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戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「LUCIFER NEWS」◆(2012/11/02)自宅の裏庭に第一次世界大戦で使用されていたのと同じ構造の塹壕を作った元歴史教師

The Western Front Association(西部戦線)

「ワレYouTube発見セリ」:WW1 - Hell in the Trenches

●Book

『The Railway Operating Division on the Western Front: The Royal Engineers in France and Belgium 1915-1919』

 WWI時の王立工兵麾下英国鉄道運用師団の詳細.
 写真多め.

第1章Military and General Railway History
 戦中の各期のRODの任務を追ったもの.
 めぼしいところを書きだすと
・最初の15ヶ月の路線敷設
・戦車の列車による移動
・イープル突出部サポート
・ソンム1916 7-11月
・カイザー攻勢の後難
・汽車修理作業場
・機関区と配車
・ROD操車場

第2章 Locomotive History
 機材詳細と変遷リスト
 写真はStandart-gaugeメイン

Selected Maps
 各路線・駅のほか弾薬,兵員集積所の凡例あり.
・1918第一軍第二軍鉄道路線図(初期イープルからアラスまで)
・1916ソンム鉄道地図
・1918 3月 第二軍鉄道路線図(イープル周辺詳細 西はポペリンゲ南西アズブルック 南はアルマンティエール)
・1916 12月から1918 3月までの英軍前線南部変遷路線図(アラス,カンブレー,アミアン,サンカンタン,ソワソン)
・1918初頭の第3軍,第5軍路線図(アラスからノワイヨンあたりまで)
・地名辞典

-----------------軍事板,2011/12/16(金)

『戦場の一年』(エミリオ・ルッス著,白水社,2004.7)

 第一次大戦のイタリアもの.
 訳がこなれていて非常に読みやすく,面白い.

 事態がほとんど動かない状況って,精神的に来るものがあるね.
 死ぬとわかっていて突撃しなければならないのは絶望.
 疫病すら絶望的な突撃に比べれば,ずっとマシという認識なんだな.
 本作では出ていないけど,戦車って偉大だわ.

――――――軍事板,2011/02/26(土)

『ロンメル戦記』(山崎雅弘著,学研M文庫,2009.11)

 なんというか,「文筆家」として山崎氏が著しい進歩を果たした作品だと思う.
 以前より格段にパワーアップwしてるわ.
 素材自体(ロンメル)の面白さとは別に,氏の筆力に由来するテンポの良さと分かりやすさが,この本を面白くしている.
 もちろん,綿密な調査研究や地図作成の努力も素晴らしい.
 これはマジお勧めです.

――――――軍事板,2009/11/18(水)

 【質問】
>WW1の4単位師団→3単位師団のへの移行も作戦単位を増やす事での,

 これは間違いでは?
 ドイツ軍がWW1で1個師団3個連隊にしたのは兵員の損耗対策.
 作戦単位を増やすためじゃないはずだが?

 【回答】
 もちろん,損耗対策の意味もありますよ.
 しかし,それだけじゃないはずです.

 戦争拡大に対する作戦単位の維持/増加も含めての損耗対策.
 さらに,予備部隊の運用も含めての変革です.

 WW2の中期以降の独軍師団の連隊縮小は,純粋に損耗対策ですが.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2010/01/13(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW1で戦死したブフナーって誰?

 【回答】
 エドワルト・ブフナー Eduard Buchner (1860~1917)は,ミュンヘン生まれの生化学者.
 ミュンヘン大学,エルランゲン大学で化学を学んだ彼は,1896年,アルコール発酵に関わる一連の酵素を発見してチマーゼと名付け,1907年には「細胞なし発酵」によってノーベル化学賞を受賞.
 しかしWW1において,ドイツ陸軍少佐として従軍し,ルーマニアにおいて戦死した.


 【質問】
 WW1西部戦線で横隊突撃が自殺行為だとわかった後,戦術レベルで自部隊の損害を局限する方法としてはどのようなものが実行されたのでしょうか?
 浸透戦術だけでしょうか?

 【回答】
 守備においては,方法を転換.

陣地構築
 敵砲兵の射程内に置くのは警戒するに足る程度の部隊だけにして,陣地を縦深を持って複数の線で抵抗できるよう作り,各線では機銃座と鉄条網で側面から縦射できるようにする.
 棲息壕はとりわけ頑丈に作り,長期間におよぶ連続砲撃はここでやりすごす.

部隊のローテーション
 部隊は後方での休息と前方での勤務を交互に行わせて疲労の過度の蓄積を防ぐ.

 このほか,航空偵察による敵砲兵の活動の把握,特に攻勢に備えて前進してくるなどの徴候を察知する,などなど.

 攻撃時の被害を減らす方法については,あの手この手が考えられたが,まあどれも微妙な結果に.

戦車    → 有効だったり失敗したりで,戦後も戦車の有用性について議論を残してしまった
毒ガス   → そもそも有効範囲があんまり広くないetc
準備砲撃 → どうしても機関銃座は生き残るし,地形が掘り返されて攻撃の障害に
迂回    → 互いに塹壕を伸ばし合って海岸まで睨み合い(西部戦線の場合)

 ニベルの這う射撃って言う,歩兵の前進に合わせて着弾点を前進させる砲撃方法ある.
 勿論,先頭の不幸な奴は巻き込まれるが,全体から見れば被害が減るからマシって事で.
 もっともこれも,第一次大戦の大前提である陣地の縦深>歩兵の突破力と,鉄道の機動力>歩兵の機動力の前に脆くも敗れ去ったが.

 戦術レベルでは迫撃砲の大規模な導入などもある.
 砲兵と違い,塹壕網の中にいる部隊が軽易に使える点が便利で攻防で用いられた.
 また,ストークス式の迫撃砲ではないのだけど,機銃座を撲滅するための歩兵砲などの導入もドイツではしている.
 これは広い意味では浸透戦術での突撃隊の援護に活躍しているから,質問では除外されるかもしれないが.

 このほか,大規模な攻勢前の長期間の準備砲撃(数週間にわたり持続して射撃するなど)を廃し,攻勢直前に短期間に集中して猛射する方法をとるなどしたこともある.
 これは戦略レベルなのか戦術レベルなのかちょっと判断が難しいが.

 砲兵支援は攻防どちらの局面でも使われるので,そこらもちょっとあれ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「戦線の突破」と,言葉どおり塹壕一本をよっこいせと通過することとは,どう違うんですか?

 【回答】
 「戦線」とは,塹壕だけではない.機関銃座とか鉄条網とか敵兵そのものとか,とにかくそっちからこっちまで通さないぞ,とがんばってるあらゆる構造物をまとめて(防衛における)戦線と考るべき.
 これを突破すれば,敵の裏側にぐるりと回り込んで最終的には包囲殲滅できるわけ.

 塹壕は地面に溝を一本掘るだけというものではなく,二重三重の構造になっている.
 ここに塹壕の構造図あり

 歩兵に第一線の塹壕を突破された場合,守備側は一旦後方の塹壕に退避し,態勢を立て直し奪還を図る.

 しかし,これでは攻める側の被害が甚大なものになる.
 そこで,敵の攻撃に耐える装甲を有し,塹壕を乗り越えられる大きさを持ち,敵の火力を制圧できる火力を持った,いわば移動式のトーチカとして戦車が開発された.
 戦車によって戦線に開けられた穴に歩兵が殺到して突破口を広げ,さらに進出して敵の後方指揮所や補給基地を制圧する.
 そうすれば敵は後退を余儀なくされる,というわけ.


 【質問】
 第一次世界大戦の塹壕について聞きたいのですが,あの時代の塹壕では日常的に
「てめえら国に帰らんかい!」
「そっちが帰らんかい!コラァ!」
みたいにバリバリ撃ち合いしてたんですか?
 それとも,大規模作戦のとき以外は,せいぜい威嚇射撃がたまにある位だったんですか?

 【回答】
 場所と場合と戦況による.

 塹壕があるから進めないでこう着状態になってるのであり,止まってる限り,戦争に決着が付かない.
 突破するためには,砲弾も銃弾も持てる火力の全てを投入して突破しようとする.
 当然,相手も突破されまいと全力で応戦する.
 弾薬や人員が消耗し,足りなくなってどちらかというともなく,補給など準備を整えたり,兵士の疲労を癒すために休止状態が生まれる.
 基本的にはそれの繰り返し.

 相手側が沈黙したようなので突破できるかと思って,兵を様子見に向かわせたら撃たれた,なんて事もあるし,大規模な撃ち合いが終わった後で,散発的に威嚇射撃があったりもするし,塹壕からたまーにこっちの様子を見ようと頭を出す奴を,何時間も待ち構えている執念な奴がいたりもするし,様々だ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 塹壕って雨降ったら大変そうですけど,何か対策はあるのでしょうか?
 特に第一次大戦の時のような長滞陣の時はどうしたのでしょうか?

 【回答】
 一応,スノコを敷いたり,水抜きの溝はあったが低い所にあるのでやはり水が溜まる.
 そうなったら頑張って掻き出す.
 それが適わない時は我慢する.

 湿気が酷く,水虫の超酷い版の塹壕足を患うこともしばしばあった.
 水で溢れて,水に浸かりながら戦闘するなんて事もあった.
 探せば水の溜まった塹壕の中を,泳ぐように歩いてる兵士の写真とか見つかるはず.

 特に西部戦線の連合国側は低地に位置していたのでその害が酷かった.
 大戦に従軍した兵士の手記には
「塹壕の中はいつも水浸し」
「水を掻き出すのが日課だった」
と言う記述が良く見られている.

 対してドイツ側はかなり本格的な作りになっていて,連合国側より居住性はずっと高かった.
 捕虜になった連合国兵士はそれに驚いていた.

軍事板
青文字:加筆改修部分

塹壕足
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第一次世界大戦の塹壕線で,低湿地のような掘ればすぐ地下水が湧き出るような地域では,どうやって砲撃から逃れる退避壕を作ったのですか?

 【回答】
 まず,少しでも地下水の浸入が少ないような構造にして,退避壕に入ってくる水をポンプでくみ出すことになります.
 もちろん,ポンプが破壊されたりして水のくみ出しができなくなったら,人力で行うか,逃げ出すか,溺死するかの3択です.
 まあ,今でも低湿地の建築現場じゃよくある話です.

 次に,壕に排水溝を作ります.
 湧水が多いところでは,より深い溝とします.
 この溝は敵の手榴弾を蹴りこむにも有効なので,普通の土地に掘る壕にも作ります.
 降雨の際にも必要ですから.

 もっとも,それでも湧水の程度がひどくて,常時水たまり状態の壕もあれば,壕が掘れないような土地もあります.
 これは土嚢を積んでバンカー作るしかありません.
 別宮暖朗氏のHP「第一次大戦」が詳しいので,読んでみてください.
 ぶっちゃけ,まともな塹壕を作ることは出来ず,精々木片で補強するのがやっと.
 直撃を食らったらアウト.

 そこで矢板として板など打ち込むわけで,これも湿地に限らず,長期間使う塹壕では普通に行われていました.
 でも,隙間から水がもるし,割れるし,崩れるし,そもそも軟弱すぎる地盤だと思い切り深く打ち込まないと矢板が立たないで,結局土嚢を積んでという話に戻ってしまうわけです.

 湿地帯塹壕線の内側に取り込むか,湿地帯を前衛として,その後方に塹壕を作り,防御に使うことも行われました.

軍事板,2007/09/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 塹壕戦での膠着状態を打開するため,どういうアイディアが考え出されたの?

 【回答】
 両軍とも塹壕にこもった敵を突破して,ナポレオン的な決戦を志向したんだけど,歩兵大隊の衝力は塹壕と機関銃の組み合わせを突破できず,果てしなく死体を量産することになった.

 このような状況に対するアプローチとして,イギリス人はトラクターを装甲化し,機関銃や砲を乗せた「海上軍艦」を提案した.
 これが戦車の始まり.
 塹壕を突破できる機動力と,小銃弾に耐える装甲を持ち,塹壕線に穴を開ける.

 これに対しドイツ人は戦術の転換によるアプローチを行った.
 小部隊による分散突破と敵後方に迅速に機動することによる敵指揮系統の破壊.
 これが伏流水となり,WW2の電撃戦がある.


 【質問】
 第一次世界大戦では,敵の塹壕を大砲や爆撃で破壊すると言う発想はなかったのでしょうか?
 そうすれば,わざわざ機関銃の危険に身をさらさずに攻撃できると思うんですが.

 【回答】
 イーブルで地下坑道による爆破作戦で,ドイツ軍は大被害を受けました.
 しかし,塹壕線自体は後方に再構築され維持されました.
 この様に砲爆撃で埋まっても,また掘り直せば問題ありません.
 長期滞在するには,当時の写真で見られるような本格的なものが必要です.
 しかし,射線から身を隠せる深さの穴があれば,塹壕として用を成すので,スコップさえあればすぐに作り直せます.
 掘り直すと以前に埋葬した死体が出てきて精神衛生上,非常に宜しくなかったそうですが.

 また,砲爆弾のみで地上を縦横無尽に走る塹壕を,完全に無力化するのは難しいでしょう.
 オハマや硫黄島の様に隠蔽されて,破壊を免れる拠点はどうしても残ってしまいます.
 砲爆撃が止めば,無力化し切れなかった火点が抵抗を始めるでしょう.

 それに,砲撃や爆撃は,後に大規模攻勢がある事を相手に教えるのと同等です.
 首尾良く塹壕を破壊し,その地域を制圧しても,すぐさま逆襲部隊がやってくると言う構図は,西部戦線では日常です.

 蛇足ですが,準備砲撃は意味があるのだけど,ドイツの場合,第一線の塹壕に篭っている大隊は,壕という,はっきりした砲撃目標から出て,陣地前の砲弾孔に飛び込んで凌いだりした.

 また,当時は小銃を持った歩兵が,比較的密な隊形で砲弾孔だらけ(泥水も溜まる,地面は掘り返される)の ところを前進して攻撃していた.
 これに対してわずか1丁の水冷式機関銃が生き残っただけでも,敵大隊の突撃を撃退することが可能でした.

 そして,大きく犠牲を払ってなんとか敵の塹壕を占領したとしても,後方から歩兵が砲兵の支援のもと,すぐ逆襲してくるので追い出されてしまったり,味方砲兵の射程を超えては前進できないことが多かった(陣地の前は極めて荒れた砲弾孔だらけの土地なので砲車を容易には進められない)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦の塹壕の構造の中に,聴音壕ってのあったんですけどこれの意味は?
 自軍側からポツンと離れていて,位置的に凄く罰ゲーな感じなんですが.

 【回答】
 塹壕に篭っている敵の行動を推測するためのものです.
自軍近くでは着弾音や発砲音他の騒音で肝心の音測が出来ないし,敵から近いほうが聞こえやすいので,塹壕の第一線より更に前進した位置で哨戒を行います.
 特に夜間など,敵の動静を視覚で探ることが難しい場合,夕方から夜にかけての時間に前進させて配置しました.

 滞空時間に制限のある航空機などでは常時の哨戒は難しく,物見櫓などでは即,大砲を打ち込まれて終わりな為,危険ですがそう言う形になりました.

 位置的に孤立しているので,よく敵軍のパトロール活動の標的となりました.
 敵が捕虜をとろうとしてパトロールを出すなどすると,狙うのに絶好でした.
 捕虜をとるための襲撃の例は,ネットには沢山見つかります.
http://www.1914-1918.net/Diaries/wardiary-2msex.htm
http://www.nzetc.org/tm/scholarly/tei-CowMaor-t1-body-d8-d2.html

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 トレンチコートが軍で用いられ始めたのはWW1からでしょうか?
 本によってはクリミア戦争からという記述もあり,どちらからが本当なのか分かりません.

 【回答】
 原型にあたる物は第一次世界大戦前からあったようだね.
 1911年に人類で初めて南極点に到達したアムンゼンが,防寒具として使用していたのが,軍用トレンチコートの元になったものらしい.
 バーバリーが製造販売していたものだよ.
http://www.tujimoto.jp/comment.html

 軍で大量に使用され始めたのはWW1からで,それ以前にも量は不明だが,戦場で使われていたのがクリミア戦争だったのではないか?
 WW1で量産され広く使われたため知名度が高まったのもあるだろう.

軍事板,2009/08/16(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦の時のような,何年も同じ塹壕に篭る戦いをしてる時って,ゴミとかどうしてたんですか?

 【回答】
 戦記物読んでいる限りでは,穴掘って埋めるか,あちこちに固めて置いておくようですな.
 腐敗するもの(人間とか)は衛生的な問題もあるので,基本的には埋めていたようです.
 部隊が変わって陣地に手を入れる(作り直す)時,所構わず埋められてた腐敗物にぶち当たる度に,非常に苦労したとか.

 また,第一次大戦の西部戦線のように長期間同じ所に駐留していると,ネズミが集りまくったそうです.
 空き缶の山のゴミや地中の死肉をたらふく食らって通常,見かけるものと比較して一回りは大きかったそうです.
 しかも,人間を見ても恐れない事から,就寝中にそこらを動き回っていて齧られた者もいるとか.
 塹壕を掘り直す時に,埋められた死体の中からネズミがコンニチワ,とか,精神衛生上非常に宜しくない光景も見られました.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【参考画像】
 当時の塹壕内の生活が描かれているもの.出典不明.
 ただし実際はもっと汚かっただろう.


 【質問】
 第一次大戦の時の,あの複雑怪奇な塹壕線って,やっぱり全部埋めてしまったんでしょうか?
 現代では残ってないのでしょうか?

 【回答】
 第一次世界大戦において激戦が繰り広げられた有名な戦場では,大抵,塹壕や保塁の遺構が残ってるよ.
 ソンム,ヴェルダン,イープル,ガリポリ辺りとか.
 ソンムは墓地もあるから,見学の際は注意が必要.
 また,塹壕跡は結構深いので,転落して怪我をする恐れもある.
 さらに,未だに不発弾とかが残っている所もあるので,これにも注意が必要.

軍事板,2009/08/08(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW1の際に世界中の植民地人が欧州へ狩り出されている写真を見た事あるが,黒人は前線に居なかったの?

 【回答】
 米軍の黒人兵で編成された第92,93歩兵師団が第一次大戦末期に欧州戦線に派遣されて戦っており,損害も受勲者も出している.
http://en.wikipedia.org/wiki/92nd_Infantry_Division_%28United_States%29
http://en.wikipedia.org/wiki/93rd_Infantry_Division_(United_States)

 93師団の方の記事を読むと,かなり不遇な目にあってるようだが.

 他にも黒人兵は、アフリカでの戦いに必要だったので、現地で戦ってたんじゃね?
 WW1のころは,ドイツのアフリカ植民地での戦いもしっかりやってるんで.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦に関して質問します.
 西部戦線はずっと戦線が膠着してましたが,朝鮮戦争の仁川上陸作戦みたいに連合軍がドイツ軍の後方に上陸して,補給線を遮断することは出来なかったのでしょうか?

 【回答】
 実際そういう作戦が構想された.
 バルト海に艦隊を送り込んでドイツの背後を突く作戦.
 このために専用の軍艦が多数建造されたほど.

 ・・・でも,作戦の提唱者が作戦発動前に,ガリポリ上陸作戦の失敗から更迭されてしまい,結局実行されなかった.
 後に空母に改造された”ハッシュハッシュクルーザー”は本来は,この作戦のために建造された.


 【質問】
 浸透戦術とは要するに回り込むという戦術でしょ?
 それって第一次大戦まで誰も気づかなかったのが不思議なんだけど…

 【回答】
 浸透戦術は回り込むと言うよりもすり抜けだな.
 「ドサクサに紛れて摺りぬける」も,無線の無い時代じゃ無謀だと思われてたんだろうね.

 迂回は全面塹壕になってしまったために不可能.
 回り込まれないように両軍で延翼運動続けてたら,隙間の無い塹壕線になっちまった訳で.
 相手の正面を避けて回り込もうと思って,回り込むようにどんどん塹壕を掘っていく・・・・
 相手は回りこまれまいと,もしくはこちらが回り込もうと,どんどん競うように横方向に塹壕を掘っていく・・・・
 あれ? 両方とも塹壕が海岸まで繋がっちゃった.なんて事があった.

ドイツ軍突撃兵 Német rohamosztagos
(Otto Dix画;こちらより引用)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 キッシュ・ベーラって誰?
Ki az Kiss Béla?

 【回答 válasz】
 キッシュ・ベーラ(1877~没年不詳)はブリキ職人にして,国外にまで悪名轟いたハンガリーの連続殺人犯.
 ハンガリー警察の推定によれば少なくとも24人を殺害したとされる.
Kiss Béla (1877 - ?) bádogos mester, külföldön is hírhedtté vált magyar sorozatgyilkos volt, aki a magyar rendőrség feltételezései szerint legalább huszonnégy áldozattal végzett.

 第一次大戦は軍隊に,モータリゼーションの急進展をもたらした.
 ところがエンジンはガソリンで動く.
 中央同盟側の石油資源は殆どルーマニアが頼りだったが,そのルーマニアは中央同盟陣営だったにもかかわらず,大戦が勃発すると中立を宣言したばかりか,ブルシーロフ攻勢(1916.6.4~9.20)での同盟軍側の惨敗をきっかけに連合国に寝返ってしまう.

 こうなるとオーストリア=ハンガリーの石油資源は,残るはハンガリーとオーストリアの比較的小規模な油田だけ.
 燃料は不足し,陸軍省は石油の非常徴発令を発した.
 民間業者・民間人が所持している石油燃料は全て強制的に政府が買い上げる,という命令である.
 徴発隊が地方を隅々まで回って石油を探し回った.

 徴発隊員がブダペシュトの北東,チンコタ Cinkota の町にやってきた時,ある家に,揮発油が入ったブリキ桶が5つあるという話を聞き込んだ.
 家の所有者によれば,元の家主は第一次大戦に出征,1915年に腸チフスで死亡したとして戦死者リストに載ったという.
 徴発隊員が家に入ってみると,蜘蛛の巣だらけの家の屋根裏に,密封された桶が7つ.
 桶に穴を開け,中身をコップに受けて舐めてみる.
 揮発油ではなくアルコールだった.
 密造酒だろうと思って開封してみた.
 しかしそれは酒ではなかった.
 アルコールはアルコールだったが,生き物を保存するためのアルコールだった.
 アルコール漬けで女性の死体が保存されていた.

 元の家主の名前はキッシュ・ベーラ.
 ブリキ職人で,工場というか作業場も彼は所有していたが,1912年春,半ば引退した形でブダペシュトからチンコタに引っ越してきた.
 15歳年下の妻,ノルマを伴っていたが,彼女は間もなく失踪.
 置手紙があり,若い画家と駆け落ちしたと思われた.
 キッシュも第一次大戦勃発後の1914.8.24に徴兵され,家は空き家となっていた.

 死体が発見された家の捜索が行われた.
 庭を掘ると,10人の死体が出てきた.
 妻のノルマ始め,皆女性.
 付近の森まで捜索範囲が広げられることになり,捕虜収容所のセルビア人とロシア人が動員され,発見された死体の数は合計24に増えた.
 被害者は女性23人男性1人.

 警察の調べにより,キッシュは新聞に求縁または占いの公告を出して女性を釣り,ブダペシュトに別人名義で借りていたアパートや,チンコタの自宅に女性を誘い込んでは殺害し,金品も奪っていたことが判明.
 辛くも凶行から逃れて生き延びた女性も幾人かいたことが判明.
 また,野戦病院での調べにより,死亡した兵士はキッシュではなく別人で,書類をすり替えてキッシュは脱走したことが分かった.

 全欧の警察に指名手配の写真が回ったが,なにぶん大戦中のこと,行方は杳として知れず,戦後も発見されなかった.
 ハンガリーではありふれた名前だったことも,犯人には有利に働いた.

 大戦後の1919年,被害者の女性の一人が,キッシュをマルギット橋で目撃し,警察に通報したが,逮捕にはつながらなかった.
 1930年代にはニューヨークにいるとする未確認情報が出たが,キッシュの所在を突き止めることはできず,現在でもキッシュのその後も,正確な被害者数も不明なままである.

 【参考ページ】
牧逸馬『血の三角形』(社会思想社,1975), p.53-71
http://www5b.biglobe.ne.jp/madison/murder/text/kiss.html
http://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1040389-84/
http://index.hu/tudomany/tortenelem/anagyhaboru/2015/02/06/100_eve_halt_meg_a_hirhedt_cinkotai_sorozatgyilkos/
http://online.wsj.com/ww1/jp/oil-revolution

 なお,本項は当初,軍事板常見問題とは関係のない「殺人常見問題」に収録する予定だったが,この事件には第一次大戦が少なからず関わっているため,こちらに収録した.

https://www.youtube.com/watch?v=ZBOZapJWssw

mixi, 2017.2.13


 【質問】
 フェルディナント・シェルナー元帥のプール・ル・メリット勲章は,本来ロンメルに授与されるはずだった物が,手違いでシェルナーに授与されたものだそうですが,どんな手違いが起こって間違えたりしたんですか?

 【回答】
 記憶モードですみませんが,ロンメルの部隊が占拠した山の尾根をシェルナーの部隊が占拠したと報告されて ,プール・ル・メリット勲章が授与されたとロンメルが主張して著書(『歩兵の戦術』だったと思います)に書いてあったと思います.
 ロンメルは後日,別の尾根を確保して捕虜を多数確保してプール・ル・メリット勲章を授与されています.

 で,このロンメルの意見は言いがかりで,実際にはロンメルとシェルナーが同日か近い日付に別の尾根を攻略していまして,プール・ル・メリット勲章に相当すると判断されたのはロンメルではなく,シェルナーの軍功のほうでした.
 ロンメルはそれを取り違えて,シェルナーがプール・ル・メリット勲章を奪ったと思い込んでいたわけです.
 シェルナーは自らの軍功でプール・ル・メリット勲章を確保しています.

 以上,かなり前の記憶モードです.
 間違いの訂正などをできる方,よろしく.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 レマルクって誰?

 【回答】
 エリッヒ・マリア・レマルク Erich Maria Remarque (1898~1970)は,ドイツの小説家であり,『西部戦線異状なし』の著者.
 彼は18歳の時,ギムナジウムの級友とともに第1次世界大戦に出征,西部戦線へ配属され,負傷.
 その後,小学校教員,ゴム会社勤務を経て,ベルリンでジャーナリストとなったが,1929年,『西部戦線異状なし』を発表すると,大ベストセラーとなるも,2作目の「帰り行く道」の反戦気分がナチスから迫害される原因となり,1932年にスイスへ,さらに1939年にアメリカへ亡命した.

【ぐんじさんぎょう】,2009/10/6 23:00
に加筆


 【質問】
 第一次世界大戦は日本陸軍にどう影響したか?

 【回答】
 山田太郎によれば,2つの大きな衝撃を,日本陸軍に与えたという.
 以下引用.

 (1) 欧米諸国との軍需工業力の格差が,絶望的なまでに大きくなった.

 例えば,1917年4月における各国の日産砲弾製造量は,
ロシア     11万発
オーストリア 16万発
イギリス    29万発
フランス    31万発
ドイツ     44万発
だったが,当時の日本では月産(日産ではなく)10万発が可能だろうと推定されているに過ぎなかった(戦史叢書9「陸軍軍需動員(1)」,p.24).
 より正確に言えば,日本にとって,欧米諸国との生産力格差が改めて明らかになったということである.

 (2) 「皇軍」の「精神的優位性」に疑問が持たれ始めたこと.

 例えば,大戦の調査・研究に当たった陸軍の臨時軍事調査委員会の報告書は,次のように述べる.

「物質的文明の発達と戦争力要素たる精神力は相背馳(あいはいち)し相容れざるものにして又戦争における物質力の利用増加は精神力に対する要求を軽減し得るものなりとは従来往々世人の口にする所なり 然るに這次(しゃじ)戦争の経過は其の大に然らざるものあるを立証し世人に反省を促す所あるが如し (中略) 這次戦争に現はれたる幾多の事実は帝国をして独り其(その)大和魂に心酔安心するを許さざるものある」(臨時軍事調査委員会「参戦諸国の陸軍に就て≪第5版≫」〔1919年12月〕 p.41-44)

 すなわち,物質的な劣勢を精神力の優越で補うという日露戦争方式の考え方は,ヨーロッパで展開された物量戦争の前では全く通用しないのではないか,との憂慮を抱く日本陸軍軍人が現れたのである.
 欧米陸軍の物量の圧倒的優位が,日本陸軍が唯一の頼みとする「帝国民の精神力」の優位性をも脅かすに至り,陸軍の一部には,大戦直後の時期には深刻な焦燥感が漂い始めたのである.

 しかし,その焦燥感・危機感は必ずしも陸軍の装備・編成・組織近代化にストレートに結び付いたわけではない.
 また,日本陸軍の歩兵中心主義・白兵主義という軍事思想の転換を招いたわけでもなかった.
 陸軍は,日本には欧米のような物量に頼る「贅沢な戦い」はできない,欧米流の戦闘に対して欧米流で対抗するのではなく,「日本式」で対抗しようという考えを基本にしていた.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,
1997/6/1,p.52-55,抜粋要約)


 【質問】
 大正7(1918)年の軍団構想とは?

 【回答】
 黒野耐によれば,以下の如し.
 当時,師団は兵站活動に必要な全ての輜重部隊などを抱えていたため,鈍重で機動性に欠け,また,近代戦に必要な砲兵火力と特科兵種の比率が低かったため,師団を構成する歩兵部隊を,2個旅団(4個連隊)から3個連隊に縮小し,砲兵火力,特科兵種を増強し,輜重部隊の大半を上級部隊が直轄して,師団を約1万人規模に小型化する.
 そうすると,旧師団から新師団2個を編制でき,戦時には2倍動員するので,戦時の新師団は4倍になる.
 一方,軍司令部が多数の師団を直接指揮・兵站支援するのは困難なので,軍司令部と師団の間に軍団を設け,2個師団を統括させる.
 しかしこの構想は,約22億7千万円に及ぶ経費がネックになったという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.72-74
を参照されたし.


 【質問】
 日本陸軍で使われていた歩兵操典が,第一次世界大戦後に改正された際に,フランス陸軍の戦訓を取り入れたそうですが,本当でしょうか?
 それまではドイツ陸軍のものを手本にしていたのを,近代戦に対応するために戦勝国の方法論を採用するというのは理解できるのですが.

 【回答】
 WW1の歩兵戦術で革新的なのは,ロシアのプルシロフ将軍あたりから始まる浸透戦術.
 それ以前の戦闘は,砲兵で敵陣を砕いて,歩兵が横隊突撃するという方法が世界標準だったが,独仏の塹壕戦で,砲兵威力では敵陣を砕けず,横隊突撃は大被害が出ることが判った.

 そこで出てきたのが浸透戦術.
 ドイツ軍も大々的に使用し,フランス軍も取り入れ,歩兵突撃の新標準になった.
 日本陸軍もこの流れに乗って,浸透戦術系列の歩兵戦闘を採用した.
 旧来型の戦術で最大被害を出して,「無理」とはっきりさせたのはフランス軍なので,その意味でフランス軍の戦訓とは言える.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 バルテリーナ高地とは?

 【回答】
 このスイス国境に近い高地は,第一次大戦ではオーストリア軍山岳部隊を相手に,イタリア山岳スキー大隊が3年の間,戦闘を続けて守り抜いた激戦地.
 すぐ背後には広大な氷河が広がり,ここで分解した山砲をロバの背中に乗せて通過したと聞いて驚愕.
 それを記念して1929年に,同高地にあるステルヴィオ国立公園の基地跡に,山小屋「Rifugio Quinto Alpini」を建てたそうです.

faq51i02a04.jpg
faq51i02a02.jpg

 2002年7月に私も,この友人が主催するトレッキンググループに同行して,ゼブル山(標高3740m)の中腹にある山小屋『第5山岳連隊』(標高2877m)に一泊した記憶が,たちまちフラッシュバック!
 位置関係はこちらに.

faq51i02a03.jpg

 もうこんな苛酷なツアーは無い!というぐらいへばりましたが,着いてみるとその要塞の様な威容に驚きました.

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月01日03:15
より再構成


 【質問】
 下位春吉とは?

 【回答】
 第一次大戦時にイタリア戦線で,アルディーティ(突撃兵)部隊と共に従軍した日本人.
下位春吉氏のエピソードは,マネトケさん関係のこちらのサイトに要約されています.
http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-44.html

 (写真1)は,自著「大戰中のイタリヤ」の扉写真で,日本に持ち帰ったアルディーティ兵軍服を着用した下位春吉氏とムッソリーニの肖像.

 世界に先駆けた開襟式兵用ウール服には,黒いフィアンメ型襟章やアルディーティ袖章,フィウメ従軍章を含んだ胸の略授章が光り,黒い兵用フェズを被っており,この軍装が後のMVSN服の原形になっています.
 ただ,春吉氏の襟章にサヴォイアの☆章が付いていないのは,彼が正式なアルディーティ兵では無かった事を意味すると思われます.

 ちなみに下位春吉氏は,後にムッソリーニに会津の白虎隊の逸話を伝え,それに感動した統帥はローマの遺跡から発掘された石柱に,鷲の青銅像を加えて慰霊碑として会津市に寄贈しました(写真2)

 拙アルバムにこのイタリア記念碑についてレポートしています.
http://www.photohighway.co.jp/AlbumTop.asp?key=638221&un=97071&m=2

 開高健なみに変わった名前なのかも知れませんが,実はこの人,養子で下位姓になっただけで,もとは井上春吉という平凡な名前でした.
 …この改名が彼の人生に大きな影響を与えたのかは謎です(笑)

よしぞう(maro') in mixi,2006年10月25日01:34
&2006年10月26日 22:53

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ヘミングウェイって誰?

 【回答】
 ア-ネスト・ミラ-・ヘミングウェイ Ernest Miller Hemingway は,シカゴ生まれの小説家(1898~1961)
 作家になる前の1917年,「カンザス・シティ・スター」紙の見習い記者になり,翌年,北イタリアのフォッサルタの前線で救急車要員として参戦.
 迫撃砲弾の破片をうけて重傷を負った.


 【質問】
 ロシアは第一次世界大戦で,西部戦線に兵を送ったそうですけど何で?
 東部戦線があるのに.

 【回答】
 人的資源だけは有り余っていたので,フランスから
「人口が3倍もあるのに,動員数がウチと同じくらいなのはおかしい.
 兵站は面倒見てやるから,こっちにも兵を送ってくれ」
と要求されたので.
 東部戦線もギリギリだったけど,フランスに見捨てられたら完全に破滅だったので仕方なく,4個旅団,約4万人ほどが派遣されました.

 バルト海と黒海の制海権は握られていたので,シベリア鉄道を使って大連から3万kmもの長い道のり経て,フランスへと向かいました.
 ニベル攻勢による損害,2度に渡る革命等,時代の荒波に左右されつつも彼らは勇敢に戦い,その戦いぶりはフランスからも賞賛されました.
 最終的にはロシア革命の干渉軍に組み込まれたりして,1000人程度にまで減少し,彼らの多くはフランスへの帰化の道を選びました.

 詳しいことは,ここを読んでみて
http://ww1.m78.com/topix-2/russian%20expenditionary%20force.html

軍事板


 【質問】
 WW1でトハチェフスキーは独軍の捕虜になって,5回の脱走の末に本国に帰れた,といいますが,このときの経緯についてご存知の方はいませんか?
 いくら地続きとはいえ,厳重に警戒されている捕虜が,はるばるロシアまで帰れたってのが不思議なんです.
 どんな手を使ったんでしょう?
 この件について触れられた本などご存知でしたら,ぜひとも情報をいただきたく・・・

 【回答】
 学研M文庫の「20世紀最大の謀略 赤軍大粛清」(ルドルフ・シュトレビンガー) に,トハチェフスキーの脱走について記述がありました.

1917年8月,散歩中に列から離れて脱走
      ↓
徒歩でスイス領内へ
      ↓
パリへ赴きフランス駐在のロシア軍事全権に面倒を見てもらう
      ↓
軍事全権の口ぞえでロンドンに駐在していたロシア軍中将に
帰国の手はずを整えてもらう
      ↓
1917年晩秋,ロンドン経由でロシア帰国

ということだそうです.

軍事板
青文字:加筆改修部分

脱走の瞬間
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ラドヤード・キプリングって誰?

 【回答】
 ラドヤード・キプリング(1865~1936)は,ボンベイ生まれの英国人小説家・詩人.
 1894年,「ジャングル・ブック」を発表し,人気を得た.
 また「兵営の歌」など,兵士や水夫の生活を詠った詩も,高い人気があった.
 そして第一次大戦.
 彼は戦地に赴いて,悲惨な現実の報告を新聞に掲載し,「大戦におけるアイルランド近衛歩兵隊」を書いた.


 【質問】
 ウィリアム・ホープ・ホジスンって誰?

 【回答】
 William Hope Hodgson は,英国のコズミック・ホラー作家.
 1875年,エセックス州の牧師の子として生まれる.
 ごく若いうちに海へ飛び出し,8年間,世界の大洋を航海して回り,世界各国の港に寄港.
 1907年,作家デビュー.
 第一次世界大戦の少し前に結婚し,南フランスに住んだが,大戦勃発と共に帰国し,陸軍第171連隊の指揮官に任命される.
 なぜ海軍ではなく陸軍だったのかは,寡聞にして不明.
 1917年,連隊と共にフランスに渡り,各地で勇名を轟かせる.
 1818年4月のドイツ軍総攻撃の際には,それを水際で食い止めた将校の一人となる.
 しかしそのすぐ後,連隊の斥候に志願し,銃弾を受けて戦死した.

 【参考ページ】
団精二「失い,帰還する旅としての冒険」,ホジスン『異次元を覗く家』(早川書房,1972)


 【質問】
 『ホースソルジャー』で思い出したけど,テレビで広告やってる,スピルバーグの新作の『戦場を駆ける馬』って,原作はあるんだっけ?

 【回答】
 ある.
 新装版だろうけど,元は児童向けの本らしい.
http://www.amazon.co.jp/dp/4566024180/



429:名無し三等兵 :2012/01/11(水) 13:47:47.45 ID:???

 嫁とケンカばっかしてる俺は,ホームソルジャー


431:名無し三等兵 :2012/01/11(水) 16:10:24.26 ID:???
>>429
 我が家はまるでアウェイであるかのようです orz


432:名無し三等兵 :2012/01/11(水) 16:22:21.78 ID:???

 家族に趣味を理解してもらう事が大事だな・・・


433:名無し三等兵 :2012/01/11(水) 16:33:52.09 ID:???
>>432
そう思い努力していた時期もありました(‘‘)


434:名無し三等兵 :2012/01/11(水) 16:37:40.93 ID:???

 趣味を理解してくれる人と結婚しようと決意したが,よくよく考えると,ニアリーイコールで結婚しないという答えになりそうで怖い.

軍事板,2012/01/11(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦への,インド植民地軍の派遣状況は?

 【回答】
 義和団の乱を上回る大規模派兵となったのが,第一次世界大戦です.
 1914年の大戦勃発時点でのインド軍の兵員数は,戦闘要員155,423名,非戦闘員45,660名の合計201,083名で構成されていました.
 開戦と共にインド軍は即応戦力として動員され,フランス,東アフリカ,ペルシャ湾岸地域及びエジプトに派兵されました.
 その数は,英国人将兵23,500名,インド兵78,000名の合計101,500余名に達しています.
 インドに駐留していた本国軍の歩兵と砲兵部隊は,9個大隊を除いて総て本国に転用され,それらは本国からの国防義勇軍部隊で代替されました.

 その後,戦線の拡大に伴ってインド軍派兵地域は急速に広がり,フランス,ベルギー,ガリポリ,サロニカ,パレスティナ,エジプト,スーダン,メソポタミア,アデン,紅海沿岸,ソマリランド,カメルーン,東アフリカ,ペルシャ,クルド地方,カスピ海沿岸,中国北部及び英領インド北西・北東国境地域に及びました.
 また,1918年12月末までに,新たに戦闘要員として87.7万余名,非戦闘員として56.3万余名,合計約144万余名のインド人が,現地インドで戦争遂行の為に募集され,その兵力は開戦時の7倍強に拡張されました.

 兵員以外の軍夫も含めると,第一次大戦の期間に,インドから海外に英国人28.5万余名,インド人109.6万余名,合計138.1万余名の人員が,欧州西部戦線や中東戦線に派遣されています.
 特に,戦争の後半段階になると,中東各地域でオスマン帝国を相手にした軍事作戦では,インド軍が戦闘部隊の主力を務め,西部戦線では,8.9万余名のインド軍将兵と軍夫などの非戦闘員4.9万余名,合計で13.8万余名のインド人が,白人相手の戦闘に従事しました.

 こうしたインド人達は,長期化した塹壕戦と多くの犠牲者を出した事から部分的にインド軍部隊の士気が低下した事もありましたが,総じて,白人を相手に互角に戦い,植民地では支配者であった英国人昇平と同列で本格的な近代戦の戦闘に参加した事で,自信と誇り,それにナショナリズムを昂揚させる事に繋がりました.
 なお,1915年にはシンガポール駐留のインド軍歩兵連隊が叛乱を起こし,日本海軍の助力により鎮圧されるという事件も起きています.

 これらの戦費の負担については,開戦直後にインド政庁が,海外に派兵されるインド軍の通常維持経費を負担する提案を行いました.
 本国議会でもこの申し出は歓迎され,1914年9月と11月に本国議会両院は,1858年インド統治改善法第55条の国制上の規定に基づく,インド財政からの戦費支払いを認める決議を相次いで行いました.
 この結果,インド財政から海外派兵インド軍の通常経費を負担する事が確定し,インドにとっては約5,100万ポンドの負担になりました.
 その他,臨時経費としてインドからの軍事力移動経費が,また,インド北西国境や海岸部の防衛費,エンパイア・ルートの拠点であり,慣例的にインドがその経費を負担していたアデンでの作戦活動に伴う諸経費など,約7,800万ポンドがインド財政から支出されました.
 それに加えて,1917年初めにはインド立法参事会の同意を得た上で,インド政庁は特別に本国に1億ポンドの献金を行い,総額2億2,900万ポンドの支出がインド財政から出て行きました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/30 22:21
青文字:加筆改修部分


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