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戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「シューレ・グリンシュタイドル Schule Griensteidl」◆(2008/05/09〜) タンネンベルク会戦 (タンネンベルクの戦い)
その1
その2
その3
その4
その5

『ゲーム理論の愉しみ方 得するための生き残り戦術』(デイヴィッド P. バラシュ著,河出書房新社,2005.12)

 読んでいたら,第一次大戦の西部戦線での面白いエピソードが記述されていた.
 膠着状態の塹壕戦で,英仏軍とドイツ軍の間に,相手が撃てば撃ち返すけど,相手が撃たなければこちらも撃たないという,暗黙のルールが形成されていたという話が,囚人のジレンマのケースとして上げられている.
 英軍将校がお茶をしていたら,ドイツ軍の砲撃をうけたので,相手側を罵ったら,あるドイツ兵が塹壕から姿を現して,
「申し訳ないことをした.
 怪我人はなかっただろうか?
 俺たちのせいじゃない.
 いまいましいプロイセン人の砲兵隊のせいなんだ!」
と謝った例とか,中々面白い.
 この手の第一次大戦の手記とか,邦訳で出てくれないかなぁ.

------------軍事板,2011/05/30(月)

『シュリーフェン・プラン ―ある神話の批判―』

 千葉県立図書館で借りてきた.
 著者のゲルハルト・リッターの手で初めて公開された,シュリーフェン・プランの全文らしい

 全体として二部構成になっていて,前半は内容の解説,後半はシュリーフェンの覚え書きの訳になっている.

 付録として,リデル・ハートによる解説付き.
 解説は,よく見るシュリーフェンプラン批判の走りとでも呼べるもの.
 西部戦線での右翼による旋回は観点から困難であり,ロシアの動員速度は想定よりも速く,そもそも国家レベルでの戦略を伴わず,単一計画にこだわることで軍事力の使用を硬直化させてしまった,などなど.

 ただ石津朋之氏によると,最近ではこのリッターの説にも疑念を投げかける説が出てきているとのことで,内容の真偽についてはまだまだ議論の余地があるようだ.
 さらに石津氏は,もうちょっと違う角度からの分析を行っている
http://www.nids.go.jp/dissemination/senshi/pdf/200603/7.pdf

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 シュリーフェン・プランの問題点って,ベルギーへの中立侵犯によるイギリス参戦のような,政治的なものだけなのでしょうか?
 戦略,用兵的な問題はなかったのでしょうか?

 【回答】
 用兵的にも多くの問題を抱えており,言葉の通り「机上の作戦」だった.

・動員や物資輸送の計画は詳細を極めていたが,行動中の戦闘に関しては丸っきり考慮されてなかった.

・目標がパリの占領か敵野戦軍の殲滅か,はっきりしてなかった.
 そこは小モルトケの改定案では目標は野戦軍のみに変えられた.
 しかし,最右翼の第1軍のクルックはパリ目前で野戦軍に狙いを定め,敵前回頭を行ったためパリ守備軍から側面を突かれてる.

 延々と旋回運動を続けて,パリへ向かう右翼の部隊がまったく疲れを知らずに進軍し,補給はいささかの遅延も見せずに潤沢に届き,当初の予定通りロシア軍の動員がモタモタして,東部戦線にあまり兵力を割かずに済み,……という風にプランどおりにことが運べば問題ないよね,という代物だった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シュリーフェンプランについて質問です.
 シュリーフェンプランって,ロシアが総動員したら,総動員かけてベルギー通ってフランスぶん殴って,返す刀でロシアぶん殴るってプランですよね?
 ロシアが総動員かけたら,理由に関係なく自分からロシア・フランス・イギリスに喧嘩吹っかける3正面戦争になるって,狂気の沙汰だと思うのですが,なんでこんなプランがまかり通っていたのですか?
 誰か止める人いなかったんですか?

 【回答】
 それだけ,ドイツが自身の軍事力を過信してたからです.
 事実,その自信に見合うだけの軍事力を持っていました.
 流石に総力戦になる事は予期していませんでしたが.

 また,当時の戦争計画は動員計画とほぼ同等でした.
 その為,差はあれど各国とも非常に硬直化した戦争計画でした.
 柔軟性に欠けていたという問題点は,あっちこっちで言われています.

 例えばロシアは,総動員がドイツとの戦争の危険性が高いと感じながらも,部分動員では軍事的劣勢を強いられる恐れがあると言う事から,総動員を行いました.
 鉄道のダイヤの関係から,動員の体系を容易に変更出来なかった為です.

 ドイツもベルギーの中立侵犯はイギリス参戦を招くと知りつつも,軍部は「戦争計画の変更は難しい」と突っぱねています.
 なぜならロシアの総動員後,ただちにシュリーフェンプランを発動しないと前提が崩れるからです.
 ロシアは国土が大きいため総動員も遅れる,という想定で作った計画だったのです.

 三国協商があるので,ドイツは英仏露を仮想敵国とみなしていましたが,三国と全面戦争になった場合,ドイツは包囲される形になるので地理的に不利でした.
 この状況を打開する良い案はないだろうか?,ということで,ロシアの総動員の遅さに目をつけていたのです.

 止める人はいました.
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世.
 小モルトケに
「別にフランスを攻撃する必要は無いんじゃない?」
って言ったんですが,モルトケが
「でも前からこう決めてたんです!」
って言って突っ撥ねたのです.

 ちょうど今,「ワラノート」に「やる夫で学ぶ第1次大戦」の新しいのが来てるから見てみるといい.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中立ベルギーを侵攻する作戦が,ドイツにとって唯一無ニなのが恐ろしい.
 中立国への侵犯が,イギリスの反発を招くことをさえ考慮しなかったのだろうか...?

 【回答】
 毛頭しなかった.作戦優先だった.

 当時のドイツ軍人にとって,軍事的成功が全ての政治的な問題を解決すると思い込んでた傾向がありましたから.

 実際,帝国宰相ベートマン=ホルヴェークはベルギー侵攻を止めさせようとしたが,
「そういう作戦だから無理」
の一言であっさり却下.
 ベートマン=ホルヴェークは開戦にあたり,帝国議会で
「ベルギーすまん.後で埋め合わせすッから許してくれろ」
と異常な演説をする羽目になった.

 しかも,ルーデンドルフなんかは占領したベルギーを最後まで手放そうとせず,それが戦争中英仏との講和に至らなかった主原因とか.
 それでいながら,自らの最終攻勢が失敗し,連合軍の最終攻勢を受けると,捨ててもいいやとあっさり考え直す.
 ココまで作戦しか目に入ってないのは,ある意味清清しささえ覚える位の本末転倒ぶり(苦笑).
 作戦結果であっさりベルギー捨てるなら,もっと早く条件闘争できたのに.

 因みにモルトケは中立国ベルギー侵入を考慮していた.相手が侵攻しても,ベルギー自身の抵抗と英国がフランスに敵対するので,進入するだけ損とわかっていた.
 むしろ,フランスにベルギーに侵入して欲しいと思ったくらい.

Wiking他 in 軍事板


 【質問】
「クリーグスマリーネに借りを作るくらいなら,敢えて西部戦線に英軍数個軍を迎えるも意とするに足らず」
という見解も,ドイツ陸軍にはあったそうだが?

 【回答】
 海軍力を考慮しなかったのはシュリーフェンだけでなく,モルトケも同様.プロイセンは陸軍国家なのでやむをえないといえばやむをえない.

 西部戦線の英軍を意に介しない表現を『8月の砲声』では「右翼最右端は,袖で海峡をかすって通れ」と表現していた.最右翼の兵力を高めていれば英軍なぞ恐れるに足らんということ.
 『補給戦』を読むとシュリーフェンプランはインパール作戦と変わらないように見えるから不思議だ.

 それでいながら,国策というカイザー直下の最高意思決定レベルでは
「独逸の未来は海上にあり」
として,ジョンブルの神経を逆撫でしまくるというちぐはぐさ(苦笑).

 現にBEFをモンスからマルヌの彼方まで追い散らしたから,あながち大自信に根拠が無い訳でもなかったんでしょうが,海軍を頼みにしない姿勢や,敵の抵抗に遭って攻勢が頓挫する事に対する対処が想定外で,「快進撃」が能天気に想定されてるあたり,後の日本陸軍そっくりですねえ.

軍事板

第1次大戦のドイツ陸軍
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 昔に読んだ軍事系の雑誌に,軍事の名言集みたいのがあって,ナポレオンやカエサルや東郷平八郎なんかの言葉が載ってたんですが,その中に,
「正面から猛攻を受けている.
 側面から敵の奇襲をうけた.
 我が部隊は後退している.
 状況は最高だ.
 攻撃を開始する」
と言う言葉(うる覚え)を作戦会議で言ったというのが載ってたんですが,これは誰の言葉で,いつ言われた言葉か分りますでしょうか?

 【回答】
 一般には第一次大戦時のフランスのフォッシュ将軍(のち元帥)が,マルヌ会戦のさなかに言い放ったと言われています.
 松村劭『名将たちの戦争学』141頁によれば,
「我が右翼は重圧を受けている.
 中央の陣地は蚕食されている.
 機動することは不可能に近い.
 (こんな危険な戦況だけれど)素晴らしい状況だ.
さぁ,攻撃するぞ!」
 こんな感じです.

 ただし
「坊間に称えらるる『我が右翼突破せられ(中略)万事好況,予は攻撃す』との言は(中略)事実にあらず」
という資料もありますが…

 戦術的には愚劣きわまるセリフですが,結果的にこのエピソードがフランス軍全体の士気を上げ,絶望的な戦況だったフランスはドイツ軍に対して反撃を開始することになりました.

 詳しく知りたければ,バーバラ・タックマン著「八月の砲声」を読むのをお勧めします.

軍事板,2004/06/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヒンデンブルクをドイツの英雄とした「タンネンベルクの戦い」って,どんな戦いだったのですか?

 【回答】
1)
 1410年7月15日,ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団とが,グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村〜ウォドヴィゴヴォ村間の平原で激突した戦い.
 そのため,「グルンヴァルトの戦い」とも呼ばれる.
 同地は現在ポーランドのヴァルミア・マズールィ県にある.

 この戦いでポーランド・リトアニアが勝利して,さらに勢力を拡大.
 当時,ヨーロッパで最大の版図をもつ強国となった.

2)
 1914年8月の開戦劈頭,東プロイセンに侵入したロシア帝国の第1軍と第2軍を,ヒンデンブルクが指揮したドイツ第8軍が迎え撃ち,これを撃滅した戦い.
 ロシア軍の兵力はドイツ軍の2倍以上.
 だが,ドイツ軍は鉄道を利用して,素早く大量の兵力を移動させ,ロシアの2個軍の各個撃破に成功した.

 この戦いでロシア軍は10万近い捕虜を出して壊滅し,以後,東部戦線では終始ドイツ軍が優勢の内に戦いが進んだ.

 ちなみに,上記の戦いでロシア第1軍を指揮したレンネンカンプ大将と第2軍のサムソノフ大将は,日露戦争中に奉天駅で掴み合いの喧嘩をして以来の不仲だった.
 そのため両軍は,共同作戦を採るべきなのにほとんど連絡をとらず,それゆえに数的に劣勢なドイツ軍に各個撃破される醜態を演じた.
 この戦いで包囲されたサムソノフは自決している.▲

 なお,この戦いが実際に行われたのはオルシュティンの近くだったが,ルーデンドルフの補佐官であったホフマン大佐の提案により,(1)にちなんでこのように名付けられたという.

 【参考ページ】

http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/s05/5560.htm
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/tannen.html

http://www.c20.jp/1914/08tanne.html
http://ww1-danro.com/hito/rennenkampf.html

軍事板,2006/04/25(火)
青文字:加筆部分(2014.10.9加筆)


 【質問】
 タンネンベルクの戦いにおいて,ロシア軍が撃滅されたのは,ロシア第1軍を指揮したレンネンカンプ大将と第2軍のサムソノフ大将は,日露戦争中に奉天駅で掴み合いの喧嘩をして以来の不仲だったから?

 【回答】

 この「奉天駅のレンネンカンプとサムソノフの喧嘩」のエピソードは,タンネンベルクの戦いを取り上げる時に必ずと言っていいほど登場します.
 「坂の上の雲」でも登場し,また,日本語版wikipediaの記述も,本文ではそのようになっています.
(wikipedia本文では,この話が事実であるかのように書かれ,脚注においては,この話は創作である旨付記されているという,奇妙な書き方となっている――2014.10.8アクセス)


 しかし,近年の研究で,この逸話は創作であることが判明してます.
 1991年に出版された,初めてタンネンベルクの戦いを歴史学的に研究したデニス・E ・ショウォルター(Dennis E Schowalter)の著作「タンネンベルク」(Tannenberg.Clash of Empires)によると,二人が奉天駅で喧嘩したとされる時刻,レンネンカンプはすでに負傷で入院しており,サムソノフと喧嘩することは不可能だったそうです.

 この有名な逸話は,タンネンベルクでドイツ第8軍主席参謀だったマックス・ホフマンが,戦後の発言や回想録で頻繁にこの話を吹聴したことが発端です.
 ホフマンは
「実際にタンネンベルクでドイツ軍の作戦を立案したのは彼だ」
と言われているほどの軍事の天才で,タンネンベルクの戦いの当事者であったことから,
「これが実話だ」
と流布したわけです.
 ホフマンは非常に性格が悪いことで有名で(実際,ヒンデンブルクやルーデンドルフと仲が悪い),こんな逸話を創作したのもうなずけます.

 大木毅・鹿内靖共著「鉄十字の軌跡」(国際通信社)の中の記事「出来すぎた伝説―奉天からタンネンベルクへ」に詳しく出てます.

 別宮氏の「第一次大戦」のサイトにも同様の記述があります.
http://ww1-danro.com/hito/hoffmann.html

モーグリ in FAQ BBS,2014/9/27(土) 22:50
青文字:加筆改修部分

 巷説によれば,ドイツ軍はロシア軍の通信を傍受して,この包囲撃滅戦を考案したという.
 しかし,
「さすがに,平文の通信とは話がうま過ぎる.これは謀略ではないのか?」
と疑う声も出た.
 これに対してホフマンが,自説を補強するために持ち出したのが,この喧嘩のエピソードだったという.
http://school.pokebras.jp/e45396.html

 天才と言われるだけあって,彼は自分の見解に絶対の自信を持っていたのであろう.
 それを通すためなら,嘘をついても構わないと思っていたのかもしれない.

2014.10.9


 【質問】
 タンネンベルクの戦いにおいて,なぜロシア第2軍は包囲されたのですか?

 【回答】
 ドイツ軍の動きを,ロシア軍側では察知できなかったから.
 その背景には,通信インフラにおいてロシアが,ドイツより劣っていたことがあった.
 また,コサック騎兵も,その偵察能力は低かった.

 結果,後方に位置するロシア北西方面軍司令官ジリンスキイにとっては,ドイツ軍の位置はおろか,自軍の正確な位置をつかむことさえ困難になり始めており,ドイツ軍は退却中との飛躍した結論に拘泥して,ジリンスキイは前線からの情報を無視し,第2軍に対して前進命令を繰り返した.
 ジリンスキイが,ドイツ軍は退却中ではなく,ロシア軍を包囲中であると気付いたのは,27日の夜.
 彼はようやく,レンネンカンプの第1軍を前進させて第2軍を支援させるべく,命令を下した.
 しかし,ロシア第1軍と第2軍の間には,自然障害たるマズール湖沼地帯が横たわっており,両軍が合流するには,ただでさえ時間がかかる.
 しかもジリンスキイは,命令書に「至急」と書き加えることを怠った.

 28日夜,ロシア第2軍司令官サムソノフは総退却を命令.
 だが時すでに遅く,29日朝には既に,ドイツ軍によるロシア第2軍包囲が完成していた.
 ロシア軍将兵は森に追い立てられ,8月31日までにロシア第2軍は,フロゲナウ近くの湖沼地帯で壊滅した.
 78,000人が死傷し,92,000人が捕虜となった.
 生還できたのは僅か10,000人.
 その上,1個軍の軍事的組織が丸ごと失われたのは,ロシア陸軍にとっては大打撃であった.

 第2軍麾下の部隊の最後の組織的抵抗は,以下のようなものであったと伝えられる.

----------
 ナイデンブルクの東方16キロの地点では,クルーエフ将軍の第13軍団で最後まで軍隊編成を保っていた部隊が敵に捕捉された.
 ロシア兵たちは,円形の塹壕を掘って立てこもった.
 そして,ドイツ歩兵中隊からぶんどった機関銃4挺を,急ごしらえの塹壕陣地に据え付け,8月31日の夜から朝まで撃ちまくって敵を寄せ付けなかった.
 しかし,ついに弾が尽き,ごく少数が捕虜になった他は,ほぼ全滅してしまった.

http://school.pokebras.jp/e46669.html
----------

 冥福を祈る.

 【参考ページ】
http://school.pokebras.jp/e39488.html
http://school.pokebras.jp/e45396.html
http://school.pokebras.jp/e45463.html
http://school.pokebras.jp/e46669.html


 【質問】
 イギリスではソンムの戦いが,どれほど特別な戦いだったのか,ご存知ありませんか?
 第1次大戦の「ソンムの戦い」の背景など,私は戦争に詳しくないので,噛み砕いて教えて欲しいのですが.

 【回答】
 簡単に言えば,▼連戦連勝だったドイツ軍が敗北を喫し,塹壕戦のキッカケとなった膠着状況を打開しようとして連合国軍側が攻勢をかけ,戦車まで初めて投入したものの,双方大損害を出した割に11kmしか前進できなかった▲という戦いです.

 初日には1日に2万人というまあちょっと普通の戦いでは出ないような数の戦死者を出した割に,ほとんどなんの戦果も挙げられなかったため特別扱いされてます.
 イギリス軍は,事前の準備砲撃でドイツ軍が完全に参っていると思い強攻したが,ドイツ軍は塹壕にこもっていてあまり被害を受けておらず,まっすぐ突っ込んでくるイギリス兵を機関銃で片端からなぎ倒した.

▼ 1915/7/1〜11/19の戦闘期間中の損害:
英軍:498,000人
仏軍:195,000人
独軍:420,000人

 詳しくは
http://ww1.m78.com/honbun/somme%20battle.html
を参照.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次世界大戦中,欧羅巴戦線でイギリス軍がドイツ軍の陣地の下までトンネルを掘り,そこに大量の爆薬を仕掛けて木っ端微塵にするという無茶苦茶な作戦を実行したという話を聞きました.
 これって実際に行われたんでしょうか?
 行われたとして,ドイツ軍が被った被害は?
 この作戦に関する日本語の書籍ってあるんでしょうか?
 また,関連サイト等がありましたら教えて下さい.

 【回答】
 敵陣地や城塞までトンネルを掘ってゆくのは,中世からある古典的な戦術.専門の坑道掘削部隊もある.
 滅茶苦茶でも何でも無いし,塹壕戦が膠着に陥りやすいことを考えれば当然の作戦.
 日露戦争の旅順攻防戦でも坑道爆破は行われている.

 以下,「第1次大戦」より引用

 6月4日,メシヌ−ウィシャッテリッジで大爆発が起きた.これはイギリス軍工兵部隊が2年半をかけて準備したもので,ドイツ兵が第1次イープル戦で占領したリッジ郡の真下を坑道で掘り進んだものだった.
 爆発物は19基,全500トンに及んだ.地下30メートル以下を掘り,距離は一番長いもので4kmに達した.
 爆発音は遠くロンドンの首相官邸で聞こえたという.
 ドイツ兵の死者は1万人以上に及び,その後の砲火もあって,7千人を越える捕虜も得た.
 リッジ郡も簡単に占領できた.

 しかしこれは別の疑問も生じさせた.
 2年半の準備と4kmの坑道ということはベルリンまで達するには,一体どの程度の努力が必要か,と.

 【質問】
 第1次大戦でのドイツ軍の西部戦線での浸透突破は,何で上手くいかなかったのでしょうか?
 ロシアやオーストリアはできたのに.

 【回答】
 単純に言えば
陣地の縦深>歩兵の突破力
だったから.
 補給の難しい分隊単位の突撃である浸透突破は,攻勢終末点を直ぐに迎えてしまう.
 そこで敵を殲滅できればいいが,敵が反撃の余力を残していると,疲れ切った兵にはもはやお手上げ.

 ロシアやオーストリアが上手くいったのは,敵陣の縦深が浅かったのと,敵軍が弱かったから.

 それと当時の技術力からすれば,浸透戦術は新しすぎて未成熟であった.
 ブルシロフ攻勢からしてぶっつけ本番だったしね.
 それが古くから存在し,第1次大戦で頂点に達した野戦築城に負けた訳.
 先見的な戦術が必ずしも最適ではない例.

軍事板●初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 507
青文字:加筆改修部分


◆◆◆◆◆ガリポリ上陸作戦


 【質問】
 ガリポリ上陸作戦が上手くいかなかったのは何で?
 半病人のオスマン帝国ごときに戦艦まで持ち込んだイギリスが,負けるってのが信じられないんですが.

 【回答】
 簡単に言えば,
「勝機は充分にあったが,少々の不運と手抜かり,そして消極性とが,それを台無しにした」
と言ったところ.


 まず,上陸地点の秘匿が全然なされていなかった.
 編成された軍団名が「コンスタンチノープル遠征軍」と称されていた事からも,それが窺える.
 オスマン帝国軍最高司令部は諜報機関から,連合国海軍のダーダネルス海峡攻撃が差し迫っていることを示す,数多くの情報を受け取っていたし,1915.2.15には,東部地中海に英仏艦隊が集結しているという,詳しい情報が届いていた.

 その為,防御態勢が十分に構築された,トルコ軍の堅固な陣地に,真正面からぶつかる羽目になった.
 にもかかわらず,ダーダネルス海峡両岸の要塞の強化は,殆ど進んでいなかった.
 トルコ軍要塞の弾薬の備蓄は,僅か1回の交戦で底を尽くほど不足していたためだ.
 1915.2.29朝,英国艦隊がフランス艦艇の掩護を得て,遠距離から艦砲射撃を開始したとき,トルコ軍の砲台の火砲は,射程距離が英国艦隊まで届かなかった.
 もし夜になって天候が急変し,それからの5日間,吹き荒れる疾風と視界不良が続くということがなかったら,英国艦隊は攻撃を続けることができ,その時点でイスタンブールまで攻め込むことができたかもしれない.
 事実,その楽観ムードにより,ギリシャは3個師団をガリポリ半島へ派遣する旨申し出てきたし,また,ブルガリア,ルーマニア,イタリアも,オスマン帝国攻撃に加わる動きを見せている.
 オスマン帝国崩壊による「グレート・ゲーム」再燃を懸念したロシアに至っては,同じ連合国側であるにも関わらず,外交的横槍を入れてきたほどだ.


 次に頼みの綱の戦艦は,天候不良に加え,機雷を恐れて,緒戦を除いてあまり有効に働けなかった.
 トルコ軍は士気を回復し始め,榴弾砲と機動性のある小口径の火砲とで,英掃海艇の活動を妨害した.
 一方,英掃海艇には民間人作業員を乗りこませていたため,損害を出す危険を冒せなかった.

 英仏艦隊は1915.3.18 10:45,ダーダネルス海峡突入の総攻撃を開始したが,触雷および要塞砲射撃戦艦隊に沈没3,大破3の被害を出し,失敗に終わった.
 これは前夜にトルコ軍が敷設したもので,まぐれ当たりの要素もあったが,ド・ローベック提督はこの損害に怖気づいてしまい,艦隊に退却を命じる.
 実はそのとき,海岸の両岸に布陣していたトルコ軍防衛部隊は,手持ちの弾薬を撃ち尽くした上で,陣地を放棄せよという命令を受けていた.
 もしも,ド・ローベック提督の艦隊が退却せず,翌日も攻撃を再開していたなら,トルコ軍が陣地から跡形もなく消え失せているのを目にしたことだろう.
 そうなれば,何の抵抗も受けずに機雷掃海は完了し,英国艦隊は全く敵の抵抗を受けずに,一気にイスタンブールまで進攻できたはずだった.
 オスマン帝国側では,皇帝メフメト6世が避難するための特別列車が準備され,巡洋戦艦ゲーベンは黒海へ逃れる準備をし,イスタンブール市内にはガソリンで火を放ち,記念建造物はダイナマイトで爆破する,焦土作戦を行うしかないと考えられていた.
 トルコ軍の弾薬が尽きているという情報を入手したチャーチル海相は,海軍省に対し,再攻撃するよう促したが,海軍省もまた消極的だった.
 チャーチルは歯噛みしたに違いない.

 連合軍側の攻撃再開は,4月末まで延期された.
 作戦主体が,海軍から陸軍へ移ったためだ.
 遠征軍編成に要した時間は約3週間.
 これはオスマン軍にとって,態勢を整えるための貴重な時間となった.
 陸相エンヴェル・パシャは,ダーダネルス海峡防衛部隊の指揮権を,ドイツ軍軍人リーマン・フォン・ザンデルス将軍に委譲した.
 異教徒に指揮権を渡すなど異例なことだったが,背に腹は替えられない.
 ザンデルスは,各地に散っていた敗残兵を集めて部隊を再編成し,すでに消耗していたオスマン帝国の国土から,あらん限りの軍需物資を掻き集め,そして,軍司令部に新たな人材を独自に登用した.
 そのうちの一人がムスタファ・ケマル中佐.
 のちのケマル・アタチュルクである.

 1915.4.25明け方,遂に連合軍部隊は,やってきた.
 ガリポリ半島先端部を取り囲むように点在する狭い砂浜,6地点に上陸を敢行する.

 しかし連合軍は,上陸予定地点のガリポリ半島の兵用地誌も,殆ど調べていなかった.
 ガリポリ遠征軍司令官サー・イアン・ハミルトン将軍は,1枚の古ぼけた不正確な地図を渡されただけだった.
 現地に着いて,初めてガリポリ半島を目の当たりにした将軍は,思わず
「この半島は,キッチナー卿のろくでもないつまらぬ地図で見るより,よほど手ごわい相手だぞ」
と口走ったという.

 全くの準備不足だった.

 その上,連合軍のANZAC軍団(オーストラリア・ニュージーランド連合部隊)は,間違った浜辺へ上陸してしまう.
 浜を囲む急な崖を攀じ登ってみると,そこでムスタファ・ケマルが再編成した,第5軍第19師団と遭遇.
 激戦の末,オスマン軍はANZACを崖の下へ追い落とした.
「追い詰められて窮地に陥ったとき,トルコ兵の戦いぶりは凄いものだ」
と,従軍記者コンプトン・マッケンジーは伝えている.

 それでもまだ,連合軍に勝機はあった.
 他の5つの上陸地点(暗号名S,V,W,X,Y.ANZAC軍団上陸予定地点がZ)のうち3地点,S,X,Yでは,殆ど反撃らしい反撃を受けることはなかった.
 ザンデルス将軍のトルコ軍第5軍の殆どは,予備軍として,戦場から遠く離れた場所で待機中だった.
 あとは崖の上まで登り,近くのオスマン軍の小要塞を落してしまえば,勝ちを拾ったも同然になるはずだった.

 しかしSでもXでも,部隊はそのまま浜辺で露営した.
 Yでは崖の上まで登ったが,部隊が誰の指揮下にあるのかを巡って,命令系統が混乱したため,そのまま崖の上にとどまった.
 翌日,トルコ軍の増援部隊が,続々と到着し始める.
 連合軍は浜辺に塹壕を掘るしかなかった.

 ANZAC軍団の司令官,ウィリアム.バードウッド将軍は,部隊を上陸用舟艇に戻して上陸地点を放棄したいとハミルトン将軍に申し入れたが,却下.
 ANZACも塹壕を掘った.

 また,当時は大発等の上陸用舟艇はまだ存在せず,重装備の揚陸が出来なかった.
 前述の堅陣と併せて
突破不可能な膠着した陣地戦と言う第1次大戦のお決まりパターンに陥ってしまったのである
 8月に5個師団から成る部隊が増援として上陸してきたが,やはり塹壕を掘るだけだった.
 もはや勝機は永遠に失われた.

 対処や責任を巡って,英国政府内で議論がだらだらと続いた.
 ようやくガリポリから全ての部隊が撤退したのは,1916.1.9.
 
 英軍とANZACは,参加兵力41万人のうち,20万人が死傷.
 仏軍は,参加兵力8万人のうち,死傷者4万7000人.
 オスマン軍もまた,投入兵力50万人のうち,半数を失った.
後,トルコ自身も連合軍の倍以上の損害を受けており,勝ったと言い切るには少々語弊がある.
 死傷者数では互角.
 敵の戦略目標を阻害したという点では,間違いなくオスマン軍の勝利だが,すでに継戦能力はないに等しかった.
 いや,そもそも,工業力の殆どないオスマン帝国が,第1次大戦に参戦したこと自体が無謀だった.
 無謀のツケは,帝国の崩壊・分割という形で払わされることになり,その灰燼の中から立ち上がったムスタファ・ケマルが,国民国家トルコを建国することになるのだが,それはまた別の物語である.


 【参考文献】
『平和を破滅させた和平』(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8.31)上巻, p.195-260

軍事板,2009/03/01(日)
青文字:加筆改修部分

崖をよじ登る連合軍兵士

急ぎ駆け付ける,オスマン軍の増援

砂浜での露営

http://nekomemo22.blog99.fc2.com/blog-entry-3350.htmlより引用)


 【質問】
 第1次世界大戦のガリポリの戦いで,チャーチルはもっと多くの兵力で望む予定だったと言う話を聞きました.
 なぜ,兵力を少なくせざるをえなかったのでしょう?
 もし,チャーチルの主張していた通りの兵力だったなら,ガリポリの結果も少しは変わっていたでしょうか?

 【回答】
 元々,1914年末の時点では,三個軍団を派遣して,ギリシャ,ルーマニア,ブルガリアと共にトルコを攻撃すると言うものでした.
 しかし,西部戦線の膠着と1915年1月の作戦実施は11月よりも困難の度合いが大きいと言う理由により,Horatio Herbert Kitchenerが必要な陸軍部隊の派遣を拒否します.

 また,Istanbulはロシアの手に渡す予定でしたから,ギリシャなどが入ってくるとややこしいことに成るというのもありました.

 ところがロシア軍の敗勢により,ロシア軍最高司令部が英国軍部にダーダネルズ海峡に牽制攻撃を掛けるように要請し,Horatio Herbert Kitchenerはこれを了承します.
 ただ,これも海軍単独で行うように主張しています.
 しかし,オスマン軍に従軍していた英国人将校とHoratio Herbert Kitchenerが会談して俄に彼は心変わりし,英国軍に最後に残っていた1個師団を派遣し,必要に応じて豪州とニュージーランド部隊を追加することにしています.
 更に,勝利の分け前に与ろうと,ギリシャ軍が3個師団,ブルガリア軍の参戦も密かに画策されていました.

眠い人◆gQikaJHtf2

 つまり,二桁の戦艦(巡洋戦艦含む)と,第一陣だけで3万以上の陸兵で作戦に臨んだわけで,これのどこが不足なのか?と.

 作戦失敗は,
・相手に対する調査不測
・実戦経験のまったくないANZAK軍に上陸を実行させる
・自軍の正式名称に「コンスタンチノープル遠征軍」という,目的丸見えの名前をつけていた
といった,相手をなめきった行動が原因と思います.
 まあ相手がムスタファ・ケマルというだけで「終わっている」感が強いですが.

軍事板

 それに,
・オスマン帝国の内務大臣の寝返り工作に支払う予定の400万ポンドをケチったこと,
・英国海軍省がトルコ側の砲弾が尽きた事実を知りながら,情報源を秘匿するのを優先させたので,現場の判断を誤った
ことも加わって,敗戦に至っています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 ガリポリ半島上陸時,なぜANZAC軍団以外はさしたる抵抗を受けなかったのか?

 【回答】
 奇襲上陸となったため.
 オスマン帝国軍側は,連合国軍の攻撃がいつ始まるかは承知していたが,上陸地点がどこかまでは分からなかった.
 また,英国海軍陸戦師団とフランス軍部隊は,海峡のアジア側に陽動作戦として上陸を試みてもいる.

 【参考ページ】
『平和を破滅させた和平』上巻(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8.31), p.243-245
http://en.wikipedia.org/wiki/Gallipoli_Campaign
http://tr.wikipedia.org/wiki/%C3%87anakkale_Sava%C5%9F%C4%B1
http://ww1.m78.com/honbun/gallipoli%20campaign.html

上陸当日のオスマン軍の配置

上陸地点

http://ww1.m78.com/honbun/gallipoli%20campaign.htmlより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/12/23 21:10
を加筆改修


 【質問】
 ガリポリ戦線で戦死した物理学者モーズリーとは?

 【回答】
 ノーベル物理学賞受賞の可能性も高かった物理学者.彼は,各金属の特定の系列に属する固有X線は,周期律表を進むにつれて波長が小さくなり(したがってエネルギーが増し),しかもそれが極めて規則的であることを発見し,それに基く「原子番号」を提案.

 しかし愛国心から,第1次大戦に志願して出征,ガリポリ半島で戦死した.
 以下,抜粋要約.

 ヘンリー・グウィン・ジェフリーズ・モーズリーは,卓抜した才能の持ち主だった.
 彼はイートンとオックスフォードの両方の奨学金を獲得し,1910年,23歳のときには,マンチェスターのヴィクトリア大学にいた,ニュージーランド生まれのアーネスト・ラザフォードの下で研究していた青年達のグループに参加し,彼のところに2年間いた.

 モーズリーは,各種金属の様々な固有X線を,やや大まかな透過性という基準によって区分する代わりに,それを結晶に当てて,その波長を正確に測定した.
 彼は,各金属の特定の系列に属する固有X線は,周期律表を進むにつれて波長が小さくなり(したがってエネルギーが増し),しかもそれが極めて規則的であることを発見した.
 事実,波長の平方根をとれば,この関係は直線になるのだった.
 これは途方もなく重要な発見だった.というのは,これまで周期律表の中で元素の順序を判断する主たる方法だった原子量は,これほどまでの規則性を示さなかったからである.
 モーズリーが必然的に達した結論は,元素の原子量は基本的な特性ではなく,また,特製の元素がなぜ特定の元素であるかを,それだけで自然に説明できるものではないということだった.
 これに対し,X線の波長は,元素の基本的特性である何かを表現するものだった.

 モーズリーには,その何かが何であるかを指摘さえできた.
 特定の原子から何個かの電子を取ったり加えたりして,その原子にそれぞれ正または負の帯電をさせる事は可能である.
 つまり電子の数は,原子の性質にとって,本当に本質的に決定的なものではないということになる.
 しかし,原子の中心深く潜む原子核は,普通の科学的な手法でいじくる事はできなかった.それは一定不変の要素として残り,したがって,これこそ元素の固有の性質だった.

 モーズリーは「原子番号」を提案した.それは,各元素を,2つの別々のこと,すなわち,
(1) その原子の核にある単位正電荷の数
(2)周期律表の位置
を示す数字によって代表させるという提案だった.そしてこの提案は採用された.

 モーズリーの,1913年のこの発見は,たちまち物凄い反響を引き起こした.
 明らかにモーズリーは,物理学あるいは化学のどちらででもノーベル賞に値したし,彼がそれを獲得する事は,この世にこれ以上,確実な事はないほどだった.

 残念なことに,それは不可避のなりゆきではなかった.

 1914年,第1次大戦勃発.
 モーズリーは直ちに英国軍工兵隊の中尉として入隊した.それは自発的意思によるものであり,彼の愛国心には敬意を表さざるを得ない.
 しかし,単に一人の個人が愛国者であり,自分だけで粗末に扱ってはならない生命を危険に晒したいと願ったからといって,政府の政策決定者がそれに従わなければならないわけではないのだ.

 ラザフォードはモーズリーを科学的な作業に任命させようと努力した.彼は戦場よりも研究室にいたほうが,国家や戦争の努力にとって遥かに貴重な存在である事は明白だった.
 第2次大戦の頃ならば,このことが理解されており,モーズリーは数少ない貴重な戦争資源として保護されていただろう.
 第1次世界大戦と呼ばれる途方もない愚挙の中では,そんなことは期待すべくもなかった.

 1915年春,英軍はガリポリ上陸を決行した.ここを強硬突破すれば,瓦解寸前のロシア軍に補給路を開くことができる.戦略的にはこの考えは立派なものだった.
 だが戦術的には,この作戦は信じ難い愚劣さで行われた.
 1916年1月には,全ては終わっていた.イギリスは兵員50万を投入したが,どうにもならなかった.その半数が死傷したのである.

 1915/6/13,モーズリーはガリポリに向かって出航した.
 1915/8/10,彼が電話で命令しているとき,オスマン帝国軍の弾丸が命中した.彼は頭を撃ち抜かれて即死した.まだ28回目の誕生日にもなっていなかった.
 そして1916年のノーベル物理学賞の時期がやってきた.

 受賞は行われなかった.

-------------(Isaac Asimov 「わが惑星,そは汝のもの」,早川文庫,1979/1/31,p.228-235)

 【質問】
 ガリポリ半島からの撤退が決定されるまでに,なぜそんなに時間がかかったのか?

 【回答】
 上陸から程なくして,英国政府の閣僚大半が,撤収やむなしという結論に達していたが,チャーチルとキッチナーが反対していた(他に,現地のハミルトン将軍も楽観視していた,信じられないことに).
 チャーチルは,ガリポリの失敗の数々の責任は彼にあるとされ,自由党単独政権から3党連立内閣への移行の際に海相を解任されたが,キッチナー陸相は,英国国内に多くの崇拝者のいる歴戦の勇将であり,アスキス新内閣は彼の承諾なしに撤退を決定したくはなかった.
 結局,キッチナー本人をダーダネルス海峡視察に派遣し,彼をしてガリポリ攻略をあきらめることに同意するほかはないと思い知らせることで,ようやく撤退が決定した.

 【参考ページ】
『平和を破滅させた和平』上巻(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8.31), p.245-258

【ぐんじさんぎょう】,2010/12/22 20:50
を加筆改修

ガリポリ撤退時に残されたダミー人形
ガリポリ撤退後のトラップ
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ガリポリ作戦失敗への批判が,なぜチャーチルにのみ集中したのか?

 【回答】
 作戦に深く関わった点では,キッチナーもチャーチルと同じだったが,英国国内ではキッチナーの威信は絶対的なものと言っても良かったので,報道機関も世論も議会も,作戦失敗の責任がキッチナーにもあるとは,思いもしなかった.
 また,戦時内閣関係者を除けば,ダーダネルズ攻略のために海軍を単独で差し向けるという作戦を立案したのはキッチナー卿だったという事実は,殆ど知られていなかった.
 世間はチャーチルを,
「軍事問題にまで口を出したがる文民大臣が,海軍の行動にいちいちお節介を焼き,また,自分を目立たせるために上陸に先立って艦砲射撃を行わせたことで,オスマン軍に事前警告する結果になった」
と見なしたのだった.

 【参考ページ】
『平和を破滅させた和平』上巻(デイヴィッド・フロムキン著,紀伊国屋書店,2004.8.31), p.246-248

【ぐんじさんぎょう】,2010/12/27 20:40
を加筆改修


◆◆◆◆◆南仏方面


 【質問】
 WW1前半における,フランス南部の状況を教えられたし.

 【回答】
 さて,1914年のフランス.
 夏に宣戦布告したドイツは7つの軍,合計150万人の兵力を動員していました.
 8月末にはフランス軍は,各地で攻撃態勢の崩壊を余儀なくされ,16万人が戦死.
 ルクセンブルクが降伏し,ベルギーもそれに続き,ベルギーとフランスの国境線を越えてドイツ軍がシャンパーニュに姿を現し始めます.
 9月3日,ドイツ軍は遂にランスにやって来て占領下に置きました.
 それまでは色々言われていましたが,総じてドイツ軍の軍紀は厳しく,シャンパンは金を払って飲み,その代金をドイツの金貨で支払わない場合は詫びを言っていました.
 そして,シャンパンの原料である葡萄畑には,全く手を触れませんでした.

 一方,9月4日に占領されたエペルネの方は県知事以下,警察や消防幹部その他の幹部職員が全員,市の全財産を奪って逃亡していました.
 残ったのはエペルネの市長である,ポル・ロジェ社社長のモーリス・ポル=ロジェのみでした.
 ドイツ軍は,町の秩序維持を市長が担う様に宣言し,処理に失敗すれば死に値すると告げました.

 ある時,1人の兵士が狙撃され,直ちに犯人を差し出さなければ,市長自身を処刑すると脅しました.
 市長は市民に情報提供を呼びかけましたが,その結果,襲撃者は実は兵士自身で,誤って自分の足を撃ったことが判明しました.
 このように,モーリス・ポル=ロジェはその後3度に渡って,銃殺隊の前に立たされそうになりました.
 1度目は,彼が市内のガスと電気の供給を止めるというレジスタンスを行って,ドイツ軍の妨害をしようとした罪で,2度目はドイツ軍が徴発した塩漬け肉をきちんと引き渡さなかった罪で,更にドイツ軍は彼を人質に,莫大な額の罰金を支払わなければ町を焼き尽くすと脅迫したりもしました.

 他の役人達が,市の金庫から金品を残らず持って逃げたため,彼は自分の所持金に,友人達の援助を加えて罰金を支払い,また,全くお金がないエペルネで市職員の給料や市への請求書の支払いをするために,手形を印刷させ,それの流通を自身の財産で保証せざるを得なくなっています.

 ランスやエペルネからパリとは指呼の間にあり,政府はボルドーに逃亡していましたが,パリを防衛するため,政府はジョゼフ・ガリエニと言う老将を司令官に任命し,パリを「石の一個まで」守り抜けと命令していきました.
 ガリエニ将軍は司令部にノホホンとしておらず,常に動き回りながら指令を下していました.
 街の周囲には防衛戦を築き,避難していないパリジャンを全員徴用して作業を行い,セーヌ川に架かる橋には全て爆破装置を装着する様に命じました.
 将軍は,更にエッフェル塔の破壊計画を立てていました.
 当時,エッフェル塔は軍の精密な通信システムを構成する中心となっており,将軍曰く,この塔が敵手に落ちるのは避けねばならないと言うべきものだったからです.

 当時,ドイツ軍はマルヌ川を渡り,パリから僅か38kmの地点にいました.
 軍は鉄道を既に最大限に利用していたので,増援部隊6,000名を運ぶ手段がありませんでした.
 そこでガリエニ将軍は,パリにある1,000台を越えるタクシーを集め,兵員輸送手段として前線に送り込みます.
 これらは「マルヌのタクシー部隊」として知られ,9月6日の真夜中近く,廃兵院に集められ始めます.
 翌日,1台のタクシーに4〜5名ずつの兵士を乗せたタクシーの集団が,戦場目指して疾駆していきました.
 ある兵士は書き残しています.
「前線に着くまでは快適な旅だった.その後,全てが実に酷いことになった」
と.

 9月12日,マルヌの回戦で,フランス軍はドイツ軍の怒濤の進撃を止めて,それを押し返すことに成功しました.
 ランスとエペルネとは,その時点で,ドイツ軍の軛から逃れることが出来ました.
 そして,朝からこの回戦を見守っていた人々は,一斉にカーヴに走り,その中で最高の逸品を持ち出して乾杯し始めました.
 9月13日,フランス軍が街に入ってくると,人々は兵士達にキャンディやパン,それに果物を投げました.
 中にはお金を投げる連中もいました.
 当然,彼らにシャンパンが振る舞われています.

 しかし,これはほんの破滅の始まりに過ぎませんでした.
 既にこの戦いでは,20万人のフランス兵が戦死しました.
 英国軍も6万人の兵士が死傷しています.
 一方のドイツ軍も25万人近い犠牲者が出ていました.

 そのドイツ軍は,ランスやエペルネを出ただけで,直ぐ近くの丘陵に塹壕を築いて身を隠しただけでした.

 因みに,シャンパーニュ人は,ドイツの戦争をこう解釈していました.
「ライン川の向こうの隣人は,こちらの葡萄畑を酷く欲しがっているに違いない…」
と.
 定期的にドイツ商人が,2番絞り,3番絞りの果汁を買いにシャンパーニュにやって来ていました.
 その果汁で,ゼクトを作るとシャンパーニュの人々は信じていたのです.
 17世紀,シャンパーニュ生まれの寓話作家ジャン・ド・ラ・フォンテーヌは,下記の様にドイツ脅威論を書いています.

――――――
 我らの土地のワインがドイツ人によって汚されるのを見るよりは,トルコ人が此処で布教活動するのを見る方がましだ.
――――――

 そして20世紀のこの時代,作家のシャルル・モロー=ベリオンはもっと直接的にこう書いています.

――――――
 我々の美しい葡萄畑を手に入れれば,それは彼らの全業績の総仕上げになるだろう.
 大侵攻から小規模な侵入まで,何世紀にも渡ってゲルマンの群れを惹き付けていたのは常に我々のワインだった.
 彼らは恐らく我々以上に分っていた.
 其処に何程の富が関わっているか,そしてシャンパンが何程文明の力を具現しているかを.
 我々の名高いワインは,この惑星上のあらゆる地点に運ばれる.
 我々フランス人の特性として知られる喜びや陽気さや優雅さと一緒に.
 ドイツ人はこういう事を全て変えたいのだ.
 チュートン人の拳の中で,我々の幸福の理想像を握りつぶしたいのだ!
――――――

 チュートン人は拳を振り上げました.
 9月14日,ランスから僅か6kmしか離れていない尾根に築かれたドイツの砲台が火を噴き,ランスを砲撃し始めました.
 人々は逃げ惑い,数百人がシャンパン生産用のカーヴで夜を明かさなければ成りませんでした.
 3日後,砲撃が更に激しくなると,ヴーヴ・ビネのシャンパンメゾンに近くの病院救出の依頼が来ました.
 メゾンの社長であったシャルル・ワルファールが現場に飛んでいくと,何人もの修道女が爆死していましたし,負傷兵数十人の姿もありませんでした.

 9月18日,午前8時30分,ランスの大聖堂の階段に砲弾が命中し,其処に座っていた乞食が死亡しました.
 次の弾着では大聖堂のファサードを飾る彫像の内,最も有名な「微笑みの天使」を粉砕しました.

 砲弾の雨は降り続け,中にいた司祭達は,宗教美術の至宝を救おうと走り回りました.
 ドイツ側の声明では,大聖堂の塔の1つが監視所に用いているからだとしていましたが,この非難は声を大にして否定されました.
 ランス大司教は,ローマ教皇に緊急の手紙を認め,砲撃の非難を要請しました…が,教皇は殆ど何もしませんでした.
 司祭達は,大聖堂の礼服で作り上げた間に合わせの赤十字旗を縫い上げ,ロベール・ティノ神父が1本の塔のてっぺんによじ登ってそれを垂らしました.
 しかし,その旗は無視されました.

 その大聖堂の一部では,仏独双方の負傷兵の診療所となっていました.
 歩けるものは挙って柱近くの防空壕に走ろうとし,歩けない者は腕の力で這いずるか,運んでくれと戦友や司祭達に哀願していました.

 ランス大聖堂は,古来からフランス国王や王妃の戴冠式を司ってきた場所です.
 此処を破壊することは,ドイツにとっってフランスの士気に痛烈な打撃を与える事を意味します.

 9月19日,午前5時のミサが行われている最中に砲撃が再開され,午後遅くになると榴散弾に加えて焼夷弾も加わり始めました.
 それにより,負傷兵を寝かせていた藁に火がつき始め,改修作業用の足場が燃え始めました.
 炎に照らされたことにより,支柱から鐘が外れて落ちて来,更に枠の鉛が溶けて壮大な薔薇窓が外れて落ちてきました.
 司祭達は残った御物を急いでかき集めると,戸棚を引き開け,王達の聖別式に用いられる工芸品を,普段は埋葬式に使われる担架に投げ入れました.
 大聖堂の屋根に吹かれていた3トン半の鉛が溶け始め,彫像やガーゴイルは不気味な鍾乳石に姿を変え,内部の鉛の奔流が梁を吹き飛ばしました.

 中にいたドイツ人負傷兵は,外に出してくれと懇願しましたが,民衆の中に彼らを出せばどんな目に遭うか分ったものではなく,守衛はこれを断り続けました.
 司祭達が狂った様に訴えた結果,漸く守衛が折れましたが,その時には風が強まって炎を煽り,火の粉や燃え殻がシャワーの様に捲き散らかして,近隣の建物も燃え始めました.

 大聖堂は夜通し燃え続け,その炎は数マイル先からも見ることが出来たと言います.
 朝になると,周辺一帯は黒焦げの廃墟と化し,400戸の建物が全焼しました.
 大聖堂は,屋根も,彫刻も,ステンドグラスの窓すら失われ,残ったのは四方の壁と2本の塔,それにその塔に巣をかけていた鳥たちだけでした.

 この愚挙には,世界中からも非難の声が巻き起こりました.
 しかし,これは手始めでした.
 それから3年半,ランスは1,051日間連続で砲撃され,市の98%が破壊されて,残ったのは40戸でしかありませんでした.

 そう言えば,Afghanistanで,タリバンが仏像を破壊したのがありましたが,欧州人も強くは言えませんねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/28 22:40


 【質問】
 1914年のシャンパーニュ地方における,戦火の中の葡萄の収穫について教えられたし.

 【回答】
 さて,昨日はランス聖堂の破壊を書きましたが,その最中,シャンパーニュの人々に希望を与える出来事がありました.
 皮肉にも,20世紀に入って豊作だったのが3年前の1度だけと言う葡萄が,見事に熟したのです.
 需要は多かったものの,原料がないので,どのカーヴでも在庫が払底していました.
 このままではじり貧必至ですから,今年の収穫にどの業者も賭けていました.

 しかし同時に,この状況ではその達成が容易いとは誰も思っていませんでした.
 若い男の大半は軍隊に取られ,残ったのは女と子供,それに老人だけです.
 馬も輸送用に徴発されていて,摘んだ葡萄を圧搾工場に持って行くのも一苦労であることが伺えました.
 その上,物資不足の折から樽が払底し,葡萄農家は度重なる不作で,既に資金が底をついていました.
 電話や電報は軍隊専用になっていたため,栽培農家と業者とが連絡を取る術も有りません.

 無い無い尽しの中ですが,豊かに実った葡萄を腐らせる訳にはいかない.
 そこで,モーリス・ポル=ロジェは腹を括りました.
 本来,葡萄栽培農家の仕事だった,摘んだ葡萄をシャンパンメーカーに送る仕事をこちらが引き受けることにしたのです.
 しかも現地で加工する為,樽や圧搾機を含むワイン製造器具を持ち運びながら,各農家の軒先で作業を行いました.
 そうして今年のワインは,一次発酵の間,農家に預けられ,爆撃や砲撃が小康状態になれば,シャンパンメーカーに運び込んで残りの作業工程を熟すことになりました.

 この実現には,軍隊並みの行動力が求められました.
 ポル=ロジェは,走り手と自転車乗りのチームを作りました.
 彼らは村から村へと走り回って,樽や器具の到着が何時になるかを葡萄農家に知らせ,彼らが困っているか否かを尋ねました.
 特に金銭的に困っているのであれば,ポル=ロジェ自らが資金を手当てすることすらありました.
 エペルネはランスと違って,概ねドイツ軍の大砲の射程外にありましたが,それ以上に厄介な存在,つまり航空機と言うものと戦わなければなりませんでした.
 それは恐ろしく不規則にやってきて,急降下しては畑や農家で働いている人々に爆弾を落とすのです.

 作戦(としか言い様のない)は,本来の収穫時期を相当繰り上げて,例年より2週間早い9月21日に開始されました.
 まだ葡萄は青すぎ,また酸味も強すぎましたが,それよりも,ドイツ軍が再び攻勢を仕掛けてシャンパーニュを再び蹂躙することを恐れたのです.

 一方,ランスの北側でも摘み取りが始まりました.
 こちらはエペルネと違って,ドイツ軍の大砲の射程内でしたので,摘み取りは砲弾が降る中で始まりました.
 最も近いのはポメリーで,其処はドイツ軍の砲撃拠点から僅か2〜300mの所にありました.
 収穫は10月8日に始まりましたが,砲撃により度々中断しています.

 ポメリーのカーヴでは,ランス大聖堂のロベール・ティノ神父がやって来て,被害の詳細を記録しようとしましたが,やってきた直後に砲撃を浴び,葡萄畑に塹壕を掘っていたフランス兵19名が即死し,20名以上が重軽傷となっていました.
 彼らは補充兵で,本来は後方で戦慣れしてから前線に派遣されるべきだったのですが,手違いで前線にいきなり派遣されてしまっていました.
 既に戦場慣れしていた神父は,彼らを叱咤激励して葡萄の樹の間に墓穴を掘りましたが,彼らはショックで死体に触れようとしませんでした.
 仕方なく,神父とカーヴの主任ウタンとが協力して,手足をもがれた犠牲者を墓穴に運び,簡単な弔いを行い,木製の十字架を墓標としました.
 数週間後,ティノ神父は従軍僧として召集され,1915年3月16日,戦場で臨終の兵士を看取っている最中に戦死しました.

 こうして,1914年の葡萄収穫は終わりましたが,多くの女性と少なくとも20名以上の子供が戦争のために命を落とし,手伝いの兵士も数名が死亡しました.
 それでも,1ヶ月以上の間,女子供,それに老人やらパリから来たワイン商に至るまで,血に染まった丘を上り下りしていました.
 この年の収穫は,予想では上質ワイン換算で40万キロリットルと推定されていた8月頃を大きく下回る,半分以下に終わりました.

 一方,戦争は泥沼に陥り,シャンパーニュの葡萄畑は塹壕で分断されて,白亜質の土壌は,灰色の泥の地獄に変えました.
 最初の5ヶ月間で,死傷者は50万人以上に達し,12月になると両軍の疲弊はピークになっていました.

 1914年12月24日の夜,連合軍兵士たちは,対峙しているドイツ軍の塹壕に明かりが灯るのを見て驚きました.
 そして,音楽が聞こえてきて,それがドイツ兵の歌うクリスマス・キャロルだと知りました.
 ドイツ兵の歌が終わると,連合軍兵士たちは,最初はおずおずと自分たちの国語で歌を返し始めました.
 その声が大きくなったとき,霧の中から幽霊の様な人影が1つ現れ,ゆっくりとこちらに近づいて来ました.
 小銃の代わりに,飾りの付いた小さなクリスマス・ツリーを打ち振っていました.

 数秒後,連合軍兵士たちは武器を捨てて,彼を迎えに塹壕を飛び出しました.
 ドイツ兵も同じく,武器を捨てて同じ行動を取りました.
 塹壕と塹壕の間で,2つの敵対する陣営の兵士たちは,互いに握手し,抱き合い,互いのキャンディやたばこを交換してシャンパンで乾杯していました.

 翌日は彼らは笑いながらサッカーを楽しんでいたと言います.

 この小さな平和は長く続きませんでした.
 誰かが夢から覚めたのです.
 そして,クリスマスが終わると再び戦争が始まりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/29 18:29


 【質問】
 第1次大戦下の,ランス市民の地下生活について教えられたし.

 【回答】
 両軍が対峙している真後ろにランスと言う都市がありました.
 よって,この地は連合軍の補給路の終点に当ると共に,ドイツ軍からすればそこを是が非でも破壊せねばならぬ拠点でした.
 戦争の最初の5ヶ月間で,ランス市民は600名が犠牲となり,4,000戸の家が破壊され,既述の様に大聖堂は既に黒く焼け焦げた瓦礫と化していました.

 2月22日,後に「鉄と火の雪崩」と呼ばれたドイツ軍の砲撃が始まり,その日1日だけでランスには1,500発の砲弾が降り注ぎました.
 この為,住民は地上に住めなくなり,住民たちは初期キリスト教徒が行った様に,彼らが籠もって信仰を維持していた地下のクレイェールへと移っていきました.
 こうして,地下30mにあるクレイェールは,2万人以上の人々の住居となったのです.

 このクレイェールとは,ローマ時代に道路建設やランスの原型都市であるドゥロコルトルムの建物建築の為に大きな石塊を切り出した地下の石切場の跡でした.
 中世期になると,この石切場は,修道僧たちによって,洞穴の涼しさと一定した温度を提供するワインの貯蔵庫として利用され,シャンパン産業の発展につれて,これが徐々に拡張されて,遂には一帯の地下は多層のトンネルと地下回廊による巨大な兎穴となります.
 その総延長は実に450kmに達しました.
 我が国の松代大本営など裸足で逃げる様な距離です.
 ただ,こうした兎穴では,白亜質の土壌の脆さから屡々崩壊が起き,1900年には150万本のシャンパンと,500樽のワインを飲み込んだ事故が起きています.

 それは扨措き,ランスでは地表にあった全てのものが地下に潜りました.
 学校,教会,病院,市役所と警察署,消防署と言った街の中心機能から,カフェ,紳士服や婦人服の仕立屋,時計屋に,靴修理工,更には肉屋にパン屋,ローソク作りの職人に至るまで,全てが地下に移動したのです.
 あらゆる物事は薄暗いローソクと石油ランプの明かりの下で行われましたが,その中でも鳥は囀り,演奏会が開かれ,キャバレーに映画に舞台劇が行われました.

 とある晩餐会では,戦いで重傷を負った何百人に達する兵士たちのために何ケースものシャンパンが提供され,足がある人間たちはダンスをし,鼻を無くした者たちでさえ,笑い,幸福な時を過ごしたと言います.

 当然,こうした生活空間は世界中の話題となり,有りと有らゆる人々が姿を現しました.
 フランス大統領が数回顔を見せた他,イタリア国王,ポルトガル女王,米国大使もいました.
 彼らの巡るコースは,砲撃が落ち着いていればクレイェールの中を案内され,葡萄畑に建てられたトーチカから顔を出し,場合によっては射撃場にいる様な感覚で小銃を渡され,こう言われました.

「運試しは如何?ボッシュを撃てるかどうかやってご覧なさい」

 この中にはポール・ポワレという男性が居ました.
 彼はフランス有数の服飾デザイナーですが,軍の新しい制服をデザインするために前線に呼ばれたのです.
 元々,フランス軍は19世紀半ばから青い上着と赤いズボンを身につけていました.
 しかし,塹壕戦ではこんな見栄えの良い服よりも,実用的な服,目立たない服を求める様になってきました.
 何よりも,赤いズボンを染める茜の染料がドイツ製だったので,それが手に入らなくて服が作れなくなってしまったのです.
 ポワレは,自然に風景に溶け込み,敵の目に付きにくい浅黄色を採用しようとしていました.

 その相談と実験を見に彼は前線に赴いたのですが,到着と同時に凄まじい歓迎式典が開かれ,慌てて近くの坑道に飛び込みました.
 そうして,地下の不思議な空間に導かれ,ヴーヴ・クリコの社長と砲撃が止むまで杯を重ねました.
 17時に砲撃が止んで地上に戻りましたが,立っていられなかったと言います.
 何しろそのポケットには,シャンパンのコルクが16個も入っていたのですから.

 とは言え,この地下だけで彼らが生活できるわけではありません.
 生きる為には地上に出て働かなければなりません.
 そんな時でも容赦なく砲弾は降り注ぎ,人々を殺していきます.
 建物に砲弾が落ちたり,荷馬車に爆弾が落とされたり,場合によっては地上の砲撃が激しすぎて地下上層部が陥没する場合もありました.
 砲撃については規則性がある訳ではなく,ただ,連合軍が小さな勝利を挙げる度に,ドイツ軍が酷い砲撃を浴びせる傾向があったというのみです.

 こうした砲撃の下で人々は息を詰めて生活していました.
 なるべくなら外に出たくない.
 そんな理由で,2年間地上に出なかった人もいたりします.
 子供はこの地下で生まれ,老人はこの地下で息を引き取りました.
 当然,このような地下に人が住むのに十分な空間ではなく,各家族は動瓶に使うピュピトルと呼ばれる穴の開いた板で間に合わせの壁を作って,居住空間を拵えました.
 中にはボール紙製のシャンパンケースを用いて,それを裏から支えることもありました.

 こんな状況でも子供たちは元気でした.
 曲がりくねったトンネルは隠れん坊などの遊びにもってこいの空間だったからです.
 しかし,何時までも野放図にさせておく訳にはいきません.

 こうして,地下に学校が作られました.
 幼稚園から高等学校まで,全ての学年用のクラスを地下に作りました.
 各学校の校名には,フランス軍の将軍の名前が付けられました.
 例えば,マルヌ戦を指揮したジョッフル将軍の名を取ったエコール・ジョッフル,そのジョッフルの跡を継いだフォッシュ将軍の名を付けたエコール・フォッシュ,それに例のタクシー部隊を誕生させたガリエニ将軍を称えたエコール・ガリエニと言うのもありました.
 地下には教室はもとより,図書室や運動場も作られるなど,地上の設備とは全く代わり映えしませんでした.
外見上は全く地上の教室と同じです.

 ただ2つだけ違いがありました.
 1つは低学年の児童に新鮮な牛乳を飲ませる為に,6頭の雌牛を近くの家畜小屋に飼っていたこと,もう1つは,全生徒がガスマスクを携帯していたことでした.

 1915年からドイツ軍は催涙ガスを用い始め,4月22日からは塩素ガスに切り替え,更にマスタードガスと言った毒ガスが用いられる様になっていたからでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/30 23:27


 【質問】
 シャンパーニュ地方を巡る1915年の情況は?

 【回答】
 1915年になると,戦争には日々新しい兵器が登場してきました.
 毒ガス,航空機は元より,弾丸も性能が向上し,榴散弾に代わって榴弾が主流となり,更にその大砲の射程もどんどん伸びていきました.
 その中の最大のものは112kmの射程を誇り,遂にはシャンパーニュ中を射程に収めることになります.
 そして,実際,大半のシャンパンメーカーのメゾンが深刻な被害を被り,一時メーカーは業務を全て,クレイェールの中に移さざるを得ませんでした.

 アンリ・アブレのメゾンは全焼し,ポメリーとランソンは瓦礫と化しましたし,ロデレールも砲撃を幾度も受け,モエ・エ・シャンドンの所有する殆ど全ての建物が完全に破壊されてしまいました.
 1729年創業の老舗であるリュイナール・ペール・エ・フィスは,ポメリー同様,前線に近い場所にあり,早くから砲撃を受けており,マルヌ会戦時に大半の建物が破壊されました.
 主を含め全員が,その中から出来る限りのものを救出してカーヴに移しましたが,その時に新たな砲撃で給水本管が破裂して,カーヴは水浸しとなりました.
 その中で主のアンドレ・リュイナールは筏を造って自分の机を乗せ,漂いながら仕事をしていましたが,寒さと湿気が甚だしく,彼は病を得て数ヶ月後に命を落としました.

 マム社ではまた事態が異なりました.
 その主,ヘルマン・フォン・マムは,名前の通りドイツ人でした.
 マム家は1827年にシャンパーニュに居を定めたものの,市民権を得ていませんでした.
 戦争直前の1914年6月に,彼は使用人たちを事務所に集め,軍当局から開戦が迫っているという警告を受けたと話した上で,こう述べました.

――――――
 召集された諸君は,フランス人としての義務を果たして欲しい.
 戦争が続く間,君たちの給料は全額払うつもりだ.
 君たちの奥さんが毎月此処へ来て受け取って貰いたい.
 私はランスに留まって,この会社の社長としての義務を果たすつもりだ.
――――――

 皮肉にも,彼はフランス国籍を取るのが間に合わず,敵国人としてブルターニュに抑留され,彼のメゾンは政府に没収されて,戦争継続中はフランス人支配人が経営を行っていました.

 戦争からこっち,生産高は戦争前の半分に落ち,瓶や梱包用の箱,砂糖は入手不可能となりました.
 特に瓶を作るガラス職人が戦死していた為,その枯渇はとりわけ深刻でした.
 平和を謳歌していた地域,特に米国からは多数の注文が舞い込んできていましたが,それに応えることが出来ませんでした.
 港は機雷で封鎖され,沖合には潜水艦が潜んでいました.
 保険会社は船荷保険の引き受けを拒否し,銀行は外国小切手の支払いを断る始末です.
 モーリス・ポル=ロジェは,ル・アーヴルやカレーを避け,ボルドーから出荷しようとしていましたが,1隻は嵐で沈み,もう1隻は満載のシャンパンを積んでUボートに撃沈されてしまいました.

 更に,国内には消費者がいなくなりました.
 パリで営業を続けているレストランは,マキシムとラリュだけで,其処も20時には閉まってしまう有様でした.
 それも当然で,パリの人口は既に3分の2に減っていました.
 つまり,パリの人口の3分の1が疎開していた訳です…が,避暑地として有名なコート・ダジュールの盛り場でも店は閉じられていました.

 漸く事態が好転し始めたのは,1915年の年末です.
 戦線が膠着状態になるにつれて,パリへと人が戻って来,カフェやレストランも徐々に再開を始めていました.
 また,欧州派遣の英国軍が新たな顧客となってくれたことで,国内向けの市場も徐々に活気が出始めてきました.

 そして,彼らがよりどころとしたのは国民の名誉心と愛国心でした.
 実は多くのシャンパンメーカーの創業者はドイツ人だったりします.
 従って,大戦を契機とする反ドイツ感情の高まりは,彼らの商売に影響を与える様になりました.
 特に,ドゥーツ・エ・ゲルデルマンは売り上げの低下に苦しみ,経営権をルネ・ラリエに譲渡しました.
 ルネ・ラリエは,社名をシャンパーニュ・ラリエに変え,瓶のラベルに「ドゥーツ・エ・ゲルデルマンの継承者」と印刷しましたが売り上げは好転しませんでした.
 そこで社名を元に戻し,従来のラベルに加え,特別のラベルを張出します.
 これが結果的に成功したのですが,其処にはこう書いていました.
「当社のオーナーたちは全員フランス軍に服務する将校です」

 これにあやかり,他の生産者たちも自社のシャンパンに,「フランスの栄光」とか「シャンパーニュは決して忘れない」と言った愛国的な名称を付け,塹壕にいる兵士たちの為に,「シャンパーニュ・デ・ポワリュ」を作るくらいでした.
 更に,「シャンパーニュ・アメリカ」やら英国軍兵士の為の「アライアンス・クリーミング・トミーズ・スペシャル・ドライ・リザーヴ」が作られ,悪のりで「シャンパーニュ・アンチ・ボシュ」なんてのも作られました.

 それらのシャンパンは,連合国のみならず,枢軸国にも流れていました.
 シャンパンメーカーは暫く経つと,スイスとオランダからの注文が増大しているのに気がつきました.
 実は,彼らはみんなドイツの為に働いている秘密諜報員たちであり,皮肉にも彼らを通してベルリンにシャンパンが転送され,お歴々の食卓を飾っていたりしたのです.
 まさか,「シャンパーニュ・アンチ・ボシュ」が並んだ訳ではないでしょうが.

 上得意と言えば,クレイェールに駐屯している5万人のフランス兵もある意味,上得意でした.

 クリュヴのカーヴでは,合衆国に輸出するシャンパンがずっと滞留して,保管されていました.
 ある時,その場所で兵士の為の礼拝が行われ,シャンパンの詰まった箱が礼拝の座席の代わりに用いられました.
 やがて航路が再開されて,従業員がケースを運び出したとき,いずれも妙に軽いことに気がつきました.
 まるで,空っぽの様な…そして,実際にそれらは見事に兵士たちの胃袋に収まっていたのです.

 マムのカーヴでは,兵士たちが死んだ戦友の葬儀の為にミサを開く許可を出してきました.
 従業員は棺を恭しく見守り,やがてミサが終わって棺が運び出されました.
 数分後,また棺がやってきて同じように運び出されました.
 3度目…カーヴ従業員が棺を押さえ,その蓋を開けました…ええ,お察しの通りでさ,中にはシャンパンがどっさり失敬されていた訳で…因みに,その時捕まった兵士の名をモーリス・シュバリエと言います.

 1915年末になると,士気高揚の為,シャンパンは定期的に軍に納品されることになります.
 ランス近くの壕にいた兵士たちは,毎日2本を供給されました.

 そのお陰かどうか分りませんが,ドイツ軍が攻勢により,フランス軍の全戦を突破しようとしたとき,ランス駐留のフランス軍に対して撤退命令が出されたのですが,現地司令官はこれを無視し,こう言ったそうです.
「この地にシャンパンが有る限り,我々はそれを守るつもりだ」
と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/01 23:52


 【質問】
 アルベール・コルパールとは?

 【回答】
 さて,〔略〕,1915年から16年にかけてのシャンパーニュです.

 大戦は既に1年半に及び,若者の徴兵は,フランス人にとって熱狂の対象では無くなりつつありました.
 徴兵は「血の税金」と,こう呼ばれる様になりました.
 1年半で,既に大戦全体の戦死者の半数が発生していました.
 既に,「フランスは血を流して死につつある」とある新聞は報じていました.

 シャンパーニュでは,より深刻でした.
 基幹産業である農業をしようにも,シャンパーニュには戦線全体の塹壕の半分が掘られており,両軍が対峙していました.
 多くのカーヴやメゾンが軍に接収され,要塞化されていたので,砲撃の的になったり,砲撃で葡萄畑は掘り返され,毒ガスで葡萄の樹が枯死したり,或いは土壌が汚染されたりと言った被害が出ていました.

 敵の塹壕から僅か数百メートルの高い崖の上には,ポメリー・エ・グレノがありました.
 前線から指呼の距離にあるこのシャンパンメーカーは常に砲撃に晒され,毎日,ポメリーのどこかには着弾の煙が上がっていました.
 加えて,銃眼のあるヴィクトリア朝様式の何本かの塔は,軍の監視所として接収され,葡萄畑には機関銃座や迫撃砲や榴弾砲など軽砲から重砲に至る各種の陣地があり,1,000人の兵士を収容出来たカーヴは,1.5kmの全長があって,直接塹壕に繋がっていたので,増援部隊の派遣や死者・負傷者の搬出に極めて貴重な役割を果たしていました.

 当然,この場所はドイツ軍からすればフランス軍の明らかな陣地であり,砲撃を数多く受けることになりました.

 このメーカーの経営者は既に砲撃で死亡し,社長代理となったアンリ・ウタンはこのメゾンを断腸の思いで,このメゾンを閉める決断を下しました.
 しかし,地下の回廊に集まった300人の従業員の答えは決まっていました.
 彼らはその要求に対し,高らかに「ノン」を宣言したのです.

 さて,このポメリーで長く葡萄畑の主任管理者を務めていたのが,アルベール・コルパールと言う人です.
 この人は,10代の初めに就職してからずっと葡萄畑の管理一筋の人生でした.
 自分から葡萄畑を取ったら何も残らない…この執念が色々伝説を生み出しました.
 既に後継者として手塩にかけた若者は,みんな「血の税金」の代償に取られ,残ったのは体力の劣る年寄りと女子供の未熟練労働者のみでした.
 葡萄畑には塹壕が築かれ,有刺鉄線が張り巡らされた上,葡萄の樹は砲弾で引き裂かれ,地面は砲弾で掘り返されて,不発弾は彼方此方にあって,土壌汚染も深刻な状態にありました.
 しかも自分の会社の畑なのに,土地は軍に徴発されていた為,葡萄畑に入るのにも軍の許可証が必要でした.
 それさえも,危険を理由に発給されませんでした.

 ところが,彼は納得しませんでした.
「自分の会社の畑に自分たちが植えた葡萄の樹の状態を見に行って何が悪い!」
と.
 上司も友人たちも口々に引き留め,妻でさえ,家に大人しくいてくれと訴えましたが,耳を貸しません.
 一方で,彼と行動を共にする人々とは,部下たち,つまり,最早死を恐れない老人たちと,危険に無頓着な小さな子供たちでした.
 余りの仕事熱心さで,ある時,彼は部下たちを連れて葡萄畑に赴き,その中に設えられたフランス軍の砲撃陣地に近づきすぎたことがあります.
 余りに危険すぎた為,軍はその為に砲撃を中止しました.
 この事件以降,彼は葡萄畑の立ち入りを軍から禁じられてしまいました.

 しかし,翌日も彼とその部下は畑に戻って葡萄に添え木をし,傷んだ部分の手入れをしていました.
 勿論,部下たちに口止めをしたのは言うまでもありません.
 砲撃があっても,
「砲撃なんて無かったよ」
と言い張り,誰かがしつこく問い詰めると,
「ほんのちょっと.でも全然危なくなかったよ」
と答えたと言います.
 それでも,調べようとする者が居ると,彼らは着弾で出来た何ダースの穴を埋め,吹き飛んだり,折れたりした木を新たに植え替えたり,元通り埋め直したりもしています.
 これにも部下たちは一所懸命働きました.

 彼らはきっぱりコルパールの命令に従いました.
 砲撃の方向が変わると,コルパールは別の畑に移動する様に指示し,砲弾が至近距離でうなりを上げると,部下に「伏せろ!」と叫びました.
 彼らは恰も戦闘中の兵士の様に振る舞ったのです.

 コルパールは,将校からは「強情っ張り」と呼ばれ,目の前で砲弾が飛び交うのも意に介さず,黙々と葡萄の樹の手入れをするのを見て,兵士たちは「青い目を輝かせた血色の良い頑固者」に対して敬意を表する様になります.
 結局,コルパールの行動は完全に軍から黙認される様になりました.

 因みに,息子が軍に召集されたときも,この頑固者精神は現れました.
 召集の挨拶に来た息子を呼び止め,
「おまえがまだ此処にいる間は,馬を連れてクロ・ポンパドゥールの畑を耕しに行け」
と命令しました.
 息子が畑に着くと同時に,ドイツ軍の砲撃が始まりました.
 コルパールは慌てて駆けつけましたが,其処には鋤を付けられたまま,付近で爆発が起きる度毎に後ろ足で立ち上がろうとする馬の姿があるばかり.
 結局,息子は一軒の小屋の中で藁の下に隠れているのが見つかったのですが,コルパールは怒って息子に,
「馬の面倒も見ないで自分だけが避難する奴が居るか!」
と一喝し,砲撃が続く中,馬の鋤を外して連れて帰る様命令したと言います.
 その後,息子は戦争で武勲を立てることになりましたが,後に彼は,
「あの日,葡萄畑で仕事をしたのが,最初に僕が受けた砲火の洗礼でした」
と述べています.

 1916年までに既にこのポメリー・エ・グレノには20万発近い砲弾が落ち,まともに建っている建物は全くなく,全てが瓦礫の中にありました.
 当然,フランス革命の間に破壊された修道院の石を使って再建した,中世の水車小屋であったコルパールの家も例外ではなく,その家が砲撃で破壊されていくのを目の当たりにして涙を流したこともありました.

 しかし,コルパールは悲嘆に暮れている暇はありませんでした.
 1915年産の葡萄で仕込んだ葡萄酒と,今年の収穫をランスに移す作戦を練らねばならなかったのです.
 1915年は大戦2年目で,連合国がドイツに押されていた時でもあり,軍は必要不可欠な物資を除く民間の輸送を禁じていました.
 しかし,1916年夏の終わりになると均衡状態が続き,連合国にも少しは余裕が出て来たことから,シャンパン生産者に葡萄をランスに運ぶ許可を与えました.
 とは言え,輸送手段が極めて限られた状態,しかも,前線に近いこの地から2年分の収穫をどうやって移すか,彼はその問題に頭を悩ますことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/03 22:08

 さて,コルパール親父の話を今日も続けます.

 1916年夏,昨年,砲火の中で収穫し,輸送手段がない為に樽に入れたまま葡萄畑周辺に隠匿されていた1915年の新酒の樽と,1916年に収穫した葡萄を運ぶ許可が下りました.

 しかし,問題が1つ….

 戦前は,この地方の葡萄生産者が居る全ての村を通っている軽便鉄道が敷かれていました.
 この鉄道でメーカーから木樽を運び,葡萄生産者がその樽をいっぱいにして,それをまた列車でメーカーに戻すルートが確立されていました.
 ところが,1914年にドイツ軍がランスを占領した際に,この鉄道で運航されていたドイツ製の軽便機関車は,押収されて故国に移送され,マルヌの戦いでフランス軍がランスを奪還した後は,フランス軍の軍用鉄道として用いられ,民需用の物資を運ばないことになってしまいました.
 つまり折角輸送が認められても,コルパールたちは輸送する術を見つけなければならなかったのです.

 結局,コルパール達は四方八方探し回って,骨董品とも言うべき古い馬車と,更にそれを牽かせる為に老い耄れた馬を調達してきました.
 勿論,若い精悍な馬は,軍に徴発されてしまったからです.
 7月から2ヶ月間,夜間にこれら老朽馬車14台でコンボイを組み,その馬車1台に樽1個を乗せて,ポメリーに送り込みました.

 荷下ろしは素早く,しかも静かに行わねばなりません.
 少しでも音を立てると,その音を聞いて数百m先にいるドイツ軍が,音の出た場所をめがけて砲撃してくるからです.
 また,風向きも問題でした.
 もし風向きが悪いと,微かなそよ風が吹いても音が前線のドイツ軍に伝わり,作業しているのがばれて同じように砲撃を仕掛けてくるのでした.
 実際,この風向きのお陰で幾度かそうした砲撃が起き,それにより,馬方1名と数頭の馬が爆死しています.

 9月半ば,1915年物新酒を詰めた樽の最後の荷が積み降ろされました.

 次いでコルパール達は,1916年の葡萄に取りかかりました.
 1916年は戦争の所為か,天候は終始不順で,夏中雨が続き,葡萄は良く熟れることが出来ませんでした.
 雨の為,腐敗病や露菌病が進行したものの,手当に必要な用具や硫酸銅の様な特効薬は手に入りませんでした.
 その上,農村から軍への馬の徴発は,農家にとっては肥料の宛が無くなることにも繋がりました.
 よって,1916年産は2流以上のシャンパンになる様なものではないと,誰の目で見ても明らかでしたが,それでも収穫をしない訳にはいきません.

 コルパールは毎日,僅かな人数の部下達を連れて,塹壕群と中間地帯の間にあるクロ・ポンパドゥールとクロ・デュ・ムーラン・ド・ラ・ウスの畑を回り,葡萄の樹を点検して回りました.
 当然,地上から近づくと砲撃の餌食になるので,ポメリーのクレイェールとトンネルを通じて地下から近づいていきました.

 この作業は,日中は出来ません.
 よって,大抵夜間に行い,ドイツ軍に見つからない様に,靄や霧や朧な月明かりの中を腹這いになって進みました.
 時には敵の塹壕に近づきすぎて,敵兵の話が聞こえることすら有りました.
 そんな時でもコルパールは部下達に,黙って動き続けろと囁き,畑の中に散らばっている不発弾に気をつける様促しました.

 最初の見回りで,自分が手塩にかけて育てた葡萄の木々が砲弾で根刮ぎにされ,毒ガスとその土壌汚染で黄ばんだり,茶色に変色しつつあるのを見て,彼の気持ちは暗くなりましたが,この事は,部下の安全を少しでも向上すべく,通常の警戒措置に加え,次の見回りでは各自ガスマスクを携行する様に,強く部下に言い渡しました.
 更に毒ガスの怖さについて,その攻撃を体験した兵士の話も聞いて対策を考えました.

 そんな状況でも,コルパールと彼の部下達は密かに畑に赴き,葡萄の樹の手入れをしつつ,僅かに残った葡萄を少しずつ収穫していきました.
 当然,葡萄の品質は予想通り低かったのですが,1914年の収穫で命を落とした様な人たちはおらず,前線のほんの近くに於ける収穫は,誰一人死なず,誰一人として怪我をしないと言う奇跡で終了しました.

 後に,コルパールはこの時に見せた,「静かな勇気,見事な落ち着き,そして自ら示した素晴らしい手本」を顕彰して,政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/04 23:14


 【質問】
 ロシア革命〜第1次大戦終結が,シャンパーニュ地方に与えた影響は?

 【回答】
 さて,1917年に入りました.
 この年はフランスにとってもドイツにとっても大きな動きのあった年でした.
 1つは,「La Fayette!俺たちはやって来たぜ!」と歌いながら西から来た米国の連合軍参戦,もう1つは革命によるロシアの連合国からの脱落でした.

 シャンパーニュにとって,米軍が来るより,ロシアの脱落の方が経済的に大きな損失を被ることになります.
 ロシアのBolshevikが樹立した革命新政府は,シャンパンを「退廃した資本家の悪癖」として糾弾し,ウォツカこそ愛国的な飲み物であると喧伝した結果,シャンパーニュは市場の1割を失い,数百万本分の売掛金が未回収に終わってしまいました.

 因みに,ロシアとの関係が始まったのは,18世紀初頭にこの地を訪れたピョートルI世が,酔いつぶれてクレイェールの中で眠ったものの,巨漢過ぎて誰も寝床に運び出せず,結局そのままうち捨てられたことからだそうな.
 酔いから覚めたピョートルI世の傍らには1人の僧侶が居て,欲望の赴くままに振る舞うことの危険について諄々と説教されたのですが,以後,彼は毎晩寝間着に少なくとも4本のシャンパンをたくし込んで寝床に入る様になったところを見ると,余りその説教は効かなかったみたいです.

 アレクサンドルII世は,ルイ・ロデレールが贔屓でした.
 1855年に帝位に就くや否や,彼はヴーヴ・クリコやモエより何より,ルイ・ロデレールの強烈な甘口が好きだと公言しました.
 お陰で1868年には,同社の海外売り上げの80%に当る年間200万本がロシア向けに出荷される様になりました.
 そして,その製造を監視する為に,帝室のワイン貯蔵庫主任を毎年フランスに派遣し,食卓用の最高のシャンパンを吟味させると共に,ワインのブレンドからシャンパンが瓶に詰められてコルクを填められるまで逐一製造工程を監視することを命じました.
 後者は,毒殺を恐れての措置だそうです.
 また,瓶は普通に使われている濃い緑色の瓶ではなく,皇帝専用の透明クリスタルの瓶をデザインし,それに詰めて送られていました.
 この瓶に詰められたシャンパンは,1914年まで,毎年66万本がサンクト・ペテルブルクに向けて出荷されていました.

 ところが,ロシアの10月革命で皇帝の政府が消滅すると,未回収の売掛金を多数残しただけでなく,誰も欲しがらない,甘すぎるシャンパンの在庫を大量に残す羽目になります.
 偶々,他の会社もロシア消滅による財政危機があったお陰で,ルイ・ロデレールは現在でも生き延びられたのです.

 そして12月,Bolshevikはドイツとの休戦条約に署名しました.
 これにより,ドイツは東方に向けていた多くの兵力を西部戦線に向ける事が可能となり,フランスにとっては逆に重大な危機となりました.
 ただでさえ,塹壕戦のお陰で膠着状態になった兵士の士気が落ち,塹壕内に於ける悪条件に抗議する兵士の反乱に悩まされていた状況です.

 塹壕の中は3年間の戦争により汚物溜と化し,鼠,蚤,虱などが死体の間を跳梁跋扈していました.
 ある兵士は,
「死者の隣で食い,死者の隣で飲み,死者の隣で寛ぎ,死者の隣で寝る」
と述懐しています.

 国民議会は,こういった兵士たち700万人全員に新年の贈り物として,シャンパン1本を与える事を議決しました.

 東部戦線が落ち着いたとは言え,ドイツも状況が同じ様に厳しかったりします.
 兵力は開戦当初より2割減少し,過去10ヶ月の死者や戦傷者,捕虜となった兵の数は100万人に近づきつつありましたが,予備役兵は底を尽き,兵力補充の宛はありませんでした.

 多くのフランス人はこうした状況を見て攻勢を主張しましたが,ジョッフルの後任であったペタンは,
「戦車と米軍を待つべきだ」
と主張し続けました.
 それには数ヶ月かかる事になる為,再び膠着状況に陥る可能性を恐れたクレマンソー首相は,その意見に与せず,ペタンを解任してフォッシュを軍司令官に任命しました.

 ドイツ人も勝利を欲していました.
 何としてもパリを奪取すること,そうすれば,他の地域は雪崩を打って崩壊するであろうと軍首脳部は見ていました.

 こうして戦機が熟していきましたが,そうなると前線になるのは再びシャンパーニュ地域となるのは明らかです.
 1918年春,フランス軍当局は,ランスとモンターニュー・ド・ランスに繋がる全ての村々に対し全面疎開を命じました.
 当初,各人は抵抗したものの,結局受け入れた人々は,何ヶ月も自分たちを守ってくれたクレイェールを出て,バスでエペルネに向かい,そこから列車でパリに疎開し始めました.
 ランスは疎開が間に合いましたが,エペルネは数週間疎開が遅れました.

 7月14日,その日は正にフランス革命記念日でしたが,ドイツ軍の大砲撃で戦闘の火蓋が切って落とされました.
 エペルネでは砲撃によって数百万本のシャンパンが貯蔵されている洞穴と地下回廊に裂け目が入り,砲声は120km離れたパリ住民にも届きました.
 翌朝,第2次マルヌ会戦が開始されました.

 皇帝や配下の将軍達は,藁と梱包用の箱を積んだ5両の列車をフランス東部に待機させました.
 勝利の暁には,ランスやエペルネに送り込み,最高級銘柄のシャンパンを何十万本も積み込む予定でした.
 そして,シャンパンはドイツ国内に回送されて勝利の宴を飾り,残りは国内で売りに出されて戦費の補充に充てられる予定だったりします.

 しかし,ランスに向けて攻勢をかけたドイツ軍は,そこで猛烈な抵抗に遭遇します.
 フランス軍は本国兵のみならず,植民地兵の師団を数個そこに送り込み,守備に就かせていました.
 しかも,植民地兵達にはランスを死守している限り,1日に2本のシャンパンを約束されるという特典があった為,士気が非常に高く,遂に彼らはランスを守りきったのです.

 結局,ドイツ軍はランスの攻略を諦め,モンターニュー・ド・ランスとマルヌ川を目指して南下し,3日後,マルヌ川でフランス軍の大反撃に遭いました.
 僅か5分足らずの砲撃により,ドイツ軍の隊列が乱れたのですが,彼らはそれを立て直し,今度はエペルネに対する攻撃を行いました.
 エペルネの地下回廊は,裂け目が広がって崩壊の危険が有る為,残った人々は遂に醸造の仕事を中止せざるを得なくなりました.
 それに固執したことから,戦闘は4ヶ月続きましたが,とうとうその地を抜くことは出来ず,ドイツ軍によるパリ攻略の夢は霧散したのです.

 1917年,1918年と,シャンパーニュでは例によって黙々と葡萄の収穫がこの戦闘の中で続けられていました.
 因みに「収穫」と言えば,フランス軍の方が多かった様です.
 ポメリー1社でも30万本が,自社のクレイェールに駐屯していた兵士たちによって空にされましたが,ランスを守り抜いた功に免じて,そうした行為は大きく逸脱しない範囲では,大目に見られていました.

 そして,この大戦争は1918年11月11日,決着を見たのです.
 フランス中が喜びに沸き,彼方此方から殺到した注文を捌くのにメーカーは大童となりました.
 大戦争では1,300万人の命が失われました.
 フランス軍だけでは150万人が戦死,300万人が負傷して100万人が傷痍軍人となってしまいます.
 シャンパーニュの人口は半分以上失われ,中でもエーヌ県では3分の2の人口が失われました.

 更に生産財は悉く失われ,シャンパーニュの葡萄畑の40%は生産不能となり,ヴェルズネ村では1,200エーカーの葡萄畑中,木が立っているのは175エーカーだけでした.
 5万エーカーの土地は,毒ガスで汚染されたり,腐敗した死体からの分泌物を吸い込んだ為に,"Zone Rouge"つまり,その土地が永遠に不毛であることを宣言されました.

 これらの復興費用は天文学的数字に達するのに,5年分の戦費はフランスを圧迫し,フランの価値は80%も下がりました.
 シャンパーニュでは,ロシアに次いでドイツの売掛金回収が不可能となった他,二重帝国の崩壊に伴い,この地域での売掛金回収も不可能になりました.
 ある生産者がこう述べています.

――――――
 ロシアにはもう大公達は居ないし,マジャールにも貴族は居ない.
 ウィーンやワルシャワにも陽気な社交生活はなくなった.
 そして,ドイツも破産してしまった.
――――――

 輸出市場は3分の1に落ち込み,市場は新たな救世主を求めていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/05 22:02


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