上納が終わって11年目に上納する様に伸ばすお願いをして許可されたものとなります.
幸い,翌年の1787年は田方の出来が良く豊作となり,その年の暮れの上納分が総て済み,更に余った分として,1786年暮れに未納となった分まで取り立てることが出来ました.
そこで,この1786年分の真米と赤米を,1786〜1795年まで郷中に貸しだして貰い,それを元米,つまり資本として社倉を設立することにした訳です.
もう1つの元米は,赤米23石4斗3升4合9勺で,これは1788年春に,井手の修理について見積り人足8分の高で郷中の請負として修理したいと願い出て,許可されたものです.
その工事に当り,本来は飯米が支給されるのですが,これらは農民達の自飯米(手弁当)で修復し,藩庁から支払われた8分高の人足飯米を社倉に組み込む事にしました.
社倉米を貸し出す際には,それまでの拝借米と同様の手続きで,庄屋から願書と関係人名を代官所に出して,郡代がこれを確認した上で貸し渡します.
但し,社倉米を借りたいと希望する者は,2竈(2軒)について真米と赤米の内1俵を限度に貸し出すことにします.
尤も,2度目,3度目の借用になると,その年の豊作凶作によって,ある時は3人で1俵,ある時は4人で1俵と言う風に状況に応じて割合は随時に分配を決めて行います.
返納は,貸出し米1斗に付き5合宛の利息を加えて,秋毎に滞ること無い様に返納させます.
但し,収穫が少ない年の場合は,元利の内利息の半分を免除し,凶作の年は元米だけ返納させ,大凶作で元米すら返納できない場合は,ある場合には元米の半分を年賦で返納させるか,ある場合には元米の全部を年賦で返納させる様にします.
とは言え,年賦にしても,翌年が豊作であった場合は,元米,利米共に返納させる様にします.
凶作の際でも,余程の余裕が無い者以外は,社倉の貸出し米以外の場所から借りることの無い様に心懸けるものの,豊作続きで社倉米に多くの余裕がある場合は,特別の凶作年で社倉米から借りただけでは生活が維持できない者,または借りた社倉米を年賦で返納を命じられている場合でも,再度借用を願い出させる様にして,貧窮して路頭に迷わない様にするとなっていました.
当然,社倉米を借りた者の家が断絶することも考えられます.
その場合は,返納米が捨り(すたり),つまり回収不能となるので,社倉米拝借の願いが出た場合に,人物に問題が無いかを,庄屋か代官が確かめる様にしました.
社倉米を貸し出す際には,前もって日時を決めて郷中に知らせておき,その日には社倉蔵に庄屋,組頭と借用する当人とが出席して,一郷の借受高,俵数を蔵方役人から受け取る様にして,俵の入り目の多い少ないでゴタゴタが起こらない様に配分すると共に,日時に関しては代官から郡代に申し出て,目付が立会う様にすることで代官などの不正が起きない様にします.
返納する元利の米の取立は,年貢同様に遅延が無い様にし,下代の所に納め,帳面を確かめて取り分の間違いが無い様にして,返納の確認をするとし,社倉は郷民を救う為に設けたものだから,凶作の年でも出来るだけ返納をする事を借受人は心得る必要があるとしています.
豊作が期待される年で,6月末になっても社倉米の貸出しを受ける者がいない場合は,軒別に割り付けて米の入れ替えの定めに従い,利息無しで貸付ける様にして,籾の腐敗などを防ぐ様にしています.
更に,豊作が続いて社倉米が累積し,山西三方に貸出しする分や,1年分の救済米を残して,その上で余剰になった場合は,米の値段が良い時に売り払い,その代金を以て百姓の牛馬や農具の購入費用として貸し出します.
ただ,その返納については銭高に応じて,1カ年に1貫文ずつ返済させる様に定めて,年賦で返済させることとし,勿論,借用した初めの1年目だけは1貫文について48文の利子を付けさせ,元利高の年賦分を返納させる様にします.
勿論,社倉米は農民達の私的流用,例えば,年貢の足しにするとか,私事の使用分として借りる事は許されません.
そうした事が発覚した場合は,諸役人の責任となるので,毎年毎年,充分に借用理由を検討する事が必要です.
社倉は丼勘定となってはいけないので,1年の年度毎の本払差引書を作成して,福島郡代所と高鍋の役所に届けねばなりません.
また,百姓に牛馬,農具を調える為に貸し出した銭本勘定差引書も同様に差出し,不正が起きない様に点検させます.
経営当初の社倉は,真米と赤米が主になるですが,年々平年並以上の作柄が続くのであれば,累積米も多くなる事になります.
その様な状態で,1〜2年も囲い置く様になった場合は,籾で納めさせ,蓄える様にします.
但し,籾で納めさせる場合には,籾を干し上げて念を入れ,籾4斗2升入りの俵にして,御蔵米2斗の割にして納め,貸し渡す場合も,籾1俵を真米2斗の積もりで,1軒に籾1俵宛を貸渡し,1俵に籾2升の利息を加えて返納させることにします.
当然,籾を納める場合には,生産者の名前を記した差札と呼ばれる,内と外の二重にして入れた木札のうち,内札は年貢米の俵の様に下代,桝取が収納し,名前と日にちを間違えない様に記す様にします.
社倉米については,後年になって特に累積米が多くなった場合は,これまで拝借の仕方様式では管理運営が難しくなってくると,申し出によって検討を加えて,仕組みを変更する様にする.
…と,こうした形でルールを調え,1789年から社倉の運用が開始されました.
1790年には,新納三納代村でも「社倉」が設置され,1849年には同年預りも含め,226石余の赤籾を保有しています.
この新納三納代村の「社倉」は,幕末まで運営されており,同様に設置された日置村六反田の社倉に関しては,明治期に入っても運営が続けられていました.
また,諸県の宮王丸村と三名村では,1872年に蓄えられている囲籾は郷中の者が種子用に借りている分も含めると,合計籾391俵1斗余(156石5斗余)となり,籾である為,新籾との入れ替えや虫付,鼠の害の防止に迷惑しているので,制度の停止と処分を申請している程です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/12 23:23
青文字:加筆改修部分