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◆◆オーストリア=ハンガリー Osztrák-Magyar Monarchia
<◆総記
WW1 FAQ 目次


 【link】

「ストパン」■ハプスブルク帝国の国民統合と軍隊――極東に囚われた俘虜たちを通して


 【質問】
 なぜオーストリア=ハンガリー軍は絶えず予算不足だったのか?

 【回答】
 ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は,軍が自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き,そのためにハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたからだという.
 以下引用.

 ハンガリー人が犯した最大の罪は,帝国の対外政策や国際的立場を弱めていったのと同時に,帝国の軍事力の土台までも劇的なまでに突き崩していったことである.
 ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は軍を嫌い,自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き(この懸念は,全く非現実的というわけではなかった),フランツ・ヨゼフから譲歩を引き出そうとして,絶えず軍を資金不足に陥らせた.
「1850年代から1914年まで,オーストリア・ハンガリーの軍事予算は,ヨーロッパ全ての列強諸国の中で最少だったが,帝国経済の財政能力から言っても極端に少なかった.
 ……ハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたのであり,それをやめたときには,もはや遅すぎたのだった」34

 軍が弱かったために,帝国の支配者はますます悲観し,逆に敵国はますます希望を募らせていった.
 国家が生命力を維持していくための「国家のエゴイズム」の力強さが称賛されていた時代において,軍の弱さは,民族紛争が引き起こす危機感や不安感をいっそう強めた.
 帝国の支配者達は,旧来の社会的エリートの出身者として,近代性は自分達の敵であるとか,未来に希望はないかもしれないと疑ってかかるきらいがあった.
 こうした要素全てから,再び権力を主張しなければならない,あるいは,長期的な災難を避けるためには,内外の敵の集団を威圧しなければならない,といった感覚が強まり,これら全ての感情が,1914年のセルビアへの攻撃の引き金になったのである.
 34 G.Lundestad (ed.), the Fall of Great Powers. Peace, Stability and Legitimacy, Scandinavian University Press, Oslo, 1994所収のI.Deak, 'The Fall of Austria-Hungary. Peace, Stability and Legitimacy', ch.4, p.89.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.352-353

イタリア「Uniformi & Armi」誌表紙
兵士は,第一次大戦のオーストリア軍ヘルメットの特集記事のもので,
おそらくモデルもその辺の設定を意識したキャスティングだと思います.
バックの写真が南チロルのアルプス戦線ですね

よしぞうmaro' in mixi,2007年12月09日 15:00


 【質問】
 WW1における多民族国家の軍って,どうやって部隊間の意思疎通を図ったのでしょうか?

 【回答】
 二重帝国の共通軍やOttoman-Turkeyの特に海軍の場合,士官は兵士の言語を習得することが奨励されていました.
 後者の場合は,海軍兵士の多くがギリシャ人だったので,主にギリシャ語の習得をするようにして,意思の疎通を図っています.

 前者の場合は,ドイツ人が25%,マジャール人が23%で,両方合わせても半分になりません.
 残りは,
チェック人が12.5%,
スロヴァキア人が3.5%,
ポーランド人7.7%,
ウクライナ人7.6%,
スロヴェニア人が2.5%,
セルビア・クロアチア人が9.7%,
ルーマニア人6.8%,
イタリア人1.7%,
ブルガリア人
と言う構成です.

 こうした民族構成であることから,軍隊での使用言語を三種類に分けています.
 先ず,指揮に用いる語彙,「前へ進め」「撃て」など基本的なもの,これを指揮語と呼んでいましたが,これにはドイツ語を充当しています.
 次いで,軍務に必要な専門用語である服務語も,ドイツ語です.
 最後は,連隊内の会話や教練に使われる連隊語で,これは連隊を構成する兵士の母語が使われました.
 なお,連隊構成は徴兵区を規準にしており,その徴兵区の民族構成が其の儘,連隊の民族構成になっています.

 1897年の調査では,共通陸軍歩兵102個連隊のうち,連隊語が1つなのは55個連隊,2言語が44個連隊あり, 3つに上る連隊も3個連隊ありました.
 例えば,Transylvania地区の連隊では,マジャール人47%,ルーマニア人46%なので,この2民族の言語が連隊語に採用されました.
 従って,教練にはその言語に対応しなければなりませんでした.
 将校は,数カ国語に精通しなければ成らず,1904年時点の調査では,将校1名当り平均2.55言語を話せると言う統計が出ています.

 なお,将校の構成は,ドイツ系が圧倒的に多く,78.7%を占めており,次いでマジャール系9.3%,チェック系4.8%で,ドイツ語以外の言語が話せる割合は,チェコ語が47.0%,マジャール語が33.6%,ポーランド語19.3%,セルビア・クロアチア語15.3%,以下,ルーマニア語,イタリア語,ウクライナ語,スロヴェニア語,スロヴァキア語となっています.

 二重帝国共通陸軍では,使用するドイツ語は指揮語,服務語を合わせても80の単語しか無かったので,例え,全く他国の言葉を知らない人間でも,これらの言葉を覚えれば,兵士として働かせる事は可能だと考えられていました.
 ただ,チェック人連隊の様に,指揮語や服務語がドイツ語なのに,それに反して,チェック語を使い続ける運動 が展開されたケースはあったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/09/16(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オーストリア二重帝国国内のスラヴ人は分離主義者だったのか?

 【回答】

(・ω・)<オーストリア二重帝国にとって,国内の『スラヴのクソ野郎ども』は,帝国を崩壊させる分離主義者たちだったのですか?

(ーー)<そうやって悪いイメージを先行させるから,必要もない対セルビア宣戦布告をする羽目になるのですよ.
 オーストリア帝国からの分離を唱えていたのはイタリア系住民であり,スラヴ系住民は少なくとも上層部が危機感を抱くほどに,過激な分離主義者ではありませんでした.
 実際,WW1になったら最後までハプスブルグ家のために戦ってくれましたからね.
 彼らの要求は,「俺たちスラヴ系少数民族にも,ハンガリー人みたいな“自治”をキボンヌ!」でした.

(・ω・)<独立したいとか思わなかったんですか?

(ーー)<隣にロシア帝国やドイツ帝国があるのに??
 帝国主義な列強のそばで少数民族が独立して,今までどおり暮らしていけると思うほどには,彼らは脳内お花畑の住民ではありませんよ.
 それに経済的にも,それなりに食っていけるレベルでしたので.
 念願(?)かなってWW1後に独立しましたが,後でヒトラーやスターリンに征服されてしまったのは皮肉ですね.

以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5)より引用――

 他ならぬマサリク自身が,一九〇九年に次のように述べた.
「我々が欲するのは連邦制のオーストリアであります.我々はオーストリアから独立できません.強大なドイツの隣に位置し,我々の領土にもドイツ人がいるのですから.」
 ついに一九一四年にフランツ・フェルディナントが暗殺された後,クラマージは
「……われわれが帝国に敵対するのはスラヴ主義を信じ込んでいるせいだ,と考える輩には,われわれは断固抗議します――,帝国の外のものはまったく頼りにしていないのです」
と語った.
 こういうわけで,アメリカ人歴史学者ヴィクター・S・ママティはこう結論づける.
「第1次世界大戦前夜,ハプスブルグ帝国でのチェコ人は失意の底にあったが,帝国外で生きようなどとは考えられなかった」
――p247より

※筆者補足
 「マサリク」…WW1後にオーストリア帝国から独立したチェコスロヴァキアの初代大統領
 なおチェコ人はスラブ系です.

 帝国の他の諸民族と,彼らが王家に示した忠誠にかんしていえば,政治や文化の面で不満を持っていたにもかかわらず,ほとんどの場合,帝国をつぶそうとか,王家と絶縁しようとかいう欲求はなかった.
(中略)
 ハンガリー人歴史家のディオセギ・イシュトヴァーンはこう書いている.
「民族主義が帝国の崩壊を招いたのではない.
 ハプスブルグ帝国内で,無条件の離脱を求めていた民族はイタリア人だけである.
 それ以外は,経済・政治・外交政策の思惑から,彼ら民族の目的を実現する場としては帝国がふさわしい,と前向きに考えるようになった」
――p257より

(・ω・)<でも南部のスラヴ系住民は,とかく過激なスラヴ主義で破竹の勢いなセルビアに隣接しいてたし,彼らに影響されて,オーストリアが崩壊して独立することを望む人も多かったのでは?
 それにセルビアはオーストリア領内のスラヴ系住民を自分の同胞とみなし,そこを統合することも考えていたんでしょ?

(ーー)<それにはロシア帝国の助けがないと無理ですし,んなことを本気で期待するほどには,セルビアも馬鹿ではありません.

以下引用――

「本当に急進的なのは,青年党『プレポロド』だけで,彼らは,帝国が解体し,スロヴェニア,クロアティア,セルビアが合併してユーゴスラヴィア人の国家をつくる,という考えに賛成していた.
 しかし,この党が代表するのは少数派の保守派カトリック農民にすぎない.
 一九一四年以前には,スロヴェニア人がハプスブルグ帝国の滅亡とユーゴスラヴィア国家の創設を支持して大きな運動を起こしたことはない」
――p235より

 セルビアは民族全体の統合を目的にかかげ,オーストリアの南スラヴ人も,力を増した民族国家に引きつけられていた.
 しかしこの魅力も,オーストリアのドイツ人が新興ドイツ民族国家に抱く関心ほど強くはなく,全帝国にとっての意味で比べればはるかに小さかった.
 セルビアは,南スラヴ人の民族的統合という思想を持ちつづけていたが,外国の援助なしにこの計画が実現できるとは思えなかった.
 大国によって希望がもたらされること,つまりセルビアの利益を増すためにロシアがオーストリアに対して戦争をすることは,合理的に考えればありそうにもない.
――p286より

(ーー)<「『敵』はこちらが最悪のケースと考える事を実現するかもしれない.」
「そうなったら俺たちはおしまいだ!」
「だったらその前にヤっちまえ!」
 ナイ教授が言うところの「囚人のジレンマ」ですね.
 真面目に帝国の保全を考えれば考えるほど,それとはかけ離れた結論になってしまいました…

使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 第1次世界大戦でオーストリアの死傷者,捕虜,行方不明者が人口の割りに多いのはなぜでしょうか?

 【回答】
 多民族国家であるオーストリアは兵に命令を下す際に多数の言語が必要だったそうです.
 その為,徴兵した兵に行なう訓練の効率が,他国と比較して非常に悪いものでした.
 これは兵器,弾薬,人員の補充能力が大きなウェイトを占めていた第一世界大戦において,致命的な欠点でした.

 更に大戦初期にガリシアの戦いで,ロシア軍に惨敗して40万人程の人的損害を受けてしまいました.
 この際に軍隊の背骨となる訓練された兵や下士官,下級将校が根こそぎ,しかも一度に失われてしまいました.
 その為,前述の訓練効率の悪さも祟り以後,前線に練度の低い部隊を送らざるを得ず,また大きな損害を受けると言った悪循環を繰り返す事になり,大戦が終わるまでそこから抜け出す事は叶いませんでした.

 また,他の列強と違い,国民が国家に対して明確なナショナリズムを見出す事が出来なかったのも,捕虜の多さの要因となっています.

ue◆WomMV0C2P.


 【質問】
 第1次大戦末期にオーストリアが連合側に単独講和を持ちかけたのに,スルーされたのはなんで?

 【回答】
 時勢が悪過ぎる.
 ロシア革命でロシアは脱落し,東部戦線は崩壊,アメリカ参戦が決まり,ドイツのカイザー攻勢は失敗.
 このような状況ではオーストリアが連合に加わった所で今更,戦略的価値は全くない.
 ロシアが健在の頃なら,まだ意味はあったかもしれないが.

 後,戦争責任を問うなら,オーストリアは間違いなくトップ・クラス.
 それを許すほど当時の国際社会は甘くない.
 二重帝国の解体は規定路線だったしね.

 第二次大戦で言ったらフィリピン落ちた後くらいに,日本が単独講和を持ちかけるようなもの.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦後,ハンガリーがオーストリアから分離したのは何故か?

 【回答】
 ハプスブルク帝国の存在理由が,ハンガリー人にとってはなくなったためだという.
 以下引用.

 ハンガリー人にとって,帝国の主な存在理由はロシアへの敵意だった.
 ハンガリーの指導的政治家で,後に帝国の外相を務めるアンドラーシ伯爵<1823~90.67年にハンガリー首相.71年にオーストリア・ハンガリーの外相>は1870年,このように述べた.
「全てのハンガリー人の意見と同様,私もオーストリア・ハンガリーとロシアの衝突は避けがたいと考えている」18
 ハンガリー人達は,1849年にロシアの介入で革命が潰された事を許していなかった.
 それより遥かに重要だったのは,マジャール人はハンガリー王国の約半数しかいなかったのに対し,東・中央ヨーロッパ全体ではスラブ人のほうがずっと多かったことだ.
 これらのスラブ人の背後にはロシアが立ちはだかり,スラブの大国として,その人口と資源はハンガリーより遥かに大きかった事を,ハンガリー人はしっかり認識していた.
 多くのハンガリー人にとって,ハプスブルク帝国は好ましくなく,悩みの種であったが,それでも指導者達は,マジャール人が敵意に満ちた世界で生きていくためには,帝国が地政学的に不可欠だと信じていた.

 それゆえ,1917年の革命で,大国としてのロシアが消滅したかに見えた際,ハンガリー人エリートがハプスブルク帝国に忠誠を誓う大きな理由も力を失ってしまった.

 〔略〕

 1848年に遡るが,チェコの指導者は,帝国の主たる目的は,ドイツあるいはロシアの支配から東・中央ヨーロッパを守ることにあると協調した.
 少数民族であるチェコ人は,ヨーロッパの支配者になる可能性を秘めたドイツ,ロシアの両民族に対抗して,自分達だけでは独立を維持できないと心得ていた.
 だからこそ,自分達を守ってくれるハプスブルクが必要だったのだ.
 しかし,その保護の真の価値は,チェコ人が文化を維持し,帝国に住む他の民族と平等に暮らすことが許される場合だけに限られた.
 そのため,帝国内部でドイツ人と衝突するようになると,チェコ人はロシアに共鳴するようになった.

 同じ事が,ハンガリーに支配されていた南スラブ人の多くにも当て嵌まった.
 帝国末期の数十年間にハンガリーの支配が抑圧的になり,したがって汎スラブ主義の共鳴が高まっていくにつれて,事態はますます悪循環となり,逆にロシアに対するハンガリー人の敵意も高まったのだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.321-322

 一方,Joseph Rothschild著「大戦間期の東欧」(刀水書房,1994.10)PP.136~137では,マジャール人貴族と言う存在がそもそもの原因だったとしています.
(以下引用)

「戦争が明らかに敗北と判ったときでさえ,支配層はまだ,その領土の歴史的国境と,其処での自分たちとの支配的地位を保持し続けようと望んでいた.重要な改革や一連の妥協を行うことに依ってではなく,唯単にドイツとの戦時同盟や帝国との立憲的連合を放棄し,マジャールは,これまでずっとチュートン・ドイツ人の奴隷的犠牲者であると西欧に触れ込むことによって.」

 マジャール人貴族は,王権や,非マジャール系諸民族や,土地を奪われ実質的には何の権利も持たないマジャール人農民を含む他の社会階層に対して,その支配的地位を主張し,維持するために戦ってきた.
 マジャール貴族は,土地と政府行政機構を支配することによって,その地位を絶えず守るための力と回復力を引き出していた.
 貴族は,一言で言えば,マジャール王国の「政治的民族」であった.
 彼等は,20世紀初頭までに人口の半数を占めるようになった他の少数民族の代表者の要求を認めなかったばかりか,自分と,「自分の所有物である」農民との間に介入しようとする如何なる中産階級をも容認しなかった.
 アウグスライヒの時期に於ける「重商主義的」な商業や工業の拡大でさえ,貴族出身の官僚層が担うことによって,貴族の政治権力の社会的基盤を掘り崩す方向ではなく,それを補完し,強化する形で実行された.
 しかし,歴史的な特権や行動様式を体現し守り続けるマジャール貴族のこうした忍耐力と先見性こそが,第1次大戦前の2,30年間に,二重帝国の中で長い間続いた些細な憲法上の抗争にマジャール貴族を巻き込み,目先だけの内政的小細工や抑圧に政治力を消耗させる現況であった.

 マジャール貴族は,政治参加の拡大はマジャール人の覇権を危険にするという排外主義的な考えに立って,民族的にはマジャール人である大部分の人々さえ,公民権から排除した.
 「民族を存続させる」という表現が,貴族の社会的・政治的特権を守るイチジクの葉として使われたのである.
 同時に,都市の経済と知的分野の主導権の大部分は,主にユダヤ人からなるブルジョア層に譲り渡された.
 マジャールは,歴史や,地理や水運や経済において,驚くほどの一体性を有していたが,一千年にわたる政治機構は次第に孤立し,偏狭となり,崩れやすくなっていた.

 でもって,1918年10月31日の民衆革命とカーロイ・ミハーイ政権の登場に続くわけです….
 可成りはしょりますが….

 敗戦時政権を担当していたティサ・イシュトバーン伯は,自国が敗北していると言うのにすっごく頑迷だったのですが,無血クーデターによって新しく政権の座についたカーロイ・ミハーイは,ドイツとマジャールとの提携関係を,フランスとの協調関係に変化させ,オーストリアに対するマジャールの自治を主張した上,結果的にマジャールの内政と社会生活を民主化することで,各地に点在する少数民族との融和を図り,ベルリンとウィーンに対抗しようとします.
 こうすれば,ウィルソンの民族自決の理念に則るものになった筈で,最終的にはマジャール王国部の緩やかな連邦形成を目指していたのですが,前政権が余りに酷い仕打ちをやりすぎたために(何事もやり過ぎはいかん),周辺諸国や連合国の受け容れられるところになりませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS


 【質問】
 ベラ・クーンの共産政府はなぜ誕生したか?

 【回答】
 1918年11月16日,クン・ベーラはソヴェトの命令でマジャールに帰国し,扇動家として少なからぬ才能を発揮し,ソヴェト・ロシアの援助を受けて,革命を「発展」させる任務に当たった.
 11月20日,露西亜からの帰還者,国内左派社会主義者,革命的社会主義者によって,マジャール共産党が結成され,12月7日にはカーロイ派と社民党穏健派に対する挑発的論文を掲載した,党機関紙「赤色新聞」が発行された.

 こうした挑発に対し,戦前からの社民党員や労組幹部はこういった共産党の宣伝をかわす免疫を持っていたが,政治に無関心な層から社民党に入党した,戦時組の党員,失業兵,知識人は影響を受けた.

 12月12日,共産党は,武装解除に不満を持っていたブタペシュト駐屯部隊を利用して圧力を掛け,カーロイ政権の国防大臣を辞任に追い込み,兵士評議会に浸透した.
 しかし,社民党員が勢力を扶植していた労働者評議会に対しては大した影響を与えられなかった.

 そこで,翌年2月までに幾度と無く騒動を起こし,それを宣伝して1919年2月までにブダペシュトで1万5000人,地方で2万5000人の党員を獲得し,ドイツに復員する途次,フォン・マッケンゼン元帥の部隊がマジャールに遺棄した3500挺のライフル銃を手に入れ,2月3日と6日の赤色新聞紙上で,武装蜂起を呼びかけた.
 是に対抗して,社民党は2月9日に臨時党大会を開いて,「共産党分裂主義者」を党と労組から排除することを決議,2月20日には,社民党機関紙「人民の声」編集局前で,失業者のデモと警官隊が衝突,多くの死傷者が警官に出た.
 また,ベラ・クーンには政府から公秩序侵害と叛乱教唆の容疑で逮捕状が出されたが,社民党指導部が徹底的な弾圧を行うのには,戦前のノスケ主義を想起させ,躊躇いがあった.

 また,二重帝国崩壊後のマジャールに於いて,首相のカーロイ・ミハーイ伯は軍隊の解体を行い,次ぎに農地改革に手を付けた.
 最初に範を示すべく,彼の領地に住む農民に自分の土地を分配したが,これは,政治的に無益な行動だった.
 農地改革は彼の内閣の農務大臣によって準備され,土地所有上限を500ヨーク(1ヨークは0.575ha)とし,これを越えた土地は没収して農民に分配することとなり,没収された土地は1913年の価格を基準に旧地主に保証金が規定されたが,これも,政権与党の社会民主党によって反動的であることと反対された.
 貴族達は賢明にも表だった反発は控え,これにより,社会民主党への国民の反発は強まり,これに依拠していた,カーロイ・ミハーイ内閣は崩壊した.

 その後,マジャール社会は急激にプロレタリアートの力が増大し,それを抑えるべき暴力装置たる軍隊が消滅していた為,容易に赤色革命が達成される余地が生まれた訳であり,そこをベラ・クーンは突き,大衆の支持を得たのである.

 協商国側もベラ・クーンに味方した.
 第一に,戦勝国は,1000年に渡るマジャール王国の領土諸地域を要求して, 軍だけでなく,行政機関も送り込んでいる,チェコ,ルーマニア,ユーゴの行為を正当と認めた.
 第二に,近隣諸国の利益に沿う形で休戦協定の境界線を何度も改訂した.
 第三に,その領土問題に関して譲歩を引き出す為に,経済封鎖を継続したのである.

 こういった面を利用して,クーンは第一に,カーロイや社民党の様にフランスの寛大さに期待することはオーストリアやドイツと結んだかつての「妥協」(1867年の二重帝国発足のこと)と同じ位虚しいモノであって,マジャール民族なら,そう言ったくびきを脱して,今こそ,ボルシェビキ・ロシアとの革命的同盟を基礎とすべきである.
 また,第二に,ロシアの様に,干渉戦争や国内の反動から自らを守るには,民族的な革命のエネルギーを重視すべきである,としたのである.
 愛国主義と,革命,この2つの訴えは,イデオロギーに無知な兵士,大衆は言うに及ばず,社会民主党の下部活動家,一般党員,果ては一部の社会民主党幹部にまで影響を与え,新共和国の軍兵士は,クーンの急進的命令を直ちに受入れ,マジャール駐留戦勝国代表のフランス陸軍中佐,ヴィクスがルーマニアの要請に応じて,その領土割譲を通知した時,かくて,国民の堪忍袋の緒は切れ,カーロイ政権は崩壊,3月21日,共産党と社会民主党の即時合同が為され,マジャール・ソヴェト政権が樹立されたのである.

眠い人 ◆gQikaJHtf2
(出展:Joseph Rothschild "East Central Europe"
(刀水書房から「大戦間期の東欧」という邦題で出ています.)
 これの第四章の抜粋….)

 【質問】
 ベラ・クンの共産政府ってあっさり崩壊したけど,よほど軍隊が弱かったのかね?

 【回答】
 ↓を見る限り国民に愛想をつかされたのだと思われ.
http://www.vanguardnewsnetwork.com/temp/TerrorTimeline/1919_BelaKunThe133Days.htm
 しかも肝心の国土防衛は放棄してトンズラかよ.
 ナジもこのとき政権に参加していたらしいが.

(世界史板)

 また,羽場先生の「ハンガリー革命史研究」によると旧ハンガリー王国国防軍(ホンヴェード)の軍隊6万人を引き継いだとあり,これが共産軍の母体ですが,この人達は決して皆が皆,共産政府に賛意を表していたわけではなく,隣国の軍隊にハンガリーが分割されるという危機感から参加したと書かれてますね.
 あとは工場労働者・農民を赤軍として組織化してますが,この人々も旧軍の軍人達同様,チェコ軍・ルーマニア軍の侵攻に危機感を抱いた人達だったようです.

 元々,共産主義に賛意を表していない人達と共産主義者の混合体ですから,うまく機能しなかったのではないでしょうか・・.
 しかも,クンはクレマンソーの通告を受けて,赤軍を国境線から後退させる決定をしてしまいましたから,彼らの心は共産政権から離反していったのだと思います.

 しかし,後にホルティ提督の下で首相を務めるストーヤイみたいな人物が赤軍に参加していたとは驚きました・・.

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


 【質問 kérdés】
 ハンガリーの代用勲章について教えてください.

 【回答 válasz】
 オーストリア=ハンガリーが崩壊すると共に,第一次大戦までの勲章は過去のものとなったが,まだ叙勲されていない兵士がいた.
 そうした兵士を称えるため,ハンガリー政府では,戦後,ホルティ時代に制定されたハンガリー王冠勲章を,旧勲章の代わりに着用できると定めた.
 この場合,本来授与されるはずだった勲章のミニチュア・コピーが,リボンや略綬に装着された.
(写真1)

 ただし第二次大戦後は,ハンガリー王冠勲章の着用は禁止されているという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/442575/en/ ※写真1引用元

2017.8.6


 【質問 kérdés】
 戦争記念章って何?
Mi az Háborús Emlékérem?

 【回答 válasz】
 戦争記念章はハンガリーにおいて,摂政ホルティ・ミクローシュの名の下に授与されたもので,第一次大戦に従軍し,倒れた戦争体験者に対して贈られた.
 1929.5.26制定.
 地位や階級に関わりなく,最前線にいた兵士や非戦闘員,負傷退役した軍人,医療関係者や赤十字勲章受章者,元捕虜,戦死者の遺族,後方勤務従事者,そして1919年夏の,ハンガリー・ソヴィエト共和国打倒に加わった人々に授与された.
 ただし,大戦参加を証明する書類を軍事当局に提出されなければならず,書類が無い場合には,2人の信頼できる証人を用意せねばならなかった.
 ハンガリー人と一緒に戦った中央同盟側の軍人は,勲章を申請せねばならなかった.
 外国人には勲章は郵送されたが,封筒には証明書とミニチュアが入っていた.
 勲章の実物は,証明書提出の上,認可された店で購入せねばならなかった.
 交付手数料は,受章者の状況により違いがあった.
 将校は6ペンゲー,将校以外は3ペンゲー,遺族は2ペンゲーだった.
 ただし,例外的に国防相決済によって,その徴収が免除されることもあった.

 戦争記念勲章には2つの等級があった.
 最前線に立った兵士と,非戦闘員の戦争参加者とである.
 2つの違いはリボンの色とデザインだった.
 申請者が両方の等級で有資格だった場合には,最前線兵士用のデザインの勲章を受け取った.

 着用時は,三等交戦章の後ろにつけることとされた.
 今日,この勲章を着用することはできない.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek

2017.8.19



 【質問 kérdés】
 剣・ヘルメット付き戦争記念章とは?
Mi az Háborús Emlékérem kardokkal és sisakkal?

 【回答 válasz】
 戦争記念章のうち,第一次大戦において前線や後方勤務地に出征した兵士に与えられたもの.
 直径37mmで,銀メッキ.
 勲章表面には,月桂樹とローレルで飾られた,交差された剣を背景にした,王冠を戴いたハンガリーの紋章が描かれている.
写真1 - wikipediaより)

 裏面には,ドイツ製M16スチール・ヘルメットのイメージ画と,"1914-1918"の数字が描かれていた.
写真2右側)
 裏面上部にある語句はラテン語で,「Pro Deo Et Patria (神と祖国のため)」と書かれている.

 リボンは白地に横に緑色の縞模様,両端に近いところに縦に赤のストライプが入っていた.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/ ※写真2引用元
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek

2017.8.22



 【質問 kérdés】
 剣・ヘルメット無し戦争記念章とは?
Mi az Háborús Emlékérem kardok és sisak nélkül ?

 【回答 válasz】
 戦争記念章の一種で,非戦闘員,負傷退役軍人,医療十字者や赤十字勲章を授与された者,元捕虜,戦死者の遺族,後方勤務の軍属,1919年夏と秋にハンガリー・ソヴィエt共和国との戦いに加わった者に授与されたもの.
 勲章表には月桂樹とオークの花輪に囲まれたハンガリーの紋章があるが,交差された剣はない.
写真1 - wikipediaより)
 裏面には中央に1914~1918年の文字があり,上方にはラテン語で「Pro Deo Et Patria」(「神と祖国のため」)という文字が入り,下部には2枚の月桂樹の葉がリボン・ネクタイで結ばれていたが,ヘルメットの絵は入っていない.
写真2右側)
 リボンは白地に,両縁に近い側に,それぞれ幅の広い縦の赤の縞が,2つの赤の縞の間に,幅の広い緑の縞が入っていた.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek

2017.8.24



 【質問 kérdés】
 戦傷兵士章とは?
Mi az Hadirokkant jelvény?

 【回答 válasz】
 戦傷兵士章(写真1)は,第一次大戦において負傷章を授与されていない兵士にのみ授与されたもので,後遺症が残っているか,その負傷によって収入が25%以上低下した者が対象となった.
 直径22mmで,金メッキ製.
 中央に「HR」という文字があり,その周りを月桂樹の葉が囲っており,その上に聖イシュトバーンの王冠が載っているというデザイン.

 この勲章は,戦争記念章のリボン,または略綬につけることができた.
 (写真2)は着用の一例.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek
http://kituntetes.webnode.hu/jelvenyek/hadirokkant-jelveny/ ※写真1~2引用元

2017.8.25


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