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◆◆総記 Általános művek
<◆WW1 目次
戦史FAQ目次

カナダ軍の装甲車

(画像掲示板より引用)

 【link】

Encyclopaedia of the First World War(英語)

First World War.com(英語)

Staatsmänner und Offiziere aus dem ersten Weltkrieg
 第1次世界大戦の関係者の肖像がずらり.

The World War I Document Archive(英語)

京都大学人文科学研究所>第一次世界大戦の総合的研究

京都大学人文科学研究所>第一次世界大戦の総合的研究>基本文献
レクチャー第一次世界大戦を考える 連続合評会 - 株式会社 人文書院
 研究会の報告を元にして出版したものの一覧あり

第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター・コレクション

「第一次大戦」(総合,相互リンク) ※リンク切れ

「やしゃごネタ」:カラー映像で見る第一次世界大戦時の戦場の様子

「リアリズムと防衛を学ぶ」:戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦

「ワラノート」>やる夫で学ぶ第一次世界大戦 戦争編その1

『決定的瞬間 暗号が世界を変えた 第一次大戦秘史』(バーバラ・タックマン著,ちくま文庫,2008/7/9)


 【質問】
 WWⅡ発生以前もWWⅠは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?

 【回答】
 「the great war」と呼ばれていました.


 【質問】
 WW1って「死者に民間人を巻き込んだ大戦争だ」って教科書にあったんですけど,偶発的なことを除いて,民間人を殺して生産力を下げる等を目的とした攻撃なんてありましたっけ?

 【回答】
 後方に対して生産力を下げさせるほどの攻撃を行う能力はありませんでした.
 そうではなく,安全と思っていた自国の中心に対して被害を受けることで戦意を喪失する,民意が離れる効果を狙っての戦略爆撃です.

 とはいえ,戦争が戦線に留まらなくなった,もはや銃後はない,という認識は衝撃的であり,参戦国の多さと併せて「世界大戦」の名が産まれました.
 一部では「最後の戦争」とすら言われていたのですが,すぐに「その1」に格下げされてしまったわけで.

 また,ロイヤルネイビーによる海上封鎖は,ドイツの銃後の経済…ひいては戦争経済に大打撃を与えました.
 さらに,戦争末期にはドイツ国内は栄養失調に倒れる国民も出てきましたし,乳幼児死亡率も極めて高いレベルになりました.
 しかも,停戦してからも,この海上封鎖はしばらく続き,国民生活を相当に悲惨なレベルに押し下げています.

 ついでに言いますと,WWIがそれまでの戦争とちがう総力戦と呼ばれるのは,民間人の死亡というよりは
「生産・補給し続けなければ戦争ができなくなった」
という点が大きいです.
 それまでの戦争って原則的には,戦争前の備蓄+現地調達でなんとかなってたんですが,兵力の膨大化・弾薬の消費量の劇的な増加・長期戦化で,後方でも全力で兵器・物資を生産し続けて,前線に送る輸送網を整えないと,とてもじゃないがやってられなくなってしまったのです.


 【質問】
 「戦争社会主義」とは?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,事実上ドイツ軍の独裁者だったルーデンドルフ将軍が,第一次大戦時のドイツの社会システムを呼んだあだ名.
 ヨーロッパ諸国は,その経済と人材を全て戦争に注ぎ込んでおり,全ての産業に渡って,国家が経営を引き継ぐか所有権を握っていたが,特にドイツではこれを最も効率良く進めていたため.

 ちなみに,こうした社会システムを絶賛し,後にこれをロシアに持ち込んでロシア全体の経済を「ソヴィエト化」するための基盤としたのが,かのレーニンである.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.40を参照されたし.

ルーデンドルフ
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ドイツ以外の各国の,第一次大戦時の食糧事情は?

 【回答】
 さて,一人ドイツだけで無く,連合国も枢軸国も,第一次世界大戦時は食糧問題に苦しめられました.

 英国の場合は,植民地及び英連邦構成国,特にカナダとオーストラリアとの密接な関係を基盤として食糧政策を設計し,圧倒的な海軍力を有していましたから,食糧供給の状況は1916年末まで悪化する事はありませんでした.
 海上封鎖に対抗したドイツの潜水艦戦が展開されても,国内需要の60%を賄うだけの輸入を維持する事が出来ており,国内生産力も大きく減少する事はありませんでした.
 但し,食料品価格は,1914年8月に比べて1916年6月の時点で61%も上昇しています.

 英国の様子が変わったのは,1916年の不作が原因です.
 この為,10月には王立小麦供給委員会が招集されましたが,これは直ちに実行のある政策を打ち出す事が出来ませんでした.
 しかし,ロイド・ジョージが首相になると,食糧供給が最重要政治的課題に浮上し,12月になると食糧管理局(後に食糧省へと格上げ)が設置されました.
 食糧管理局は,食料の輸入,生産,分配の管理を任務とする国家機関でした.

 1917年に入ると,英国の港に入港する商船に対する,ドイツの無制限潜水艦戦が展開され,食糧輸入量は戦前の3分の1まで落ち込みます.
 そこで,家畜の放牧地を耕作地に転換する政策が打ち出され,それにより1918年には300万ヘクタールが耕地に転用されています.

 1918年になると,馬鈴薯と肉類の生産高は戦前の約1.4倍にまで上昇します.
 1916年に前年の耕作地面積から14.8万エーカーが減少しましたが,1917年には国家の指導により逆に97.5万エーカーの耕作地が増えています.
 この様な形で推移したので,英本土に住む全国民に対する食糧の配給制が導入されたのは,1918年7月からで,夏には重要食料品のみ,最高価格を設定しています.
 こうした配給の列に並んだのはロンドンだけで55万人に達しましたが,餓死者は出ず,密商の出現もありませんでした.

 フランスは開戦直後,ドイツが重要な東北地方の農業地帯を占領し,生産手段が減少したた為,その食糧生産高は戦前の40%にまで落ち込みます.
 この為,フランスは海外からの食糧輸入を決断し,毎月カナダと米国から63.9万トンに及ぶ食糧品を輸入しました.
 但し,輸入はしたものの,その販売は自由競争に委ねた為,民間の食糧調達は価格上昇によって困難となり,1916年には最高価格が設定されました.

 食糧ではありませんが,フランスがとりわけ苦しんだのは,石炭の不足でした.
 開戦直後に大敗を喫して,リール地方が失われると,石炭生産高の40%が消滅します.
 この為,石炭も英国と米国からの輸入に頼っています.

 一方で,食糧を輸入に頼ったものの,英国やドイツの様な厳格な配給制は導入しませんでした.
 1916年4月20日の法律で,砂糖,馬鈴薯,牛乳,マーガリン,乾燥野菜の価格固定を禁止し,1917年にパンと砂糖の配給制を導入した上,肉,卵,ワイン消費の制限を行いますが,幾ら政府が,パンを無駄にするな,代用食として馬鈴薯やレンズ豆を食べよと奨励しても,国民は食事の楽しみを捨てる事はありませんでした.
しかも,食糧消費量は戦時中を通じて増えています.
 その増加分は,輸入で賄い,密商も闇市も最後まで出現しませんでした.

 ロシアは,食糧分野で全く戦争の準備が出来ていませんでした.
 政府は軍に十分な食糧を行き渡らせる様,統制されていない市場で全市場流出量の半分を買い込みます.
 当然,市場での品薄感が強まると,民衆は残りを跳ね上がった価格で購入せざるを得ず,また,運河や鉄道が壊滅状態になり,生産地と消費地の間の流通手段が無くなって食糧が行き渡らなくなります.

 1916年2月に漸くロシア政府は最高価格を導入しますが,これは大商人優遇の為であり,庶民に沿った政策ではありませんでした.
 1917年初頭の全体計画により,漸くバランスの取れた配給制度と最高価格制度が個々の行政区で導入されますが,既に疲弊していた庶民達にとっては余りにも遅すぎた改革となりました.

 結局,この食糧政策に対する無策も一因で,パン,平和,自由を求める「飢餓の革命」が進行したのです.

 イタリアでも,1916年3月以降,重要農産物に対し最高価格を導入し,最終的には海外,とりわけ英国からの輸入が主力になります.
 1917年夏には,酷い不作になり,全般的食糧配給制が導入されます.
 勿論,庶民は反旗を翻し,8月にはトリノで民衆,特に女性達がパンを求めて暴動を起こしました.
 これに対し,政府は警察と軍隊によりそれを武力で鎮圧していきました.
 これにより,50名の死者を出しています.

 1917年10月の終わりに,カポレットでの戦闘に敗北した後,クレスピが国家の食糧供給委員となり,1918年4月になると生産管理の為のネットワークを築き,配給制を整備,食糧の生産と消費の国家管理に成功しました.
 また,闇商人を反愛国者として摘発するキャンペーンを実施し,米国からの食料品輸入を行って世情を安定させ,密商の出現を抑える事にも成功しました.

 中立国でありながら,ドイツとの戦闘に巻き込まれたベルギーでは,終戦までに300万トンの食糧を海外から輸入しましたし,貧しい女性や子供達の為に食堂が設置されました.
 しかし,1918年までに768箇所の食堂が整備され,8.6万人の母親や子供を養ったものの,子供の死亡率は30%に達しています.

 枢軸国に目を向けると,二重帝国は同盟国のドイツと同じ程度に飢餓で苦しみました.
 特に,穀倉地帯を抱えるブダ=ペシュト政府は,戦前はコンスタントに200万トンをウィーン政府に移出していたのにも関わらず,1916年には僅か10万トンの移出に留まりました.
 つまり,戦争中から両政府は,緩慢に分解に向けて動き出していた訳です.

 1917~1918年冬には飢饉がピークに達し,至る所に安価にスープを売る戦時食堂が登場し,デモンストレーションの為に幾度となく,皇帝の家族がそこを訪れる事になります.

 オスマン帝国も同様に飢餓に苦しみ,万単位の餓死者を出しました.
 この原因には動員による生産力減退もありましたが,交通の要である鉄道の整備が,そもそも遅れていた事にあります.
 この為,食糧が生産地から消費地に送られる事無く,軍隊内でも栄養不足の為に兵士達は夏にマラリアやコレラに罹り,冬にはチフスに感染しました.
 これは銃後でも同様の状況だったりします.

 こうして見ると,平時から異常事態に対応する食糧政策が,非常に大事な事がよく判ります.
 現在の日本は異常事態にある訳ですが,こうした食糧政策がきちんと為されているかと言うと,甚だ心許ないと言わざるを得ません.
 過去の出来事を見ると,「食べ物の恨み」は,本来,為政者にとって非常に恐ろしい存在なのですがね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/01 23:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦であれほど戦線が膠着したのに,なぜ双方とも講和や和平をしようと思わなかったのでしょうか?
 講和の機会や妥協点はなかったのでしょうか?

 【回答】
 妥協点は低地諸国(ベネルクス三国)の回復にあったと思われる.
 イギリスの参戦を招いたのが中立国ベルギーへの侵入だから,ここからのドイツの撤退がイギリスにとっての交渉のスタート地点.
 しかし,当時ドイツを牛耳っていた参謀本部の連中は,占領地を手放そうとしなかったから,話にならないと言う事.
 彼らは,軍事的な成功が外交的な成功に繋がると信じていた.
 つまり,彼らはこの期に及んで,パリを落とし,フランスを屈服させようと考えていた.
 いかにも軍人然とした考えだが,大きな誤り.
 戦略が外交を縛り続け,長々と戦争が続く事になった.


 【質問】
 WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか?
 もし,正しいのであれば,どのようにでしょうか?
 もし,正しくないのであれば,なぜでしょうか?

 【回答】
 いずれも当時決定打とはなっていない.

毒ガス:
 膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない.

戦車:
 敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず.
 ただ,心理的効果は大きかったらしい.
 別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない.

 1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う.
 ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている.
 また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた.
 もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない.

飛行機:
 最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ.
 それを撃ち落すための戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生.
 が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず.

 なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた.
 あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった.

 まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです.
 要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです.

 純粋に考えてみて,出てからたった数年しか経ってない複雑な兵器を,全面に押し出して戦う訳が無い.実戦経験が無いんだし.もともと軍隊は保守的なもの.
 戦車にありったけのリソースを投入して勝てる保証もないから,段階的に導入するのが妥当なのでは.
 で,その結果まだまだ故障が多くて課題が残った,と.


 【質問】
 第一次大戦の時も,いわゆる大本営発表と言うのはあったのでしょうか?

 【回答】
 大本営は設置されていませんから有りません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 比喩表現としての「大本営発表」という意味でなら,あったと言わざるを得ない.
 戦時下の報道なんてのは自由主義,報道の自由が許された社会においても正確,公正である保証は無い.

 特に酷かったのがソンム戦におけるイギリスの報道.
 50万人以上の損害を出して,僅か10kmそこら前進しただけの戦いで,
「情況は有利に進んでいる」
ってのはどうかしてる.
 流石に戦後に政府は謝ったがな.

 他にも末期に流行したスペイン風邪の被害状況は,アメリカ以外ほぼ隠蔽されていて,正確な被害状況が分かってない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ベルギーって第一次大戦で何やってたんですか?
 緒戦で負けて,その後があんまり聞かないんですが.

 【回答】
 アントワープ攻防戦の後,ベルギー国王アルベールⅠ世率いるベルギー軍は,イギリス遠征軍(BEF)の奮闘により,辛くもアントワープを脱出.
 政府をフランスのルアーブルに移し,連合側にとって僅かに残ったベルギー領であるイープルに,BEFと共に布陣.
 この地は戦略的にも政治的にも双方にとって重要な地点となり,度々,激戦が繰り広げられました.
 連合軍はそのまま4年間,終戦までドイツ相手に一歩も譲らず当地を守り抜きました.

 アルベールⅠ世はベルギーの中立維持に腐心し,指揮権をフランスにもイギリスにも譲りませんでした.
 最終攻勢時は流石に譲歩しましたが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
http://kiwi-us.com/~knp3/judge/cs.shtml
によると
『第一次世界大戦に中国が参戦したのは,一般常識』
らしいのですが,そうなんですか?

 【回答】
 19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました.
 中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります.
 1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています.
 その付属書で日本に対し,
「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」
としています.
 つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり.

 ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています.
 この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 第一次大戦下のフランスに於ける,排外主義の変遷は?

 【回答】
 さて,19世紀末から第一次大戦前にかけて,フランス人は「外国人嫌い」になっていきました.

 1914年3月の『レヴィユ・デュ・ノール』と言う新聞では,北フランスで特筆すべき事件は,「炭鉱地帯への外国人の侵入」「外国人の氾濫」「外国人の到着と同時に暴力沙汰や暴力事件が増えた」などと排外主義を煽っていました.
 「侵入」と言う言葉は,1880年代にも使用されていましたが,人口に膾炙したのは1907年に,作家ルイ・ベルトランがマルセイユを舞台とした小説のタイトルとして使用してからです.
 この作品では,フランスがイタリア移民や革命を企む亡命ロシア人に侵入されていると,外国人への不安や憎悪をかき立てただけで無く,中国人や日本人をも含むアジア系にも非難の矛先を向け,
「ローマ帝国の最期の様に,アジアの藻屑がラテンの岸辺まで再び逆流してきた」
と黄禍論を煽っていました.

 『レヴィユ・デュ・ノール』も,こうした空気に感染していたと言えますが,この新聞,実は社会党の日刊紙であり,しかもノール県は社会党左派のジュール・ゲードの選挙区で,ゲード派の影響力が強いにも関わらず,左翼労働者にも「外国人嫌い」が深く浸透していたことです.
 1886年当時,ゲード派はまだ欧州内の連帯に限られていたにしても,まだ国際主義の旗を掲げていました.
 しかし,国粋主義は社会党左派をも覆い尽くし,反戦・反帝国主義の国際主義的連帯が掛け声倒れに終わり,この記事が掲載された5ヶ月後,挙国一致の神聖連合に社会党が荷担する様になってしまいました.

 とは言え,第一次世界大戦場勃発すると,兵士と労働者は極端に不足し,その為に外国人の力を借りなければならなくなります.
 軍事関係では,欧州を中心とした4.3万人の外国人が外人部隊に加わって戦い,更に植民地からは60万人に及ぶ兵士が動員されました.
 植民地兵の戦死と行方不明は,7.1万人に達します.

 欧州兵の内,イタリア人やポーランド人は,自由のための戦いという大義や帰化取得の無料化という魅力もあって兵役に就きました.
 3,000名からなるイタリア人連隊は,シャンパーニュ地方で戦闘を繰り広げて4分の1に及ぶ死傷者を出し,生存者はイタリア参戦の1915年2月に動員を解除されました.
 ポーランド人は最初,志願兵として外人部隊で戦っていましたが,ロシア2月革命後の1917年6月に,フランスでポーランド軍を結成することが認められ,1919年4月時点でフランスのポーランド軍は,7万を擁するほどになり,1920年の対赤軍戦にも赴きました.
 こうした中には,ポーランド移民で社会党員の炭鉱労働者であったトマス・オルシャンスキがおり,彼は1917~20年までポーランド軍に加わり,1922年にフランスに帰化しています.

 一方,戦場とほぼ同数の外国人が農場や工場で働いていました.
 フランスは,同盟国や中立国であるスペイン,イタリア,ポルトガル,ギリシャと協定を結んで労働力の確保に乗り出していきます.
 こうして,1915~18年の間に44万人の外国人が入国し,その3分の1が農業に従事しました.
 外国人労働者の管轄は軍事省(後に労働省)や農務省の管轄でしたが,植民地先の住民は前線であれ工場であれ,陸軍省の管轄下に置かれました.
 植民地からは22.5万人が動員され,その中には3.7万人の中国人も含まれています.
 因みに,連合国として参戦したにも関わらず,中国人は1917年4月21ん日デクレにより植民地出身者として扱われています.
 こうした植民地出身者は,法的には同一労働同一賃金を謳っていますが,実際には欧州人より低い賃金で働かされました.

 徴兵は,1917年9月からアルジェリアに於て強制となり,個人的な徴兵忌避や集団による反対運動を引き起こしたこともありましたが,志願兵と徴募兵ほぼ同数のアルジェリア人17万人が,フランス人将校の指揮下で戦い,2.5万人が戦死しています.
 アルジェリア兵は人種隔離的な生活を強いられる事もありましたが,一般のフランス人から歓迎されることもあり,抑圧的で人種差別的な植民地社会と,本土フランス人の友好的態度との落差に驚くこともあった様です.

 アルジェリア人労働者の徴募は,1916年1月に発足した植民地労働者編成課によって行われ,13万人ほどの労働者が採用されました.
 徴用労働者は不衛生なバラックに住まわされ,点呼と規律の軍隊式の生活を強いられました.
 完全な隔離は不可能でしたが,アルジェリア人とフランス人が日常生活で交わらない様に,バラックは郊外に建てられることが多かったと言います.
 それでも1917年5~6月のパリで,アラブ人労働者がフランス人に襲われる事件が14件あり,6月のルアーブルでは15名が負傷し,8月にブレストの兵器庫で働くアラブ人と地元フランス人との喧嘩から,4名のアラブ人が死亡し,38名が負傷すると言う騒擾事件が起きていました.

 また,人種的偏見により,「怠け者だが器用な」アジア系は工場労働に駆り出され,黒人は肉体労働に従事するか,労働に不向きであるとの理由により前線に送られています.

 第一次世界大戦の終結と共に,1920年までにこうした植民地労働者の殆どは帰国していきますが,1922年に開催された,出生率向上高等会議と言う政府の諮問委員会では,非白人移民の流入という事態は,
「我が種族の心身の健康にとって有害である」
と言う報告書を出したりして,「同化不能」とされた移民に対する警戒心が為政者に拡散していくことになります.

 その第一次世界大戦では,外国人の力を必要とした反面,外国人に対する警戒心も呼び起こしました.
 1914年8月1日,総動員を告げる文書の横に外国人に対する命令も張り出されました.
 特に,自発的にパリを離れない外国人で交戦国出身の者は,身分証明書類を持って警察に出頭した後,30kg以内の荷物を持って,8月16日までにフランス西部に強制移転させられることになりました.
 この為,パリに亡命していたドイツやオーストリアの社会主義者も,地方に追放されました.

 フランスに帰化していないアルザス・ロレーヌ人は,ドイツの動員に応じた家族だけがドイツ人だとされ,外人部隊に志願した者はフランス国籍を回復できました.
 しかし,8月上旬に永年パリに住んでいた51歳のロレーヌ生まれの錠前師は,群衆からドイツのスパイだと非難され解雇されていますし,オルシャンスキが回顧している様に,総動員令が出された後に,「外国人をやっつけろ,ドイツとオーストリアのスパイをやっつけろ」と叫ぶフランス人により,東欧出身者が襲われた事もありました.
 東欧の広い地域はオーストリアの領土であり,彼らは帝国オーストリア人と同一視された為です.

 敵性外国人を夫とするフランス人女性には離婚が勧められ,拒否した場合には投獄されました.
 更に史上初めて,敵性外国人は収容所に入れられ,その財産は供託となりました.
 マジャール人のフランス文学教師で,宣戦布告時にブルターニュに滞在していたクンツ・アラダールも敵国人として4年間抑留されました.
 抑留者は,1915年の時点で,ドイツ人7,500名,二重帝国人4,600名など2.1万人に達し,1918年時点でも6,000姪が収容されています.
 クリミア戦争やイタリア統一戦争,それに普仏戦争では,ナポレオン3世はパリにいたロシア人やオーストリア人,ドイツ人を敵性外国人と見做さなかったのですが,帝政に取って代わった共和派の国防政府は,ドイツ人を拘禁した様に,近代国民国家が行う戦争と言うのは,ナショナリズムを強めるマシーンでした.

 また,1915年4月と1917年6月のデクレにより,利敵行為を働いた交戦国出身の帰化人からフランス国籍を剥奪しました.
 これに該当したのは549名で,この内473名は外人部隊の元兵士でした.
 彼らは不服従故に帰化失効となったのです.

 この様に戦争が拡大して,外国人が多くなっていくと,フランス政府としては,大戦中に入国した外国人の管理の必要に迫られる様になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/01 22:21
青文字:加筆改修部分

 そう言えば,オサマが殺害されましたね.
 パキスタンは知らぬ存ぜぬを通すのでしょうが,そうでなくても統治者が外国人と言っても良いくらいの政府なのですから,統治が困難になるのは目に見えています.
 さっそく爆弾テロが起きていますし….
 結局,あの地域はあのまま放っておくのが一番の様な気もしますが.

 さて,そう言った外国人テロリストの侵入を最も恐れたのが,第一次世界大戦中のフランス政府でした.
 この為,フランス政府は大戦中に入国した外国人の管理に迫られることになります.
 こうして,1917年4月に内務省保安課内に外国人身分証中央室が設置され,外国人全般に掛る身分証と外国人労働者の為の通行身分証が作られました.

 先ず,4月2日デクレが身分証を規定します.
 このデクレでは,フランスに2週間以上居住しようとする,15歳以上の外交官を除く外国人は,その地に到着後48時間以内に,「無帽で正面」から撮った3枚の写真を添えて県知事に身分証の交付を申請することが求められました.
 そして,この身分証の写真は3年毎に更新しなければなりませんでした.
 この身分証は通行証の機能をも持ち,外国人は必ず所持を義務づけられました.
 滞在許可に関する事項は,身分証の第1ページに赤字で記されています.

 身分証には,本人の氏名,出生地,生年月日,職業,国籍,家族状況,親の出生地と生年月日,15歳未満の子供の名前と年齢,配偶者の姓,年齢,国籍,入国直前の居住地,フランス国内の場合は前滞在地と滞在期間などが細々と記されているものでした.
 また,外国人を泊めた家主や下宿屋は,24時間以内に警察乃至市長に通報しなければなりませんでした.
 外国人が出国したり,死亡した場合でも,その情報を外国人身分証中央室に通知することが求められていました.
 こうして中央室には,身分証から作られたカードが整理され,犯罪歴のデータも集められました.
 そして,身分証を偽造した外国人は国外追放に処せられました.

 次いで,4月21日デクレにより,植民地出身者を含む外国人労働者は,入国時に特別司法警察の国境検問所で通行身分証を作成し査証を受けねばなりませんでした.
 通行身分証は職業毎に色によって識別され,緑色は工業に従事する外国人労働者,淡黄色は農業に従事する外国人労働者に割当てられました.
 雇用契約書を持っている外国人労働者は目的地に向かい,そうでない者は仕事を貰う為に外国人労働者の集合施設に集められました.
 目的地に着くと,外国人労働者は身分証を警察乃至市長に預け,代わりに預かり証を受け取ります.
 雇用主は,身分証を持たない外国人労働者を雇ってはなりませんでした.

 こうしたデクレを受けて,10月には外国人労働者室は軍備省から労働省に移管され,1915年3月に設立された国立農業労働者事務所は,1917年に農務省大臣官房に直属する農業労働者中央室に改組されました.

 この様に,大戦前のフランスは左右対立が主だったのですが,それに代ってフランス人と外国人,特に植民地出身者や敵国人との溝が深まり,外国人を管理する技法に磨きが掛けられていきます.
 ツヴァイクは『昨日の世界』に於て,「人は絶えず訊問され,登録され,番号を付けられ,仔細に調べ上げられ,検印を押されるのであった」と述べています.

 こうして戦時中と言うことで正当化された身分証制度は第一次世界大戦の後も維持され,外国人の監視は警察の主たる関心になっていきました.
 特に外国人の共産主義者や無政府主義者は,混乱の煽動者として警察の監視の的であり,些細なことで逮捕されました.
 そして,些細な事件であっても外国人が関与していれば,それを針小棒大に強調する新聞が出て来ます.
 更に,オスマン帝国によるアルメニア人の大量虐殺や,ロシア革命後の東欧の混乱を恐れる難民が,フランスに流入してくると,フランス人の「外国人嫌い」の感情は益々高まっていきました.

 一方で,1911~13年のフランスの平均出生者数と死亡者数は,,それぞれ74.6万人と72.3万人であり,フランスの人口増加率は極めて低くなっています.
 その上,第一次世界大戦でフランスは大量の死傷者を出し,人口学的危機をもたらしました.
 この大戦で140万人が戦死し,90万人が傷痍軍人となったのです.
 これは有業人口の実に11%に当り,労働力不足に拍車が掛りました.
 その不足を埋めるのが外国人労働者になる訳ですが,既に1917年8月の段階で,労働総同盟書記長のレオン・ジュオーは,戦後に多くの外国人労働者が必要になるだろうが,それに際してはフランス人労働者が賃下げなどの不利益を蒙らない様に,と釘を刺しています.

 勿論,大戦後の雇用状況はジュオーの予想通りに推移した訳です.
 まず,フランスは1919年9月にイタリアとポーランド,1920年3月にはチェコスロヴァキアと協定を結んで,外国人労働者に給与や社会保障などの面でフランス人と同一の労働条件を保証しました.
 しかし,疾病の際に扶助を得るには5年の滞在が必要とされ,老人や障害者が福祉を受けるには15年の滞在が必要とされました.
 それでも,1920年代のマルセイユでは,福祉の恩恵を受けた1.3万人の老人の内,0.3万人がイタリア人でした.

 移民の多くは,マルセイユとルアーブルを結ぶ線の東側に住んでいました.
 鉄鉱山で働く労働者の71%は外国人であり,セメント製造業でも50%が外国人でした.
 パリでは,イタリア人家具師,ユダヤ人の仕立屋,ギリシャ人の靴修理屋,ロシア人のタクシー運転手が多く,イタリア農民は南西部のジェール県やロット・エ・ガロンヌ県に向かいました.
 こうした移民の構成で変化したのは,1921年には4.6万人だったポーランド人移民で,1931年には50.7万人に達し,80.8万人のイタリア人に次ぐ第2勢力になっていきます.

 この時期の移民には所帯持ちが多く,ポーランド移民の様に炭坑住宅に家族で移住してきました.
 そこではポーランド人司祭が住宅街を回り,精神的指導者となっていました.
 1927年4月時点で,ポーランド人司祭は32名を数え,ポーランド移民1.2万人に1人の司祭がいた事になります.
 ポーランドは元々,ロシア正教のロシア人とプロテスタントのドイツ人に対抗する為に,カトリックが国民感情をはぐくむ重要な要素となっていました.
 しかしこの宗教臭は,政教分離によって非キリスト教化が進んだフランス人労働者には理解しがたい事でした.

 また,1924年の北フランスの学校ではフランスの監察下で,ポーランド人児童にポーランド語やポーランド史の補習授業が認められ,1926年に26%に当たる6,630名の児童が受講していましたが,教師の絶対数の不足から効果を上げたとは言いがたいようです.
 更に,農村部のポーランド移民は出来るだけフランスの慣習に順応しようとしていますが,炭坑のポーランド人移民は,自らのコミュニティから出て積極的に交わろうとしないと記録にあります.
 折角農村部に出てフランス人と交渉を持っても,年季が明けて炭坑に働きに行き,元に戻るケースも多く,それ故,行政はポーランド人移民も「同化不能」だという結論を下しています.

 最後に,ポーランド移民の補充に大きく関与していたのが,1924年5月に設立された綜合移民会社です.
 この会社は,フランス炭坑中央委員会や製糖業者中央委員会や,農業労働者中央室の支援を受けた様に,炭鉱業や北東部の農業と結びついており,北欧や東欧に支社を置いて1930年までに40万人の移民を集めていました.
 いみじくも,地理学者のジョルジュ・モーコが1932年に記した様に,「移民はフランス経済のバロメータ」だったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/05/02 23:59


 【質問】
 ロマン・ロランって誰?

 【回答】
 ロマン・ロラン(1866~1944)は,ブルゴーニュ地方クラムシー生まれの作家・劇作家.
 1880年パリに移住エコールノルマルで歴史を学び優秀な成績で卒業し,選ばれてローマに留学後,母校とソルボンヌ大学の音楽史の教授となり,多くの戯曲を書き,また,「ベートーベンの生涯」などの偉人伝を発表.
 第一次世界大戦中,国際赤十字運動に従事し,反戦論文を書いたためにスイスに亡命,レマン湖畔の山荘で次々と作品を書き,反戦メッセージを送り続けた.


 【質問】
『戦場の一年』エミリオ・ルッス著 白水社刊
 大日本絵画の『大陸の機甲戦闘演習』と『鍾馗戦闘機隊』を買いに行ってふと目に止まった.
 そういえば,第一次大戦のイタリア軍物ってあんまり読んだ事無いな,と思ったのでついでに購入.
 まださわりしか読んで無いけど,なかなか面白い.
 第一次大戦のイタリア軍物で,何かオススメが有れば教えて下さい.

 【回答】
 1917年のカポレット戦については,歴史群像No64の記事がよくまとまってる.
 あと,ヘミングウェイの『武器よさらば』はカポレット戦時期のイタリアが舞台.

 オスプレイだと,The Italian Army of World War I と,ドイツ突撃部隊をまねて作った突撃隊についての Italian Arditi って本がある.

 通史としては Isonzo: The Forgotten Sacrifice of the Great War というのがあるらしい.

 マーレー『戦略の形成』の上巻にも,イタリア軍の戦略について触れた論文がある.
 「決定的影響を行使する戦略」だったかな.
 ことごとく失敗している点は興味深いな.

 ウェブだと別宮さんとこか
La Grande Guerra
http://www.worldwar1.com/itafront

 ちなみに主敵であるオースリア軍の本も,全然ない気がする(笑)

 海軍ならhttp://aahaus.exblog.jp/が,オーストリア視点だが日本語で読める.
 参考資料は海外文献みたいだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 確かムッソリーニが日記を書いていたはず.
ムッソリーニ全集の9巻「我が塹壕日記・其他」下位春吉訳 改造社 昭16刊

 あと,同人誌でだけど,ムッソリーニの「我が従軍記」なんてものもある.
 ムッソリーニが一兵卒として従軍し,ヤオルチェックを越えてロムボン頂上へとか,雪のアルプス山岳戦だとかモンファルコーネを越えてカルニア山中の1ヶ月だとか,そんな感じの日記.
 嘘か誠かはしらない.

名無しの愉しみ in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 第一次大戦のRumania戦線の話だったら,小説だけど,Hans Carossaの『ルーマニア日記』はある程度,実体験を元にしていましたっけ.
 あと,Turkey戦線の話だと,『平和を破滅させた和平』一推し.
 そう言えば,最近ムスタファ・ケマルの伝記だったかが出てましたっけねぇ.
 結構分厚いのにリーズナブルな価格だったような気がする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 「トルコ狂乱」なら今年ベスト.
 伝記ってよりは群像劇.

 75mm砲に77mm砲弾が入らないのは判る.
 判るけど,炸薬が入ったまま・信管ついたままの砲弾の外側を,グラインダーで削るか?,おい.
 他に手が無いったって…….

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イタリアは第一次世界大戦でもヘタリアだったのでしょうか?

 【回答】
 その通りだった.
 トリエステと南チロルに釣られて連合側に参戦したのはいいが,装備は旧式,定員も将校も定員割れしていたイタリアは,大戦を通じて勝利と言うものに全くと言っていいほど縁が無かった.
 相手が殆どオーストリアのみだったにも関わらずだ.
 特に1917年10月に行われたカポレットー突破戦では60万人以上の大損害を受けて,英仏の援助なしでは戦線を維持できないほどにまで戦力が落ち込んでる.
「敵よりも恐ろしい味方」
と言うのは当時も健在だったようだ.

 因みに,唯一の勝利といえるのが休戦条約が発効した後に攻勢に出てオーストリア軍から30万人ほどの捕虜を得た時.
 第一次世界大戦サイトの別宮氏はこの勝利を
「ただ捕虜の収容経費のみ負担したようなものだが,イタリー人は何か勝利が欲しかったのだろう.」
と,評してる(笑)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナンセン・パスポートとは?

 【回答】
 国籍を失った難民達に外国へ出ることを認めるパスポート.
 第一次大戦後,難民対策の一つとして,著名な科学者・探険家のフリチョフ・ナンセンによって始められた.
 以下引用.

 第一次世界大戦のときには多くの人が犠牲になり,自分の家や国を追われた人達もたくさんいました.
 国際連盟は,この人達の援助活動をしなければならないと,ノルウェーの北極探険家のフリチョフ・ナンセンを初代の難民高等弁務官に任命したのです.
 ナンセン高等弁務官は大変活動的で,探険家として科学者として,ヨーロッパ中の尊敬を集めていました.
 彼は各国の政治的な指導者に会い,「難民をほっておいてはいけない」と訴えました.
 この活動によって,大戦の捕虜達,ロシア革命で国外に逃れた人々,ロシア国内の飢餓難民,トルコに逃れたギリシャ人など数百万人が援助を受けたのです.
 また,もう一つナンセンの活動で大きなものは,国籍を失った難民達に外国へ出ることを認める「ナンセン・パスポート」を発行したことです.
 彼の死後もこの機関は活動しましたが,他にも幾つかの機関がそれを受け継ぎ,1951年にUNHCRが国連総会の決議によって設立されたのです.

野中聖子〔国連難民高等弁務官東京事務所広報室職員〕 from 「地球行ボランティア11人」
(つなん出版,2005/2/15),p.39


 【質問】
 フリチョフ・ナンセンって誰?

 【回答】
 フリチョフ・ナンセン Fridtjof Nansen (1861~1930)は,ノルウェーの北極探検家.
 クリスチャニア(現オスロ)で弁護士の子として生れ,現在のオスロ大学であるクリスチャニア大学において動物学を学ぶ中でグリーンランドを旅し,帰国後も博物館などで動物学の研究を継続して1888年には学位を取得.
 その後グリーンランドをスキーで横断,同島内陸部の研究を進めて探検家としての知名度を高め,国や国民からの財政支援をもとに海軍の造船技術を導入した強化船フラム号を建造し,1893年にオスロを出航,北緯86度14分へ到達し,1896年に帰国した.


 【質問】
 ロシア革命は東欧にどのような影響を与えたのか?

 【回答】
 羽場久氵尾子(文中敬称略.他も同じ)によれば,東欧においては,10月社会主義革命以上に,二月革命によるツァーリ体制崩壊が決定的意味を持ったという.
 すなわち,
・東部戦線が崩壊し,一時的にせよ同盟軍側勝利の可能性が生まれた
 協商国はロシアに代わる軍事力をアメリカに求め,アメリカは平和と民主主義,更にポーランドの独立や東欧諸民族の「自由な自治的発展」を掲げて参戦した.
 また,協商国はオーストリア=ハンガリー内部の民族運動に着目し,内側から崩そうとし始めた.
 同盟国ではドイツの軍事力が強化され,東欧諸民族を支配するオーストリア=ハンガリーのドイツへの軍事的依存を生み,それは帝国内諸民族との妥協の放棄を意味するものとなった.
・東欧の民族運動諸派が,路線変更を余儀なくされた
 ツァーリに依拠して解放と独立を試みようとしていた,東欧のスラブ主義者たちは後ろ盾を失い,運動の拠り所を協商国に求めることになった.
 帝国内改革派や地域連邦的改編派は意味を失い,運動の主流の座から退いた.
 代わって,従来少数派だった独立と自決を要求するグループが,急速に脚光を浴びることとなった.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.12-13
を参照されたし.

mixi, 2016.10.31


 【質問】
 ロシア十月革命のほうは,東欧にどのような影響を与えたのか?

 【回答】
 羽場久氵尾子(文中敬称略.他も同じ)によれば,
・協商国が,対独政策のみならず対ソ政策においても,旧来軽視していた東欧の諸民族を,戦勝国による戦後国際政治に利用しようとする動きに繋がった
・中欧同盟の諸民族内部に,対ソ単独休戦交渉反対闘争とストライキを呼び起こし,同盟支配層からの諸民族の離反を,さらに促進することとなると共に,内からの民主主義的・社会主義的変革の動きに繋がっていった
 民族運動については,ロシアからの離反傾向はさらに拡大.
 他方,当時東欧を含むヨーロッパにおいて,ロシアの社会主義革命を自国の「モデル」としてとらえる国や政党は殆どなかった.
 ロシアにおいて労農同盟,土地分割,民族自決に関するスローガンが出されたときは,農民・民族問題を抱える東欧においては示唆的であったものの,ヨーロッパの多くの社会主義者は,ロシアの歴史的特殊性,とりわけ封建的な諸課題を解決する手段として理解し,彼らは自国においては異なった方法により異なった社会主義体制が創出されるであろうと考えた.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.14-15
を参照されたし.

 もしかしたら,ロシアの社会主義革命をモデルととらえていたのは,ソ連に盲従していた戦前の日本共産党くらいだったのかもしれない.

mixi, 2016.11.3


 【質問】
 ロシア革命はスロヴァキアにはどのような影響を与えたのか?
Milyen hatást adották 1917-es oroszországi forradalmak Szlovákianak?

 【回答】
 長與進(文中敬称略.他も同じ)によれば,チェコとの合同によるスロヴァキア独立に大きな影響を与えたのは,ロシア革命ではなく,ハプスブルク帝国解体のほうだった.
 第一次大戦が勃発すると,スロヴァキア人の民族運動の中心となっていたスロヴァキア民族党は,ハプスブルク帝国への忠誠を宣言して自発的に政治活動を停止する「消極的待機」政策をとっていた.
 しかし帝国の崩壊の迫る1918年,リプトウスキイ・スヴェティー・ミクラーシ Liptovský Svätý Mikuláš の町(現Liptovský Mikuláš)でのメーデー集会において,
「オーストリア=ハンガリーの諸民族の,したがってチェコスロヴァキア種族のハンガリー枝族(スロヴァキア人を指す)の自決権をも,無条件で承認することを要求する」
ことが決議され,ハンガリー国家からの分離と,「チェコスロヴァキア国家」指向の姿勢を明確にしていった.
 赤色革命がスロヴァキアに影響をもたらしたのは,むしろ独立後のことになった.
 クン・ベーラ率いるハンガリー赤軍が,スロヴァキアへ侵攻してきたからである.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.62-79
を参照されたし.

ミクラーシ集会
こちらより引用)

mixi, 2016.11.04


 【質問】
 ロシア革命はチェコにはどのような影響を与えたのか?
Milyen hatást adották 1917-es oroszországi forradalmak Csehországnak?

 【回答】
 林忠行(文中敬称略.他も同じ)によれば,従来,チェコ人指導者層ではハプスブルク帝国存続を前提としてチェコ人の自治権拡大を目指す,「帝国内改革派」が主流だったという.
 彼らは,ロシア二月革命後に召集されたウィーン政府の帝国議会において,民主主義,議会主義の思想と,民族自決と諸民族の要求に基づく憲法改正を要求した.
 しかし,チェコの各都市ではロシア革命の影響も受けつつ,労働運動が急進化しており,民族主義急進派はそのエネルギーを「民族独立」という標語によって吸収しようとした.
 チェコ連盟の総会は,憲法審議にチェコ人代表を送り込むことを拒否.
 一方,ウィーン政府は「帝国内改革派」への最大の譲歩として,政治犯を恩赦で釈放するが,釈放された民族主義急進派政治家がチェコ連盟の主要なポストを占めるようになり,1918年1月頃には,国内においても半ば公然と独立国家を要求する声が聞かれるようになったという.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.24-42
を参照されたし.

mixi, 2016.11.03


 【質問】
 ロシア革命はハンガリーにはどのような影響を与えたのか?
Milyen hatást adották 1917-es oroszországi forradalmak Magyarországnak?

 【回答】
 羽場久氵尾子(文中敬称略.他も同じ)によれば,
ハンガリーの都市知識人が目指したのは,主権を基礎としつつも,ばらばらの民族国家の形成ではなく,諸民族共存による連邦・連合の試みだったという.
 こうした中で起こったツァーリ体制の崩壊とロシア革命は,他のスラブ民族にとっては独立への転機であったが,ハンガリー「民族」にとっては,ヨーロッパの民主主義的変革とこの地域の平和的・安定的政治・経済統合を保障し得るものと映った.
 中央諸民族による連邦共和国構想などが取りざたされた.
 しかしスロヴァキア,トランシルバニアでは独立要求の高まりが,自治と連邦化の試みを乗り越えていった.
 また,ロシアの社会主義体制の実現は,この地に新たな大国の介入を呼び込むものとなったという.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.131-137
を参照されたし.

mixi, 2016.11.03


 【質問】
 ロシア革命はポーランドにはどのような影響を与えたのか?
Milyen hatást adották 1917-es oroszországi forradalmak Lengyelországnak?

 【回答】
 ロシア革命の結果,ロシア帝国が崩壊.
 それとほぼ同時に,ドイツ帝国及びハプスブルク帝国も崩壊したため,それまでポーランドを三分割していた帝国が全て崩壊したことになり,ポーランド地域に権力の真空状態が出来たことにより,ポーランドは独立することができた.
 その際,
・ポリシェビキ革命によってポーランド社会に撒かれた騒擾の種と,社会不安に乗じて活発化する左派勢力,ポーランドの赤色革命化の懸念から,対同盟国依存を加速させる「消極派」
・ロシア革命によって事実上ロシア軍が解体された後に生まれた,ソヴィエト赤軍の一部となったポーランド人部隊や,自立的に同盟国との戦闘を継続する部隊などの各種武装勢力
・西欧で外交活動を行うポーランド国民委員会
などの勢力が互いに連動し合い,錯綜しながら,独立へ向かって進んでいった.

 詳しくは
羽場久氵尾子編『ロシア革命と東欧』(彩流社,1990),p.82-112
を参照されたし.

mixi, 2016.11.06


 【質問】
 ポーランドにおけるボルシェヴィキ兵の士気は高かったのか?

 【回答】
 以下の記述を信頼するならば,「弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた」にも関わらず,「執拗な抵抗」ができるほどには高かった模様.

 以下引用.

 ポーランド戦線で厳しい試練に晒されたボルシェヴィキ部隊の残兵が,戦前,スイスのある実業家がコヴォに創設した古い織物工場に立て篭もっていた.弾薬と食糧は殆ど底を尽いていた.
 それでもかなり豊かで,彼らの貯えはその後,私達を救出したポーランド師団の到着まで持ち堪えるのを助けてくれた.
 ヴェルナー織物工場は浸水地域の真ん中に位置していた.
 くすんだ空の下の,ひどく屋根の低い格納庫のような建物の列が,今でも目に見えるようだ.
 灰色の川水にもう浸されていたが,最後の雷雨以来,増水は災害に転じていた.
 沼の鴨を追う猟師のように,臍の辺りまで浸る泥の中で,何人かの部下が溺れた.
 再び水位が上がったとき,赤軍の執拗な抵抗がやっと止んだ.5年間に及ぶ悪天候と,無人のまま打ち捨てられていたために腐ってしまった一部の建物が押し流された.
 その工場を襲撃し占領することが,まるで敵への古い恨みを晴らすことであるかのように,部下達の攻撃は熾烈を極めた.

Marguerite Yourcenar ユルスナール著「アレクシス とどめの一撃 夢の貨幣」
(白水社,2001/10/10),p.199-200


 【質問】
 1916年のカザフ蜂起はなぜ起こったのか?

 【回答】
 ロシア人農民の大規模な入植と,第一次大戦で戦場での労役を課せられたことによるという.
 以下引用.

 カルムイク人やバシキール人に続いて,ロシアは西アジアに住む中心的な遊牧民と対峙した.
 彼らは現在カザフ人と呼ばれているが,帝政時代にはロシア人から「キルギス人」と呼ばれていた.
 これらの人々の抵抗も1850年までに平定され,その後,その地域でも入植が始まった.
 カザフ・ステップ地帯の植民地化は1890年代に急激に早まり,1905年の革命後にはさらに早まった.
 「無人」のカザフ・ステップに対する大規模な植民地化は,20世紀初めの体制側にとって,ヨーロッパ・ロシアやウクライナの各地で人口過剰な農民を貧困から救い,それによって帝政ロシアの農業政策に対する農民の不満に対処するという計画の,極めて重要な要素だった.
 1914年に先立つ10年間に,300万人のスラブ系移民がカザフ地域に押し寄せた.
 1891年のいわゆるステップ法によって,遊牧民の追い立てに道が開かれた.というのも,先住民には一人当たり僅か40エーカーの土地しか与えられず,遊牧生活を送るには,とても不充分だったからだ.14

 この結果,1916年に先住民による蜂起が発生したが,政府がカザフ人を徴用して<第一次大戦の>戦線での労役に就かせようとしたことも,原因の一つだった.
 蜂起は鎮圧され,20万人以上のカザフ人が殺害された他,それ以上の人々が国境を越え,貧しい中国領トルキスタンへと逃れていった.
 トルキスタンでは入植者の存在は,まだ大して問題化していなかった.
〔原注〕
 14. M.B.Olcott, The Kazakhs, Hoover, Stanford, 1987, p.86.
――――――Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.33

 【質問】
 ソルジェニーツィン『一九一四年八月』ってどうなの?
 ググると不評っぽいのがちらほらあるけど.

 【回答】
 まぁ,「通説」じゃ「愚将」扱いのサムソーノフを持ち上げてるからな.
 ただし彼は「歴史家」ではなく,「(従軍経験もある)小説家」な訳で,開戦前後のロシアの世情や独露両軍の描写は,中々味わい深く,「小説」としては面白い.

 で,この小説,元は「赤い車輪」という,いわばソルジェニーツィン版『静かなドン』とでも言うべき,革命前夜~国内戦終了までの一コザックの生涯を描いた大長編の,一部となる予定だったらしいのだが,続編については和訳は出て無いし,当のソルジェニーツィン本人も亡き今となっては,完結したかどうかすら解らない.

 未完でも良いから,続編を読みたい一冊なんだが…

軍事板,2011/02/02(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?

 【回答】
 その可能性は非常に高かったようである.
 以下引用.

 戦争がロシア帝国を崩壊に導いたが,これは軍が敗北したからではなく,銃後が崩壊したからだった.
 1917年の革命に先立つロシア軍の戦いぶりは,西側同盟諸国に引けをとらなかった.
 たとえロシア軍が概してドイツ軍より劣勢に立っていたとしても,フランス軍やイギリス軍にも同じことが当て嵌まった.
 さらに,1916年のロシアの経済的・軍事的業績にも目を見張るものがあった.46
 ブルシーロフはオーストリアとドイツの軍を敗走させたが,それは1918年以前の協商国側の攻撃では最大の戦果だった.
 さらに,オスマン軍に対してロシア軍は,イギリス軍よりも遥かに善戦した.
 イギリス軍が1915年にゲリポル半島とメソポタミアで敗北したのとは対照的に,ロシア軍はオスマン軍に連戦連勝を収め,ロシア革命が発生した時点で,アナトリアに深く侵攻してもいた.

 1917年に革命が勃発したのは,一つには銃後での戦時経済の苦境のためであったが,それ以上に,殆どのロシア人エリートや都市部の大衆の間で,帝政への信頼が完全に破綻したからに他ならない.

 皮肉なことに,1917年2月時点のロシアには,戦争で勝利を収めるあらゆる可能性があった.
 1916年にイギリスの軍事的な潜在能力がようやく日の目を見たことで,ドイツへの圧力は圧倒的になっていた.
 さらに,敗戦の可能性に絶望したドイツは無制限潜水艦戦に突入し,その結果,間もなくアメリカの介入も招いた.
 これにより,協商国側の最終的な勝利はほぼ確実になったのである.
「勝利を手に掴みながら,その国(ロシア)は地に倒れた」47
とのチャーチルのコメントは正しかった.

 はたして帝政が,第一次大戦後に避けられそうになかった政治的危機を切り抜けられたかどうか,また戦後に体制が崩壊した場合,ロシアの政治がどのような形態をとったかを評価するのは難しい.
 同様に,ロシアが戦勝国として参加したであろう,第一次大戦後の国際体制の特質や長期安定についても評価は難しい.
 しかし,聡明で保守的な閣僚達が常に予言していたように,君主制の正統性,軍や警察の抑圧的な力がなかったら,ロシアの社会と経済のエリートは革命的社会主義の猛攻撃に耐えられなかっただろう.
 既に述べたように,もしこのようなプロセスが1914年以前の平時に起きていたら,ドイツ軍を先頭にヨーロッパの一致した軍事介入が続いていた公算が大きかった.
 金融的にも地政学的にも列強諸国がロシアに有していた権益は極めて大きかったため,ロシアがヨーロッパの資本主義およびバランス・オブ・パワーから脱退し,債務の支払いを拒み,おまけに自国を国際的な革命の基地とすることは許せなかっただろう.
 さらに,ロシアのエリートも戦争で弱体化していなかったため,社会主義の革命政権が国内外の反革命に直面したまま,長期に渡って権力を掌握できた可能性も殆どなかった.
〔訳注〕
 ※ ブルシーロフ=1853-1926.ロシア軍人.第一次大戦で南西戦線軍司令官を務め,オーストリア軍を破った.二月革命後は臨時政府から軍最高司令官に抜擢された.

〔原注〕
 46 例えばファーガソンは,「ロシアが生産性を増加させた点から見れば……ロシアの戦時経済は最も成功を収めた」と述べている.Ferguson, Pity of War, ch.9, p.263.
 47 W.S.Churchill, The World Crisis, 1911-1918, Four Square Books, London, 1964, p.776.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.148-149


 【質問】
 第一次世界大戦中のスペインについて誰かご存知ですか?
 なにか同盟とか参加してましたっけ?

 【回答】
 第一次世界大戦中のスペインは中立政策.
 しかし戦前戦後のインフレやらなんやらで貧民増大,左翼運動や民族運動が激化し暴動やテロが頻発.
 やがてクーデターが起きて軍部独裁になったり共和政になったり,ろくな時代ではなかった.
 戦前の日本みたいな感じだな.

 ちなみに「スペイン風邪(インフルエンザの大流行,死者4000万人以上)」はちょうど世界大戦末期に起きたが,アメリカのシカゴが発生源にも関わらず,流行の情報が中立国スペインからだったため,不幸にもスペイン風邪と命名された.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦の時のスイスの中立政策は真っ当な中立だったのでしょうか?
 第二次世界大戦の時の中立のようにドイツに肩入れしたりとダーティーだったりしたのでしょうか?

 【回答】
 一次大戦中のスイスは結構まっとうに中立国として機能しています.
 戦争当事国の外交官も自由に出入りできるため,各国の公式/非公式の会談の場(ついでに言えば亡命者とスパイもいっぱい)として機能していました.

 ただ,その代償として,フランス系住民とドイツ系住民の緊張が,けっこうヤバいレベルまで高まったり,国境警備に大幅に動員した結果,労働力の低下や戦後に退役した兵士の失業問題が発生したりしています.

軍事板


◆◆USA


 【質問】
 アメリカが第一次世界大戦に参戦したのはルシタニア号事件が原因と学校では習ったのですが,事件のあった日と実際に参戦した日には随分開きがあるみたいです.
 本当にこれが原因なのでしょうか?
 ほかに原因があるのでしょうか?

 【回答】
 アメリカが参戦を決めたのはドイツの無制限潜水艦作戦の「再開」,特にルシタニア号事件と,メキシコに同盟側への参戦を呼びかけた電報がアメリカに漏れた,「チンメルマンノート事件」が要因.
 戦争したり国境紛争が絶えなかった反メキシコ感情の強いアメリカにとって,後者の影響は特に大きかった.
 何せ,チンメルマンノートの全文はアメリカの歴史教科書に出るくらいの代物.
 これにより,連合側への参戦の世論が一気に高まった.

 因みにメキシコの回答はもちろん否.
 回答する前にアメリカは参戦決めちゃったしね.

 なお,この電報の内容は暗号解読でイギリスが情報を手にしたものを,暗号解読の手法を知らせない為に,ワシントンD.C.のドイツ大使館から電報のコピーをパクって,アメリカに知らせると言う,かなり遠回りなルートで送られている.

 近々,ちくま学術文庫から,『決定的瞬間 暗号が世界を変えた』(バーバラ・タックマン著,筑摩書房,2008.7)という本が再刊されるので,一読をお勧めします.

 ちなみに,当時の時点でアメリカを含めた諸外国が「どー見ても偽電だろ」って代物を,
「いや,これ本物だよ」
って当の本人が認めてるんだよ.

 ツィンメルマンが,問題の電報が本物だと認めたのは,まだ米国の参戦前なのだが,電報の内容が漏れた時点では,ドイツはこれが重要な問題だとは認識していなかった.
 第一次大戦後明らかになったドイツ側の資料を見ても,ツィンメルマン電報の内容については,戦時中に公表されたものと同一だったと見て,ほぼ間違いはない.

 ビスマルクは草場の陰で泣いていただろうな.
 我々の祖先は次の戦争でこんな国と,何で同盟しようと考えたのだろうか?…

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次大戦参戦後のアメリカの経済体制は?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,財務長官ウィリアム・マカドゥーの指揮の下,戦争金融公社を作り,民間企業の軍需産業転換を助成し,ヨーロッパ諸国の例にならって,産業のあるものは国家が経営を引き継ぎ,産業のあるものは所有権を国家が握ったという.
 連邦政府は直接の国家運営のために約1120億ドルを投じ,その他,米財務省は同盟国政府へ100億ポンドを貸し付けている.

 なお,戦争金融公社は後の大恐慌において設置された復興金融公社のモデルとなったという.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.40-41を参照されたし.


 【質問】
 アメリカの動員兵力は?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,1917年1月には20万だった米軍は,戦争終結時には400万人に増加しており,そのうち200万人が欧州派遣米軍に勤務し,その75%が実戦を経験した.
 これを可能にしたのは1917/5/18の選抜徴兵法であり,この法律では2390万人以上の男性が自動的に兵役に登録され,このうち280万人が兵役につき,徴集兵は陸軍兵士の53%,軍隊全員の45%を占めた.
 そして,そのうちの11万2432人が戦死した.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.41-42を参照されたし.


 【質問】
 第一次大戦における米国の「大本営発表」は,どんなものだったのか?

 【回答】
 さて,大本営発表ですが,第一次大戦の米国でも繰り広げられていました.
 第一次大戦の米国の検閲は,1917年にコロラド州のジャーナリスト,ジョージ・クリールによって形作られました.
 それまで,米国では民間に対する戦時検閲と言うものを行ったことが無い為,彼はゼロからこの検閲体制を立ち上げなければ成りません.

 しかし,ゼロから立ち上げると言うことは,逆に言えば,彼の遣りたい放題のことが出来たと言う事と同義な訳で,クリール委員会は,強力な発言権を有していました.
 その委員会の理事には,陸軍省,海軍省,国務省各長官が就任していたのもさることながら,委員会の機能には,検閲の指導者だけではなく,政府の広報やプロパガンダの機関としても活動する事が含まれていました.

 当時,唐突に参戦した米国国民の内,800万人の故地はドイツでした.
 宣戦してから6週間後に,米国軍に入隊した国民は,僅かに7万3千人に過ぎません.
 多くの国民にとって,第一次大戦は蚊帳の外の出来事でした.
 この為,政府は世間の熱狂を作り出す必要があり,クリール委員会にその熱狂を作り出す要請をした訳です.

 クリールは,政府の要求に唯々諾々と応じ,その要求,即ち戦争への支持世論を喚起する為に,映画俳優,映画監督,芸術家,無声映画の弁士達などを総動員して,国民へのプロパガンダに努める一方,新聞と雑誌には,連合国側に有利なニュースを印刷する様に促しました.
 また,委員会の中にニュース局を組織して,米国参戦後,終戦までの1年半の間に,6,000もの新聞発表を行っています.

 ニュース局は情報を統制し,公表すべきではない情報についてジャーナリストに忠告を与え,政府の秘密保持に対する要求を解釈し,難しい質問は陸海軍各省に差し向けました.
 首都ワシントンの記者達は,民間検閲の要請に従って熱心に働いたのですが,これによる解釈の混乱,特に陸海軍各省の解釈の違い,時々の政府の機密保持に対する要求の解釈の違いは,国内の報道機関や出版社各社に様々な混乱を起こしました.

 こうした検閲を行う為の根拠法としては,最初に挙げられるのが,1917年に制定されたスパイ防止法で,これは,「合衆国の陸軍又は海軍の軍事作戦又は成功を妨げる目的を持って,虚偽の報告又は虚偽の陳述」を故意に為したり伝えたりする者,陸海軍に於ける,「不服従,不忠誠,叛乱,又は義務の拒絶」を故意に引き起こしたり引き起こそうとする者,或は新兵徴募及び入隊を故意に妨害する者に対し,1万ドル以下の罰金及び20年以下の懲役を課すものと定めていました.

 この法律には,当該法律に違反する刊行物の郵送を差し止める条項も加えられていました.
 つまり,政府は単に一つの号を保留するに留まらず,新聞社を罰する為にこの条項を使用する事が出来ました.

 新聞や雑誌については,その輸送量の多さから1879年の郵便物分類法に基づき,安価な第二種郵便物の扱いをされていましたが,認可を受ける為には,定期刊行物は,決められた間隔で最低年4回の発行が義務付けられていました.
 郵政長官は,その刊行物が要件を満たさないと判断すれば,司法的判断抜き(郵政長官はその問題に関するエキスパートという位置づけの為)で,第二種郵便物の認可を取消すことが出来ます.
 つまり,ある刊行物がたった1回でも発行を保留されたならば,郵政長官は定期的な刊行が中断されたと見なし,その刊行物の第二種郵便物の扱いを停止することが出来た訳です.
 郵送料の安い第二種郵便物の扱いが停止されたら,正規郵便物の料金が課せられるので,その出版社,新聞社は致命的な打撃を受けることになります.

 戦争が終わる1918年半ばまでに,郵政長官は,45の社会主義新聞を含め75の新聞に対し,この1879年条項を適用し,多くは戦争に関する論評を「自発的に」停止しました.

 もう一つの根拠法については,1917年の対敵貿易法で,これは合衆国と外国との間で,「郵便,有線,無線,及び他の伝達手段」を用いて為される如何なる通信についても,大統領が検閲を認め,国内に於て作成された「合衆国政府,国家,または戦争行為に関する」外国語の記事を翻訳し,それがその出版物が郵送に出される日付かその前に,地方郵便局長の下に送ることを求めており,その法律に従わない英語以外の刊行物は,郵送を差し止められると言うものでした.
 これは極めて厳格に運用され,時には老衰で死亡寸前の人間に対しても訴追と収監が行われたものでした.
 因みに,ドイツ語新聞に陸軍の天然痘予防接種計画に対する批判的論説を発表した彼は,1年の有期刑を言い渡され,刑務所に収監中に死んでしまいました.

 1918年にはスパイ防止法が拡張され,扇動防止法が追加されました.
 これは,うっかり衝動的に為された不忠な発言すら罰すると言うもので,合衆国憲法修正第一条の歴史に於て,最も強力な制限を生み出し,約2,000名の人々が,スパイ防止法,扇動防止法で訴追され,1,000名が有罪となっています.

 これらの検閲関連の法律は,戦後に見直しが掛けられ,悪名高い扇動防止法は1921年に廃止され,スパイ防止法は合衆国の宣戦布告が行われない限り,行使されないとして,休眠状態にされました.
 但し,郵便物認可取消し権限は生き残り,1939~41年の間,効果的に使用されています.

 こうした連邦法は謂わば事後法で,刊行物が発行されたとか,放送が行われた後に適用されるものでした.
 情報漏洩を防止するには,発行前とか放送前に手を打たないと,手遅れになります.
 其処で,1919年にクリール委員会が解散する前,次の戦争に備えての戦時検閲の土台を築こうとしました.

 委員会は検閲局長を文官とし,2人の武官補佐を付ける体制として,武官補佐は,郵便・電話・電報を担当する陸軍武官と,有線・無線通信を担当する海軍武官から構成され,検閲の裁定に関する調整を改善して不一致を避ける為に,郵政省,国務省,戦時貿易委員会が,検閲局長の事務所に詰める連絡員を置く様に勧告していました.

 1921年,陸軍省と海軍省の長官は,勧告に沿って検閲計画の共同策定を行い,郵政長官,国務長官,商務長官に提出します.
 これらは軍が安全に行動する,と言う視点で計画が練られており,郵便の検閲は郵政長官が大部を負うと言うものでした.
 国務長官や商務長官は賛成したものの,当事者になる郵政長官が反対し,対案として,郵政長官主導で検閲委員会を組織すると言う案を出しますが,こちらは陸海軍長官の賛成が得られず,結果的にこの動きは頓挫することになりました.

 こうして,無為無策の儘,米国は第二次世界大戦に突入していきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月02日22:39
青文字:加筆改修部分


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