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戦史FAQ(1957年~1982)
<戦史FAQ目次 Hadtörténelmi GYIK index
(画像掲示板より引用)
「インド国防省」◆OFFICIAL 1962 WAR HISTORY
1962年の中印戦争:インド側の視点
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/21)中印国境紛争から50年 封印を解くインド 「やむを得ない自衛のための戦争」と中国
『田中角栄・回想録』を読み解く (2012/11/28)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
◆1957年~
【質問】
アルジェリアで,'50年代になって初めて独立戦争が始まったのは,なぜですか?
【回答】
実際には1830年のフランス占領以来,ベルベル人による抵抗は収まっていなかったのですが,組織的な戦闘行動は19世紀末で一旦収束します.
それが変わったのは1940年のフランス崩壊が引き金になっており,ヴィシー政権から自由フランス軍が他の委任統治領を自陣営に引き込む際に,独立を餌にしたのがきっかけです.
しかし,自治を求めた1945年5月のプティット・カビリアでの暴動は弾圧されています.
もともと,アルジェリアにはアルジェリア法規に従った議会制自治が存在しており,此処に原住民も加わっていました.
1946年,各国の植民地独立の動きに呼応して,自由民主勝利運動(MTLD/メッサリ・ハジ指導)と,アルジェリア人宣言民主同盟(UDMA/フェルハト・アッバス指導)が完全なる原住民による自治を要求します.
ところが,フランス人入植者(コロン)はそういった自治が発展して独立し,自分たちの土地や資産を没収されることを恐れ,1947年に不正選挙によって,そのアルジェリア法規を骨抜きにしてしまいます.
つまり,イスラム系と欧州系は6:1の人口比なのに,議員の半数は欧州系で占められていました.
しかも,1948年の選挙では,選挙権を行使したのは少数のイスラム系住民で,その議席数は僅かなものでした.
これに伴い,原住民側は態度を硬化させ,ベン・ベラ,クリム・ベルカセム,ベン・キデルなどによる民族解放戦線(FLN)を組織し,各種の抵抗運動を行ないますが,これらは悉くフランス駐留軍の妨害に遭い,しかも,第四共和制政府は当初,仏領インドシナと並んで,この土地の死守を考えていたため,彼らコロンの動きを消極的に支持しました.
1954年,アルジェリアの原住民内部の暗闘の結果,武装闘争派が多数を占めるようになり,各種ゲリラ作戦を展開,こと此処にいたって,消極的支持だった総督府の姿勢は積極的介入に転換され,泥沼の戦いが始まった訳です.
【質問】
アルジェリア戦争では,どんな航空機が投入されたのか?
【回答】
『ベトナム人民軍隊』と言う本が届きました.
Vietnam軍の中の人にもしっかり話を聞いたり,国防省内部の記録を調べたりした中々面白そうな本です.
そのVietnamと再三戦ったのがFrance軍です.
彼の国は,植民地の独立については徹頭徹尾弾圧で臨み,Algeriaでも同じように植民地戦争を戦いました.
しかし,Algeriaの戦場は広く,かと言って大量の軍隊を投入することは出来ない.と言う事で,反政府軍が持っていない航空戦力を駆使して,空から攻撃を仕掛けました.
携帯SAMの無い時分のお話です.
最初に投入されたのは,第二次大戦中のドイツ空軍練習機,Ar396から発展したSIPA
S.12/111練習機に爆弾や7.5mm機関銃を取り付けたものでした.
ところが,これを武装するとエンジン出力が足りず,しかも,砂漠地帯なので出力も出ない,出力が出ないので搭載量に制限がある,なので,効果的な攻撃が出来ない…とまぁ,悪循環.
こうして,France空軍では反政府勢力を攻撃する為に適当な機体がないか,と色々な試行錯誤を行います.
この様な機体は,未だ何処の国も開発していなかった為です.
そして,Franceの航空業界にとって,これはBusiness
Chanceになったのですが,彼らの頭は未だに第二次大戦前の「土民軍」相手の機体しか想定していませんでした.
実際には,彼らの相手は近代兵器で武装した連中だったのですが….
1953年に出現したのが,Potez75.
低翼単葉双尾翼の優雅な機体で,戦前から連綿と続くPotez8D.32発動機を後部に配し,推進式にプロペラを回す.
機首に20mm機関砲1門と7.5mm機関銃2丁を装備し,翼下にAS.11/12を搭載出来るものですが,試作機は開放式操縦席,しかもスパッツ付固定脚の代物で,幾度か改造されましたが,結局採用されませんでした.
固定脚,開放式操縦席と言った「土民軍」相手の性能の植民地用軍用機では,近代的な装備を持つ反政府勢力に太刀打ち出来ないことを,Vietnamで思い知らされたFrance空軍は,仕様を見直します.
そして,1958年に相次いで登場したのが,生存性を考慮して,ピストン発動機双発としたSUD-Est
S.E.116 Voltiguerと,SIPA 1100,そして,炎上し難いターボプロップ単発のMorane-Sornier
M.S.1500 Epervierの三機種です.
このうち,S.E.116は,試作段階ではピストン発動機を搭載していましたが,量産時はターボプロップに換装される予定でした.
ターボプロップ装備型は,同じエンジンを装備しているので,その昔,フォークランド紛争でバタバタ落とされたI.A.58に非常にシルエットが似ています.
前二者は,双発にして生存性を高め,20mm機関砲2門の重武装,更に反政府勢力を見つける為の視界を考慮して,先頭に,第二次大戦時代の爆撃機の様な照準窓を設けたり,操縦席の足元を透明風防にしたりしています.
こうして上空から発見した敵を急襲出来る様,,急降下性能も良くするべきとして,機体構造は頑丈に,S.E.116では大きなエアブレーキを胴体側面に設けています.
また,引込式になりますが,主脚は頑丈に造られ,不整地飛行場でも運用できるようになっていました.
但し,両者とも尾輪式だったりしますが….
これらのうち,SIPA 1100については10機の前量産型発注を受けますが,結局量産されずに終わりました.
一方のS.E.116もターボプロップ装備のS.E.116が1機と前量産型S.E.117が1機造られて,試作止まりになりました.
植民地戦争による国内混乱と不景気による業界再編の影響で,S.E.117は,Flamant輸送機の後継機を開発しようとしていたDassaultに開発メンバー共々移され,発展途上国向け多用途機M.D.410
Spiraleとして開発が継続されます.
また,Sudが計画していたS.E.117の主要componentを用いたS.E.118
Diplomateも,Dassaultが計画を継続して,M.D.415
Communauteとして1959年から3年間試験や開発が続けられました.
1962年,その集大成として,軍用機として開発されていたM.D.410を大改造して,M.D.415と同型に改造します.
これは,主尾翼を同じにして,配置は中翼から低翼にするという徹底改造で,軍用型の胴体は機首も含めSmartに整形されました.
このM.D.415,民間登録記号F-WJDNは,試作機として種々のテストに用いられました.
此処で得られたデータを元に,満を持して登場させたのが,今でもDassaultの屋台骨を担っている,FalconシリーズのBusiness
Jetだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月28日21:49
1954年,FranceがVietnamから叩出された時,France空軍は,「Algeriaで使用する陸軍支援用の単発軽攻撃機」の仕様を各社に提示します.
双発攻撃機(因みにこれについては,主にA-26が使用されていました)については先日も触れましたが,単発機としては,1958年にMorane-Saulnier
M.S.1500 Epelvierが試作されました.
前に試作されたPotez75に比べ,機体は大変洗練され,ターボプロップを装備(試作1号機はTurbomeca
Marcadauを,量産型は同じくTurbomeca Bastanを)して,全体的に小型化され,機動性は大きく向上しました.
陸軍支援用途なので,部隊を識別,発見する必要性から,視界を大きく広げる為,バブル型の大きなキャノピーを付け,脚は不整地着陸用に尾輪式かつ固定脚で,主脚にはリンク式の緩衝装置を付けていました.
更に,翼前縁にスラットを付けて低空性能を向上させています.
また,夜間攻撃に対応出来る様,翼端に小型のサーチライトを取り付けています.
この機体は,植民地に於ける対ゲリラ攻撃用として想定されていましたが,生産費を更に下げる為,海軍でも軽空母用の対潜哨戒機として,Br.1050を補完するものとしての採用検討が進んでいました.
ところが,原型機はMarcadauを採用したのですが,これは360shpと明らかに出力不足で,BastanIが完成すると原型機はこれに換装します.
このエンジンは650shpと元の倍近い出力が出るのですが,完成度が低く,直ぐに700shpのBastanIIに換装され,改良型のBastanIIBが750shpを出すと,これまた直ぐに換装され,と言った事を繰り返し,中々苦労しています.
2号機はBastanIIB装備で翌年に完成し,種々の試験が行われますが,搭載量不足は否めず,性能的にも不足して,France空軍は遂に国産機の装備を諦め,米軍余剰T-28の大改造案が採用されることになりました.
試作機のみで終わったM.S.1500ですが,その後,Turbomecaのエンジンテストベッドとして,BastanIIIA,IV,AstazouXIV,XVI,XVIIIなどを試験し,余生を送っています.
さて,結局,Algeria用の軽攻撃機として採用されることになったのが,Sud
Fennecです.
この機体の基になったのが,米空軍が全ジェットの練習機体系となって余剰となっていたT-28Aです.
元々は高等練習機にも使える機体として開発され,海軍向けのT-28Bでは,800馬力のエンジンを1400馬力のエンジンに換装しており,機体には何ら改修が行わなくてもそれが出来る事,元々武装が可能で,照準器もF-86と同型のものが装備されていることなどが決め手になりました.
France向けの最初の機体は,1959年にNorthAmericanで改造されますが,エンジンは海軍機と同じく,1425馬力のR-1820-9に換装して馬力を強化し,主翼下面に爆弾架を4カ所設け,操縦席に装甲板を張り巡らせて,対空砲火対策を施しました.
Fennecは,1960年からSudでの改造が始まり,146機のT-28Aが改造されて,Algeriaに送られ,EALAの3/04,3/05,3/09,3/10で,T-6Gの後継機として配備され,過酷な戦線に投入されていきます.
North Americanはこの時のKnow-howを基にT-28Dを開発し,これまた余剰の米軍機を改造して,Vietnamなどに輸出しますが,1962年のAlgeria独立後に本国に引揚げられたFennecは,25機がMorocco空軍に,他に主力艦載攻撃機としてArgentine海軍に,Cambodia王国空軍,Haiti空軍に合計63機が引き渡され,残りは再び米国に返却されて,再び発展途上国に引き渡されて,再度のご奉公を努めたりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月29日22:18
Potez75
写真1
写真2
撃墜されたSIPA S.111A@Algeria戦線
MD.415
MS1500
T-28D Fenec@Algeria戦線
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問 kérdés】
アルジェリア戦争(1954~1962年)でフランス軍が使用した軽攻撃機について教えてください.
【回答 válasz】
戦後,フランスの植民地だったインドシナ半島では植民地の再支配と言う事で,フランスはヴェトミン相手に泥沼の戦闘を繰り広げます.
先日書いた様に,最初はJu52/3mでのんびり爆撃とかが出来ていたのですが,隣国に中華人民共和国と言う共産主義国家が出来,ソ連からの武器が直接インドシナ半島に流れ込むようになると,のんびりと爆撃などしようものなら忽ち撃墜されてしまいます.
そこで,米国で余剰となっていたDouglas B-26を大量に買い込み,F8Fと共に戦場に投入しました.
一方,金城湯池たる対岸のアルジェリアでも独立闘争が火を噴きました.
ただし,エジプトから武器が供与されるとは言え,ソ連から直接流れ込むわけでも無く,領もそれ程では無かったので,ゲリラの武器は小火器が主体です.
この為,制空権はフランス軍にあり,飛行機はゲリラを追って自由に空中を闊歩できました.
最初,これらの任務には練習機であるAr96の発展型SIPA S.11/12やMorane-Saulnier M.S.472/475,更にM.S.733が充当されたのですが,構造的に余りに脆弱で,またエンジンも砂が入ると馬力が出せず,搭載量も減るばかり.
とても武人の蛮用に堪えるものでは有りませんでした.
そこで,朝鮮戦争で弾着観測機として活躍し,頑丈でかつ軽武装も可能なNorth-American T-6に白羽の矢が立ちます.
T-6Gをベースに,Nordで試作が行われ,7.5mmの連装機銃ポッドを翼下に吊り下げ,爆弾架,ロケット弾のレールを取り付けます.
これらの改造はカナダでも行われ,こちらではHarvardIIを改造して行われました.
結果的に315機の改造型が輸入され,その他に国内で改造したものなど580機が用いられました.
1957年までに納品されたこれらの機体はアルジェリアで使用され,アルジェリアから引揚げた機体は引き続き,ポルトガルやモロッコ,チュニジア,ヴェトナム,ガボンなどで用いられました.
ただ,T-6Gでもかなり非力で機銃掃射も7.5mmですから威力は低く,搭載量も少ないので爆撃の効果も薄い欠点がありました.
フランス空軍では引き続き有力な機体を国産化しようとしますが,その開発は遅々として進まず,再び米国に助けを求めます.
本当はDouglasAD攻撃機かB-26の追加が好ましかったのですが,米国から提示されたのは,米空軍,海軍のオールスルージェット化によって大量に余剰となっていたT-28練習機でした.
元々,800馬力のWright R1300エンジンを搭載していたのですが,更に搭載量を増すべく,1,425馬力のWright R-1820-86エンジンに換装し,馬力増に伴って各部を強化すると共に,機関銃など各種武装の搭載量を大幅に増加させたものとなりました.
T-28Aを改造した試作機は,米国のPac Aeroと言う会社で1959年7月に完成し,2号機はSUDで完成します.
その後,146機がT-28Aから改造されましたが,R-1820-86は流石に馬力が出過ぎで,各部の構造が付いていかなかったため,1,300馬力のR-1820-56エンジンに落ち着きました.
アルジェリア戦線では"Fennec"と言う愛称を付けられ,EALA 3/04,3/05,3/09,3/10の各飛行隊で,アルジェリアが独立する1962年までゲリラ鎮圧用に用いられました.
アルジェリアが独立すると,生き残った機体はフランスに引揚げられますが,25機がモロッコに,63機がアルゼンチン空軍に引き渡されました.
なお,他に米国で改造された同型機,T-28Dがハイチ空軍やカンボジア空軍で用いられています.
眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2019-10-08
◆1959年~
【質問】
中印紛争とは?
【回答】
チベット仏教の指導者で,中国からのチベットの独立運動を唱えていたダライ・ラマが1959年にインドへ亡命.
この事件によって中国とインドの関係は一気に悪化した.
事件以降,中国・インド国境では小規模な小競り合いが頻発するようになっていたが,1962年10月,中国軍がインドの主張する国境線を越えて,インド軍への攻撃を開始.
この中印紛争は中国の圧倒的勝利のもとに終わり,中国はチベットへと通じる幹線道路を含む地域を占拠.
その実効支配は現在も続いている.
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html
浅井信雄によれば,以下のような意図が中国にはあったという.
中国の意図は,中国による併合を嫌って59年に脱出した,チベットの指導者ダライ・ラマダライ・ラマ14世の亡命を受け入れたインドに対する報復の他,ちょうど中ソ・イデオロギー対立が激化していた背景も無視できない.
非同盟を叫びつつ対ソ傾斜を深めるネール外交に打撃を与え,同時に,ソ連が共産中国と非共産インドのどちらを選ぶかの踏絵を迫ったものと解釈されている.
戦火が収まってみれば,中国に突き出た形のカシミール東部を,スパッと中国に削り取られていた.
インドの消沈ぶりを目撃したパキスタンは,俄かに元気付き,65年の第2次印パ戦争に発展するが,結果として事態は全く変わらなかった.
(浅井信雄「アジア情勢を読む地図」,新潮文庫,2001/12/1,P.86)
【質問】
キューバ危機(1962/10/16~10/28)当時,JFKが麻薬漬けだったというのは本当か?
【回答】
大統領選挙のTV討論で,視聴者に対立候補であったニクソンより若く健康的な印象を与え,大統領となったケネディですが,実は…… というのが,Discovery Channelの番組『病んでいた政治家たち ケネディのアジソン病』です.
ケネディは子供の頃,弟から
「兄の血を吸うと蚊も死ぬよ」
と云われるぐらい病弱で,副腎の働きが衰えて,ストレスに対する抗力が弱まり,病状が悪化すると死ぬ可能性があるアジソン病を患っていました.
大統領選の補選で,対立候補にこのことを暴露されますが,口八丁で危機を乗り切ります.
ケネディの持病であるアジソン病には,色素沈着を起こさせるそうで……
ニクソンとのTV討論のとき,ケネディの髪が黒々として,肌も日焼けして健康的で若さに溢れ,エネルギッシュに見えたのは,実はアジソン病による色素沈着の影響だったそうな……
何がどう影響するか分かったもんじゃないですな (w`;
また,アジソン病を抑える薬の副作用で性衝動が高まってしまい,かなり奔放な性生活を送っており,10代で性病の治療を受け,遊説中,若い女優と7分でことを済ませたり,東ドイツの女性(駐在武官の妻)と関係をもって,安全保障問題に発展しかけたこともあったそうです……
また,足の長さが違い,生涯背痛に苦しんで,大統領になってからは,バスタブやトイレから指示をだしていたそうです.
その痛みを和らげるために呼ばれた医師が,やたらめったらアンフェタミン(麻薬)を患者に(黙って)与える医師で,ケネディはいつの間にか麻薬漬けにされ,フルチショフとの会談前にもアンフェタミンを摂取し,キューバ危機の時にもアンフェタミンを打っていたそうな……
(で,この医師,ジェイコブソンは 『快楽を与える医者』 と呼ばれ,晩年はウランを隠し持っていて 『これが活力を与えてくれるんだ』 とのたまっていたそうな…… DQN医師だよなぁ……)
最後,ケネディは暗殺されるワケなのですが,SPが警護することに疑問を持つぐらい『危機を回避する意志』 が欠けていて,ああいう最後を迎えたのは自明の理だったかもしれませんね.
(射殺された日 ケネディは背中にだけ装具をつけていて,一発目が咽を撃ち抜いても体が倒れず,直立不動の姿勢になり,二発目で頭を撃ち抜かれたそうな)
でもまぁ,射殺されてなければ,もっと他の形で人々に記憶されていたかも…… (w`;
ベタ藤原 in mixi,2006年03月22日
子供にも分かるディスカバリー(笑
http://www.kiseiza.net/jfk/jfk.htm
寄星蟲 in mixi支隊
【質問】
なんで1968年のプラハの動乱は「プラハの春」って呼ばれてるのでしょうか? プラハ動乱やプラハ事件じゃ駄目なんでしょうか?
【回答】
「チェコスロバキア動乱」と呼ぶ人もいるし「プラハの春事件」と呼ぶ人もいる.
単に「プラハの春」というのは,本来は介入事件以前の改革のこと.
言っちゃなんだが,ハンガリー動乱の死者数千,亡命者二十数万に比べると,動乱と呼べるようなもんじゃなかった.
あっさり鎮圧されて,市民の抵抗と言えば投石したり,戦車の砲口に花束を差したりといった程度のもんだった.死者も偶発的な数人程度だったと思ったな.
へタレというのか,平和的というのか,圧殺された革命とは言っても他の東欧の動乱とは一味違っていたから「プラハの春」だけで,潰された改革を意味しているってことだろうね.
そういえば,東欧改革のときもビロード革命とか言って,殆ど死者は出なかったように思うから,国民性もあるんだろうな.
【関連リンク】
「militaryphotos.net」:"Prague Spring"
Czechoslovakia 1968
チェコスロバキア市民による「ソ連死ね!」の大合唱とパフォーマンス.
【質問】
「プラハの春」の際のソ連空挺軍の動きは?
【回答】
『Inside the Blue Berets』によればマルゲロフ将軍は,「プラハの春(1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動)」のさい,ソ連上層部及び軍からの秘密指令を受け取ったという.
その内容は「チェコスロヴァキアへの軍事介入が決定された」というものだった.
この命令を受けたマルゲロフ将軍は,直ちに第7親衛空挺師団と第103親衛空挺師団に,チェコスロヴァキアへの派遣を命じている.
空挺軍
faq49g09w.jpg
faq49g09v07.jpg
faq49g09v08.jpg
CRS@空挺軍 in mixi,2008年07月08日21:38
【質問】
サッカーの試合が原因で戦争したバカな国はどことどこですか?
【回答】
ホンジュラスとエルサルバドル.1969年の話.
ただし,ホンジュラス国内へのエルサルバドル系住民の不法大量流入,ホンジュラス政府による彼らの追放が武力衝突の直接の原因だったりするので,「サッカーが原因」というのは一面的な見方ではないかと思う.
軍事板
ワールドカップ・メキシコ大会予選の結果は,あくまでも両国対立の触媒でしょう.
エルサルバドル,ホンジュラス間は不法移民問題のほかに国境問題も抱えていたりしています.
また,ホンジュラス政府が制定した「農地改革法」によってエルサルバドル不法移民の開拓した土地を没収し,生粋のホンジュラス人に与えるという政策(しかも,収穫期になって立ち退きを命じることがしばしば起こった)を,強制送還された移民から伝えられて,エルサルバドルの対ホンジュラス感情悪化,という経緯もあって,当時の両国の国民感情は最悪だったのです.
確かに,試合の結果が引き金になってホンジュラスでの反エルサルバドル移民暴動,それらを背景とした移民強制送還というのが起こりましたが,それらはあくまでも「最後の一押し」であり,それまでに対立する土壌は既に整っていたのです.
ちなみに,この戦争はレシプロ戦闘機同士の空中戦(両軍のF4U戦闘機同士が交戦した事もある),撃墜が起こった最後の戦争だったりします.
【質問】
サッカー戦争で使われた兵器ってどのような物だったのでしょうか?
空軍についてはある程度分かりますが,陸軍は双方どのような感じだったのですか?
【回答】
ちょっと検索した限りでは以下のとおり.
あとは識者待ち.
<装甲車両>
エルサルバドル:M3A1軽戦車×2以上,迫撃砲付装甲トラック,現金輸送車
ホンジュラス:なし
<火砲>
エルサルバドル:105mm野砲×9,75mm無反動砲,57mm無反動砲,迫撃砲
ホンジュラス:第一次大戦型75mm野砲×2個中隊,迫撃砲
<小火器など>
両軍とも機関銃の類は持ってますが形式不明.
はっきりしてるのは以下.
エルサルバドル:H&KのG-3突撃銃,予備役はM-1ガランド小銃,WW1型マウザー小銃
ホンジュラス:M-1ガランド小銃,エンフィールド小銃,マウザー小銃,民兵のナタ!
以上は
Robert L. Scheina “Latin America's Wars
” (Brassey's, 2003)
及び
http://militaryhistory.suite101.com/article.cfm/the_1969_soccer_war_on_the_ground
<航空機>
エルサルバドル:P-51,F4U,C-47,T-6
ホンジュラス:F4U,C-47,T-6,T-28
形式詳細・機数はリンク先参照.
両軍とも,輸送機や練習機も戦闘任務に投入してます.
http://www.acig.org/artman/publish/printer_156.shtml
眼い人 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
かなり昔のことなので,記憶があやふやなのですが,児童向けの学習用歴史漫画の中で,フルシチョフと毛沢東が会談で大喧嘩をし,始まってから数分で会談が終了してしまった,という話があったのですが,これは,何時,何の目的の会談で,何が原因で二人は喧嘩をしたのでしょうか?
【回答】
フルシチョフと毛沢東は何度か会談しているし,いつの会談か分からないなあ.
会談そのものは同じ共産主義国家として,西側陣営に共産主義陣営の強固さをアピールし,もっと共産主義国家を増やすための具体的成果を生みたいことが目的であるのは明らかだ.
しかし,そうはならなかったのだね.
原因ということになると,中華人民共和国建国以前からおさらいする必要があると思ふ.
大戦前の中国は国民党政府で,国共内戦を経て中国共産党が政権を奪取したわけだが,中国共産党はコミンテルン(まあソ連といっても良いが)の強力な指導・支援があってこそ国共内戦を勝ち抜いたのだ.
満州だってソ連が取り戻して中華人民共和国に返したのだからね.
だから中華人民共和国もモンゴルや北朝鮮と同様に,ソ連に育てられたようなもんだ.
ではあったが,建国して年月が経つと,親分風を吹かすソ連がうっとおしくなってくる.
スターリンが存命なら反旗を翻すことはできなかったかもしれないが,スターリンが亡くなり,フルシチョフが政権を握ると,もう親でもなきゃ子でもない,対等の関係だと云いたくなってくる.
フルシチョフには世話になってないし,フルシチョフは中国にとって大恩あるスターリンを批判したからだ.
そしてフルシチョフは西側陣営と共産陣営の平和共存路線を打ち出したのに対し,毛沢東はアメリカと核戦争になって中国人の半分が死んでも最後に勝つのは中国だと言いだしたように,ちょっと○○が入り始めていて,とにかくフルシチョフのやることなすこと気に入らない訳.
というのが俺の解釈だが,詳しくは中ソ対立,中ソ論争で調べておくれ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中ソの武力衝突である「ダマンスキー島事件」(あるいは「珍宝島事件」)について詳しい方,ご教授願います.
【回答】
この辺に関しては,未だ研究が緒に就いたばかりですので,もう少し待たないと,きちんとしたものは出てこないでしょう.
石井明氏の著作
・「珍宝島事件に関する一考察」(『二〇世紀アジアの国際関係』第一巻/原書房:1995),
・「珍宝島事件-現地考察に基づく再考察」(『歴史の対位法』/東京大学出版会:1998年)
が比較的詳しく論述されているのではないでしょうか.
一般国際法原則での河川の国境線引きは,主要航路で引くことになります.
ただ,河に中州や小島が点在する際,それが何所の岸に近い流れを主要航路とするかで,線引きが変わってしまいます.
イラン・イラク戦争の原因もシャトルアラブ川の河川国境線の修正に端を発していました.
元々は,ロシアと清国との条約交渉の経緯の中で,国境線の標柱を何所に設定するか,両国との間で丁々発止のやりとりが行なわれていました.
1964年に決裂した中ソ国境交渉の際,フルシチョフはウスリー河にも河川の主要航路に国境線を置くことを認めており,この時点で妥結すれば,珍宝島は中国側に帰属しているはずでした.
しかし,ウスリー河,アムール河の合流点のハバロフスクに位置するボリショイ・ウスリースク島とタラバーロフ島を,国際法の「例外」として領有すべくソ連が固執したことで,交渉が決裂します.
これ以降,中ソの国境地帯は無法地帯となり,前哨戦とも言える各種の国境紛争が頻発します.
ちなみに,この国境線上にある島嶼は約320もあったりします.
特に珍宝島近辺では饒河県のザリヴノイ島,ステパノフスキー島,ザルビンスキー島,マクスン島,ストロジェヴォイ島,少し河を下ったウティヌイ島,新興洞島,シェレメチエフスキー島が主要な係争地で,このうち,1967年12月末から68年1月初頭に掛けて,珍宝島事件の前哨戦となる小競り合いが,ザリヴノイ島で行なわれました.
これら8つの島のうち,5島はソ連の実効支配地,3島が中国の支配地でしたが,中国の支配地へはソ連の警備艇が出没し,中国漁民の活動を妨害していました.
こうした中,中国では文化大革命が起き,ナショナリズムが勃興します.
当然,こうした動きは国境線上に多大な影響を及ぼすことになります.
1969年3月2日,ソ連が実効支配していた主要航路を越えた所にある,ダマンスキー島(珍宝島)に,人民解放軍が突如上陸を開始します.
また,国境未確定地域の島嶼にも,明確にソ連側の支配地と中国指導部が見なしていた島嶼を除いた所に侵攻が開始されました.
殆どの地点でソ連軍は人民解放軍を撃退しましたが,珍宝島に関しては,人民解放軍の防戦が功を奏し,これは17日の停戦まで維持されます.
紛争集結までの双方の死者は約100名とされています.
ちなみに,珍宝島支配についてはソ連では巧妙に隠され,日本でもダマンスキー島から人民解放軍は撤退していると長い間,信じられてきました.
以後,珍宝島に関しては,中国の実効支配が行なわれ,1991年の国境交渉によって,その地位が確定しています.
【関連リンク】
「militaryphotos.net」:The Sino-Soviet border
war (1969)
中ソ国境紛争
「zvezda」:Трагическая дата
Китая и СССР. На острове
Даманский вспоминают бои
сорокалетней давности
ダマンスキー島事件の慰霊祭
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/23
青文字:加筆改修部分
【質問】
数十年前,中国とソ連が国境線を巡って戦闘があったと聞きましたが,当時として,核戦争勃発の可能性の心配はされなかったのでしょうか?
【回答】
中国側は十分にしています.
大きな核シェルターの建設とか,中国東北部にあった重工業地帯の重慶,桂林方面への疎開とかが行われていました.
但し,当時は中国にとっての狂気の時代ですから,そんなことより,人民の波でどうにかなると考えていた節はあります.
実際,珍宝島などの国境紛争の殆どは中国が人海戦術で,獲得した土地です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/10/01(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
中越紛争を起こしたのは何故か?
【回答】
橋田信介の言葉を信じるならば,「ヴェトナムへの懲罰」の衣を纏った,鄧小平と軍との政治闘争の場外乱闘.
以下,引用.
[quote]
1979年1月,訪米した鄧小平は,ヴェトナムを「懲罰する」と発言した.近代以前の,この懲罰という言語を批判した〔日本の〕新聞はどこもなかった.
中国はカンボジアのポル・ポトを支援していた.
そのカンボジアにヴェトナムが侵攻した.
ヴェトナムとカンボジアは,その前年辺りから国境で小競り合いを続けていた.
〔鄧小平の言葉は,〕とにかくヴェトナムが,自分の子分であるカンボジアに手を出したから,親分である中国がヴェトナムに懲罰を加えるという意味である.
中国は元元ヴェトナムを子分であると考えていたから,よけいに腹が立つのだろう.
懲罰という言葉に,近代以前の中国の素顔が見える.
〔略〕
戦争は冷静な政治的計算で行われる.
ヴェトナムに侵攻した中国もそうだった.
鄧小平は既に共産党内部での実権を握っていた.
しかし,軍部には毛沢東思想を掲げる反鄧小平グループがいた.彼らは鄧小平の軍近代化路線に反対し,武器(唯武器論)よりも精神(唯心論)を掲げていた.
中越戦争でヴェトナム側の捕虜になった中国の将校は,記者会見でこう演説した.
「我々,中国人民解放軍は毛沢東思想に基づいて,これからも唯心論を高く掲げて永遠に戦い続ける」
中国からヴェトナムに侵攻してきた中国軍は,主に西南方面軍の軍隊だった.
この軍区の軍隊は,毛沢東思想に染まっていた.13師団,約13万人がドラや太鼓やチャルメラの音と共に,怒涛のようにヴェトナムに侵攻してきた.
ヴェトナムの軍隊は,ソ連によってそれなりの近代的兵器を持っていた.
中国の兵器は,殆どが前近代的なものだった.そういう兵士が,文字通り雲霞の如く押し寄せたのである.
ソ連製の高射砲〔原文ママ〕や迫撃砲は,小銃だけの中国兵を容赦なく粉砕した.
それでも中国兵は,ラッパを片手に次から次へと進軍してきた.
この戦争による中国軍の死傷者は,正式には発表されていない.だが,数万人の兵士が亡くなったのは間違いない.
一方,鄧小平にとって,軍隊がやられればやられるほど都合がよかった.毛沢東思想にかぶれ,自分に敵対する軍隊など必要なかったからである.
中越戦争は1ヵ月で終了した.スケジュール通りの戦争だった.
戦争が終わって鄧小平は,いかに精神が高くても装備が古くては戦闘には勝てないと主張し,狙い通り全軍の権力を握る.
それによって彼は,文字通りナンバー1となる.
そして,次に軍の近代化路線を発動する.
鄧小平の政治目的は達成されたというわけである.
[/quote]
―――橋田信介著「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.37-43)
ただし,橋田の政治分析は,ときに陰謀論的なものが混じる4流レベルなので,鵜呑みは避けられたし.
取材のほうは一流なんだが…….
「軍との闘争」との言葉こそ出ていないものの,中越戦争が中国国内の政争に起因することは,以下にも述べられている.
[quote]
2005年春の反日デモを扇動する文章で有名になった中国空軍の論客,劉亜洲(りゅうあしゅう)中将〔略〕は,02年に軍内で講演(ネットに流出),訪米と中越戦争で鄧氏が米国と連合した結果,米国から経済,技術,軍事などの支援を勝ち取ったと指摘し,それなしには「改革・開放は不可能だった」と述べている.
劉氏は,鄧氏が戦争を発動した動機について「絶対的権威確立のためだった」としている.
「当時,鄧氏は復活して日が浅く,党内で権力を握る極左派は,鄧氏とその改革路線に反対していた.改革をやるには権威が必要だった.その最速の方法は戦争だ」
当時,胡耀邦(こようほう)中央宣伝部長のブレーンで,中央党学校政策研究室主任だった阮銘(げんめい)氏も,その点ではほぼ同じ見方をしている(「鄧小平帝国」台湾・時報文化出版).
「鄧小平は,毛沢東が1960年代に中印国境での自衛反撃戦(中印戦争)を指揮,破竹の勝利を収めたのにならい,全国人民の支持を獲得しようとした」
[/quote]
―――伊藤正(産経新聞中国総局長) in 産経ニュース,2007.11.24.03:03
これらから考えて,政争の結果起きたのが中越戦争であることは,高い確率で間違いないと思われる.
【質問】
中越戦争に関する日本語書籍でお勧めのものはありますか?
【回答】
平松 茂雄『中国人民解放軍』 (岩波新書)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4004203945/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=books&qid=1240055171&sr=8-5
の91-96頁
こちらでも中越戦争に触れている.
平松茂雄『中国の国防と現代化』勁草書房 (1984/11)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/B000J70ZCW/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1240055883&sr=1-1
雑誌記事を探して図書館で複写依頼した方が良いかも
http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E7%B4%9B%E4%BA%89&range=0&count=20&sortorder=1
http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89&range=0&count=20&sortorder=1
中越戦争自体の描写は数ページであるが,ヴェトナム軍側の状況について通史的に把握するには,こちらが良い.
小高 泰『ベトナム人民軍隊 知られざる素顔と軌跡』暁印書館
(2006/12)
http://www.amazon.co.jp/dp/4870151561/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1240055737&sr=8-1
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中国はベトナム侵攻で何をしたかったのでしょう?
懲罰戦争らしいですが,ただベトナムの基地などにダメージを与えたいだけだったのでしょうか?
【回答】
中国が命名した「懲罰戦争」という名前でわかると思うが,
対外的には簡単に言って,
「ベトナム戦争終結後,ソ連と仲良くなりやがって.
どれだけ面倒見たと思ってるんだ.
こらしめてやる」.
問題は,どこまでやれば「こらしめた」ことになるのか?だ,
たとえばハノイを占領すればいいのか?
ベトナム全土を制圧か?
というと,その意味での戦争目的がはっきりしていなかったフシがある.
はっきりしていたのは侵攻そのものの目的ではなく,中国の内政的な目的,共産党の政治力を強めるための,解放軍の弱体化だ.
いたずらに兵力を損耗させ,解放軍の政治干渉力=武力を弱らせるためで,そうでなければせめて,もう少し兵站も武装も整備してから侵攻を開始していたはずだ.
「何がやりたかったのか?」
という質問に戻れば,
「ベトナムがヘコんで解放軍がヘコんで,共産党が相対的に強いポジションを獲得すればオンの字じゃないか」
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中越紛争時の人海戦術は,具体的にはどんなことをしたの?
【回答】
中共軍が地雷を処理する際,兵を一列にならべ長い棒を持たせて地面をたたかせた.
突撃のときは,太鼓のリズムに乗って只ひたすら前へ.
それで,ベトナムの機銃射手はビビッテ後退.
人海戦術万歳.
そして,軍の近代化を真剣に考えた..
某国立大学ベトナム語学科の教授の話.
中越紛争における人海戦術
faq17v.jpg
faq17v02.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
1976年にミグ25で函館空港に強行着陸,アメリカに亡命したユーリー・ベレンコ中尉は,酒が亡命理由と聞いたが,本当ですか?
【回答】
航空機用アルコール※だけはたんまり横流しできたため,あまりにアル中の多かったチュグエフカ空軍基地の有様を,彼は嘆き,
「せめてアルコール度数が低く,アル中になりにくいビールを支給するべきだ」
と上官に上申した.
が,ソ連軍の兵士処遇に物申す反ソ分子としてこっぴどく叱責された.
このときの不満が,亡命のひとつのきっかけになっている.
※ソ連/ロシア軍機には電子機器などの冷却用※2に,アルコールが使われているようです.
以前,航空雑誌に載っていた写真によると,Su-27の前脚収容部にはアルコールのボトルが取り付けられているとのこと.
軍事板
▼
※2 以前,米国支社で働いていた元ロシア空軍所属の同僚(アメリカに移民済み)曰く,
「Mig-25の動翼には不凍液として100%エタノールが入っているのだが,冬に基地に飛ばすと,皆で抜いて飲む(もちろん薄める)ものだから,凍結しなくなる春まで飛行機を回送できなくなる」
とのこと.
話全体がアネクドートである可能性も否定できませんが,少なくともロシア空軍において,「飛行機に入れるエタノール」は冷却用ではなく,不凍液であると理解されていたようです.
ひな in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年01月12日 23:17
▲
亡命してきたMiG-25
(引用元:画像掲示板,原出典不明)
【質問】
1970年くらいにアメリカが,中華人民共和国を中国と認め,国交を樹立したのはどうしてですか?
インドシナ戦争~ヴェトナム戦争と関連させて調べろと言われたのですが,アメリカ軍の北爆において,中国とソ連は南ヴェトナム解放民族戦線に援助してるのに,何でアメリカが中国と仲良くし出すかわかりません.
【回答】
いい加減だな.
米中国交樹立は1979年だ.
1970年代という表現ならまだしも1970年くらいではない.
ニクソン訪中は1972年だが,ニクソン大統領の時代は議会の反対で,国交樹立まではできなかったのだ.
その要因として,エドガー・スノーに代表される中国共産党のプロパガンダの影響で,米国に親中的な世論があったことが挙げられる.
しかし決定的な要因は,中ソ対立の勃発だろう.
そうなれば対ソという共通の利益が米中にある訳で.
ベトナム戦争との絡みでいえば,ニクソン大統領就任の頃は米国も,泥沼状態のベトナムに反戦ムード一色となり,撤退モードに変わっていくわけ.
そしてベトナム戦争が終結に向かうのであれば,もはや米中間の決定的な対立軸は,イデオロギーは別として現実的には何も無い.
撤退ということは,カンボジアのロン・ノル政権とか南ベトナムが見捨てられるということだが.
まとめると,アメリカがベトナム戦争での実質的な敗北を認めることで,米中の対立軸が無くなり,中ソ対立が起きたことで,対ソ連という共通軸が生まれたということ.
だから米中接近の機運につながったということ.
世界史板
青文字:加筆改修部分