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◆◆◆医療総記
<◆◆総記
<◆WW1 目次
<戦史FAQ目次
【質問】
第1次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?
【回答】
大流行で,ただでさえ公衆衛生のよくない前線で猛威を振るったと伝えられている.
http://ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html
を参照.
両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した.
ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった.
戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない.
全世界で2000万〜6000万人が死亡.
大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い.
【質問】
「スペイン風邪」の最初の発生はスペイン?
【回答】
いいえ.
インフルエンザ・ウイルスに対抗する手段としては,インフルエンザ・ワクチンがあります.
これは毎年2月にWHOが,前年の状況,南半球の状況などを考慮して,その年に流行するであろうと思われるインフルエンザの種類を決め,そのワクチンを作る様に各国に要請するものです.
そのワクチンは,鶏卵を使って作成しますが,大量生産が効かない為,日本の場合は11〜12月の接種期にやっと間に合うかどうか,と言う綱渡りな状態となります.
日本の場合,接種は任意ですから未だ数的に何とかなりますが,今回の様なインフルエンザの蔓延状態で,全員に対して接種しなければならないとなると,日本の製薬会社を総動員しても到底間に合わなかったりします.
で,このWHOの要請によるワクチンと,実際に流行したインフルエンザ・ウィルスが全く違っていたらどうなるか.
…答えは,「無力」です.
全く抗体が違うので効き目はありませんし,ワクチンを作るにも一朝一夕に作れるモノではないので,結局間に合いません.
今回の新型インフルエンザの場合は,更に感染力が弱い為,ワクチンを作るのも一苦労だそうです.
インフルエンザ・ウィルスに感染した場合,宿主の細胞内に入って増殖を行うのに必要なのが赤血球擬集素とノイラミニダーゼの2つが重要な働きをします.
抗インフルエンザ薬は,この2つの酵素を叩くのが主要な任務です.
ワクチンが接種されていなくとも,酵素が弱い内は,抗インフルエンザ薬が効果があります.
その増殖行為は,内部に潜り込んだウィルスが遺伝子(と言うかRNA)を脱核し同じ遺伝子のコピーを作る所から始まります.
そのコピーはノイラミニダーゼの作用によって細胞から外界に送り出されていきます.
そのコピーが別の細胞に取り付いて,再びコピーを行い…それが延々と繰り返されるのがインフルエンザ・ウィルスの増殖と言う事になります.
抗インフルエンザ薬,中でもオセルタミビル(通称タミフル)は,ノイラミニダーゼの作用を阻害し,細胞の出口を閉じて新しいウィルスを外に出さない様にする働きを持っています.
つまり,外に出さない事で,インフルエンザ・ウィルスのこれ以上の増殖を抑えると言う働きをする訳です.
但し,このオセルタミビルは万能ではありません.
このオセルタミビルが効力を持つのは,インフルエンザに罹患してから僅か48時間以内に使用しないといけません.
それ以上の時間が経つと,既に体内に蔓延しており,そうなってからでは効き目がありません.
何処かの風邪薬の宣伝ではありませんが,「くしゃみ3回」の段階でないと駄目だそうです.
ところが,実際に,インフルエンザ・ウィルスに感染したと言っても,何時感染したかが判りません.
特に素人なんかはそうですね.
オセルタミビルは,従来の薬品と異なり,経口服用薬です.
従来は英国で開発されたザナミビル(通称リレンザ)が有効とされましたが,これはスプレーで鼻腔や口腔から気道に吸入する必要が有りました.
スイスのロッシュ社で開発されたオセルタミビルは,経口服用薬となった事から,従来より手軽に服用出来る様になっており,しかもA型,B型の何れにも薬効があります.
しかし,既に述べたように投薬のタイミングが徹底的に重要で,早すぎれば効かないまま,薬効が衰えてしまいますし,遅すぎれば薬で対応出来ないほどウィルスが増殖します.
これには専門医の判断が重要となる訳です.
因みに,予防の為にオセルタミビルを飲むなんて言うのは,全く馬鹿げた話だったりします.
更に最近では,オセルタミビルをも寄せ付けないインフルエンザ・ウィルスも出て来ているので,予断を許さない状況でもあります.
尤も,こうしたウィルスは,形を自在に変え,毒性を高めて,抵抗力のない人,鳥,豚を襲うものですが,宿主が全滅しては自らも全滅してしまうので,必ずと言って良いほど相手を全滅させる事はありません.
一度出現しても,何時の間にか去り,人々が忘れた頃に,また牙を剥くという繰り返しです.
1918〜20年に掛けて猛威を振ったインフルエンザは,全世界で数千万人とも呼ばれる死者を出し,第1次大戦の戦死者1,000万人を大幅に上回る猛威となり,20世紀最大の人的被害の1つとなりました.
このインフルエンザは,良く「スペイン風邪」とか「スペイン・インフルエンザ」と呼ばれています.
しかし,最初に発生したのは米国でした.
1917年7月以降,連合国側に参戦した米国は,兵士達を大動員し,召集された彼等は兵舎に缶詰にされて訓練を受けていました.
1918年3月4日,カンザス州のキャンプ・ファンストンの軍病院に発熱と頭痛を訴えた兵士が押し寄せたのが,記録上最初のインフルエンザ症状を持った患者出現とされています.
11日には,同じカンザス州のフォート・ライリーで,炊事当番のアルバート・ギッチェル二等兵が,朝食前に熱,喉の痛み,頭痛を訴え,昼までにその地の病院には107名,週末には522名の患者を数え,4月中に患者数は1,000名を超えました.
因みに,キャンプ・ファンストンでは春の間に死者48名を数えていましたが,報道されることもなく,大部分は症状が数日で消えてしまった為,この病気は"three
day's fever"(三日熱)と言う名称が与えられました.
同じ時期に同じカンザス州ハスケルの学校で集団感染が発生し,デトロイトのフォード自動車工場で1,000名以上の病欠者を出し,4月から5月にかけて西に移動してサンフランシスコ北方のサン・クェンティン刑務所で1,900名の囚人の内500人が罹患し,3人が死亡しました.
このインフルエンザはどこから来たかは,現在に至るも判っていません.
現在では,このインフルエンザ・ウィルスは渡り鳥によって持ち込まれたとする説が有力です.
他にもカリフォルニア,フロリダ,ヴァージニア,アラバマ,サウス・カロライナ,ジョージアの兵営でもインフルエンザ患者が出たことが判っていますが,当時はインフルエンザは報告義務がある法定伝染病ではなく,そればかりか幾つかの州では死亡者の原因別報告をワシントンに送る義務さえ有りませんでした.
こうして,1918年の「春の先触れ」は深く,静かに始まりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/28 22:24
青文字:加筆改修部分
1918年春,カンザスで新兵達の間で大量の死者や入院患者を出した熱病は,何時の間にか治まりました.
その不思議な熱病は,4月,台湾に現われます.
当時,大相撲の興業は,東京大相撲と大阪大相撲に分かれていましたが,それぞれから力士が加わって,合同地方巡業を行っていました.
その地方巡業の1つが,当時日本領土だった台湾巡業で,台北,台中,台南,高雄(当時は打狗)の4つの都市でそれぞれ取り組みを行いました.
この時,尾車部屋の三役候補で,東京大相撲で人気が高かった真砂石が発病し,4月5日に台中の病院で死亡しています.
真砂石以外でも,東京方の長洲洋,大阪方の若木山が死亡,東京方の前頭柏戸や逆鉾,獅子ヶ嶽,大阪方の力士数名が入院し,外にも関係者20数名が病気に罹ったと言われています.
この症状は,悪寒,発熱,四肢の倦怠痛,腰痛,38〜40度の高熱を発し,5日で快方に向かうと言うもので,当地で屡々流行していたデング熱とも違い,発疹を伴わず,伝染性であり,対岸の香港などでも流行していると言う情報がありました.
この症状,正にインフルエンザの症状そのものです.
因みに,台湾対岸の香港や中国南部では,人,豚,鳥が一つ屋根の下に暮らしており,渡り鳥などの糞に混じってインフルエンザ・ウィルスが鶏に取り付き,それが変異して豚や人に感染すると言うインフルエンザ・ウィルスの発生源地域の一つとなっています.
4月に日本でも海軍の軍艦周防に患者150名が発生し,それは海兵団を通じて横須賀や横浜に拡がり,紡績工場の操業停止なども発生しています.
また,靖国神社で臨時に土俵を作って「晴天十日」の条件で行われた大相撲夏場所でも,休場者が続出し,「角力風邪」と名付けられました.
同じ型のウィルスが,米国や中国で同時に発生したとは考えられませんが,渡り鳥によるウィルスの運搬は考えられる経路です.
ところで,この風邪をスペイン風邪と呼んだのは何故か….
スペインでは既に2月頃からビスケー湾に面し,フランスに近いサン・セバスチャン市でインフルエンザが流行していました.
これは局所的なもので,長期に亘るものではありませんでした.
しかし,5〜6月にかけて「フランスから入ってきた」(とスペイン政府がは発表している)インフルエンザの第一波が,スペインを襲いました.
これに対しフランスは,「スペインから入ったものだ」と反論していますが,兎に角,この2ヶ月間にスペインでは約800万人の国民が罹患し,国王アルフォンソ13世や大臣達も病臥するほどでした.
政府の機能や都市機能は完全に麻痺しましたが,病状自体は比較的軽く,マドリードに於ける死者も,5月で56名,6月で220名とそれほどではありません.
当時は「インフルエンザ」という言葉は一般的ではなく,スペイン国民は,当時上演中のオペレッタからこの病気を,「ナポリの兵士」と呼んでいたそうです.
当時,周辺は第1次世界大戦の真っ直中で,スペインは,北欧諸国やスイス,オランダ,アイルランドと並んで中立国でした.
大戦参加の各国は,自国に不利な情報は流しません.
しかし中立国であったが故に,流行の状態は世界中に知れ渡ってしまいました.
こうした情勢のため,スペインにとって,不幸にもインフルエンザは,「スペイン・インフルエンザ」と名付けられることになった訳です.
尤も,悪いことは何でもスペインの所為にすると言う,欧州の悪弊もあった訳ですが….
ただ言える事は,スペインはそのインフルエンザ発生源ではないと言う事です.
その頃,西部戦線では,ルーデンドルフにより第二次のマルヌ会戦が繰り広げられていました.
一時的に戦線を突破し,パリに迫ったドイツ軍は,列車砲でパリを砲撃します.
しかし,7月になると明らかにドイツ軍の攻勢や反撃の勢いが削がれ始めました.
その原因が,長期間の戦争で物資欠乏,栄養不良状態にあったドイツ兵の間に蔓延したインフルエンザです.
体力の低下した状態で,罹患したインフルエンザにより将校が「突撃!」を命じても,兵士達は立ち上がることが出来ませんでした.
ルーデンドルフはその回想録の中で,こう語っています.
――――――
参謀長がインフルエンザの患者数を報告し,自分達の部隊の弱さについて零すのを,毎朝効かなければならないというのは,誠に嘆かわしいことだ.
――――――
そして,
「ドイツ軍が西部戦線においてマルヌの戦いに敗北したのは,新しく参戦した米軍の所為ではなく,ドイツ陸軍の戦力を弱めたあの忌々しいインフルエンザの所為なのだ」
と述べていたりします.
この異状は,6月下旬にニューヨークタイムズに掲載され,東京朝日新聞に転載されましたが,7月15日付京城日日新聞には,ロンドン電として,インフルエンザがドイツ軍の進撃能力を奪っていると言う記事を載せていました.
当然,ドイツ軍も悩んでいたのなら,連合国側も同様に悩んでいました.
4月にインフルエンザはフランス軍においては第6軍(シャトー・ティリ,ソワソン)に,次いで第3軍(モンディディエ)に到達し,戦闘地帯を席巻し,5〜10月の間に139,850名の患者と7,401名の死者を出していました.
英国軍も約200万人の兵力の内,6〜8月の時点で120万人がインフルエンザに罹患し,戦闘どころではありませんでした.
その震源地とも言うべき,欧州派遣米国軍へは4月15日にボルドーの陸軍病院で患者発生が報告されたのを皮切りに,米軍の上陸地であるサン・ナゼールには5月の10日間で54名,ソンム地区近くでは60名の患者が発生していました.
インフルエンザが無ければ,ドイツ軍はパリに入城出来ていたかも知れませんし,連合軍から見れば,1918年夏までに大戦は早くに終わっていたとも考えられます.
やっぱり,ルーデンドルフはこう言いそうですが….
「総てスペインの所為!」
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/02 22:47
【質問】
「スペイン風邪」のウィルスが分離されたのは,いつになってから?
【回答】
昨今,巷を賑わしているのが,インフルエンザと言う代物.
その病気が発症するのは,インフルエンザ・ウイルスが原因だと言うのは,報道されている通りです.
インフルエンザ・ウイルスとは,鳥(特に渡り鳥,水禽類,鶏など),豚(厳密に言えば哺乳類であり,馬やフェレットなども含む),人の細胞を宿主にするものです.
インフルエンザ・ウイルスの大きさは直径100ナノメートル(1mmの10,000分の1)程度なので,肉眼は勿論,顕微鏡でも見る事が出来ません.
この構造が明らかになったのは,1930年代に電子顕微鏡が開発されてからで,これによって初めて白日の下に曝されました.
インフルエンザ・ウイルスは,表面に2種類の蛋白突起を持ち,内部に8つのRNA遺伝子の分節を持っています.
このインフルエンザが猛威を振った1919年には,こうした事が全く判っておらず,古い人体の組織片からその頃のインフルエンザ・ウイルスが分離される様になったのは,更に時を経た1990年代になってからでした.
最近は,こうした遺伝子研究も発展してきたので,インフルエンザ・ウィルスにはA型,B型,C型の3種があることが判りました.
この「型」はインフルエンザ・ウイルスを構成する基質蛋白の種類によって分かれますが,最も感染力が強く,人類を含む動物にとって脅威となるのはA型で,今回流行しているのもA型です.
因みに2005年に日本で流行したのはB型ですが,これは変異が少なく致死率の低いものでした.
このウィルスの表面には赤血球擬集素(Hemagglutinin)蛋白とノイラミニダーゼ(Neuraminidase)蛋白の2つの突起があります.
前者の種類は16種類,後者は9種類あり,理論的にはこの組み合わせを考えると全部で144種類になりますが,実際に人に感染するインフルエンザ・ウイルスには,3種類のH蛋白と2種類のN蛋白の組み合わせであり,合計6種類しかありません.
しかし,鳥に感染するインフルエンザ・ウイルスには144種類総てがあり,豚や馬にも特有の亜種があります.
この特性から,ウィルスはH1N1型,H3N2型,H5N1型等と言う様な亜種に分類されます.
現在,少しずつ流行が見受けられるのは,H1N1型,つまり,1919年に全世界で大流行したものになります.
因みに,H3N2型は1968年に流行した香港型のインフルエンザ,H5N1型は俗に2005年以降に時々感染者が出ている鳥インフルエンザ・ウィルスです.
更にこの中でも同じ亜種の中で,人にとって毒性の強い(或いは弱い)型への変化することもあります.
これを「不連続抗原変異」と呼んでいます.
また,2種類以上のウィルスが細胞の中でH突起とN突起を交換し,新しいウィルスを作ると言う事もやってのけます.
例えば,H1N1型とH3N2型からH1N2型やH3N1型を作ると言うものです.
こうした変異を起こすのは,インフルエンザ・ウイルスの遺伝子がDNAではなく,RNAであるからです.
これは非常に不安定なもので,人間のDNAに比べると1億倍の速さで変異すると言うものです.
従って,これがH突起やN突起の性質を変え,ワクチンなどの効果を低下若しくは無効にしてしまうことが最も恐るべきシナリオです.
こうなってしまえば,人類は対抗する手段を持っていません.
インフルエンザ・ウイルスは鳥,豚,人に感染すると冒頭書きましたが,例えば鳥インフルエンザのウィルスを人が吸い込んでも通常は無害です.
鳥インフルエンザの持っているH突起は,人間の細胞のレセプターとマッチしません.
つまり,そこにカポッと巧く嵌り込まなければ,普通は感染することは無い訳です.
しかし変異の頻度が高くなったり,豚に感染すると,鳥インフルエンザ・ウィルスは変異して,人の細胞レセプターに適合する厄介な存在に成ります.
この鳥インフルエンザ・ウイルスも,鳥の種類によって棲みやすい場所が異なります.
水禽類,即ち家鴨とか鴨の場合は消化器に好んで棲むので,一見した場合,鴨や家鴨がウィルスを持っているかどうかは判りません.
人の場合はどうか.
人の場合は,鼻腔から咽頭部にかけての呼吸器の上気道が最適な住み処となり,身体の内部に達することが出来ます.
ウィルスは宿主の細胞の中で増殖する訳ですが,咳やくしゃみで吐き出された組織や飛沫に何分も,場合によっては何時間も生き延びることがあります.
それを吸うと次の宿主の中で増殖し,感染すると言う訳で,これが俗に言う「空気感染」の正体です.
因みに,インフルエンザ・ウイルスは状況によっては1日に100万倍にも増殖します.
つまり,宿主自身の細胞や宿主となる他者への感染力が非常に強くなります.
しかも,他のウィルスと異なり,このウィルスは子供や老人の様な弱者のみならず,身体強壮な青年層を好んで襲う場合もあるのが始末に負えなかったりする訳です.
ところで先述の様に,1919年に全世界で大流行したインフルエンザ・ウイルスの型が同一であることが判ったのは,1990年代になってからでした.
米国では,J.K.タウベンバーガーと言う人が中心と成って,米国陸軍病理研究所において,同研究所が保管する1862年以来数百万に及ぶ病理剖検組織から1919年のインフルエンザ大流行で死亡した人の肺に存在した遺伝子篇を分離し,1995年に初めて当時のインフルエンザ・ウイルスの中核である遺伝子が発見されました.
それ以前には,アラスカでは,スウェーデン出身の医学者J.ハルティンが,1949年に,1919年のインフルエンザ大流行で死亡し,凍土に埋葬されたイヌイットの遺体からインフルエンザ・ウイルスが見つかるのではないかと考え,発掘を行いました.
しかし,当時は遺伝子分離方法が無かった為に発見には至りませんでした.
1995年の発見の報を聞いたJ.ハルティンは,再び同じ遺体を掘り返し,今度はその遺伝子情報解読に成功したのです.
更に英国でも,米国陸軍病理研究所のメンバーが英国人研究者と協力し,王立ロンドン病院に保管されていた死亡者の剖検組織からウィルス遺伝子を分離しました.
そして,この異なる地域から採取されたウィルス遺伝子の突合の結果,総て同じ型の遺伝子であることが判明した訳です.
ただ,1918年から20年にかけて猛威を振ったインフルエンザ…これは俗にスペイン・インフルエンザと呼ばれていますが…は,最初に発覚した型と,後に猛威を振った型とは,違うのではないかと言う疑念は未だあったりします.
要は,最初の型から変異して,更に凶暴化したのが全世界で流行した可能性があると考える向きもある訳です.
兎に角,敵は容易にその形を変化させるのですから,場合によっては更に凶暴化する可能性も無きにしもありません.
それは,神のみぞ知る,と言う領域なのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/27 21:41
【質問】
戦争神経症が第1次大戦で急にクローズアップされたのはなぜ?
【回答】
兵器の威力が向上し,且つ戦争期間が伸びた為,戦闘時に兵士に掛かるストレスが質,量共に激増したからです.
今までの戦争は精々3〜4回会戦して蹴りが付いたり,戦争が長期間に及んでも戦闘自体は断続的でした.
しかし第1次世界大戦になって,野砲の性能向上や機関銃により塹壕から出られなくなる事により,砲火と環境の悪い塹壕でのストレスに長期間,しかも連続して晒され続ける事で,神経症を患う者が激増しました.
大戦初期の頃は無理解から,神経症を患った者は戦意を失った臆病者とされて,寧ろ処罰対象となり,見向きもされませんでしたが,流石に無視できない数でしたので,何かしらの原因があるのではないかと思われ,注目を浴びる事になりました.
【質問】
WW1およびそれ以降の輸血の歴史を教えられたし.
【回答】
今日は元地元民としては16年目の祈りの日…なのですが,NHKのニュース9を見て愕然となりました.
一番最初のニュースが芥川賞と直木賞の話だったのです.
少なくとも,16年経って,東京のマスメディアではあれだけの被害を出した出来事は完全に過去のものと成り果せたようです.
これが,阪神間と淡路地方と言う,東京から見たら辺境の地で起こったから,こうした扱いになるのでしょうか.
東京でもし直下型地震が発生して大被害が起こっても,10数年経つとそうした事は歯牙にも掛けなくなるのでしょうか.
冗談抜きで,この国の忘れっぽさに背筋が寒くなる思いがしました.
少なくとも,この地震を経験した人々はまだ大多数が生きているのですから,その辺の事情も斟酌して欲しいなぁ,と思ってみたり.
まぁ,忘れる事が得意な国民ですからね,日本人って奴は.
その阪神淡路大震災でも,多くの死者や怪我人が出ました.
その殆どは当初,満足な治療が受けられなかったりします.
うちの親も,箪笥の上の部分が肩を直撃して,鎖骨が折れたか罅が入ったかしたのですが,結局,医者に行ったのは生活が安定した半月以上経った頃だった様に記憶しています.
本当なら,手術が必要とか言われていたのに,何時の間にか自然治癒してしまいましたが….
恐るべし,戦前生まれ…(ぉ.
まぁ,血が出たりしなかっただけ良かったです.
てな訳で,今日からは切りが良いので血の話.
その昔は,血液を人から人に輸血するのは至難の業でした.
輸血にはとてつもなく長い時間が掛り,しかも,一歩間違えると輸血する方,された方,両方とも死に至らしめる事になってしまったからです.
1900年,漸く,人の血液には一定の型があることが判り,同じ血液型の人々同士とO型の血液型の人以外は輸血が出来ない事が分りました.
しかし,人間の血は一定時間が経つと固まってしまい,役には立たないことも判りました.
それを解消したのが,クエン酸ナトリウムです.
クエン酸ナトリウム1に対し,血液99の割合で用いると,いつまでも血は凝固しません.
この発見が,血液を容器に採り,患者の体内にゆっくり注入するだけの時間的なゆとりが出来る様にしました.
第1次大戦中,欧州に派遣されていた米国陸軍の軍医はこうした輸血と言う技術を習得していましたが,他の連合国には輸血は全くと言って良いほど無視されていました.
英国に於ては,有名な経済学者であるジョン・M・ケインズの弟で,英国きっての外科医として有名だったジェフリー・ケインズがクエン酸輸血法の支持者となります.
輸血をすると,手術で命を助ける上で比類無き貢献をしました.
特に,一度予備的な輸血をして,後に脊髄麻酔を掛ければ,医師1名で大手術を熟すことが出来,2回目の輸血で患者は確実に快方に向かい,緊急病室から不安無く送り出す事が出来たと言います.
因みに,ケインズ医師は軍医の仕事が途絶えると,瀕死患者が収容されている病棟に赴き,未だ息があって脈を触れる患者を選び,輸血をして必要な措置を講じると言う人体実験並の事もやっています.
この措置により,多くの人々を死の淵から生還させることが出来ましたが,それでも何百万と言う負傷者のうち,輸血を施したのは僅かに数百名に過ぎませんでした.
戦争後,復員したケインズ医師は,ロンドンの医師達が輸血を無視している事に驚き,輸血の伝道者としての活動を行い,雑誌に輸血を薦める記事を書き,ラジオで輸血に関する公演を行って,人々を啓蒙していきます.
但し,必要な時に必要な血液型の人々が集まらないと言う問題もありましたし,医師が供血者に対し,軽蔑的な扱いをしていたり,注射針を用いずに切開をする等という乱暴な方法を採る医者もいました.
そのたびに,ケインズを始めとする輸血賛成派の医師達はそうした行為を是正し,粘り強く説得を続けていきます.
そして,こうした活動が実を結び,1922年に英国赤十字カンバーウェル支部事務局長のパーシー・レイン・オリヴァーが中心となって,英国では供血に関するボランティア組織グレーターロンドン赤十字輸血部が誕生し,当初20名から始めたボランティアの供血者は,1930年代に160の病院から年間3,000件の依頼を受け,約2,500名の供血者を擁するまでに成長していきました.
英国の先例に刺激され,世界中に供血者組織が出来ていきます.
ドイツ,オーストリア,ベルギー,豪州,ソ連,そして,タイにまでそうした組織が出来ました.
日本でも,飯島博医師が日本輸血普及会を組織し,約200名の供血者を確保して,東京及びその近郊の病院に短時間で送り込める体制を整えています.
フランスでは,アルノー・ツァンク博士が緊急輸血協会をパリの聖アントワーヌ病院組織し,メンバーは年3回の血液型検査と4回の健康診断を受け,必要に応じて供血者を呼び出す体制が整えられました.
供血者にはささやかな薄謝が進呈されましたが,これは大半が公的な補助金で賄われました.
ツァンクはフランス各地を精力的に廻り,地元の医師達が供血遮断帯を設立するのを支援して回りました.
また,自前の器材を提供し,自らの血液も提供し,病院のスタッフや医学生,それに警察官を熱心に勧誘して回りました.
更に,輸血医の訓練を行った他,血液学の研究も積極的に行いました.
米国では事情が異なり,あくまでもビジネスライクに物事を進めようとします.
彼らは,お金で血液を買う,所謂売血を奨励した訳です.
1923年の時点で,その報酬は1回35〜50ドルでした.
血液を売る人々は,殆どがブルーカラーの肉体労働者が多いのですが,ミシガン大学の様に,学費を支払う為に売血した学生が150名以上もいたと報じられています.
こうした売血は,1929年以後の大恐慌時には普通のこととなり,売血斡旋業者がニューヨーク市内の公園を回って,病気を持っている可能性のある人々を雇って回ったり,売血者も過剰なほど売血する人もいるなどかなり問題になっています.
ある人物などは,1年で56パイント(26.4リットル)の血液を売ったと言います.
この為,ニューヨークでは輸血改善協会という組織を立ち上げて,売血の基準を設定するようになりました.
彼らの中には,ルービン・オッテンバーグ,レスター・J・ウンガーの他,免疫学者のアーサー・F・コカ,ロックフェラー研究所に移籍したオーストリアの免疫学者カール・ラントシュタイナーもいました.
輸血改善協会では,供血者は皆,最近の健康診断と梅毒検査の結果を持って市の保険部に登録する必要があり,この手続きは年に4回繰返されると言うものでした.
伝染性疾患のある者や薬物・アルコールの問題がある者は総て除外されました.
また,緊急連絡先,つまり電話のない者は参加を許されませんでした.
供血者に選ばれると緑の手帳を携帯させられ,それを持っていなければ売血が出来ませんでしたし,売血は5週間に1回の割合として,体重減少や貧血の兆候が出たら,売血は中止となりました.
また,供血を要請された時には拒否が出来ませんでした.
この様な団体が出て来た為に,既存の売血業者は商売あがったりになり,逆に輸血は急増しました.
1937年になると英国を上回る年間9,000件の輸血依頼を受けるようになり,血液を本人に35ドル,手数料6ドルと固定したことで,協会に安定した収入を齎し,それによって医師を雇ったり,質の高い血液型血清を独自に開発したり,血清学の研究に補助金を出すなど,学術的な取り組みも行い得る資金を得ることが出来ました.
この辺,何事もビジネスとして物事を進める米国と,ボランティアに頼る英国,フランスとの違いがあって興味深いものがあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/17 22:54
さて,今日はロシア人の話.
モスクワにあるコルホーズ広場の近くに,スキルホソフスキー研究所と言う建物があります.
研究所の名称は,ロシアの先駆的な救急医で軍医でもあるニコライ・ヴァシリエヴィッチ・スキルホソフスキーに因んだもので,モスクワ市民からは「スキルフ」と呼ばれています.
此処は,モスクワの外科病棟の役割を果たし,何千床ものベッドと何十もの手術室を備えた救急専門病院で,救急車は昼夜を問わずに市内を疾駆してこの建物に駆け込むのです.
1930年3月のある夜,1台の救急車が自殺を図って手首を切った若い男を運び込みました.
傷は深く出血多量で,脈も殆ど取れない状態でした.
彼の命を救うには,大量の輸血が必要でしたが,あいにく供血者を呼び寄せるだけの余裕はなく,彼を担当した医師,セルゲイ・ユーディンはある大胆な試みを行う溜め,近くの別室に走りました.
その部屋にはたった今,息を引き取ったばかりの遺体が安置されていました.
そう,ユーディンは遺体から血液を抜き取ろうと考えたのです.
因みに,ロシアの医学には,「医師は前に」と言う医師の倫理を示す言葉があり,医学の為に自分を犠牲にする事を言い表す言葉として今も使われています.
また,この言葉には自分自身は勿論,患者を実験台にすることも恐れてはならないと言う意味も含まれていました.
それは医師の役割の一部であり,よりよいものを目指す献身の一部とされていました.
彼の前任者のアレクサンドル・ボグダノフもこうした献身をした人物です.
ボグダノフは風采の上がらない学校教師の息子として生まれ,医師の傍ら,1908年はアシモフなどの作家に先駆けてSF小説を書いたり,革命家の顔も持ち,一時はレーニンに最も近い同志でもありました.
そのボグダノフは革命後,スキルフで救急医をしていましたが,ロンドンを訪れて,彼らの供血組織の制度を取入れました.
それは,ソ連のマルクス主義,と言うか全体主義に味付けされ,全国各地に血液センターを設立して,労働者をその血液を提供する人々として登録します.
更に,その血液センターを国が支援する20の研究所と結びつける計画に着手して,1926年にはモスクワに中央血液学研究所を設立しました.
そして,この研究所は世界で初めての輸血研究センターとして機能しました.
ところで,ボグダノフはこうした組織整備をする傍ら,血液交換という行為を,特に人間の寿命を延ばす効果があるのではないかと言う仮説の下で長年研究し,弟子達を集めて,相互に輸血をすることで血液を交換しました.
ボグダノフ自身も,血液交換を11回も繰返しました.
そして,そのたびに新たな活力を漲るのを感じたと言いますが,現在ではこうした行為は,他人の血球が輸血される度毎に免疫系が敏感になり,抗体産生力が増加している状態である事が分っています.
12回目の血液交換で,ボグダノフはある学生の血液を自分に注射しました.
この学生の血は,主要な血液型はボグダノフと同じだったのですが,ボグダノフの身体が異物と認識する因子を持っていました.
既に大量の抗体を生産出来る能力を整えていた時点で,こうした血液が入ってきた為,大規模な反応が起きて,ボグダノフの免疫系は外来の赤血球を破壊し,その破片が身体中に散らばっていきました.
そして,破片は腎臓の機能を損ない,15日に亘って尿毒症が続きました.
この様な状態でも,ボグダノフは自らの研究を止めず,ソ連の良き伝統に則って,周りを囲んだ医師達に自分の症状を逐一語りながら此の世を去ったそうです.
そんな事故があっても,ソ連でも輸血は一般に広まりましたが,供血者が手近にいるなら兎も角,呼び寄せるのに手間が掛り,医者を苛立たせることになります.
特にソ連は広大で,適合する供血者が近くにいるとは限りません.
そこで,血液を保つにはどうしたらよいかを考えることになります.
ウクライナのハリコフ輸血研究所のV.N.シャモフ博士は,人間が死んでも筋肉や腺などの組織が死後も長時間,機能を維持すると言うことは,血液も生命力を保っているのではないかと言う仮説を立てました.
それであれば,死人の身体から血液を採取して生きている人の命を支えることが出来る訳です.
勿論,リスクはあります.
死体では細菌が繁殖して,毒性を有しているかも知れません.
シャモフは,1927年以降,死体の血液が安全かどうかを見極める実験を始めました.
まずは,何頭かの犬を屠殺して,死の直後から15分おきに死後12日に亘って全身各部から血液標本を採り,最近の有無を調べる実験です.
その結果,細菌による汚染の程度は採血をした時間と部位に関係し,細菌は腸から広がっている,つまり,腹腔の血液は筋肉や関節,それに骨髄や脳の血液よりも細菌への感染が早く,腸から遠い部位の血液は,死後1週間が経っても無菌状態が保たれていることが判りました.
次の段階では,血液の酸素運搬能力が保たれているかを確認しました.
一連の実験では,シャモフは犬の身体から90%の血液を抜き取り,その状態で死体から採った血液を補うと犬が回復した事を発見し,実験データから,死体の血液は凡そ10時間生命力を保ち,この間は生体への輸血が可能であることを証明したのです.
1928年9月にウクライナで開かれた外科学会でシャモフは研究発表を行いましたが,その席上にユーディンもその発表を聞きました.
当時,スキルフには年間10,000人の患者を受入れており,適合する血液を十分に供給出来ない状態でした.
ユーディンは死体からの血液が利用出来れば,この問題を解決出来るかも知れないと考えましたが,一方で,人間への適用については二の足を踏みました.
例えば,人間の場合は死体の血液が有害ではないか,とか,梅毒の血液感染などを恐れた訳です.
ここで,死体に対する嫌悪感云々でないところ,流石ロシア人というべきなのかも知れませんが….
こうして,1930年3月23日,二進も三進も行かない状態になって初めて,ユーディンは死体からの輸血を決意したのでした.
患者は自殺を図って血管を切った若いエンジニアで,失血で死にかかっていましたが,失血さえなければ体力のある頑健な男性でした.
一方,別の部屋には6時間前に乗り合いバスに轢かれて死んだ60歳の老人の遺体がありました.
この死体とエンジニアの血液型は合致し,このまま放置しても彼は死ぬしかない,もし措置が上手くいかなくても倫理上の責任は最小限で済む…と言う訳で,遂に長年の考えを実行に移しました.
ユーディンは老人の死体を,実験室に運ぶ様に指示すると,胴体をヨードチンキで消毒して切開し,下大動脈を露出し,注射針を挿入して血液を採取し始めました.
すぐにその血液は空になったので,遺体の手や足を持ち上げ,腕や腿を摩り,胸を押して上下させてより多くの血液が戻る様に仕向けました.
こうしてシリンジ数本分の血液を採取しましたが,その最中,緊急措置室の医師がやってきて,患者が息を引き取ろうとしていると告げました.
ユーディンは急いで緊急措置室に戻ると,患者の肘から静脈に注射器の血液を注入して様子を見ました.
まず250ccを注入すると動脈の脈拍がはっきり感じられるようになり,次の150ccで呼吸が規則正しく,深くなり,まもなく意識が戻り,輸血が終了すると,脈がしっかりして,顔色も良くなりました.
2日後,患者は完全に回復して傷口の縫合も済ませ,退院に漕ぎ着けました.
特に合併症や梅毒などへの感染もありませんでした.
これに意を強くしたユーディンは,更に2日後に癌の術前の予備的な輸血に2名,足の切断術の術後の輸血に1名,合計3名に死体からの輸血を試みました.
結果は成功し,更に3例の死体からの輸血を実施し,これも成功を収めると,この結果を示して検事局を説得し,死体から血液を採取する特別許可を得ることになります.
そしてまもなく,モスクワ中から心臓発作や卒中で亡くなった人,事故死した人,殺人の被害者などを乗せた救急車がやって来るようになります…特に路面電車にはねられた人が多かったそうですが…が,受け付けるのは急死の場合だけでした.
これは急死の場合,血液が一旦凝固した後にすぐに溶解するからで,凝血を溶解する酵素が出された為でした.
ユーディンは入手した死体を手術台に縛り付け,頸静脈にガラスの排液管を挿入した後手術台を傾けて,頭部を下にする方法を用いました.
こうすれば,血液が一旦頭に降りてきて,管を通って容器に入ります.
その後,食塩水を大腿動脈に注入して,更に多くの血液を搾り取る方法も習得しました.
そして,採取した血液を検査して血液型と梅毒の検査を行い,死体を解剖して病気の有無を調べ,採取した血液を保管する小規模な血液銀行を作り上げて行きます.
1938年になると死体血の輸血を受けた患者総数が2,500名に達し,事故率と言うか,死亡例は7名,125名が副作用とも言うべき,発熱や悪寒を引き起こしたとあります.
海外ではこうした方法そのものに,驚愕し,感銘を受け,そして嫌悪感を覚えました.
とは言え,幾つかの病院では実際に死体血の実験がひっそりと行われていたりします.
まぁ,ロシア人だからと言うのが有るかも知れませんけどね.
これが,血液銀行に繋がっていくのですから世の中判りません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/18 23:20