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◆◆◆四国諸藩 Shikokui klánok
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戦史FAQ目次


 【質問】
 江戸時代の蜂須賀家について教えられたし.

 【回答】
 蜂須賀家と言えば,尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)出身の豪族で,出頭人になった蜂須賀正勝は,美濃の斎藤道三や尾張の織田信長に仕え,更に羽柴秀吉に従って各地を転戦しました.
 1581年に秀吉が播磨を領すると,正勝は龍野53,000石の城主になり,大名になります.
 その後も,正勝は秀吉を良く補弼し,他家との交渉等にも力を発揮していました.

 1585年に秀吉が四国を平定すると,その功績に報いる為に秀吉は正勝に阿波一国を与えようとしますが,正勝は老齢を理由に辞退し,嫡子家政が阿波国内で176,000石を領することになりました.
 最初,家政は阿波の一宮城に入りますが,直ぐに徳島を築城して此処を居城とし,阿波一円の支配に努めると共に,秀吉が行った九州平定,対北条戦,その後の東北平定に従い,更には朝鮮半島への出兵も行いました.
 しかし,秀吉の晩年には力を振るった石田三成等の吏僚派と対立関係にあり,政権中枢から疎外された家政は,徳川家康と結ぶ様になります.

 家康と結んだ家政は,1600年に家康の養女万姫を,嫡子蜂須賀至鎮の正室に迎え,徳川家と姻戚関係を結びます.
 ただ,家政は関ヶ原の戦に際しては,嫡子至鎮を主従僅か18騎と共に家康の下に送り,自らは領国を豊臣家に返上して高野山で隠居しました.
 その至鎮は,小兵力ではあるものの,上杉攻めや関ヶ原の本戦にも参加して,その功績により阿波国を安堵されました.

 1603年,家康は征夷大将軍に任ぜられます.
 この時,阿波国内の置塩にあった赤松領10,000石と毛利兵橘の所領1,082石が取り上げられ,至鎮の奥方化粧料という名目で拝領することになります.
 これにより,遂に蜂須賀家は,阿波一円支配を達成した訳です.
 更に,1615年には大坂の陣の軍功により,松平姓を許されると共に,淡路国が加増され,蜂須賀家は阿波,淡路両国の257,000石を領する大名になった訳です.

 因みに,その後の蜂須賀家は,7代宗英までは正勝の血筋でしたが,8代宗鎮,9代至央は高松松平家からの養子で,一族の松平頼煕の次男と三男で,長男は高松松平家第4代当主の頼恒です.
 続く10代重喜は,秋田新田佐竹家からの養子,11代治昭と12代斉昌は重喜の子と孫になりますが,13代斉裕は将軍家斉の22男で1868年正月に没し,茂韶の代で明治維新を迎えました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/12 23:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 蜂須賀家と,他家との交際関係は?

 【回答】
 蜂須賀家文書に,19世紀前半に書かれたとされる「御一門様御続書」なる文書があります.
 これは阿波蜂須賀家の親戚や姻戚関係を列記したものです.
 これには記載順に「御両敬」「様書之御方」「御回縁様」「先方江両敬」「御一代御両敬」「様書之御方」「京都御一門様」があります.
 何故,「様書之御方」が2箇所に跨がっているのかは不明です.

 この文書には,相手の城地と石高,名前に加えて,蜂須賀家との関係を記すと共に,その関係が何時どの様な切っ掛けで結ばれたのかを具体的に示しています.

 基本的に「両敬帳」と呼ばれたこの種の文書は,1つは相手の名前や居城,家族書,続書に加えて精進日を示すもの,もう1つは何時,どの様な切っ掛けで,両家が両敬関係を結ぶかに至ったかについて重点を置くもので,蜂須賀家のそれは,後者のパターンとなっています.

 例えば,高松松平家との関係については,こう書かれています.

------------
讃州高松十二万石 御両敬 松平讃岐守様
讃岐守頼恒様御舎弟,実御厄介松平志摩頼煕様御二男憲徳院様,御七代威峻院様御養子被為成候
以後御両敬被仰合,且又憲徳院様御実弟,頼煕様御三男興雲院様,御八代憲徳院様御養子被為成候
------------

 高松松平家と両敬関係を結んだのは,7代宗英の養子に頼煕の二男宗鎮が入った事が切っ掛けとあります.

 この「両敬」と言う関係は,親戚の間柄にある大名や小名が相互の訪問,応対,文通などの交際に同等の敬称を用いたことを言い,親戚や姻戚関係を主な母体に,家同士代々続く形で設定されていました.
 そして,血縁関係だけに留まらず,地縁や個人的な交友関係が母体となったり,当主や当主夫人が単独で形成主体になる事もありました.

 両敬の数は,老中や若年寄など幕閣に近い譜代大名ほど多く,外様大名には少なかったりします.
 外様大名に少ないのは,1つは幕閣の有力者との繋がりを皆が求めた為であり,もう1つの理由としては,こうした外様大名は辺地にありながら,石高の高い大名が多く,バランスを取ろうとすると,その数が限られたのでは無いかと言う理由が考えられています.

 蜂須賀家の場合,この両敬関係にある家は20家を数えます.
 蜂須賀家の両敬関係は,
彦根井伊家35万石,
津山松平家10万石,
川越松平家15万石,
館林松平家6.1万石,
鳥取池田家35万石,
高松松平家12万石,
桑名松平家11万石,
小倉小笠原家15万石,
明石松平家6万石,
忍松平家10万石,
小田原大久保家11.3万石,
松本松平家6万石,
柳河立花家12万石弱,
新庄戸沢家6.8万石,
磐城平安藤家5万石,
飯田堀家2万石,
三田九鬼家3.6万石,
上州小幡松平家2万石,
秋田新田佐竹家2万石,
播州安志小笠原家1万石です.

 こうして見ると,石高に着眼すると大半が格下になり,10万石未満が10家と半数を占め,しかも5万石未満が6家を占めます.
 石高以外にも,官位や江戸城中の殿席を加味しても,明らかに格下の相手と両敬関係を結んでいます.
 石高で格上なのは,井伊家と鳥取池田家のみであり,官位を加えると高松松平家がこれに加わりますが,それ以外がほぼ同等の10万石クラスの大名で,両敬の半数は格上か同等の大名になります.

 関係形成の切っ掛けは,婚姻が圧倒的です.
 但し,この婚姻には輿入れでは無く,縁約のケースも含まれます.
 この他,養子関係,兄弟,間接的な続合があります.
 間接的な続合とは,館林松平家の様に,高松松平家と忍松平家と縁戚関係にある事から,血縁関係のある蜂須賀家も加わると言った場合です.
 蜂須賀家の場合,もう1つ松本松平家が,秋田新田佐竹家と姻戚関係にあった事から,続合の関係となっています.

 因みに,井伊家との関係は,家政の女が井伊直孝の室になったのを皮切りに,分家の隆重の女が井伊直該の室となり,5代綱矩の女が井伊直惟の室,6代宗員の女が井伊直禔室,11代治昭正室が井伊直幸の女,12代斉昌正室が井伊直中の女と言う具合で,都合6回の婚姻と突出しており,それも江戸全期を通じての関係となっています.

 この「両敬」関係が確立されるのは,歴史的に見て18世紀前半なのですが,蜂須賀家でもこれに前後して格付けが開始されています.
 彦根井伊家や鳥取池田家,それに小倉小笠原家と安志小笠原家の4家は,それ以前から昵懇の間柄であり,敢えて両敬と記していなかったりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/12 23:43
青文字:加筆改修部分

 さて,昨日は両敬について書いていた訳ですが,大名同士の付き合いの場合,両敬が一番上の関係です.

 次が,様書之御方で,蜂須賀家の場合これは,二本松丹羽家10万石,越後高田榊原家15万石,大身旗本の小笠原家7,000石,同じく3,000石の牧野家,150俵の小十人水野家の5家になります.
 江戸前期には輿入れ,後期になると縁約で成立しました.
 但し,解縁されると様書となるようです.
 この関係は書状の遣り取りの関係と推察出来ます.

 例えば,榊原家とは1675年に榊原政房の女が4代綱通に輿入れする事に決まりました.
 これで婚姻関係が結ばれて両敬になりましたが,1678年に早くも綱通が死没したので,解縁となり,その関係は格下げとなって,様書之御方となりました.

 水野家の場合は,初代至鎮の女が水野成貞の正室となります.
 しかし,1664年に惣領がお咎めを受けて御家断絶となり,正室は実家の蜂須賀家に御預けとなりました.
 最終的には,1700年に由緒ある家と言う事で,成貞の二男成春が小十人に召し出され御家再興となりましたが,石高は大きく削られ,蜂須賀家との関係も一段階格下げになり,様書之御方になりました.
 因みに,この水野家の惣領と言うのは,世に悪名高い旗本奴の総帥となっていた水野十郎左衛門その人です.

 両敬と同じ様な立場でありながら,家だけで無く個人との関係も見られるのが,御回縁様と呼ばれる関係です.
 どちらかと言えば,両敬よりは少しばかり軽い関係と言えそうです.

 蜂須賀家の場合は,水戸徳川家35万石,加賀前田家102.2万石,萩毛利家36.9万石,久保田佐竹20.5万石,盛岡南部20万石,村上内藤家5.9万石,与板井伊家2万石,挙母内藤家2万石,小笠原近江守,保寿院の8家と2名になっています.

 水戸家は言わずと知れた高松松平家の宗家ですし,佐竹家は秋田新田佐竹家の宗家,小笠原近江守は小倉小笠原家の縁続きの関係で,井伊家は彦根井伊家の分家,前田家とは当主の奥方が斉昌後室の姉,毛利家とは当主が従弟とか後見人を務めた関係,南部家とは当主と斉昌正室が,叔父と姪の関係であり,保寿院は松平定信の女です.
 これらは,姉や従弟,従兄の関係,更にはより遠い親戚関係により構築された関係と言えます.

 続合で関係は両敬ですが,その関係が月日を重ねて疎遠になってくると,その両敬関係を解消する事もあります.
 解消には両家の合意が必要ですが,先方の家の都合によりその依頼で両敬関係を継続することもありました.
 この関係を先方江両敬と言います.

 蜂須賀家の場合は,浜田松平家6万石,奥州中村相馬家6万石のケースが該当します.
 後者の場合は,久保田佐竹家,挙母内藤家の続合として重喜時代に両敬関係を結んでいましたが,年々疎遠となって行きました.
 その為,1828年に蜂須賀家から断りを入れて両敬関係を解消しようとしますが,相馬家が関係継続を望んだ為,両敬関係を継続する様にしています.

 普通の両敬に比べると,更に低位な両敬関係となっているのが御一代両敬です.
 これは,切っ掛けが続合ですが,当初から当代のみに限定された両敬関係です.
 但し,先方の依頼により関係を更新することが出来,しかもそれは1回だけで無く継続することが出来ます.

 蜂須賀家の場合は,豊後岡の中川家7万石と唐津小笠原家6万石の2家が対象です.
 前者は高松松平家からの旧縁があるのと,中川久教が12代斉昌の正室の兄弟という関係であった事から,久教1代に限って1817年から限定的に両敬関係を結んだものです.
 一方後者は,彦根井伊家及び小倉小笠原家の続合で,小倉小笠原家の推挙により1812年から小笠原長昌の代につき両敬関係を結びます.
 その後,1824年に小笠原家の当主が交代して,長泰の代となっても関係が継続され,更に1833年に長泰から長会に代が変わっても,特別な依頼により,関係が継続されています.

 もう1つの様書之御方と言う関係は,切っ掛けは婚姻,後見,続合ですが,時を経て次第に疎遠になって様書に転落した関係であり,その関係も書状だけでなく口上のみと言う場合もあります.

 蜂須賀家の場合は13家あります.

 熊本細川家54万石は初代至鎮の正室の妹が秀忠の養女として細川忠利の正室となった事から関係が始まり,忠利の孫の綱利が幼少の際,家光の命により2代忠英が後見を務めますが,次第に疎遠となり,様書之御方となってしまいました.
 この他,松代真田家10万石,雲州母里松平家1万石,常州谷田部細川家1.6万石,長岡牧野家7.4万石,中津奥平家10万石,延岡内藤家7万石,奥州下手渡立花家1万石,守山松平家2万石,高家旗本の山名家,これに加えて,大久保忠真の妹達である松平左京太夫奥方,大久保出雲守奥方があります.

 これらは何れも,最初は両敬関係を結んでいたのが,次第に疎遠になって両敬関係を解消したものです.

 様書之御方で最も複雑な関係が,福岡黒田家52万石です.

 そもそも,蜂須賀家と黒田家は,正勝と如水が互いに戦場を疾駆して以来の仲で,元々関係は良好でした.
 そして,黒田如水は蜂須賀正勝の女である糸を嫡子黒田長政の正室として迎え入れたのですが,1600年,長政は彼女を突如離縁して,家康の女を正室に迎え入れました.
 これに立腹したのが蜂須賀家で,以後,黒田家とは絶縁状態となりましたが,1727年になってやっと和談がなり,関係が修復されました.
因みに,両家は同席大名の関係でしたが,その和談の面会時,当時の当主綱矩は,「初而御対顔」と記しています.
 つまり,同席大名の関係でも顔も見ない間柄だった訳です.

 少々特殊ですが,公家との婚姻関係により構築されたのが,京都御一門様と言う区分.

 例えば,蜂須賀家は公家との婚姻関係により京都御一門様は6家を数えていました.
 その内,両敬となっているのは三条家,花山院家,醍醐家,中院家の4家で,東園家と鷹司家は関係が記されていません.
 とは言え,全く関係が無いかと言えばそうではなく,関白も務める鷹司家の場合は蜂須賀家と大きく家格が異なる関係であった事から,敢えてこの関係を書かなかったとも考えられます.
 それが証拠に,12代斉昌の代には,参覲交代の途次,斉昌が頻繁に鷹司邸を訪れ饗応を受けている記録が残っています.
 一方の東園家は,関係がちょっと疎遠であったことから両敬にはならなかったのではないか,と思われます.

 こうした大名の交際は,不通関係→普通の関係→様書の関係→両敬関係と言う4つのレベルが存在しています.

 先述の黒田家との関係で言えば,不通状態にある関係から,様書の関係である守山松平家当主の頼貞の仲介で和解に乗り出し,関係修復を果たし,普通の関係となりました.
 その後,1756年に蜂須賀家と両敬関係にあった立花家との続合として様書の関係となり,1757年になると両敬の松平家との続合から両敬関係を構築した形になっています.

 まぁ,そう言う意味ではどこにでもいるものですね.
 お節介な人というのは.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/13 23:32


 【質問】
 蜂須賀家にとって重要だった交際相手は?

 【回答】
 蜂須賀家にとって重要な交際相手というのは,3つの大名家でした.
 それは小倉小笠原家,彦根井伊家,高松松平家です.

 小倉小笠原家との関係形成の切っ掛けは,1600年の関ヶ原合戦前に行われた,徳島蜂須賀家の初代至鎮と徳川家康の養女となった万姫との婚姻です.
 万姫は,家康の養女ですが,実際には小笠原秀政の女で,此処に蜂須賀家の関係が生まれました.
 因みに,小笠原秀政の正室は家康の長男で,悲劇の最期を遂げた信康と,織田信長の女で正室の徳姫との間に生まれた福姫であり,秀吉に取り立てられた外様大名蜂須賀家にとって,大御所家康との血縁は御家存続にどうしても必要であったと考えられます.

 その後も,小笠原秀政の嫡嗣忠脩の女である繁姫が2代忠英の正室となり,その嫡嗣長次の女の金姫が3代光隆の正室となって,4代綱通を生んでいます.

 確かにこの関係は,徳川家康の血筋を自らの血筋に加えたいとする政略結婚とも考えられますが,この婚姻は形式的なものでは無く,それぞれの代の正室達の結束を強め,大名の家を継承するのに大きな役割を果たしていると言えます.

 但し,こうした鞏固な関係が結ばれたのは江戸前期であり,江戸中期以降は解消されています.

 蜂須賀家と彦根井伊家との関係形成の切っ掛けは,1615年,大坂の陣が終わった後の大御所家康の命令です.

 井伊直孝は大坂の陣で大功を挙げ,家康に激賞されます.
 そして,山城や近江に狩場を下賜され,旅路の慰めにと鷹が家康から与えられると共に,その道中は思うままに狩をしても良いと言う特権を与えられます.
 この他,左文字の御刀,宮王の茶壺が直孝に与えられました.
 更に,家康の命により,蜂須賀家政の女である阿喜姫との婚姻を命じられました.

 これを皮切りに,先述の様に井伊家と蜂須賀家の間では,6件の婚姻がありました.
 江戸前期,中期は蜂須賀家の女が井伊家に嫁ぎ,後期は逆に井伊家の女が蜂須賀家に嫁ぐ形を取っています.

 これも,政略結婚と言ってしまえばそれまでですが,大御所家康の狙いとしては,瀬戸内海の要所に家門である松平家を配する事になったのですが,瀬戸内海のとば口,大坂の対岸に当たる徳島の地を,何とか抑えておく必要があったものと考えられます.
 勿論,家門を徳島の地に持ってくれば良いのかも知れませんが,徳川家は大所帯とは言え,水軍を自在に操れる様な大名は数えるほどしか無く,それも江戸湾を防御するのに必要ですから,圧倒的に力が足りません.
 従って,準家門とも言える小笠原家と,婚姻関係を結んでいた蜂須賀家を,更に徳川家に取り込む為にも,譜代筆頭である井伊家との婚姻が必要とされたのでしょう.

 注目すべき事は,蜂須賀家の2代当主忠英,3代当主の光隆の時代には,井伊直孝が後見人として,徳島の藩政に対する指導を行っていた点です.
 また,この時代,小笠原忠真が信州松本から10万石に加増され,明石に入部しました.
 この小笠原家は,後に小倉に転封する蜂須賀家の婚家であり,小笠原家と蜂須賀家が,西国外様雄藩に対する瀬戸内海の守りを任されたとも考えられます.
 そう言う意味でも,家康以後の徳川家が,蜂須賀家を重要視していた訳です.

 一方,蜂須賀家としても,武門の家で且つ譜代筆頭の井伊家との関係を保っておくことは,今後の平和な時代に於ける足場固めの為にも,必要な関係であったと思われますし,それは蜂須賀家にとっても願ったり叶ったりの関係でした.

 最後が高松松平家です.
 一般的に,南部と津軽,津軽と松前,薩摩と飫肥の様に,境が隣接する場合と言うのは,境界を巡って比較的利害関係が対立しがちで,関係は良好とは言えないのですが,この場合は特異とも言える関係の良さを保っています.

 高松松平家との関係形成の切っ掛けは,1739年に松平頼恒の弟である正泰が,宗鎮と名を変えて蜂須賀家の8代当主を次いだ事です.
 その後,跡継ぎに恵まれなかった宗鎮は,蜂須賀家一門から2名の養子を迎え入れましたが,1人は23歳で没し,もう1人は病を得て嫡を辞さざるを得ませんでした.
 結局,蜂須賀家の9代目当主として,更にその実弟である頼央を養子とし,至央と改名させて相続させました.

 何故,高松松平家の部屋住みの弟達が,蜂須賀家の養子として受容れられたのかは,残念ながら記録に残っていなかったりするのですが,高松松平家と言えば,水戸家の連枝であり親藩大名です.
 井伊家と共に,将軍家との血縁関係を求めていた蜂須賀家の首脳にとっては,これが安心材料となっていたのかも知れません.

 但し,その親戚としての発言権は,井伊家と共に,極めて強いものがありましたし,両家の支持と言うのは幕閣に対しても極めて強い抑止力としての役割を担っていました.

 それが遺憾無く発揮されたのは,至央が在職60日で没し,末期養子となった秋田新田佐竹義道の正胤を迎え入れ,10代重喜の時です.
 重喜は藩政改革に乗り出しますが,その急激な改革が程なく家中の抵抗に遭い,家政混乱を招いた責任を取って,1769年に幕府から強制的に隠居させられました.
 この時,蜂須賀家が減封などの処分に遭わず,家を保てたのは,井伊家と高松松平家の口添えによるものでした.

 この隠居に際して,両敬関係にある他の大名,例えば佐竹家は,重喜が自らの実家であり,立花家も重喜正室の実家である事から,どちらかと言えば隠居には反対でした.
 しかし,幕府に近い井伊家や高松松平家は幕閣の意向を汲んで,このままでは蜂須賀家の将来に悪影響を及ぼすとして,重喜の隠居を支持した訳です.
 結局,重喜の急激な藩政改革は挫折し,徳島は幕府指導の下で8代宗鎮の治世期の状態に戻されています.

 そう言う意味では,身の丈に合った親戚関係って重要ですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/14 23:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 高松松平家とは?

 【回答】
 高松松平家は言わずと知れた水戸家初代の頼房から分れた家で,初代頼重は2代目水戸光圀,つまりドラマの水戸黄門の実兄に当たります.

 元々讃岐には生駒家が封ぜられていたのですが,生駒家は家中騒動により,家中取締不行届として万石以下に落とされ,東北に移封された後,松平頼重が高松12万石を与えられました.
 また,この高松への松平頼重の領知宛行には,将軍より中国,四国筋の目付となる様に命じられ,初期には瀬戸内海に於ける沿岸防備体制強化の役割を担い,江戸城に於いては,代々溜詰の殿中席を与えられており,政治的に幕府中枢に関わる立場にありました.

 似た様な立場の家として,彦根井伊家があります.
 こちらも蜂須賀家の話の際に出て来ましたが,こちらは家康に臣従し,各種の合戦で武功を挙げた軍事力の家として,江戸幕府創設に貢献しました.
 そして,その功績により,譜代大名中最大の石高を領する様になります.
 更に,初代直政,2代直孝は幕府成立初期に於いて,政治的な側面でも活躍し,その役割を引継ぐ中で,井伊家は幕政に於ける地位を固めていき,幕末までに4名の大老を出すなど,政治的にも譜代筆頭の地位を確立しています.

 井伊家も溜詰であり,高松松平家,井伊家,それに会津松平家を加えた3大名家は,代々溜詰を務める「常溜」の家として,後に溜詰や溜詰格となる大名とは一線を画する存在でした.
 また,実力を持って現在の地位を築いた井伊家と,将軍家縁の血筋を以て大名となった高松松平家は,その出自に大きな隔たりがありながら,同じ殿中席である事か,溜詰大名の役割である,江戸城内外に於ける殿中儀礼等に於いて,両家は同時に或いは交代で同じ役目を果たす場面があるなど,共通する部分も多かったりします.

 ところで,朱子学に傾倒していた徳川光圀は,頼房の次男でしたが,長男の頼重を差置いて,水戸家という大藩を継いだことから,それを恥に思い,自らも頼常と言う息子がいながら,3代当主には,頼重の長男である綱条を迎え入れています.
 反対に頼常は頼重の養子となり,高松松平家の2代当主となった訳です.
 この襷掛けはその後も行われ,綱条の次の水戸家4代当主には,頼重の次男頼候の孫の宗堯を迎え入れています.

 因みに,頼常の次の3代高松松平家当主は,頼重の次男である頼候の息子,頼豊が継ぎ,4代目には頼重の三男頼芳の孫の頼桓がなりますが,頼桓には男子が生まれず若くして没し,しかも水戸家にも跡を継げる男子がおらず,水戸家初代頼房の三男で,守山松平家を創設していた頼元の孫の頼恭が,迎え入れられて5代当主となりました.

 今までの高松松平家当主は,水戸徳川家か初代頼重の傍系から迎えていたのですが,類縁大名とは言え,頼恭は今までとは異なる出自を持っていた人でした.
 従って,それまでの当主以上に,高松松平家の位置と在り方についての意識が強かったようです.

 例えば,家中に対する訓戒として出された文章の一部には,こうあります.

------------
 我等家は,国持大名の先祖勲功にて代々領し来たり,又は御譜代衆の戦功器量にて,共に天下を太平に被致し御取立の衆中とは隔別にて,全く御爪の端故,如此莫大の領地をも被下,その上結構なる格式に被仰付,諸大名中の上に立候は,冥加至極難有事に候間,別て公儀をば他よりも大切に存,何卒重き御奉公も有之節は,万分の一の御厚恩を報じ度事に候,然るに人に寄,了見無之輩は,ヶ様の義をも不弁,只人柄自慢仕,他に向ひ驕り高ぶり候事を是と心得,公儀御奉公をもそれ程大切に不存振に相見申候,是は国持大名・御譜代衆に対し候ては,甚耻かしき事と存候,剰冥加をも恐入候事に存候,随分此わけを得心致し候へば,万事心得違も大には有之間敷と存候,
------------

 つまり,頼恭は自らの家を,先祖の勲功によって領地を維持してきた国持大名や,合戦に於ける功績や政治的能力を持って徳川家に使えてきた御譜代衆とは,異なる家であると位置づけ,徳川家の血縁関係を以て,大名としての領地と格式が与えられた存在である事を,明確に意識しています.
 そうであるからこそ,国持大名や御譜代衆よりも幕府を大事にし,奉公に努める事が必要だと述べ,その上で,他家に対する驕慢な態度や,幕府に対する奉公意識の低下を,諫めている訳です.

 何処かの国の政治屋に,聞かせてやりたい言葉ですねぇ.

 で,頼恭は更に,他家との交流に当たって,次の様な指示を出しています.

------------
 御家柄の事故,前々よりの致来にて,総じて御見廻の御方取次候節,余り慇懃に致候よりは,手高に致候義宜候と存居申候事も有之候は,自今は屹度相改,御大名,御旗本衆並其以下使者取次とも,随分慇懃に致平伏,御口上等承可申候,縁取又は白沙へ出候差別の儀,兼相極候通に,相心得可申候,上には御家柄,御席柄とも,御重き事故思召有之,総て御挨拶向を御慇懃に被遊候,然処御家中の面々,心得違,手高に有之候ては不都合に被思召候,御使者に罷出候先方,又は御供先等にても,他所者に付合候は,兼て相極候通,御大名方は勿論,御直産へは,都て様付に仕,請答をも丁寧に可仕旨,被仰出候.
------------

頼恭は,我が家を見ていると,他家を取り次ぐ際に,慇懃にするよりも尊大に応じる事を良いと考えている様で有るが,今後は改め,他家からの使者に対しては,慇懃に平伏して,その伝達内容を聞く様にすることを指示しています.

 幕府側では家柄や席次を考慮し,高松松平家に対して慇懃な対応をしているのを,取り違えて尊大に振る舞うことは問題で有るとし,他家に対しては様付けで,丁寧な対応をする様に言い聞かせています.

 頼恭は,高松松平家の位置づけが,徳川家との縁故を基盤としていることを,客観的に把握した上で,自ら領地を獲得してきた旧族大名や,軍功・才能を持って徳川家に取り立てられてきた譜代大名との交流を,一定の節度の中で再構築すること目指そうとしていたのです.

 頼恭自身は,水戸家でもなく,高松松平家でもなく,水戸家の支藩的存在である,先の2家から見れば小藩に属する守山松平家の出身でした.
 であるからこそ,自らを客観的に見て,高松松平家内部に潜む問題を,適格に言い当てたのでしょう.
 しかしその家柄故に,無条件に将軍家に忠誠を尽せと命じてしまったのが,幕末に高松松平家を窮地に陥れることになるのですから,世の中判りません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/16 23:34
青文字:加筆改修部分

 高松松平家の5代目当主の頼恭は,高松松平家の大名としての存立基盤が,徳川家の血縁関係にある事を認識していました.
 しかし,頼恭が当主になるのは,幾ら頼恭が水戸家連枝の守山松平家からの養子とは言え,頼重や光圀と異なる血筋が,高松松平家に入ることにより,その存立基盤が脆弱化することになります.
 この対策として,頼恭は公儀をより重視し,奉公を行う事を家臣に対して強調することにし,それは何処かの国の政治屋とは異なり,自らも公儀への奉公を実践して見せています.

 例えば,頼恭の行動を記録した『増補穆公遺事』には,次の様な話が残されています.

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 参覲交代不違時と申は,武家諸法度の第一の箇条に在之候処,近世諸大名衆江戸を好み,病気を言立滞府或は本国在所への発駕の日数を延引し,又いまただ参勤の時節に至らさるに,色々の事を申立,不時に早く参府するの過半在之所,公には一度も時日を御違へ不被也,御参勤御交代被成候,惣て武家諸法度の趣を固く御守り被成候,御居間之額に武家諸法度を御掛御平生御省覧被成候.
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 他の大名当主達が,江戸を恋しがって帰国時期を遅らせたり,早く江戸に戻ろうとする傾向にあるのに,期日を忠実に守っている頼恭の姿が描かれており,それは大名に対する基本法令で有る武家諸法度に忠実であろうとする,勤務態勢の表れで有ったとされています.
 居所に武家諸法度を記した額を掲げ,普段からその内容を見ていたとも記され,これを強く意識していた事が伺えます.

 また,この史料には,頼恭が江戸城に於ける溜詰の役目や式日登城,間の御機嫌伺登城等様々な出仕についても一度も欠席しなかったとも記されており,幕府に対して仕える頼恭の謹厳な姿が繰返し表現されています.

 こうした態度を,他家当主がどう見ていたかと言えば,同じ史料にこう書かれています.

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 亦云,近世諸大名衆早く隠居等在之,若手勝なる其中に,公には御官位,御席柄と申,御国政宜敷,上下信服仕,御勝手向も世評に相成程宜敷御立直,御老体の三十年御皆勤被遊,御父子様の御勤も年久敷,誠に稀なる御故に世上に御高名にて諸家の尊仰も不浅御座候.
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 頼恭は同時期の大名の中でも,1739年から1771年までの長きに亘って高松松平家当主に在任し,勤務態度に加えて藩政に於ける財政改革など藩政に於ける功績も有って,他大名家の当主からも評価され,且つ尊敬を集めていた訳です.

 因みに,頼恭は江戸城内での勤めについて,自ら詳細な記録を作成し,更に朱引や印を付けた詳しい絵図の作成を命じ,『朝参筆記』『御先立式』と言う2つの記録に纏めています.
 この様な取組みは,幕府への奉公を重視し,確実に遂行しようという頼恭の態度の反映と見られます.

 こうした記録は,他家の大名家も参考にした様で,この記録の附尾には,当時の彦根井伊家当主直幸が借り受け,筆写したと記されています.

 頼恭は1711年生まれで,1739年に高松松平家当主になりました.
 これに対し,井伊家では,8代直定の時代がほぼ並行し,一端代替わりで直禔が跡を襲いますが,1年で急死し,1年間の直定再任を経て,1755年に10代当主として直英(後に直幸と改名)が就任しました.
 この頃までに既に,頼恭は14年江戸城勤めを行っているので,新参者の直幸は,何かと共に溜詰であり,先輩大名で有る頼恭を慕い,勤めに関する事を親しく相談していたようです.

 そして,『朝参筆記』『御先立式』を参考に,1763年から井伊直英も,『直勤日記』と言う,当主の日々の将軍若しくは幕府への出仕記録が出来たと云われています.

 ところで,溜詰大名の務める役目としては,将軍の歴代廟所参詣の予参や先立,京都朝廷に対する上使役等が挙げられていますが,これらは一定の「次第」に即して行われていました.
 これの実践には,記録を基にするだけで無く,ゲネプロと同じ様に,「習礼」と呼ばれる事前演習が行われました.
 習礼は,同席の先輩大名に依頼し,儀礼が行われる現場で行われました.
 その依頼から実施までは,江戸城中で実施する場合,幕府老中を始めとする関係諸部署に対して,届出を行った上で執り行われており,その過程は定式化されたものでした.

 一方,届出を行わない,大名間の私的とも云える習礼も実施されています.
 こうした習礼では,実施後に教導を担った大名家当主を,屋敷に招いて饗応する事も付随して行われています.

 また,習礼の様な,実際に現場でゲネプロ的に行う形で情報を得るだけで無く,儀礼の前後に於ける諸手続に関する情報交換も行われています.

 1782年,将軍世嗣である家斉が元服するに当り,朝廷から従二位権大納言が授与されましたが,これに対する幕府の謝礼の上使を,高松松平家7代当主の頼起が努める事になりました.
 この時の記録は,『京都奉使録』にありますが,それには,京都への上使について,役目の任命から京都への移動,朝廷への参内と中での行動,帰国後の報告に至るまで,当主の動きやその手続きを詳細に記録したものです.

 この中で,江戸城に於いて幕府老中から頼起に対して上使役が命じられた後の行動について,井伊家からの情報により変更を行ったとの記述があります.
 通例では,上使役拝命後,西の丸老中へ御礼の廻勤に行くことになっていますが,その前に若年寄にも廻勤を行う事がこれまでのやり方でした.
 しかし,近年の例では若年寄への廻勤を行う必要が無いと,井伊直幸から頼起に対して伝授が在り,それに従ったというものです.

 また,上使役を勤め,江戸に戻ってくると登城して,天皇からの回答である勅答を口上として述べるのですが,その内容は,幕府老中の側に短く申し上げる方が望ましいとの意向が高松松平家に齎されています.
 その対応とすべき,口上内容を検討する際には,自家の記録から事例を引くのと合わせて,井伊家が同様の役を勤めた際の旧記を参考にさせて貰っていた事が記されています.

 こんな感じで,同格の大名の場合は,余程両家の仲が悪くない限り,それなりに行き来がありました.
 また,だからこそ,江戸城中の情報交換組織として,留守居役の人々の横の繋がりが大切にされたのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/12/17 22:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 土佐山内家の藩財政は?

 【回答】
 加増され,国主になった山内家ですが,そこは外様大名.
 徳川家の世の中になると,江戸城,駿府城,篠山城,名古屋城,大坂城の御手伝普請や,大坂の陣,福島正則の広島城明渡しへの出兵など,幕府からの度重なる役賦課により,藩財政は早々に破綻に追い込まれます.

 そもそも,入封時は土佐1国の石高が僅か98,000石だったのに,無理無理検地して202,600石を打ち出したので,それに相当する軍役を負担しなければならないと言うのが,躓きの元でした.

 しかも,土佐山内家に於ける初期の売米量は,僅か5,000石であり,中期の頃の4~5万石から比べれば,10分の1に過ぎません.
 その売米も,大坂廻米をするのは,土佐領内からだと船賃が掛りますから,米価+船賃が上方米価を上回る時だけ行う,極めて投機的,かつ不安定なものでした.

 従って,土佐山内家の現銀収入の中心は,山林や諸浦からの浮所務収入で,藩財政当局は,あらゆる手段で現銀を集めると言う方針を持っていました.
 とは言え,先述の様な御手伝普請やら何やらで,収支は常に支出超過であり,「土佐守殿借銀今の分にてハ御身相果べく」とまで言われて,財政は破綻状態に陥っていました.

 この赤字財政を補填する為に,藩財政当局が行っていたのが,上方商人からの借銀です.
 土佐山内家に銀子を貸付けていた上方商人は,革屋,灰屋,亀屋,井筒屋,堂屋,淀屋,岸部屋,田辺屋,袋屋,菊屋,岩屋などですが,大坂の志方氏の様に,現銀収入の中心を占める材木山を背負う一方で,藩代官にも任命されているなど,上方商人が当初から藩財政に深く関与しています.

 勿論,土佐山内家では,財政健全化計画と言うべき「元和改革」を,1621~1627年に亘って行います.
 これは,領内に貸米を実施すると共に,材木販売を強化するなど,主体的な現銀獲得を模索し,それを以て借金銀の一部を返弁,残額については返弁を3カ年無利子に持ち込む等,この改革は一定の成果を挙げました.

 一方,これとは別に,土佐山内家の財政を支えていたのが,幕閣や旗本からの借金銀です.

 例えば,1613年には鵜殿兵庫なる旗本から借りた90両を返済するのに奔走しています.
 鵜殿兵庫は,今川家に仕えてから徳川家に転じた家で,幕府の旗本として土佐山内家と幕府との間にあって,その仲を取り持ち,幕府の情報を流したり,人脈の形成などに動いた人物ですが,1613年に大久保長安事件に連座して失脚しました.
 この失脚に巻き込まれる事を恐れた山内家は,鵜殿からの借金である小判90両を,早々に弁済すべく奔走した訳です.

 この様に,慶長期から山内家の財政は,こうした幕府関係者からの借金も選択肢になっていました.
 因みに,こうした構造は他の大名家でも見られ,例えば,進退行き詰まった掛川の松平越中守定綱を救済する為に,京都所司代の板倉周防が肝煎となり,定綱の兄である桑名の松平隠岐守,定綱夫人の兄である広島の浅野但馬守長晟,そして,定綱の妹の婿である山内忠義が合力をして,定綱を救済しています.

 一方,山内家の上方借銀弁済に於いても,同じ様な構造があり,幕府老中である酒井雅楽頭忠世と,幕府の御覚えめでたい藤堂和泉守高虎が,土佐の軍役を材木による代替とすることなどを仲介して,協力しています.
 この借銀返済の肝煎も,先ほどの定綱の時と同様に,京都所司代の板倉伊賀守勝重であり,合力には忠義夫人の兄である松平隠岐守も一員となっていますが,酒井忠世も合力に加わっているのが珍しい点です.
 つまり,大久保長安事件を契機に,旗本の鵜殿家と手を切った山内家は,財政改革を推進する一方で,財政の不足分を,松平右衛門大夫正綱と酒井雅楽頭忠世との融通に,切り替えていった訳です.

 この内,松平正綱と言う人物は,旗本大河内(松平)正綱の次男で,後に松平正次の養子となります.
 家康と秀忠の大御所政治の下では,家康の方におり,その出頭人として駿府勘定頭に昇進して,1609年に駿府の財政を預かる立場に就いています.
 1615年には奉書連署を命じられ,年寄に就任,勘定頭兼務となり,以後寛永期の経済官僚の中心人物として活躍します.
 この間,栄進を重ね,1625年には相模玉縄22,000石の領主となっています.

 酒井雅楽頭忠世は厩橋12万石を領した名門譜代大名であり,秀忠付の年寄として出世し,老中,後に大老となりました.
 1635年の有司職掌分担では「金銀納方」を管掌しており,幕府初期の財政政策の責任者として辣腕を振るっています.
 つまり,両者は幕府に於いて財政を担う中心人物でした.

 なお,松平正綱から山内正義は1,000両の借金を申し入れたりしていますが,その借金に際しては,山内氏の借状に加えて,親戚の松平氏と忠義の姉婿である稲葉内匠頭正成の添状を必要としましたが,その返済については複利が用捨されるなど,商人からの借金に比して,極めて有利な借金でした.

 この借金銀は何処から出て来たかと言えば,その財源は幕府公金からであったと考えられます.
 例えば,萩の毛利家も1621年,類火により財政危機に陥った際に,老中土井利勝を相手に「公儀の銀子」借用を企図しており,土井利勝が同意すれば,毛利家から借銀の願書が幕府に提出され,幕府から借銀許可の年寄連署奉書が出されると言う仕組みでした.

 こうした幕府の公金支出の仕組みが出来たのは,幕府の機構が整備された寛永期以降であり,それ以前は極めて鷹揚な公金管理体制であり,個人同士の信頼関係に基づく借金銀が行われていたと考えられています.

 因みに,この1,000両は藩重役からすれば無用という判断が下っていました.
 しかし,忠義はその借金を当主の「心持」として強行します.

 大名家の財政は,何れも2系統に分れています.
 1つが藩政の為の財政であり,土佐山内家では「外輪」と呼ばれる一般財政,もう1つが当主の近辺で使われる「近習」と言われる経費です.
 今回の「心持」は,当主周辺で使われる「近習」経費に充てられるもので,忠義はこれは藩政経営の財源から返弁をする事はないとしていましたが,結局は藩財政の負担になる事には変わり有りません.
 一種の隠れ借金と化しただけです.

 ところで,元和改革で取り敢ずの財政破綻を乗り切った土佐山内家ですが,在府中の負担,献上物の準備,領内の寺社造営,飢饉や火事,嫡嗣の婚礼などによる借金は膨張し,再び財政危機に陥ります.
 特に,嫡嗣忠豊の祝言という当主家の私的支出,つまり「近習」の為に,1631年,松平正綱に3,000両もの借金の申入れをし,不足分を上方商人からの借金で賄うという動きを忠義は行います.
 この正綱の借金は,1年の利息が100両当り10両で,1割利息ですが,これは上方の利息よりもかなり低利の利息です.
 上方商人の利息は相当の交渉をしても,下限は1割2~3分であり,返弁延期の場合は利息が本金に加えられる仕組みでしたから,正綱からの借金は相当有利な条件でした.

 しかし1633年になると,この借金が命取りになりかねない問題が発生します.
 この為,山内家では,正綱からの借金を返済すべく,先ずは酒井雅楽頭に更に借金を申し入れています.
 この頃,正綱からの借金利息は1ヶ月400両に達し,来月分と併せて利息分が500両になっており,酒井雅楽頭に申し入れた2,000両では,全然足りない状態になっていました.
 その総額は6~7,000両に上っています.
 こうした急な借金返済が,何故起きたかと言えば,松平正綱が将軍の勘気を蒙り,一時失脚した為です.
 その失脚の理由は,諸大名への幕府公金の野放図な融通が,その1つだったと言われています.

 山内氏は松平正綱,酒井忠世に加えて,正綱の仲介で大河内金兵衛久綱からも借金をしていました.
 大河内久綱は関東地方の幕領支配に活躍し,正綱の一時失脚の際に,勘定方の権限を手に入れた人物です.
 この久綱は実は正綱の実兄で,実子は正綱の養子であり,将軍家光の側近である松平伊豆守信綱です.
 つまり,山内氏は幕府財政の中心人物である大河内一族から,莫大な借金を重ねており,その信頼を失えば,家が潰れかねない瀬戸際に追い込まれたのです.
 加えて,酒井忠世からの借金返弁も必要であり,絶体絶命の危機に追い込まれました.

 この金額は,賄方以外の銀子から幾ら工面しても,逆さになっても一気に返済出来ない額です.
 この為,正綱は商人三嶋屋祐徳からの借金による返弁を指示しましたが,利息の見で折り合わず,商人からの借金が出来ませんでした.

 ただ,借金返弁は急がれた様で,家光に供奉して上京中の忠義は,正綱が上洛していない為に,借金を京都の銀座に返済する事を検討しています.

 この1633年は,大御所秀忠が前年に死去し,将軍としての家光政権が本格的に始動する時期に当たります.
 この年から翌年に掛けて,老中と六人衆(後の若年寄)の職掌が規定され,今まで曖昧だった権限が相対化,客体化されます.
 正綱失脚の翌年,1634年には将軍上洛に際して江戸に残った酒井忠世が,西の丸炎上の責任を問われる形で老中引退に追い込まれました.
 この様に,寛政期の幕府体制整備に伴い,今まである程度個人の裁量で際限なく出来ていた大名家への借金が,これ以後は公金支出となり,それを利用する大名家は激減します.
 勿論,山内家が行っていた,幕閣からの借金銀は先細りとなっていきました.

 外様大名は幕府からとかく圧迫されたと言う形で喧伝されていますが,それは兎も角,大名家が財政難で潰れるのは,まだ発足したばかりの幕府としても,何としても避けねばならない訳で,こうした事から,意外にも幕閣は外様大名を財政面から支えていた訳です.
 それが家光の頃になると,幕藩体制が固まっていき,今まで曖昧にされてきた公金と私金との境界を,はっきりとした形になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/02 23:16
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 土佐山内家の財政改革の状況は?

 【回答】
 さて,江戸初期の土佐山内家は,常に手許不如意を強いられていました.
 奉行職の野中兼山を中心に行った,寛永から寛文に掛けて行った改革では,蔵入地の拡大や免の上昇,米納年貢中心体系への改組等,財政構造の転換が図られ,一定の成果を挙げたものの,何れも不徹底であり,浮所務注進之不安定財政には変わり有りませんでした.

 1659年に山内忠義から野中兼山宛の書状には,
「さてもさても夥敷く入用不及是非事此分ニ而ハ末々続き申しましきと存候」
と言った感じで,嘆息しか出ないと言う状態です.

 その後,改革が捗捗しくなく,強権的な姿勢に徹する野中兼山に対する家中の反感も強まり,遂に兼山は失脚し,「寛文改替」と言う方向が打ち出されて,兼山政治は否定され,新たな方針が示されましたが,1668年の国許から当主側近への書状には,相変わらず「其御地賄銀払底仕候」と書かれており,毎度の事ながら,当主在府中の賄金は相変わらず不足している状態でした.

 そこで,4代目の当主である山内豊昌は「天和改革」に乗り出します.
 再び米納中心の貢租体系が作られますが,今度はそれに対応する吏僚的代官制度と,免奉行制が成立し,蔵米の販売体制も,領内市場から全国市場へと拡大していきます.
 こうした抜本改革により,寛文改替直後の物成米が5万石だったのに対し,1696年には9万石に達しました.

 1681年の段階での「御賄方積目録」には,1カ年の払銀が4,332貫余で,不足銀が249貫余,金に換算して4,163両になり,赤字財政ではありますが,従前の様な手許不如意に陥る事無く,赤字の額は半減,更に貯蓄体制が確立しました.
 1684年の「御城御蔵金銀目録」によると,高知城に貯めた金銀は,次の通りです.

大判300枚,小判30,000両
内3,000両 江戸御用意金 5,000両 道中御用意金
  新銭2,000貫文
  銀33貫目
  銀ニ〆2,000貫目 金ニ〆33,333両
内8,000両御城御蔵に有金銀

 「御用意金」とは江戸での生活や参勤に於ける不測の出費に対する予備金の事で,30年ほど前の「其御地賄銀払底仕候」に比べると,雲泥の差です.

 天和改革により,相変わらず借金の返弁は続くのですが,17世紀後半に至って漸く,土佐山内家の財政は小康状態を保つ事に成功します.

 ところが,貨幣経済の進展と米価の下落に伴い,今まで米中心の経済で潤ってきた各地の大名家や旗本は,全体的に困窮状態に陥っていきました.

 藩祖一豊の父,盛豊の五男政直は武田家を経て,徳川家の頃に無嫡断絶で絶えますが,政直の長男政長は別家を立てて旗本となります.
 この麻布山内家は僅か家禄300俵の小身旗本だったからか,米価下落に伴い忽ち困窮し,この頃には一門の縁を頼って,20貫目の借銀を申し入れてきています.

 こうして立場は逆転.
 以前は,借金を申し入れる方だった山内家に,方々の旗本や大名が借金を申し入れてきています.

 例えば,1697年には旗本の北条安房守氏平に対し,一端借金を断ったものの,結局色々なしがらみと今後の関係を勘案して,300両を融通し,もう1人の旗本大井新右衛門政長に対しても,要求200両を半額に値切って金を貸しています.

 北条氏平は北条綱成の系統で,元々は掛川3万石の大名家でしたが1658年,氏重の代で無嫡断絶となり,弟の系統が旗本となって存続していました.
 この系統は兵法の家筋であり,武道を好む豊昌が養嫡嗣の豊房に武術指南役を付ける際に,氏平に推挙を請い,広瀬伝太夫と言う人物を召し抱えたという経緯がありました.
 この為,彼の借金申入れを無碍には出来なかった訳です.

 もう1人の大井政長は,小笠原の支族で武田旧臣1,300石の旗本でした.
 政長もまた,山内家と深い繋がりのある旗本で,7代山内豊常の婚姻に際しては仲介役を務めるなどしているので,これまた完全には断り切れなかったようです.

 また,1696年には,旗本である松平忠右衛門勝制の財政が破綻して,任地赴任もままならない状態に陥り,150両の借金を申し込んできました.
 山内家は一端断ったものの,尚も言い募るので,結局100両を貸しました.
 この松平勝制は,藩政初期に土佐山内家が懇意にしていた松平出雲守勝隆の孫であり,これまた貸さざるを得なかったりします.
 この他,北条氏一族の岡野平左衛門からも,100両で屋敷を購入してくれと泣き付かれたりもしています.

 こうした旗本達からの借金申入れに対して,山内家は一端は断るとしつつも,場合によっては全額か半額で対応しています.
 こうした旗本達は,何れも嫡子教育や婚儀などの山内家の家政に協力した経歴を持っていた人々でした.

 一方,譜代大名に対しては,山内家は積極的に対応しています.

 例えば,1692年,老中大久保加賀守忠朝の嫡子隠岐守忠増の用人が土佐山内家の留守居を訪れ,忠増の勝手向きが詰まったものの,部屋住みなので父忠朝に申し出るのが憚られると言って,山内氏に借金を申し入れてきました.
 今までは,山内氏が譜代大名に借金を申し入れる形でしたが,此処では完全に主客転倒しています.
 本来なら,こうした借金申入れは断るべき所ですが,相手が幕府老中の嫡子であり,しかも大久保忠朝には,土佐の支藩であった中村3万石の改易に関して好意的な指南を受けている事もあり,今後の忠朝との交渉に役立つのではないか,と考え,300両を融通しています.
 勿論,山内家とて余り手許豊かではありませんが,老中との間の円滑な関係を維持したいと言う希望が,この融通にあった訳です.
 そして,「公儀御勤」は省略出来ないので,財政不足分は藩内の倹約で補填すると言う方針が打ち出されています.

 これとは異なりますが,1697年,老中阿部豊後守正武が日光御用を仰せ付けられたと言う情報を入手した山内家は,自ら「御心入」として正武に2,000両を送りました.
 勿論,これは表に出ない一種の賄ですが,幕府の重役に対しては,こうした「御心入」を屡々行っています.
 外様大名として,幕閣との関係維持に腐心している様が見て取れます.

 この様に,今までとは完全に主客転倒した状態でしたが,この状況は長く続く事は無く,元禄バブルが弾け,宝永期になると,再び山内家の財政も急速に逼迫していき,江戸富山家から30,000両借入れを行うなど,元の木阿弥へと戻っていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/03 23:27
青文字:加筆改修部分


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