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◆◆◆◆秋田佐竹家 Akitában Szatake klán
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戦史FAQ目次


(『へうげもの』より)


 【link】


 【質問】
 秋田藩時代の佐竹氏の重臣について教えられたし.

 【回答】
 さて,久保田城城内には本城と二の丸が当主や家族のいる場所であり,中城,山ノ手,八幡山(場合によっては八幡山は別曲輪とも呼ばれる)で二の丸を三方で囲んだ部分を三の丸と言います.
 更に中城とは城内の意味で,東部の高地を上中城,南部の低地を下中城と区分しました.
 追手北門外側の八幡山に曲がる鉤形の地区は山ノ手,後に手形上町と呼ばれましたが,追手北門に連続する東の部分には重臣より劣る身分の者を置いたらしく,その部分は絵図に「侍町」と書かれ,他の部分は「侍屋敷」として区分しています.

 この三の丸,特に追手門から黒門を通って二の丸に入る通路には,正式な登城のコースなので,重臣の屋敷が置かれました.
 道路に面して,南から順に,小鷹狩氏,今宮氏,松野氏,小田野氏,真崎氏,真壁氏,その東後に小野崎氏,梅津氏と8家の屋敷が置かれました.
 この構成は,年月によって変動しています.

 追手門脇の小鷹狩氏は,初め向氏と称し,向右近宣政は,義宣から4,204坪の敷地を与えられました.
 この敷地は,下は転封前にあった川尻村肝煎三浦伝五郎の屋敷跡です.
 小鷹狩氏は天正年間まで飛騨の城主を勤めていましたが,没落し,宣政は小鷹狩飛騨守と名乗る浪人となり,常陸に流れて佐竹氏に仕え,重臣となりました.
 1827年8月に向氏から旧姓の小鷹狩氏に復しています.
 横手組下支配,回座で2,486石,家老として宣政以降,重政,政美,政芳,政申,政尹,政幹の7人を出しています.

 今宮氏は佐竹16代の義舜の長子永義を祖とする血族で,修験道に入り領内山伏を掌握すると共に,転封後も領内の修験を支配していました.
 摂津守道義の時に角館田町の組下支配を命じられ,後に久保田に移ってきました.
 引渡で426石です.
 謂わば,当主の目となり耳となる立場の人だった訳ですね.

 松野氏は下野宇都宮氏の子孫で,没落後松野に住んだ為,これを姓としました.
 転封後は綱高桧山組下支配を命じられ,後に久保田に移って代々組下を支配しました.
 回座で420石を得ており,後に家老として綱武が出ています.

 小田野氏は佐竹9代貞義七男山入師義の次男自義を祖とし,山入の小田野に住んで姓としました.
 回座で607石を得ており,家老として正純と正武の2名を出しています.

 真崎氏は,佐竹5代義重の三子義澄の子義連から出た家系で,真崎に住んで姓としました.
 回座で1,296を得ており,家老宣宗,隆紀,処純,睦貴の4名を出しています.

 真壁氏は平国香の末裔で,常陸の真壁を領して姓としました.
 戦国期,佐竹を支えた強将真壁氏幹を輩出した家系です.
 転封後は角館に赴き,一時院内組下を支配しましたが,1672年以降久保田に留め置かれ上中城に居住することになりました.
 引渡で,1,044石,康幹,登幹,貞幹の3名を家老として出しています.
 但し,この屋敷は1857~63年の間,11代当主義睦が死去の後,夫人の諒鏡院の仮御殿として使用されました.

 小野崎氏は,藤原秀郷の後裔とされ,初代昌義が初めて都より下った時に臣下の礼をとり,常陸の山能に居城して山能小野崎と呼ばれている佐竹家臣中最古参の家系です.
 回座で300石を得ています.

 梅津氏は他の人々とはちょっと格が落ちて,下中城の梅津宗家四子忠定の分知で興った家系で,回座で1,068石を得ていました.

 この場所は明治期には急変し,1870年に小鷹狩,今宮,松野三家を引上げて佐竹氏の私邸中城御殿が新築されて,藩知事佐竹義堯が此処に移り,1871年5月に東京に移住させられました.
 1873年には全国城郭廃存の命が発せられ,城内に居住の旧家臣の移転が行われ,三の丸は荒廃しました.
1885年調べでは戸数僅かに1戸となっています.
 1896年,歩兵第16旅団司令部が設置され,1898年に小鷹狩氏屋敷跡に旅団司令部,その北部全体に聯隊区司令部,衛戍病院などが置かれて敗戦まで続くことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/26 23:00
青文字:加筆改修部分

 余談は此処までにして,昨日は上中城の界隈をちょっと覗いてみました.
 続いては,二の丸南部の低地,中土橋を渡り,広小路へ,穴門橋を渡ると通町通りに出ます.
 土手の下に沿って内記坂を上ると上中城.
 この地区は城の搦手に当り,中土橋門の事を搦手門と呼んでいました.

 この地域が下中城と呼ばれる地域で,この道路の西側には現在県立図書館,県民会館となっている渋江氏屋敷,その後の堀端が渋江氏下屋敷の穴門屋敷で現在は和洋高校,道路東側の大部分は梅津氏屋敷で,その東隅は梅津氏分家宮門,宮門屋敷には以前岡谷内記が住んでいました.

 渋江内膳政光,梅津半右衛門憲忠は共に義宣子飼いの功臣であり,分家も多く,子孫に家老を多く出して栄えたので,特に大渋江,大梅津と呼ばれています.

 渋江氏は,元々荒川氏を名乗っており,下野の小山氏の家臣でしたが,その没落と共に常陸に流れて義宣の近習となり,乞われて渋江氏の後嗣となりました.
 秋田移封後は家老として家政を掌握し,減封された佐竹家の立直し策として,田法を完成して農業秋田の基礎を築きました.
 しかし,惜しくも1614年の大坂冬の陣で戦死してしまいますが,その活躍を認めた義宣がその子孫を永代家老の家格として扱う事とし,以後,政光,光久,隆光,処光,格光,峯光,明光,厚光と各重臣家の中で家老の輩出数が最も多い家となっています.

 1633年9月26日,本丸が火災で全焼すると,渋江家は2代義隆の仮殿となりましたし,1778年閏7月10日に再び本丸が全焼した際にも,8代義敦の仮殿となって,三の丸仮御殿と呼ばれる様になっていました.

 渋江氏は刈和野組下支配,回座,2,919石を給されています.

 一方の梅津氏も,下野宇都宮の浪人道金の子憲忠が,佐竹義宣に見出されて出仕したのが最初です.
 渋江氏が冬の陣で戦死したのとは逆に,梅津憲忠はこの大坂の陣で勲功を挙げ,将軍秀忠の感状を受けています.
 そして,渋江氏戦死後は家老となって,渋江氏が農業を振興したのに対し,梅津氏は税法を大成して佐竹家の家政の基礎を築きました.

 角間川組下支配で,回座,3,263石を給され,家老憲忠以降,忠国,忠宴,忠昭,忠告,忠爲を出しました.
 中でも憲忠の兄,政景は詳細な日記を付けて,移封初期の佐竹家の状況を克明に残しておりますし,忠昭は其角に師事し,其雫(きてき)と言う俳号で秋田に初めて江戸の蕉風を移入し,その名は与謝蕪村の『新花つみ』にも描かれています.

 因みに,維新後は概ね上中城と同じ運命を辿りましたが,渋江氏邸は1870年1月7日に秋田藩庁として利用されたのを皮切りに,1872年5月に医院病院,1873年伝習学校,8月からは明徳館の県庁全焼により仮庁舎となり,1895年には明徳小学校,1902年には記念公会堂という変遷を遂げています.

 更に三の丸には山ノ手と言う地区が有りました.
 此処は色々と変遷を経て,山ノ手,三ノ丸山ノ手,手形山ノ手,手形上町などと呼ばれ,明治維新の頃には手形上町と呼ばれています.
 これは追手北門から出て,手形休下町へ通じる虎ノ口までの地域と,それより八幡山に上る坂道に沿う地域で,この高台の東縁に土手を築き,下の低地に掘りを廻し,手形堀反へ降りる渋坂の手形東口と,手形休下町へ降りる手形北口の二箇所の虎ノ口によって外部に通じていました.

 追手北門前には岡本氏が住んでいました.
 この場所は元々大越氏が住んでいたのですが,大越氏は手形堀反町に移転しました.
 岡本氏は下野小山氏の一族で,山入氏の乱で勲功を挙げて松山の城主となりました.
 引渡で1,132石を給され,家老として元朝,元貴,元亮,元長,元賢を輩出しています.
 このうち,又太郎元朝は1697年に文書改奉行となり,『佐竹家譜』の編纂に当った文化人でもありました.

 八幡山下には戸村氏がいました.
 戸村氏は,佐竹13代義人の三子義倭を祖とし,戸村に住んで姓としました.
 転封後は,佐竹2代当主義隆の後見となり,秋田佐竹家に於ける一門家老の始めとなりました.
 代々十太夫を称し,義国,義覚,義孚,義敬,義效の5名の家老を輩出しています.
 また,義連の代の1672年以降は,須田盛次に代わって横手所預として,代々横手に住むこととなっていますので,この住居は戸村氏が登城する際の宿舎としてしか使われていません.
 ですから,11代当主義睦の生母松操院が1868年に死去するまでこの屋敷を借りて住んでいました.
 引渡で,5,463石と可成りの高禄取りです.

 因みに,幕末に家老となった義效は,白石会議で奥羽列藩同盟に調印したとして生涯蟄居を命じられていますが,実際にはこの調印は,佐竹家の意向であったことが,1958年に漸く明らかとなりました…遅すぎた名誉回復ですが….

 箭田野氏は奥州須賀川二階堂氏の一族です.
 伊達政宗による須賀川城落城後,佐竹氏に仕え,転封後院内の所預となりましたが,大山氏に代わって久保田に移りました.
 その時は上中城に住んでいましたが,後に山ノ手の大沢氏の後に移りました.
 引渡で,石高は低く166石です.

 酒出氏は佐竹4代秀義の三子北酒出季義を祖とします.
 回座で,363石,家老として季恒を輩出しただけです.

 山ノ手には他に5名の屋敷があります.
 岡,梁,牛麿,岡の4つの屋敷については,寛政期中頃に植えた桜で花の名所とされ,1815年に訪ねた菅江真澄は,「春ごとにふかき花の林とはなりぬ」と『花のしぬしめ』に書いています.
 中でも,梁家の林泉は,搦田御休の庭を造った江戸の作庭師の作品と言われ,7代義明以後10代義厚まで,春の花を訪ねる慣例となっていました.
 この地のうち,箭田野,酒出,益田氏屋敷は11代当主義睦死後,1863年から夫人諒鏡院の山ノ手御殿となり,翌年三ノ丸御殿と呼ばれる様に成りました.

 また,佐竹氏の東京移住後は,有志の首唱で,佐竹侯爵別邸の建設計画が提議され,1900年建築に着手し,1901年9月に竣工して長く別邸として使用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/27 21:44

▼ さて,重臣達が住まっていた三ノ丸から離れ,旭川を境にして内側を内町と呼んでいました.
 元々は廓内の上中級家臣町を指す用語でしたが,後に町人町の外町に対して,侍町全体を指す様になります.
 内町は6地区に分れており,中心は中通の廓と亀ノ丁廓です.
 廓は当然,防備陣地ですので,出入口には枡形の虎ノ口を設けて防備を厳にしていましたし,廓の内外を問わず道路は狭く造り,直線は避けて丁字路や鉤形を多くして,外町の橋に通じる小路は全て斜交いにするなど,外町が商業の便を図って碁盤目状にしたのとは対照的な形をしています.

 家臣の配置も,城正面にある中通の廓には最も重要な上中級家臣の屋敷を置き,亀ノ丁廓がそれに続き,周辺になるにつれて身分の低い者を配置しました.
 但し,廓の出入口と言った防衛上の要所には,距離と関係なく重要な家臣を置いて守りを固めていました.

 具体的には,中通の廓と亀ノ丁廓の他,手形堀反町,保戸野本町,保戸野中町には上中級の高禄家臣を置き,扶持方と言った小禄の家臣は混在していません.
 ただ,引渡や回座の地位にある大身の家臣は,家来が多い為,屋敷内に長屋を建て,三間×四間くらいに仕切って住まわせています.
 上記以外の廓の外側は,小禄の者を混在させています.
 しかし,楢山・川口・保戸野鉄砲町の足軽町,楢山本町・楢山本新町の徒士町の様に,家格を揃えた町もあります.
 これらの町に家格を揃えた者を配置したのは,街道の入口に配置して防衛線を築いた為です.

 それ以外,戦略的に然程重要ではない保戸野諏訪町,保戸野愛宕町西丁,保戸野八丁新町上丁,保戸野金砂町等には小人等の下級の者が置かれました.

 屋敷の広さは,どの城下町でもそうですが,概ね家格に応じて定められました.
 1791年の「当用式」に定められていたのは以下の通りです.

300石以上 無定
200~299石 表間18間半 裏行25間
150~190石 表間15間半 裏行25間
70~149石 表間12間半 裏行25間
40~60石 表間9間半 裏行25間
30~39石 表間7間半 裏行25間
29石以下の扶持方(含 鷹匠・膳奉・歩行・掃除坊主) 表間6間半 裏行25間
29石以下の足軽・小人・廐・中屋(諸細工人) 表間5軒半,裏行15間
と,まるで公団住宅の様な感じです.

 と言うか官舎ですな.

 屋敷は全て佐竹家からの宛行ですから,家中の都合や役職,家督,事故などの関係で屡々交換が行われました.
 これは,別に小身の者だけでなく,大身の家臣でも発生しており,例えば,回座の大身黒沢家は,中通の廓内で3回も引っ越ししています.

 また,家格により門や塀の決まりもあり,大身は長屋門,150石以上の騎馬武士は笠門,70石以上の駄輩は大貫門,30石以上の不肖は袖門,徒士以下は丸柱,卒以下は門を許さずと言うものでした.
 塀は70石以上でなければ板塀を立てる事が出来ず,それ以下は五加,木槿,雪柳の生垣しか認められませんでした.
 更に参勤交代の道筋である東根小屋町や中亀ノ町等では板塀に限るとされ,小身者は此処に屋敷を拝領することが出来ませんでした.

 彼等侍の数については,何所までを侍というかなど定義によって様々に分れますが,1629年3月の「御鷹之菱喰朝御振舞」に招かれたのが,給人(給地を貰った者)623名,御走,鷹匠,茶屋衆などが293名,合計916名で,足軽以下は含まれていません.
 1759年の「御城下絵図」には侍家1,322軒,侍並以下1,563軒とあります.
 1849年の時点で幕府に提出した資料では,侍屋敷1,248軒,侍並以下1,356軒とあり,約3,000軒前後で推移したものと考えられています.

 さて,中通の廓は,大身と中級上位の高禄家臣を集め,侍町の中心と成っています.
 この廓は1607年から町割が開始されましたが,1619年の一国一城令により,支城が破却されて各地に散在していた家臣を城下に集める必要が生じた為,大々的に割直しが行われました.

 この中心は広小路と呼ばれる地域で,元々は通りの名であり,城の正門である追手門と搦手の中土橋門に面しています.
 此の通りに面して,東から桧山所預の多賀谷氏,佐竹一門の角館北家,同じく一門の大館西家,同じく一門の湯沢南家,大館派遣の古内氏,十二所所預の茂木氏,石塚氏宗家,西家分家の小場氏,梅津氏分家,小貫氏宗家,石神小野崎氏…と佐竹の一門三家を始め,由緒ある蒼々たる名家を配置して城正面を固めました.

 多賀谷氏は,元々常陸下妻6万石の城主で,義宣の弟宣家が1598年に多賀谷重経の養子に入って一門となりました.
 しかし,会津征伐の際,養父重経が家康襲撃を計画してそれが漏れた為失踪,関ヶ原の合戦後多賀谷家は改易となり,宣家は兄に同行して家臣として秋田に下ることになります.
 始めは白岩にいましたが,1610年以降桧山所預となり,代々その職に就きました.
 引渡で3,376石,家老として隆家,峯経を出しています.

 北家は佐竹15代義治の三男義信から出,太田の北側に住んだので北家と呼ばれ,秋田時代は5,731石を領しています.
 始め中城に住みましたが,後に広小路に住まいを移しました.
 北家の本宅は角館にあり,久保田に出た時だけの在府屋敷で,別名角館屋敷と呼ばれています.
 因みに,元々は角館所預は名門蘆名氏でしたが,3代千鶴が早世して断絶,1656年以降義隣所預となって,常住する様になりました.

 南家は佐竹16代義舜の三男義里から出,太田の南に住んで南家と呼ばれ,秋田転封後は湯沢所預となり,5,720石を領して,代々その地に常住していました.
 従って,久保田城内の住居はこれまた別宅の扱いです.

 西家は,佐竹11代義宣の従弟義躬が小場に住んで小場を名乗り,この地が太田の西にあったので「お西様」と呼ばれていました.
 秋田転封後は,六郷から桧山に移り,1608年以後は大館城代となりました.
 1658年に佐竹姓を賜って一門に格上げされ,代々所領大館に常住して5,801石を領しています.

 古内家宗家は,佐竹16代義舜の庶子一渓齋から出,一渓齋が還俗して古内氏を名乗りました.
 秋田転封後は西家と共に大館に配置されましたが,西家の配下ではなく,本家直属であったようです.
 その為か引渡で石高も低く351石となっています.
 こちらも代々大館に居住し,久保田城内の住居は在府屋敷となっています.
 因みに,古内家の在府屋敷は元々戸村十太夫の屋敷で,十太夫が横手に移った後,戸村分家の一学が住み,一学が横手に移った後,古内氏の在府屋敷となったものです.

 茂木家は,代々常陸茂木城主であった茂木治房を祖とし,転封後六郷から久保田に移り,1683年の知恒の時,十二所所預となって,以降代々その職を世襲しました.
 引渡,2,244石で,家老和達を出しています.

 石塚家宗家は,佐竹10代義篤二子宗義が常陸石塚に住んで姓としたもので,城内八幡山から1607年に移ってきました.
 引渡,1,255石ですが,この家は結構家老を輩出した家系で,義拠,義陳,義保,義貞,義致を出しています.

 小場氏は大館城代西家義宗の養子宣忠から出ていますが,宣忠は本来渋江政光の弟荒川秀景の二男で,分知されて小場を名乗る様になったものです.
 回座,1,653石で,大渋江の家系ですから,家老として宣忠,峯昌を輩出しています.

 梅津氏分家は他と違って回座ながらちょっと小さく660石.
 下中城の梅津宗家忠国の四男敬忠が分知されたもので,これも大梅津の家系だけあって家老として金忠,忠恒,忠致を出していました.

 小貫氏宗家は,藤原秀郷の孫,岩瀬太夫公通の後裔で,佐竹初代昌義が京より下った時に臣下となり,常陸小貫を所領として姓と為したものです.
 移封時には小貫頼久が家老として水戸開城の処理を行いました.
 回座で346石ですが,頼久と宇右衛門が家老に抜擢されています.

 最後の小野崎家は,上中城にあった山能小野崎氏の分家で,常陸石神に住んで石神小野崎氏を称し,本家と並び称される家系でした.
 回座,1,180石を給され,家老として通貞,通恒の2名を輩出しています.

 それにしても,長く続いた名家だけあって,一門衆や譜代衆の数が半端無く多く,佐竹宗家もさぞかし舵取りが大変だったのだろうなあと思わずにはいられません.
 名門衆はこれだけでなく,未だ未だ続く訳ですし….

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2009/05/28 22:06

 さて,内町は大身の屋敷が多く,しかも佐竹家は源平以来の名家ですから,何処を向いても名家にぶち当たります.
 内町の中心部から少し言った中通の東部,長沼に接する台地である長野町にも広小路や古川堀反町と同じく大身を配置しています.
 1896年にこの地は下の土手谷地町と,中谷地町道路東側の低地を含め,歩兵第17聯隊敷地となり,整地の為,町並が消滅し,敗戦後は高所を削り取って地形まで変えてしまった為,現在は面影が全く残っていません.

 この辺りは南北に走る大通りの真ん中に,切れ切れの土手を築き,東側を馬場としました.
 土手には松を植えたのですが,昔は桜でしたから,「桜の馬場」と呼ばれ,屡々当主への上覧が行われていました.
 町の東は長沼で,沼側に高さ3間の土手を築いていました.
 その位置は現在は秋田駅前金座街東縁の境界線附近で,それ以東は長沼の水底と言う事になります.
 西側屋敷の後にも土手を築き,これが土手谷地町の土手となります.
 この地には,東側北側より,多賀谷氏在府屋敷,小瀬,中山,茂木氏分家,須田氏分家,福原,小野寺の7家と寺社方役所,西側北より北家在府屋敷,須田氏宗家,梅津・宇都宮の4家が並んでいました.

 小瀬氏は,佐竹9代貞義の三男義春が祖で,常陸の小瀬に住んだ為,これを姓にしました.
 回座,234石ですが,家老としては伊信,伊通,伊章,伊紀4人を出しました.
 後に小瀬氏は上長町に移り,渋江内膳屋敷にいた伊達家を此処に移しています.

 伊達氏は,1823年8月に会所から分離して寺社方役所を持ってきた時に,一旦渋江内膳屋敷に同居していたのが,再び小瀬氏の場所に移されてきたものです.
 で,その伊達氏は,伊達政宗の叔父に当り,佐竹義宣の母の弟に当ります.
 元々は伊達家中にいましたが,秋田転封の際に義宣の客人となり,秋田の地に下ってきました.
 引渡で527石を領し,家老峯宗を出しています.

 中山氏は学者の家系で,学館初代祭酒中山菁莪盛履の時にこの地に移ってきました.

 福原氏は那須十二党の中の一人で,下野佐久山城主でしたが,秀吉の北条攻めの際に没落し,佐竹を頼ってきました.
 回座で422石を得ています.

 小野寺氏は,徳川幕府から流れてきた家系で,将軍秀忠の二男駿河大納言忠長の近侍を勤めていました.
 しかし,家光の代に忠長が生害した為,兄と共に佐竹氏の預人となり,2代義隆に仕える様になりました.
 回座,203石を得ており,家老道行と,道維の2名を出しています.
 因みに,道維は兵学者としても知られ,塙守約の『長野先生夜話集』は道維の聞き書きです.

 須田氏宗家は,言わずと知れた須賀川城主二階堂氏の家臣で,主家滅亡後は佐竹氏に仕え,転封後は横手城代を勤め,1672年には戸村氏に代わって久保田に移っています.
 回座で1,642石を得ており,家老として盛久,盛勝,盛命,盛胤,盛貞と5名を出しています.

 梅津氏は下中城の梅津憲忠の弟で,『梅津政景日記』を書いた政景の家系です.
 政景は藩政初期の諸制度の整備と,財政の充実に功労があり,兄と共に藩政の基礎を築いた功臣です.
 当主義宣の信任が厚く,遺言によりただ一人で最後に義宣の通夜を執り行っています.
 回座で1,698石を得ており,家老として政景の他,忠雄,忠真,忠経,教忠,忠喬,忠融の7名を出しています.

 宇都宮氏は,宇都宮城主宇都宮国綱の弟朝勝の家系で,その母は佐竹義宣の叔母でした.
 元々,朝勝は結城氏の養子となっていましたが,故在って去り,生家没落の為,佐竹家に寄食します.
 家康の会津征伐の際には,佐竹上杉密約の仲介を行い,その為,転封の際には客人として秋田へ下りました.
 引渡740石で,家老として光綱,典綱,孫綱,重綱,孟綱を輩出しています.

 1871年以後は,北家は初代県令島義勇の官舎となり,明徳館にあった県庁が焼失した後は北家跡に洋風の県庁を建設し,1873年11月27日に開庁しています.
 この県庁は1880年に土手長町中丁移転まで続き,向いの多賀谷家屋敷には1879年に測候所が開設されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2009/05/29 23:56


 【質問】
 佐竹家の「遠方遠路軍役目録」とは?

 【回答】

 秋田佐竹家では,2度に亘る出兵を経験したことから,予め出動計画を定めておき,いざという時にはこれに従って行動する様にしようと考えました.
 そこで作られたのが,1677年の遠方遠路軍役目録です.

 この目録では,佐竹軍は当主を中心とする御旗本軍と,12名の大将によって指揮される12軍団から構成されています.

 御旗本軍は,騎馬隊が旗本96騎と家中13騎の合計109騎,足軽は幟足軽が50名1隊,鉄炮足軽が80名4隊,弓足軽20名,その他(兵站など)の足軽が50名2隊の合計225名からなり,これに若党や道具持他の従者が900名,従者馬が330頭で総人数が1,000名以上となっています.

 第1軍団から第4軍団まではの指揮官は第1軍団が佐竹主計4,000石(北家)で動員兵は角館衆,第2軍団は佐竹主殿5,000石(東家)で動員兵は秋田,第3軍団は佐竹石見13,000石(西家)で動員兵は大館衆,第4軍団は佐竹淡路7,800石(南家)で動員兵は湯沢衆であり,何れも一門衆です.

 第1軍団を詳細に見ていくと,騎馬隊が家中5騎,組下7騎,その他12騎の合計24騎,足軽は鉄炮足軽が40名2隊,槍足軽が25名1隊,弓足軽が10名の合計75名,若党,馬添,道具持などの従者が220名以上,従者馬が60頭で総人数319名となっています.

 第2軍団を詳細に見ていくと,騎馬隊が家中9騎,その他14騎の合計23騎,足軽は鉄炮足軽が40名2隊,槍足軽が25名1隊,弓足軽が10名の合計75名,若党,馬添,道具持などの従者が220名以上,従者馬が60頭で総人数318名となっています.

 第3軍団を詳細に見ていくと,騎馬隊が家中13騎,組下3騎,その他7騎の合計23騎,足軽は鉄炮足軽が40名2隊,槍足軽が25名1隊,弓足軽が10名の合計75名,若党,馬添,道具持などの従者が220名以上,従者馬が60頭で総人数318名となっています.

 第4軍団も詳細に見ていくと,騎馬隊が家中13騎,組下4騎,その他6騎の合計23騎,足軽は鉄炮足軽が40名1隊,槍足軽が25名1隊,弓足軽が10名の合計75名,若党,馬添,道具持などの従者が220名以上,従者馬が60頭で総人数318名となっています.

 こうして見ると,騎馬隊の構成こそ異なりますが,騎馬隊の数にしろ,足軽以下の編成にしろ,全く同じになっています.

 第5軍以降は有力武将で,
第5軍が檜山支配の石塚市正1,700石,
第6軍は横手城代の戸村十太夫6,000石,
第7軍は檜山支配の多賀谷左兵衛7,000石,
第8軍は横手支配の向源左衛門5,000石,
第9軍は刈和野支配の渋江宇右衛門4,000石,
第10軍は横手支配の須田主膳2,600石,
第11軍は廻座格家老の佐藤忠左衛門2,500石,
第12軍は角間川支配の梅津半右衛門9,000石
となっています.

 これも知行は石塚市正の1,700石から梅津半右衛門の9,000石まで,かなり幅がありますが,石塚軍の騎馬隊の編成が家中1騎,組下2騎,その他20騎の合計23騎なのに対し,梅津半右衛門のそれは,家中13機,組下1機,その他9騎と構成が異なっているだけで,総数は変わっていません.
 また,何れの組も足軽以下の編成は全く同じで,軍勢の総人数も318名以上と同じになっています.

 あくまでもこれは机上のシミュレーションに過ぎませんが,それでも,旗本軍を除き,合戦時に手足となる軍団の編成を同一にするのは,極めて合理的な発想です.
 また,従者や駄馬も同一数にするのも,見事に調えられています.
 この事から,どの部隊であっても,戦闘能力は均質化されている…兵員の地域別資質から来る差異は発生していたかも知れませんが…と考えられます.
 同一兵力で戦闘すると言う事は,戦場での各隊の活躍の差は軍団司令官の力量に依ることになります.

 こうした軍団編成には,弥もすれば家格や武術の力量を重んじるケースも多いのですが,戦国の遺風が未だ残っていたのか,秋田佐竹家のシミュレーション上の戦闘部隊は,極めて合理的に作られていたのです.
 因みに,先に見たように,この数は,1692年の元禄遠路軍役騎馬目録でも同じ事が分かります.
 そして,分限帳と照らし合わせると,例外的に40石というのがありますが,直臣騎馬隊の知行高の最低ラインは凡そ80石であり,戦闘用の馬を揃えるには最低80石が無いと余程の事が無い限り,維持が難しいと言う事が分かります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/08 23:24
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 【質問】
 渋江和光の「鉄砲稽古」とは?

 【回答】

 濁川と言う地に,19世紀初頭,渋江和光の下屋敷が建てられました.
 渋江和光家は秋田でも重臣ですから城下住まいであり,知行地を訪れるのにも結構な手続きが必要ですから,この地はそんなに遠くありません.
 秋田市内の泉堰と言う小さな川に面した地で,屋敷の裏手は佐竹菩提寺の天徳寺山に連なる里山であり,屋敷の両隣は,大坂冬の陣で奮戦し,秀忠から感状を得た石高588石の信太内蔵助下屋敷と,石高185石の田代周助屋敷でした.

 因みに,この下屋敷の前を流れる泉堰を渡る為,橋が架かっていたのですが,1823年6月25日の洪水で橋が流された為,丈夫な栗材で橋をかけ直しました.
 そうしたら,その橋から椎茸が生えてきたと屋敷守の勘兵衞なる人物から連絡があり,渋江和光は,「人に盗まれないように」と別の所に隠しておくよう指示します.
 その後,勘兵衞から,2個盗まれたが大きなもの7個を採取したので,と本邸に椎茸が届いたりしています.
 まぁ,珍しいもの,縁起物だから食べたかったのかも知れません.

 また,城下で薪が高騰した事から,裏にある里山から雑木を伐採し,自給することとして,山子4名で伐採して,徒を薪が盗まれないように警護の為派遣すると言った事もしています.
 この薪は大体25釜(1釜で縦横6尺(約182cm),長さ3尺(約91cm)の容積で薪の量を表す単位,大体年平均一般的な家庭で年5釜くらいは消費する)採取出来ましたから,警護の徒を派遣するのも当然ですね.

 1815年12月2日,この下屋敷の隣にある信太の屋敷を購入しています.
 信太内蔵助とは,ハードな交渉を重ねた末,120貫文2年年賦での購入,3~4年前に隣にある田代の屋敷も110貫文で購入しました.
 両方併せて230貫文は1両を6貫800文替えとして,33両3分程度になります.
 なお,信太の下屋敷には,水田70刈もあり,そこから上がる収入も渋江の収入になりました.

 この広大な下屋敷がどの様に利用されていたか,と言えば,年7回程度しか利用されていません.
 蛍狩や栗拾いと言った家族行事の場合もありますが,その殆どは和光主催の鉄炮の稽古場としての利用でした.
 この稽古,大体,4月頃から稽古を開始し,7回前後行って,7月中旬には終わります.
 最初の「打初」と最後の「打仕舞」には,出席者全員に酒1升程度を振る舞う酒盛りをしていたようです.

 参加者は大体10人前後で,重臣が1~2名,親戚筋,大筒方,小筒方を主とする平士達,郷士,鉄炮の師匠である鉄炮師,小姓が重臣に約3~6名前後となっています.

 こうした鉄炮稽古場は星場と言われ,佐竹家中の公式星場としては,矢橋小筒星場,大筒星場,楢山小筒星場の3箇所が設けられていました.
 この他,個人では,渋江和光濁川下屋敷,小野岡大和名田下屋敷,その他の星場して,馬頭観音及び福原流星場が秋田佐竹家にはありました.

 稽古については,遅くとも実施日の前日までに相手方に手紙で伝えられていました.
 時には雨が降って中止となる事もあります.

 下屋敷の中には,鉄炮の的を置いた小屋が設けられていました.
 この建物を「星場日小屋」と表しています.
 これは恒久的な建物では無く,毎年春先に建て直されていたようです.
 時には高さが低いと言って,1尺(約30cm)高く建てた年もありました.

 利用時間は多くの場合,四つ時から開始され暮れ六つで終了,つまり,午前10時から午後6時頃まで8時間余,凡そ1日日程での実施でした.
 とは言え,ずっと鉄炮の稽古に勤しむのでは無く,間にそれぞれ持ち寄った酒肴が出てそれを楽しむと言う,凡そ武芸とは程遠いもので,寧ろ鉄炮稽古を名目にした飲み会,とか文化的サロンとか,政治的密談の場だったのかも知れません.

 的の大きさは8寸,5寸,3寸の3種類あり,1人で8回程度発射して命中精度を競います.
 的までの距離は,公的な星場では,例えば楢山星場では70間(約126m),矢橋大筒星場では90間(約162m)でしたが,3軒続きの広い土地ではありますが,距離的に余裕がないことから,30間(約54m)程度だと推定されています.

 因みに,この頃にはこうした鉄炮にしろ弓にしろ,侍が自己鍛錬の場として行うものでは既に無く,その命中を競う賭け事としてのものだったりします.
 例えば,1819年閏4月16日には近くに遊びに来ていた重臣小瀬又七郎が下屋敷にやって来て,その一行の中にいた鉄炮素人の牛丸彦助に,1尺5寸の的を30間の場所から3回撃たせ,的に命中するかどうかの賭けをしていると言う記録があります.
 また,記録では他に,
「我等ハ八寸二ツ,五寸四ツ,三寸二ツにて八寸壱ツ中りにて大負也」
という記述がありますから,合計8回発射して,1番大きな的にわずか1発しか命中せず,賭けで大負けに負けたとあったりします.
 これは鉄炮だけでなく,弓稽古でも賭弓が行われた記録があります.

 重臣達が,こうした賭け鉄炮,賭け弓をやっていた訳ですから,下に対し博打を止めろと言っても聞く訳がありませんわな.

 この濁川下屋敷は,渋江和光が家老の一歩手前であった御相手番の地位を1821年12月20日に「遠慮」となって一旦失い,1822年閏1月9日に「遠慮」が解除されたものの,2月6日から大病となって約1年間,1823年4月19日に公務に復帰するまでの期間,極端に利用が少なくなり,結局,1823年6月25日に売却します.
 それも,隣接地を230貫文で購入したのに,それを遙かに下回る160貫文で,濁川に隣接する泉村の百姓に売り渡してしまったのです.
 渋江和光というのは,お金に関してはタフ・ネゴシエーターだったのですが,これだけが大きな損失を出した取引でした.

 とは言え,渋江家の下屋敷はここだけでなく,川口という場所にもあって,そちらが殖産興業の展開の場として重要だったからでもあったのですが,罷免や病気により,人が寄り付かなくなり,接待の場が不要になったのもあったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/15 23:07
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 【質問】
 「渋谷峯光家来分限」について教えられたし.

 【回答】

 1739年の「元文五年写分限帳」と言う史料が秋田県公文書館にあります.
 これは,1739年時点の秋田佐竹家の直臣武士の名前とその知行高が書かれているものです.
 この中に,今まで何故か知られていなかった「渋谷峯光家来分限」と言う部分があります.
 これは,大坂冬の陣で討ち死にした渋江内膳政光の子孫に当たる峯光が,自分の録の中から召し抱えている家来,即ち陪臣の名前と禄高を書き出しているものです.

 その史料に依れば,家臣筆頭に掲げられているのが鈴木庄左衛門で,80石を給されています.
 これは,大坂冬の陣で主人内膳と同じ日に同じ戦場で討ち死にした陪臣家来の鈴木正左衛門の子孫に該当する人物です.
 3番目に掲げられているのも浜野平左衛門で,これも陪臣戦死者である浜野平左衛門の子孫で60石が給されており,5番目には同じく戦死者である戸祭十兵衛の子孫である戸祭又右衛門の子孫で50石が給されています.

 これを整理していくと,知行取で最高給与は高橋六郎兵衛の180石で1名,100石が2名,80石以上100石未満で2名,60石以上80石未満で2名,50石台が4名,30石台が4名,20石台が8名の23名で,知行取の知行高合計は1,140石です.
 また扶持取は,7人扶持が1名,5人扶持が2名,4人扶持が4名,3人扶持が15名,2人扶持が15名,1人扶持が23名で合計83名,扶持合計は131人扶持となります.

 つまり,渋江峯光の家中には83名が勤務していたわけです.
 当時,渋江峯光の知行高は4,347石でしたから,峯光が陪臣を召し抱えるに当たってどれだけの支出になるか.

 先ず,知行取23名分の合計石高は1,140石です.
 次いで,扶持米取60名の合計扶持数は131人扶持となりますが,1人扶持は1日玄米5合を360日分,即ち1年に1石8斗支給されるので,1石8斗に131を掛け,石高に換算すると235石8斗となります.
 これに,陪臣ではありませんが,渋江菩提寺の臨済宗全良寺など2箇所への扶持分が60石あります.

 渋江峯光の知行高は4,347石ですから,秋田佐竹家の貢租制度では六ツ成ですから,借知が無く,総てが渋江峯光の収入になるとして,計算上は2,608石2斗となります.
 寺の60石を含めた家中知行分1,200石も六ツ成として,そのままこれが収入になるとして720石となります.
 扶持米取は60人分235石8斗,これはそのまま支給されるので,減算などはありません.

 すると,渋江峯光の実収入としては,2,608石2斗-720石-235石8斗=1,652石4斗となります.
 結果としては,経済的負担としては知行取が総収入の28%,60人の扶持分で9%の37%となります.
 庶民的から見れば,家老と言えば高給取りなのですが,内実はその3分の1以上が家来の給与に消えていた訳です.
 因みに,所預給人,つまり南家や西家など各所に配備されている一門衆については,この比率が更に高く,本人知行高の55%に及んでいたことが史料から判明しています.

 ところで,1677年の遠路軍役騎馬目録では,渋江家は第9軍の大将として,下騎馬5騎を引き連れることになっていました.
 騎馬武者は維持費の関係上,下騎馬対象の家臣の最低知行は50石ですが,渋江家中では,180石の高橋六郎兵衛,100石の高橋十右衛門,久米又左衛門,80石の鈴木庄左衛門,隠明寺浪江の5名が対象となっています.
 つまり,この5名が合戦の際には下騎馬として出陣したわけです.

 今の国と地方自治体の関係でもそうですが,江戸時代でも将軍家が日本全体を統治していた訳ではありません.
 将軍家が,朱印状を与える領国と言う形で,270余の大名家に地方統治を委託していました.
 委託していたとは言え,大名家もその全領国を統治していた訳ではなく,数多くの家臣を通じて領国運営を行っていたのです.
 1627年当時の佐竹家中の直臣達は1,585名余となっていました.
 その家臣の1人が,家老を屡々務めた渋江内膳家です.
 1739年時点の渋江峯光の知行高は4,347石ですが,渋江家は当主の命令で出兵する際には,下騎馬5騎を引き連れる決まりでしたから,これらの下騎馬を含めて渋江家運営の為に83名の家臣を召し抱えていました.
 陪臣とは言え,高橋六郎兵衛の様に,家中の士よりも高い禄を食んでいた武士もいました.
 この六郎兵衛とて,出陣の際には郎党として幾人かを召し連れていかねばならず,しかも,普段でも知行地支配の為に幾人かの家人が必要です.

 大名家当主が家中の士の生活を考えなければならないのと同様,その家臣達も,自らが抱える家来の行く末を保障しなければなりません.
 その中でも大きな禄を食んでいる家来は,更にその家来の生活を保障しなければなりませんから,こうしてみると将軍家からずっと重層構造を構成していたと言える訳です.

 これがずっと永続していったが故に,開国や攘夷と言った大きな時代変革の波が立て続けにやって来た時に,例えば軍制改革で戦力を増強しなければならなかったのに,こうした陪陪臣や陪臣達が反対し,上層部は変革は判っていても中々手を付けられなかったのが,幕末の東北諸藩の動向だったのでは無いかと考えられます.
 一応,佐竹家は佐幕では無く勤皇でしたが,それでも,西国雄藩には全く後れを取り,軍近代化にはほど遠い状態で戊辰戦争を迎えざるを得なかった訳です.

 何となく,今の日本企業の低迷の原因も,この辺りにありそうですけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/09 22:54
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 【質問】
 秋田佐竹家における売薬禁止令の顛末は?

 【回答】

 さて,越中富山と言えば,薬売りです.
 その起源は,地元でもよく判っていません.
 しかし,多くの場合,立山信仰に基づく立山御師の諸国旦那場廻りの際に売薬行為があり,それを売薬の起源としているそうです.
 富山前田家が行商人を保護して,他領商売勝手と先用後利の方針を展開したのは,1690~1720年代に掛けてと言われています.
 従って,富山売薬の出発は18世紀初頭と言えそうです.

 時代は下りますが,1844年当時の富山の反魂丹商人の組は,北から
南部組22名,
秋田組4名,
出羽組26名,
仙台組20名,
伊達組46名,
関東組180名,
上総組30名,
越後組58名,
越中組32名,
信州組82名,
駿河組21名,
飛騨組15名,
美濃組96名,
江州組63名,
伊勢組38名,
五畿内組76名,
奥中国組72名,
北中国組67名,
四国組26名,
九州組70名
となっており,松前領を除く総ての地域で富山の人々が行商をしていました.
 その組数は合計21組で,最大の人数は関東組の180名,次が美濃組96名です.
 一方,所属人数が最も少ないのは秋田組で4名,次いで飛騨組15名となっています.

 この内,秋田組が少ないのは,1717年より全国に先駆けて富山売薬行為の禁止措置を行った為で,富山売薬としては最も活動困難な地域であった訳です.
 秋田組の人数は,1844年の4名から,1853年に21名,1857年に26名となっていきます.

 因みに,当時の富山売薬の総組人数は,
1844年が2,047名,
1853年が2,258名,
1857年が2,252名
と,全国の総人数がそれ程変わっていないのにもかかわらず,秋田組はこの間6.5倍に膨らんでいます.
 これは,1790~1820年代にかけて,国産の薬草生産を積極的に展開していた秋田佐竹家が,天保飢饉に見舞われて,農村社会は元より,反省でも立ち直れないほどの痛手を被った間隙を突いたものと考えられます.

 富山の売薬行商人は,その売上利益の一部を富山前田家に,春季,秋季,増御役金,御礼金,売券料,壱厘上納金などと言う名目の諸役金として上納していました.
 1844~1848年は1,800~1,900両の範囲で,1848~1854年に入ると2,500~3,000両前後へと増加しています.
 先ほど見たように,売薬人の総数は,1853年で2,258名ですから,平均的に見ると,売薬人1人が年間1両2分余を藩庫に上納していた事になり,富山前田家としては結構な収入になっていたのが判ります.

 因みに,「越中富山の薬売りでござ~い」などとその存在を誇示して売り歩く場合とは別に,規制されていた地域では,密かに取引が為されているケースもあります.
 秋田の場合が正にその例で,1803年,1805年,1810年の3日年平均で,年300両が領外に持ち出されていました.
 それ以前,即ち17世紀にはこの金額は年間2,000両にも上ったそうですから,秋田組僅か4名で,1人当たりの売上額は500両というとんでもない数字になります.
 1844年の秋田組の上納金額は,4名で8両3分であり,1人2両1分にしかなりません.
 闇商売分を300両,年間の正規の販売売上額を200両の合計500両とすると,上納の割合は0.45%にしかならず,現在の法人税の足下にも及ばない金額となります.
 正に,薬商人としては笑いが止まらない状態だったのかも知れません.

 当然,富が他家に流出する方としては,こうした状況を座視する訳にはいかず,様々な対策を施すことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/10 23:19
青文字:加筆改修部分

 さて,富山売薬が1690年に始まって程なくして,秋田佐竹家は1717年より領内での売薬を禁止しました.
 そして,領内の薬のみならず,領外からの薬の領内での売薬は,滝口と銭屋の僅か2軒の特権的商人に許すのみとなります.
 また,1745年の「領内留物札」にて黄連,丹土の領外持ち出しも禁じられました.

 とは言え,富山売薬を排除したのは良いものの,どの様な手立てで領民に薬を供給するのかは明確ではありません.
 どこぞの政党みたいですが,それが実態でした.

 勿論,富山行商人の方もこれにおいそれと従った訳でなく,種々の方策でこれまで保持してきた諸権益を維持していきます.
 例えば,既に配置している置き薬の入国したり,旅先藩への永住や有力店に使用人として入り込むなどがその代表的な手段です.

 後に藩当局から売薬を認められた城下商人高堂屋八兵衛の本家は,越中富山で代々八兵衛を名乗っていました.
 1733年に販路を秋田に拡げ,1757年に起きた銀札発行を巡る政争,所謂「銀札事件」で家老を始め多くの銀札発行派が粛清された後に永住を決めて大町二丁目に居住しています.
 1770年に,高堂屋八兵衛の支配人武右衛門が年15両の運上金を納めることを条件に5カ年の廻在売薬,即ち,村々を回っての売薬事業の許可を得たことで,その年から,滝口,銭屋に加え,高堂屋も領内売薬特権を得ています.
 この年から,1798年までの28年間,彼等3軒が納めた運上金は合計3,501貫と15両(金換算で凡そ600両)に達しました.
 因みに,高堂屋は許可に際し,手代28名を富山から派遣して貰い,藩からの商判,つまり鑑札を28枚発給して貰っています.

 とは言え,1773年,1786年,1788年と3度に亘って町触が行われ,入国禁止令の徹底が為されたのですが,依然として他国商人による闇商売は後を絶ちませんでした.
 即ち,幾ら禁令を出しても,藩当局に供給手段が無い限り,他国商人の跳梁跋扈は止みません.
 闇商売による売上は,先に見たように,年間2,000両に達しており,それだけ領内の富が領外に流出していることになります.
 この時期,藩当局としては特権商人からの目先の運上金だけに目が行っていた訳です.

 1797年になって漸く藩当局は,藩校明徳館内に創設された医学館で製造された薬を,領内の村々に供給する方策をその閏7月21日より開始します.
 これは,1つには国富の流出が年間2,000両にも達していること,そして,佐竹義和と家老の匹田定常による寛政改革の中で林業や陶器と共に,製薬も諸産業取立の一つとして時刻制雑役の領民への配布へと繋がっていったものです.

 また,これと同時期に既存売薬の品質検査が医学館で実施されました.
 これにより領外を加えた各薬種問屋は医学館に薬の提出を行いますが,これはどちらかと言えば出来レース的で,従来から売薬を許可されていた3点のみが領内での売薬を認められ,「御合鑑」と呼ばれる鑑札が1店に付き3枚,合計9枚藩当局から公布されました.
 因みに,廻村時には3店の手代に加えて富山からの手代が加わる形が取られているので,富山置薬が完全に排除出来た訳では無かった事が伺えます.

 1800年当時の配薬システムは次の通りでした.
 医学館が作り,村々に配布する薬の名称は,「御学館御製薬」と呼ばれ,医学館御製薬方で調合された薬として,村からも信頼されていました.
 この配布方法は,製薬所から郡毎に2箇所ずつ,合計12箇所設けた役所で,郡方見廻り役が交替で常勤し,農政の最前線となる藩当局の出先機関である御役屋に輸送され,配下の村々の肝煎を通じて各村民に春と秋の年2回配布されます.
 そして,その間使わなかった薬は,今度は逆ルートで回収され,春に配布した薬を使用した代金は,その年の秋の10月中に御役屋経由で11月中に学館に納入することになっており,秋に配布した薬の代金は,翌年の10月中に御役屋経由で学館に納入します.

 余談ですが,御役屋は移動することも有り,一度でも置かれた場所は,
雄勝郡では西馬音内,横堀に,
平鹿郡では浅舞,増田,角間川に,
仙北には六郷,長野,角館町に,
河辺郡には牛島と戸島に,
秋田郡には八丁町,船越,一日市,大館,米内沢に,
山本郡では鶴形,森岡,豊岡にありました.

 薬を配布するとなると,原料となる各種薬草も,国産品を供給する態勢を作らなければなりません.
 国産以外の物を買うと言う事は,これまた国富の流出となってしまいます.
 ただ,その供給は地勢的な問題もあり上手く行かなかったのか,1820年になると遂に藩当局は西堀の外にある台所町の一隅に薬園を設けていました.

 薬園設置の目的は次の5点です.
 1. 医者に本草学の教育を授ける為
 2. 領民に薬草の知識を普及させることで,山野に自生する薬草を採取させる為
 3. 領内産の薬草で領民の需要を賄い,移入品の代用とする
 4. 有用さが理解されず放置されている薬草を藩が買い上げて大坂へ送り,高価な唐薬と交換する
 5. 領外で購入する高価な唐物薬品は農村にいる医者に配布し,重症患者の治療用とする

 当然,これには大きな費えが掛かりますが,その経費に関する史料は,今のところ発見されていません.
 ただ,経費の一部を城下近郊牛島村の柳原(小野)正太郎が寄付しています.
 正太郎昌穀は1826年当時,知行高81石4斗8升9合の郷士で,今の秋田市柳原新田の開発者に当り,1780年代は阿仁銅山の経営に携わり,1789年以降は明徳館に幾度も財政的支援をしている人物です.
 因みに先祖は,浜田館の丸にあった雲崎城主の小野筑後だとされています.
 その寄付額は,2,500貫文(1両を銭6貫文替えとすれば,凡そ417両余)です.

 柳原正太郎等の資金提供によって設置された薬園は,1822年6月に藩校明徳館内の医学館付属となり,6月11日には元鷹匠組頭で1820年の薬園開設時に御用掛となり12石2人扶持を賜っていた上原案左衛門が園内に屋敷地を与えられて引っ越してきています.
 秋田城の西にある外堀の一隅で,堀を隔てて御兵具蔵のある地点は,これまで御台所町と御台所北町に分かれて小禄の家臣が居住していた場所ですが,その内の御台所町通りの東側に当たる部分が「御用御薬園畑」となり,この施設の出入りは立派な門によって周囲と区別されています.

 この薬園畑の位置は,現在の秋田氏千秋矢留町7~9番に当たります.
 現在の位置で言えば,千秋公園の地下を走る千秋トンネルの旭川側出口付近一帯です.

 1822年12月14日,山内儀兵衛が御薬種大坂為御登方御用係に任命されます.
 大坂へ薬種を輸送すると言うこの人事は,医学館担当の藤本恭蔵からの直々の申し出によって決定したものでしたが,この山内儀兵衛の素性は今のところよく判っていません.
 また1823年2月26日には能代湊の医師宇佐見昌伯が,かねてからの希望が叶い,「御薬園培養方御用係」に任命されます.
 更に4月11日,これまで「御薬園御用係」だった渡辺春庵はその任を解かれ,眼科医の小田野三立が新たに任命されます.
 因みに,小田野三立は,秋田蘭画の祖であった小田野直武の次男です.

 これらの人々の家中での身分は今のところ不明ですが,宇佐見昌伯を始めとして,町医者や漢方医が多くいたのではないかと思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/11 23:06

 1825年,薬園では態勢が整って,それなりの薬草が栽培されるようになりました.

 その主な栽培薬草は,次の通りです.
 根茎に鎮痛,鎮痙,浄血の効能がある川?,根に消炎,解熱,利尿の効能がある黄?,根茎に補血,強壮,鎮痛の効能がある地黄,根に鎮痛,鎮咳,去痰の効能がある甘草でした.

 薬園の職員は薬園係副役として,江橋甚四郎という知行高90石1升3合の家臣が就いており,その下役として薬園方に上原案左衛門,その子の作右衛門が任命され,更に職員として片野新兵衛,清水源内,加藤才治,太田某,柳原正太郎,そして,人足4名という布陣でした.
 この中で,最も多く薬園に出勤していたのは片野新兵衛で,次いで清水源内と加藤才治となっていますが,片野の出勤日数が51日と結構多く,清水と加藤は8日程度しか出勤していません.
 従って,薬園の実務を担っていたのは,片野新兵衛であった様です.

 因みに,柳原正太郎は,先述の様に薬園創設時に銭2,500貫文を寄付した人物で,城下近郊牛島村に柳原新田を作り上げ,1812年に郷士となって,1823年2月,匹田斎から「永給人」を命じられ,薬園の諸費用の算計と言う職を命じられています.
 算計とは,会計面の担当者だった様です.
 柳原正太郎のこの頃の禄高は,81石4斗8升9合で,こうした商人や大地主から士分に取り立てられた人々は,「新家」と呼ばれて旧来の家臣の次席という位置づけを為されていました.

 薬園で作られていた甘草は,六郷高野村肝煎で酒屋を営んでいた湯川清四郎と言う人物が以前から育てていたものでした.
 彼が育てた甘草の草苗2本を譲り受けた上原父子が,3~4年後に3,000本余にまで殖やすことに成功します.
 この甘草を「御国産」とするために更なる増産が図られ,又々湯川から400本の苗を受け取り,1826年からは春と秋の2回,領内北部と南部に分けて苗の植え付けや育て方の技術指導を実施しています.
 その結果,当時の生産額は年3,000貫文,即ち,1両を6貫文替えの相場で換算すると500両余りとなりました.

 こうした薬園には,時に見学者も受け容れています.
 例えば,薬草栽培を試みようとする農村の代表者だとか,藩重役,変わったところでは薬園付近の武士の妻女と言うのがあったりします.
 武士の妻女は,例えば,藩の重臣匹田斎家の女中達や妻女です.
 匹田家は,この当時家老を務めており,知行高2,239石4升5合を領していました.
 この匹田家の屋敷は,薬園から凡そ500mほど南側にあったので,気軽に訪れて花などを愛でていたのでは無いでしょうか.
 ただ,藩営施設と言う性格からか,庶民は殆ど訪れてはいません.

 薬園では地竹を,河辺郡船岡村(現在の大仙市)から調達していました.
 これも薬園の職員である柳原正太郎と関係があります.
 1803年,彼はこの村での開墾の許可を得ています.
 そして,1812年には村にある持山の一部を,医学館の維持用財産である学田としていた事から,薬園の資材調達先として,融通の利く船岡村が選ばれたと思われます.

 明徳館や医学館と薬園との間には,支配関係があった事から,金銭の納入や支払が,双方で頻繁に行われました.

 まず,7日に1回の割合で,薬園の人足手間賃の支給が為されています.
 但し,記録からはこの人足4名分の支払額は不明です.

 薬園内の施設運営費として,土瓶,茶,墨などを購入する為に「雑用銭」を,また萱購入の為に700文が支払われていたり,大雨でいたんだ園内施設を修繕する費用として2貫800文が支出されたりしています.
 つまり,薬園には手持ち資金はなく,その都度,明徳館側に請求して支払いを受けると言う形式だったことが判ります.

 なお,先述の学田と言うのは,正式には「御学田」と言う名称で,明徳館の経営を維持する為に存在していた土地を始めとする財産群の事です.
 先の柳原正太郎は,この学田に1812年,田地30石と杉木10,000本,書籍5,000巻余を献上しています.
 学田の規模は,創設当時は1,500石程度でしたが,献上を受けて徐々に大きくなり,1833年頃には,学田2,300石となっていて,その年貢収入と小役銀,銀8貫余が年間の収入となっています.
 因みに,薬園との関係では,金銭面に関しては明徳館が,建材や備品などの資材関係は,御学田受払局が担当していました.

 一方,薬園から明徳館への金銭の流れは殆ど無く,薬園で生産された地黄を売り払った代金のみで,しかも,その金額は明確にはなっていません.
 とは言うものの,売り払う相手は,特権商人の滝口,銭屋,高堂屋の3軒しか無かった訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/12 23:35

 さて,薬園では甘草などの薬草を栽培していたほか,それらを領内で栽培すべく,普及活動も行っています.
 大体,3~4月にかけて藩南部から北部を巡り,8~10月にかけて藩北部から南部と言う形で逆方向に進んでいます.

 例えば,1826年春に巡回した北部の場合,16日掛けて領内の村々を周り,村の肝煎,長百姓層や社家,そして給人等に会い,併せて205本の甘草の苗をこれらの人々に渡しています.
 同様に,南部の場合は,例えば1827年の秋に27日間掛けて回っており,前年と2カ年で併せて甘草の苗995本が渡されています.
 中でも,南部では河辺郡諸井村,仙北郡境村,角館町,西妙寺村,六郷村では多くの苗を渡していました.

 これら村々の協力者の多くは,村にあっては肝煎層,即ち名主や庄屋と言った立場の人々及び,社人,つまり神官が多く,城下町の大館や所預地十二所にあっては,知行高53石1斗9合の谷田部久太夫,76石6斗5升5合の小川郷右衛門,47石6斗3升5合の岡本宇平治,そして,大館では西家の家中で佐竹本家から見れば陪臣に当たる江?愛之助などの給人達,そして地域の薬種商等であった様です.

 これらの人々の協力も有り,甘草栽培は着実に成果を挙げていきました.
 最初2本で始まった甘草の苗は,3~4年後には3,000本に増え,「国産」と言えるまでになり,遂にはその生産額は年間3,000貫文,即ち約500両に達する一大産物に成り果せています.

 甘草が軌道に乗ると,次に国産化すべきと目されたのが,滋養・強壮に効く人参,つまり朝鮮人参です.
 この朝鮮人参の国産化は,渡来品の輸入による金銀の流出を防ぐべく,幕府,そして各大名家が挙って取り組んでいたものです.
 ただ,この種子の入手から栽培技術に至るまで総ては秘密のベールに包まれていました.

 秋田佐竹家が人参栽培に取り組み始めたのは,1827年頃と言われています.
 この人参栽培は薬園が関与はしていましたが,北の丸御花園畑に隣接した広大な台地にあった,材木を扱う役所,大木屋で行われました.
 人の目に付きやすい薬園では無く,城内北の丸の大木屋という場所で人参栽培が行われたのは,佐竹家が隠密を放って,近隣の南部,会津,米沢に潜入させ,その内,会津で人参の種10万粒を密かに持ち帰ったからです.

 会津松平(保科)家は,人参来倍の先進地で,1670年に2代目当主保科正経が貧しい領民を疫病から救い,病気の予防や治療を施したいとの願いから薬草園を設け,各種の薬草栽培を開始したのが最初でした.
 3代目当主の保科正容の時代に薬草園が整備拡充され,朝鮮人参を試植し,これを広く民間に奨励しています.
 こうして藩当局の指導奨励と農民達の粘り強い努力の結果,1829年には会津和人参を清国に輸出する許可を幕府に願い出,1830年に許可が下りて,日本初の輸出用人参が清国に向けて長崎から輸出されるまでになりました.

 当然,こうした人参栽培に血眼になっている会津松平家ですから,他家への人参移出など許されようはずもなく,種子持ち出しは御禁制とされていました.
 なので,非合法な手段とは言え,10万粒もの種子を領外に持ち出した佐竹家隠密働きの方が,有能だったのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/13 23:36

 会津から密かに入手した朝鮮人参の種を用いて,大小屋で栽培に成功したのを受けて,その増殖が始まります.
 甘草と異なり,こちらは有力家臣が組合を作ってその栽培に乗り出しました.
 その名称を,人参植立組合と言い,メンバーは
2,432石の小鷹狩右近,
2,904石の相手番渋江和光,
394石の大番頭黒沢伊兵衛道興,
392石で宿老席の荒川宗十郎及びその子才吉,
1,054石で一門衆の小野岡一太夫,
1,688石の相手番梅津主馬
の7人で,その中心人物は,「穴門」と蔑称されている小野岡氏でした.
 なお,人参組合の構成者は途中で梅津主馬が抜け,代わりに1,219石の渋江左膳が加わっています.

 組合で所有した畑は,後にそれぞれの屋敷内栽培になりましたが,最初は栽培方法を覚える意味でも,協同で畑を構えており,その場所は,現在の秋田氏川尻総社神社付近にある川尻上野町であろうと比定されています.
 ここら辺は,周辺からすると少し小高くなっていた台地状の地点で,水田には適さず畑地耕作が可能な場所です.
 ここの農民の畑を借り上げて協同作業場としたようです.

 そして,この場所で栽培された人参の種で余ったものがそれぞれの給人屋敷内の畑に持ち帰られ,そこで栽培される様になったのと同時に,角館在住組下給人で北家陪臣の河原田新右衛門を通して角館北家の薬園でも植え付けが行われていました.

 組合の運営方法としては,給人毎に蒔く種子量を決め,それに相当する種子代を負担する方法でした.
 例えば渋江の場合,総種子量5,000粒で35貫文を支払っていますが,1粒当たりの種子代は7文もする高価な品物です.
 この値段は初年度は1粒4文でしたが,翌年にはほぼ倍の値段になっています.
 従って,有力家臣などの分限者で無い限り,中々負担が出来ません.
 これだけ高くなったのは,会津等から密かに持ち込まれた10万粒を横流しした為ではないかと推察されますが,確かな文献は残っていません.

 なお,この組合だけでは素人ばかりなので,人参の栽培が叶いません.
 先の河原田新右衛門が人参畑の運営に関わっていましたが,それだけでなく,会津からも人参師なる職業の市之丞と言う人物が秋田にやって来ています.
 この市之丞は,会津南青木村出身で,1828年10月に城下に移住しています.
 彼が人参栽培のノウハウを河原田やその他有力者に伝授していたと思われます.

 また,各給人の家中でも殖産担当の家臣が責任者としてこの畑維持に尽力しています.
 例えば,渋江家では渋江内膳政光と共に討ち死にした水戸浪人駒野目六兵衛の子孫で,彼が人参方,桑方として殖産担当をしていました.

 この組合の畑は,人夫21名と各給人毎に1名の小姓により作られました.
 その畑を運営管理していたのは,畑周辺の農民だった様です.

 当初は生姜や干大根と見まごうばかりの失敗作の連続だったのですが,それでも中には成功したものもあり,それらは薬用に加工したほか,組合の出資者がお金を出して購っています.
 例えば,渋江和光は体調不良の為,1両で大小10本,重さ8匁9分(約33.4グラム)を入手して自ら服用しています.

 ところで,この人参組合は軌道に乗るか乗らないかのところで突如解散してしまいます.
 その原因は,市之丞に対して会津松平家から捕縛の依頼が秋田佐竹家に出された為です.
 1829年5月18日,町同心が市之丞を捕らえますが,22日に鳥兜の根っこ,つまり附子を服用して毒死してしまいました.
 これは服毒自殺なのか,それとも毒殺されたのかは不明ですが,ともかく,塩漬けした死骸の引き渡しを巡って政治問題化したりもしています.

 なお,渋江和光は市之丞の死とその後の処理について,日記の中で当時の家老小瀬又七郎の対応に不満や義憤を漏らしていましたから,小瀬が何らかの指示を下した可能性も考えられます.
 この辺りはまだ未解明ですが,何となく時代小説の種になりそうな出来事です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/14 23:22


 【質問】
 佐竹家における参勤交代の様子は?

 【回答】

 1635年から1862年に掛けて,幕府が諸大名家と一部の旗本に強いた制度が参勤交代制です.
 江戸に当主が詰める事を「参勤」と称し,1862年に大大名家は3年に1度1年のみ,他の大名家は3年に1度100日のみで良いと緩和されるまで,1年国元,1年江戸と言う様に二重生活を強いられる事になりました.

 ただ,全国の大名家が一斉に4月に江戸を目指して参勤したのでは途中の街道は混雑しますし,宿泊の調整は大変です.
 例えば,南部と津軽が途中で鉢合わせすると合戦が起きかねません.
 更に江戸の人口は爆発的に増加し,インフラが間に合わないなどの問題も起きる恐れがありました.
 その上,全国の大名家が一同に江戸に行ってしまえば,その地域で騒擾が起きた場合に誰も国許の軍勢を指揮する大名当主がいなくなるので,治安上も問題があります.

 そこで,幕府は各地域の大名家の参勤の年を「表」と「裏」に分けていました.
 「表」の大名家当主は子年,寅年,辰年,午年,申年,戌年の6カ年,つまり,西暦で言う偶数年には江戸に参府し,丑年,卯年,巳年,未年,酉年,亥年の6カ年,つまり,西暦で言う奇数年には国元に戻る御暇となりました.
 「裏」の大名家当主はその真逆となります.

 「表」の大名は全国で39家,「裏」の大名は全国で50家となっており,北東北の場合,「表」の大名家は秋田佐竹家,亀田岩城家,本庄六郷家,米沢上杉家,八戸南部家など,「裏」の大名家は仙台伊達家,黒石津軽家,新庄戸沢家などとなっていました.
 よって,余程の変事でも無い限り,佐竹の当主と伊達の当主が江戸で交流することは中々ありません.

 江戸から佐竹家が御暇をする場合は,先ず江戸屋敷を出発して草加で昼休みをした後,越谷で第1日目の宿泊となります.
 次が古河泊,以後,宇都宮,大田原,白河,本宮,桑折を通って七ヶ宿町にあって宮城の最も奥にある宿場で,七ヶ宿越えの難所の手前にある湯之原を経て山形,大石田,金山に宿泊し,山形と秋田の境である院内峠を越えると佐竹領内に入り,横手,刈和野に泊まった後,城下近郊の戸嶋に泊まって,15泊16日の行程で秋田城内に入っていました.
 因みに,他の日程では昼食休憩がありますが,最後の刈和野~戸嶋は昼食休憩無しで行動しています.

 この旅程では先述の通り2つの峠越えがあります.
 1つは宮城から奥羽山脈を越えて山形に入る峠で,七ヶ宿峠と現在の山形市近くの笹谷峠の2箇所がありました.
 もう1つは山形から秋田に入る峠で,以前にも書きましたが,佐竹氏の入部時点では,秋ノ宮に入る有屋峠越えでしたが,余りの難所であることから,交通の便を図って院内峠が切り拓かれ,以後,これが山形から秋田に抜ける街道となり,参勤交代のルートもこちらを通る様になっていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/29 23:01
青文字:加筆改修部分

 さて,武家諸法度では参勤交代の供について,領民や街道筋の助郷の負担を鑑みて石高に応じた人数にせよと指示していましたが,実際には大名家の見栄は相変わらずで,無理をしてでも立派で,煌びやかな,多人数を引き連れた行列にする傾向を止めることはありませんでした.
 因みにその人数とはどれくらいかと言えば,1721年に幕府が示した参勤交代時の従者数の指針では,1万石の場合,馬上3~4騎,足軽20名,中間とか人足が30名程度,5万石で馬上7騎,足軽60名,中間とか人足が100名,10万石になると馬上10騎,足軽80名,中間や人足が140~150名,更に倍の20万石ともなれば,馬上15~20騎,足軽120~130名,中間や人足が250~300名となっています.

 秋田佐竹家の場合は20万石ですから,最後の例になります.
 これを目一杯の人数とすると450名余となるのですが,ここの数字というのは直臣の人数でしかありません.
 知行取の上級家臣の場合は,更に自らの部下となる陪臣を多く引き連れていきますので,更に規模が膨らみます.

 例えば,1682年の参勤交代時の記録に依れば,大坂冬の陣で討ち死にした家老渋江内膳政光の子孫である渋江宇右衛門は,上下61名を引き連れています.
 「上下」の上は騎馬武者のこと,下は徒歩による侍を含め,宇右衛門の身の回りを世話する中間や若党に至るまでを指します.
 以前,由利領を請取りに行った際の佐竹の軍勢の内,渋江家の軍勢は分限帳に83名を数えていました.
 中間や若党については通日雇,つまり臨時雇いであるケースが多く,正式な陪臣では無いかも知れませんが,何れにしてもかなりの家の子郎党を宇右衛門は引き連れていたことになります.
 陪臣の数に関しては,200石未満で5名,300石未満で9名,500石未満で13名,700石未満で15名,700石以上では26名以上となっています.
 宇右衛門家の場合,知行は4500石なのでそれ以上の陪臣を引き連れていかねばなりません.

 と言う訳で,陪臣を含んだ佐竹家大名行列の人数は凡そ1,000名前後の大きな数になります.

 大名行列の人数の中には様々な職業の人々が含まれています.
 これは,当主の身の回りを世話する側方,警備を主任務とする番方の2種類に分けられます.

 先ずは,2週間以上も旅をするのですから,用心のためにも絶対に付けられたのが医師と鍼師です.
 これは大体4名程度が当主と一緒に移動しています.

 次に大名家当主の当時の教養として重視されていた茶の湯.
 茶道関係の人数は行列の中に結構おり,大体17名程度が当主に付いています.

 当主の日常生活を規則正しく執り行うために,時を司る人が必要です.
 大名行列の荷の中には時計を持参し,時計係として時計坊主なる人々がいました.
 これには3名程度が任に当たっていましたから,1名平均8時間の勤務を行っていたと思われます.

 本陣の掃除は本陣の雇い人ではなく,専門職の御掃除坊主と言う人々が行います.
 これは大体6名ほどが大名行列に付いてきていました.

 当主の身の回りの世話をしたり,話し相手となるのが,御側小姓,表御小姓,児小姓,大小姓と言った人々で,その数は全体で30名ほどになり,参勤一行直臣供人の合計人数の中では5%に達します.

 当主の腰の物,つまり,刀や太刀を作法通り着装させる役目の人が御腰物拵役で,行列には必ず1名います.
 それらの刀や太刀の番をするのが御刀番で,大体5名いました.

 当主の履物の維持や管理をする仕事が御草履取,これは意外に多くて5名程度がこの任務に従事しています.

 当主の食事の差配をするのが御膳奉(番)で,大体7名ほどいました.
 一方で当主の食事を調理するのが御厨屋で,江戸中期までは28名もいましたが,後期になると行政改革の影響か,半減されて15名前後になっています.

 大名家当主の嗜みとして,茶道の他,鷹狩りと言うのもありました.
 当然,この狩の主役となるのは訓練された鷹であり,その他かを扱う者が御鷹匠となります.
 これも意外に多くて,20名前後は常に帯同していました.
 と言うのも,佐竹家は秋田の他,下野に知行地を持っており,この付近で鷹狩りを実施していました.
 従って,参勤や帰国時に気散じも兼ねて鷹狩りを実施する事もあった訳で,鷹匠が帯同するのも当然な訳です.

 当主の移動は基本的に駕籠でした.
 この駕籠は大名駕籠と呼ばれる作りのしっかりした重いものとなっており,加賀前田家の場合は,駕籠の前後に3名が配置されていました.
 予備や交替人数も含めると,行列では17名の御駕籠者が帯同しています.
 大体,2日から3日に1回,駕籠舁きをすることになります.

 これら側方は大体110名程度が帯同しています.

 番方としては,先ず行列の最高責任者として家老が入り,他に大名家の重臣クラスが,6名前後帯同していました.
 足軽を差配するのが物頭で,3名程度となっています.
 物頭に協力して警備を担当する家臣が大番で,大体9名ほど.
 行列の主力を形成するのが足軽で,大体207名ほど,全体の人数の20%を占めていました.
 足軽より身分が上位の侍ですが,騎乗せず,物頭や大番と共に行列警護をする役目の人々が,御歩行.
 これらの人々が大体56名ほど.

 行列全体の雑事全般をこなす人々が御中間です.
 身分上は一応武士ではありますが,武士の中では一番低い身分にあります.
 これが大体92名.

 大名行列で品物を運搬するには,多くの場合馬が使われます.
 また,重臣は騎馬に乗ったりしていますから,こうした馬の世話をする人々が必要です.
 馬の世話をする人々を厩者と言い,48名前後が行列に帯同しています.

 人数を計算してみると,側方的任務が110名,番方的任務が440名と合計550名ほどが,佐竹家の大名行列を構成していました.
 更に,陪臣の数は500名余ですから,佐竹家の大名行列の人数は1,050名前後であった事が記録から推定できます.
 この人数は,先に示した幕府の指針である450名の凡そ2倍に達しているのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/30 23:28

 参勤交代に参加していた従者を伴う家臣達には,藩当局からそれぞれ手当金が支給されていました.
 1714年には,渋江十兵衛に対して50両を支払ったのを筆頭に,最低1両1分まで114名に対し,合計額は224両に上ります.
 御歩行へは72名に対して1人当たり1両1分で90両,茶屋者に対しては8人に1人1両,2名のみ1人3分となり,9両2分の支払い,足軽は226人に対し1人2分なので113両,中間も同額で49両,草履取も同額で2両2分,厨屋者は26名に対しては同額ですが,2名のみ1両1分2朱の支払いで13両3分,厩屋者は37名は足軽と同額ですが,10名は1分2朱が支払われています.
 合計で1,428両2分が支払われているのです.

 また,旅の食費は別途支給です.
 久保田城下から山形の及位までの領内宿場で昼食する場合は1日8分,即ち金2両が支払われています.
 なお,この支払いは陪臣については対象外で,家臣がそれぞれ陪臣達を引き連れる場合は,自前で準備が必要となります.
 領内の通過は,3~4日程度掛かるので,支払額は6~8両となります.

 及位から山形の金山まで,本陣に宿泊します.
 その本陣への支払いは,御膳番から宿に渡されており,その金額は1日辺り金15粒となっていました.
 15粒と言うと3両3分であり,金山までの宿泊行程が3日程度ですから,11両1分余となります.

 つまり,領内で佐竹家は昼食と宿泊代金として20両近くを支払っていた訳です.
 他国での宿泊費用も概ね同額では無いかと思われますが,こちらは史料が残っていないので不明です.

 唯一史料が残っているのが,埼玉の栗橋宿で利根川を渡る船の手配をしているものです.
 これによると,本陣,名主,船頭,当番年寄,馬の手配師である馬指,下番,小揚人足,書状を運ぶ飛脚の雇い主である飛脚宿などに合計で金子1,400疋を支払っていました.
 金100疋は金1分相当なので,総額で3両2分となります.

 参勤交代の事前算出費用が残っているのが,1865年です.
 丁度,この頃には開国により小判が海外に大量流出したため,従来より目方が3分の1となった万延小判の流通が開始され,それに伴って物価も3倍増となっていて,こうした資料が作られたようです.
 当時の経費の見積総額は3,000両に達しますが,それを大きく分けると次のようになります.

 供人の手当金に相当する支出の総額は,327両3分に達しています.
 全体で12.5%を占めますが,これは,150年前の費用の約4分の1に縮減しています.

 宿泊と昼食の費用は全部で92両ですが,他に食材費,本陣以外への旅籠への宿代,買物代で全部で75両が加わり,全体の支出費用に占める割合は6.3%でした.
 因みに,鳥取松平家の1812年の当該項目の支出も5%となっており,大体妥当な金額と言えます.

 交通関係諸経費は,馬による運送費が450両とかなり大きな比率を占めますが,それ以上に費用が掛かっているのが,宿場毎に雇い入れる通夫と呼ばれる荷物を背負う人足代金で,これが521両2分となっています.
 更に,馬の維持経費が113両1分,長持運送費が79両2分,夫丸が34両2分2朱,前後荷物運送費が8両2朱となっていて,これだけで3,000両のうちの45.8%を占めています.
 因みに,先の鳥取松平家の場合は,秋田佐竹家より7日宿泊数が多いことから,交通費関係の諸経費は実に75%にまで達しています.

 旅の途中で世話をしてくれる各地の人々の御礼の品物や金子,つまり,現在で言うチップ的なサムシングが135両と全体の4.6%に達します.

 御納戸諸品払や御雑用払と言った雑費は,前者が186両,後者が610両2分3朱で,更に不測の事態に備えた手許金として166両が残されていました.
 これら雑費は30.3%を占めます.

 166両を除けば,合計で2,633両2分2朱となり,3,000両以内で充分に実現可能と踏んだようです.
 尤も,この激動の時代,これが実行に移されたかは不明ですが….

 ともあれ,国持大名や准国持大名ともなれば,1回の参勤交代に2,000~3,000両の費用が掛かりました.

 少し時代は異なりますが,1828年の秋田佐竹家の財政規模は,総額で11万両余ですから,その中の3,000両はかなりのウェイトを占めていることが判ります.
 更に言えば,当主の参勤時には1,000名規模の人々が江戸に上ることになり,1年間で彼等が使うお金も莫大なものがありましたから,全国の大名の参勤交代では,かなりの金額が,沿道や江戸に落ちていった訳です.

 そう言う意味では,アベノミクスの元祖とも言えるのでは無いでしょうか.
 尤も,この制度と江戸屋敷の維持の御陰で,佐竹家の財政は毎年毎年火の車だったのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/12/31 18:38


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