c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆海軍 Haditengerészet
<◆第一次世界大戦 目次
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
「D.B.E. ミニ型」:第一次大戦で沈没の仏軍艦,地中海で発見 船体ほぼ残ると
>参考:ダントン (戦艦) - Wikipedia
World War One - The Maritime War(英語)
リッサ海戦
http://www.kaho.biz/huousensou.html
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/Tegetthoff/tegetthoff1.htm
【質問】
第一次大戦時の海軍についての本を知りたいです.
わがままですが,図書館に置いてそうなもので,日本語のがいいのですが.
【回答】
下記,ハードカバー版を買って積んだまま,文庫版を買ってしまった私が通りますよ…
つ『死闘の海』(三野正洋 & 古清水政夫著,光人社NF文庫,2004/06)+++
あと,ソノラマ文庫 青本に,「ジュトランド海戦」があったはず.
(発売当時に買い逃した記憶あり…)
雑多なエピソードであれば,「撃沈戦記」シリーズにも,WW1関連のエピソードが結構入ってました.
Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/10/06(木)
青文字:加筆改修部分
『死闘の海』の一番の問題は,三野正洋が書いていること.
他には,
外山三郎の『近代西欧海戦史』
歴史群像アーカイブVol.21 『第一次世界大戦 下』
ttp://rekigun.net/new/index.html#20111006
『トラップ一家物語』
(笑)
末期のドイツ海軍であれば,『ドイツ艦隊大自沈』ってのがありますな.
軍事板,2011/10/06(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
この際英語でもいいんで誰か,対費用効果から見たWW1における海上封鎖,とか書いてないもんかなぁ.
【回答】
Alexander B. Downes 著(米デューク大政治学者助教授)
読んで参考文献をあたれば吉
Targeting Civilians in War. Ithaca: Cornell
Univ. Press, 2008.
http://www.cornellpress.cornell.edu/cup_detail.taf?ti_id=4817
Chap. 3, The Starvation Blockades of World
War I: Britain and Germany, pp. 83-114.
Desperate times, desperate measures: the
causes of civilian victimization in war.
International Security 30(4) (spring 2006):
152-95.
なかんずく pp. 178-89 ("The British
Blockade of Germany in World War I")
Conference Paperならpdfで読める.
Downes, Alexander. "Targeting Civilians
in War: The Starvation Blockades of World
War I"
http://www.allacademic.com/meta/p64581_index.html
pdf直リンク
http://www.allacademic.com/one/apsa/apsa03/index.php?cmd=Download+Document&key=unpublished_manuscript&file_index=2&pop_up=true&no_click_key=true&attachment_style=attachment&PHPSESSID=b98f885fb2c6149f15d9f3184cb85eba
同著者の,政体による市民殺戮の効果の違いについての論文とか
http://www.allacademic.com/meta/p65599_index.html
軍事板,2009/06/13(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
かつて艦船などに施されたタズル迷彩について教えてください.
・どのような理論的背景で
・どんな効果を狙って
あのような奇抜な迷彩が施されたのでしょうか.
また,現在では見ることはありませんが,やはり有効性は低かったのでしょうか.
【回答】
軍艦に搭載された測距儀は,観測者が接眼レンズに投影された,上下に分割された艦影を一致させることで,三角測量の角度を決め,距離を測定させる.
ダズル迷彩は船の輪郭に似せた斜めの線の不規則なパターンを施すことで,艦影をわかりにくくしこの作業を困難にしたり間違えやすくすることを狙ったもの.
この他に船の大きさを誤認させたり,艦首波に似せたパターンを施すことで,速度や進行方向を見間違えさせる効果も狙っている.
このほかに,WW1でイギリスが使った,色使いが原色組み合わせの派手なダズル迷彩がある.
遠くから見ると,灰色に見えるということを狙ったものらしい.
実際に効果があったかどうかはわからないが,乗組員の気休めにはなったらしい.
現代じゃ電子的索敵が主なので,視覚的迷彩を施してもあまり意味がない.
発見そのものを難しくする狙いなら,今みたいな低視認迷彩のほうが効果がある.
なので,こっちは今でも使われている.
後.あんまり迷彩効果が高すぎると事故る可能性が高まる.
なお艦船の迷彩に関しては,モデルアート別冊の「軍艦の塗装」が手堅い.
ダズル迷彩の典型
(http://www.gotouring.com/razzledazzle/images/mahomet-600.jpgより引用)
原色系ダズル
(http://www.damninteresting.com/wp-content/dazzle.jpgより引用)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ジェットランド沖海戦について解説した本はないでしょうか?
あまり難しくなく,入手が容易で,できれば安い奴をお願いします. m(__)m
【回答】
入手は難しいかも知れないけど,そのものズバリ
「ジュットランド沖海戦」ハヤカワNF文庫
というものがあります.
古本屋で探すか,新装版を待つべし.
英語のものでは,海戦のおおまかな流れをつかむのであれば,Ospreyのキャンペーン・シリーズ72号
「JUTLAND1916」,
英軍の戦略面であればAndrew Gordonの
「The Rules of the Game(Naval Institute Press)」
戦闘の詳細に関してはJohn Campbellの
「JUTLAND(LYONS Press)」
などがお薦めと思います.
どれもペーパーバックなので,価格はAmazonなら2000~4000円程度と安いです.
軍事板,2003/04/02
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本語で読めるジュットランド沖海戦の本って無いっすかね?
三野正洋の死闘の海や,歴史群像の第一次大戦のアーカイブぐらいでしか,見たことが無いもんで…
【回答】
雑誌記事で良ければ
http://www.kojinsha.co.jp/maru/0607.html
http://www.ships-net.co.jp/detl/200605/indexj.html
あと,戦前の水交社とか海軍が翻訳とか独自で色々出してると思う.
シェーアの本は,言い訳と見栄っ張りが多くて辟易した.
まあ,あのゴリゴリのドイツ海軍だし,素直に負けたって言えないのだろうけどさ(笑
また,ジュットランドだけを扱った本ではないが,以下にジュットランドについてまずまず詳しい記述がある.
外山三郎 「近代西欧海戦史―南北戦争から第二次世界大戦まで」,アマゾンなら古本で3000円から
リデル・ハート,「第一次世界大戦〈下〉」
ただし,Wikiの日本語版の説明よりやや詳しいという程度.
ジュットランド,一冊丸ごとじゃなくてもいいなら,V.E.タラント「戦艦ウォースパイト」もある.
国会図書館の近代デジタルライブラリーに,日高謹爾著「ジュトランド海戦の研究」280ページというのがある.
ただし,自分では読んでいないので,内容については保証しかねる.
軍事板,2012/01/28(土)~01/29(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ユトランド海戦で英巡洋戦艦が3隻も轟沈したのは何故?
【回答】
ユトランド海戦では3隻の英巡洋戦艦が,命中弾により弾薬庫が誘爆して轟沈している.
英巡洋戦艦の轟沈の原因として
1)
大角度で落下したドイツ巡洋戦艦の主砲弾が甲板直下の装甲を貫通して弾薬庫に到達,そこで爆発して発生した火災が装薬に引火した.
当時の英巡洋戦艦の欠点だった水平防御(甲板下にはられた装甲)の弱さが露呈した形だ.
2)
砲塔を貫通した主砲弾により内部に火災が発生,その火が弾薬を揚げる揚弾筒を伝わって弾薬庫に達し,同じく装薬に引火した.
防火対策にも不備があった.
といわれている.
いずれも敵と撃ち合いを始めて数分,数発の命中弾で撃沈されている.
いずれも数分で沈没し,1000名以上の乗員のうち数名しか生き残らなかった.
これに対し,弾薬庫への注排水装置や揚弾筒内に防火シャッターを設置するなど,ダメージコントロール対策が充実していた,ユトランド海戦のドイツ巡洋戦艦は極めて頑強だった.
巡洋戦艦ザイドリッツは全砲塔被弾,艦首は海面ぎりぎりまで浸水という状態にも関わらず沈没を免れ,スクリューを逆回転させて後ろ向きに進みながら母港に生還している.
軍事板,2004/09/21
青文字:加筆改修部分
ユトランド海戦でお亡くなりになった巡洋戦艦
Queen Mary
(こちらより引用)
【質問】
北米航路船舶への,第一次大戦の影響は?
【回答】
▼ 1915年のラ・フォレット海員法(アメリカ船籍の船の75%は,英語を話せなければならないと規制し,安価な中国人船員を米国の船会社が雇うことを阻害した)と,大西洋での戦争需要とが原因で,パシフィック・メール社などは一時的に太平洋から撤退し,アメリカの太平洋貿易は日英の海運会社に依存することになった.
しかし日本の海運業者はアメリカの輸出を抑えるため,東行きの運賃を相当低く抑え,西行きの運賃は高く設定した.
それは中国人投資家のグループが,米中間で直接貿易を行うための海運業者を設立しようとしたほどだった.
そして戦後も,太平洋横断の交易ルートは日本の海運会社が支配した.
上海に拠点を持つ英国が,その有力なライバルで,アメリカのシェアは大恐慌後には15%にまで落ち込んだ.
しかし一方,アメリカ人は他の輸送手段に目を向け始めていた.
航空機である.
詳しくは,『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(John Curtis Perry 著,PHP研究所,1998.11.4),p.301-309を参照されたし.
消印所沢
▲
1902年,競争相手のパシフィック・メール汽船会社は,1万1,000トン級の新造船,コレア号,サイベリア号を投入したのに続き,1904年には1万3,000トン級のモンゴリア号,1万4,000トン級のマンチュリア号を相次いで投入し,一気に優位に立ちます.
こうなると苦しくなるのは東洋汽船.
其処で,この巨船に対抗すべく,東洋汽船は3隻の1万3,000トン級豪華客船を3隻建造し,世間をあっと言わせました.
1908年4月22日に天洋丸,11月に地洋丸,1911年8月に春洋丸が竣工し,早速北米航路に投入しました.
これらの客船は,パーソンズ蒸気タービンを装備し,速力は19kts/h,室内装飾はアールヌーヴォー様式で統一され,内装の木材はウォールナット,マホガニーなどの輸入材をふんだんに使い,家具やカーペットは英国製の輸入品.
更に,天洋丸は,船舶無線電信局開局第1号で,ドイツのテレフンケン製無線装置を備えていました.
この巨船の竣工で,日本は再び太平洋の女王の地位を取り戻しました.
また,1909年には大阪商船が新たにシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道会社と連絡契約を行い,6,178総トンの新造船「たこま丸」を建造して,香港~タコマ線を開設し,郵船のシアトル航路と真っ向から対立することとなりました.
今までは外国の船会社との競争だったのが,更に日本の船会社との競争となった訳です.
大阪商船は,志あとる丸,志かご丸,ぱなま丸,めき志こ丸,かなだ丸と言った何れも6,000トン級の優秀船を投入し,年間25航海の運航体制を確立しました.
これに対抗する為,郵船は1912年に横浜丸,静岡丸を建造し,6,000トン級船隊の充実を図り,商船に対抗しました.
また,カナダ太平洋鉄道は,1890年以来エムプレス級大型高速船3隻を始めとする各船で北米航路を担ってきたのですが,これら日本船隊,米国船隊の充実により,競争力が落ちてきた為,第一次大戦直前に1913年,17,000トン級のエムプレス・オブ・ロシアを竣工させ,此の船は横浜~ヴィクトリア間を8日18時間31分で航走するという記録を打ち立てました.
こちらは大きさよりも,速さで勝負を掛けた訳です.
こうして,内外数社の競争状態で北米航路は推移し,第一次大戦に突入していくこととなります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/10 22:47
第一次大戦までの北米航路には多数の船会社が,鉄道会社と組んで参入していた訳ですが,米国の西部地区には大陸横断鉄道の建設や鉱山労働者,港湾労働者などとして,中国や日本から多数の移民が渡ってきました.
この数が増え,白人達の人口が少なくなっていく一方で,中国人移民労働者の様に,現地の住民の習慣とは相容れず,摩擦を起こすケースも多くなります.
例えば,死んだ後の改葬なんかもその一つです.
1915年11月,上下両院で米国新海員法が可決され,Thomas
Woodrow Wilson大統領はこれに署名します.
この法律は,米国船では,普通船員の75%が士官の発する命令や船客の話す英語を理解する事を義務づけると言う,新たな資格が船員に必要となりました.
これで大打撃を受けたのが,パシフィック・メール汽船会社です.
当時,日米間,米中間での貿易量は米国の出超となっていました.
輸入品や人の動きは然程ではありません.
だからこそ,日本でも米国でも英国(カナダ)でも,運航に補助金を支給していた訳です.
それでも競争による赤字が生じ,それを少なくする為に,船の運航に必要な船員を人件費の安いアジア人,就中,中国人を多く雇って運航していました.
米国新海員法の制定は,こうした費用削減努力を無にすることであり,パシフィック・メール汽船会社は,人件費の高い米国人船員を雇ってまで運航することを止め,太平洋航路から撤退することにした訳です.
この他の理由として,1914年に開通したパナマ運河の通航に関する新法で,独占禁止法の主旨に沿って大陸横断鉄道所属船の運河通航を禁止したことも挙げられます.
パシフィック・メール汽船会社は,ユニオン・パシフィック鉄道の傘下にあり,そのユニオン・パシフィック鉄道は,サザン・パシフィック鉄道の傘下になっていたのも追い打ちでした.
その後,パシフィック・メール汽船会社は経営不振から,1915年に米東岸~南米西岸航路を運航していたグレース・ラインに経営権を移し,第一次大戦後,米国船舶院から14,150総トン,17kts/hの535型貨客船5隻を委託され,サンフランシスコ~マニラ間を一旦経営することになります.
しかしグレース・ライン傘下となっても,米国船舶院から委託された502型貨客船を以て運航していたサンフランシスコ~カルカッタ線が不況の為閉鎖,1925年に5隻の535型の払下げ入札で「他の会社」に負け,北太平洋航路の撤退を決め,名門は遂に1925年,廃業の憂き目を見ます.
その「他の会社」とは,この北米航路に米国代表として新たに加わったのが,1900年にロバート・ダラーが極東向け木材輸送を行う不定期船会社として設立したダラー汽船会社です.
ダラー汽船会社は,第一次大戦後にサンフランシスコに新たに参入し,東洋汽船と競争する一方,1923年には米国船舶院から1隻当り60万ドルと言う廉価で15,530総トン,14kts/hの502型7隻の払下げを受け,米太平洋岸発着の西航世界一周航路を開設しました.
翌年,ダラーはグレース・ラインが委託されていた535型5隻の払下げに際し,グレース・ラインは最高値675万ドルで入札したのに対し,二番札の562万5,000ドルでまんまと落札してしまいました.
勿論,この話には裏があり,米国船舶院のオコーナー長官に,ロバート・ダラーの息子,スタンレー・ダラーが彼とのポーカーで故意に負けた掛け金として現金3万2,000ドルの賄賂を送った見返りだったりします.
この妨害により,グレース・ラインは太平洋航路から撤退してしまいました.
一方,シアトル航路の方は,H.F.アレクサンダーが第一次大戦後に創立した新興船会社アドミラル・オリエント・メール・ラインが米国船舶院から運航を委託された535型5隻で,郵船と競争していました.
ロバート・ダラーは,これも傘下にすべく,此の会社の株を買い占めて同社を乗っ取り,1922年に息子,スタンレー・ダラーを社長に送り込み,社名をアメリカン・メール・ライン(AML)と改称して,政府から郵便補助を受けて運航を継続しました.
更に,1926年には535型の払下げを受け,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の同型船5隻と配船を統合して,AMLのシアトル航路の東航と,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の西航を,又,シアトル航路の西航とサンフランシスコ航路の東航を接続する形の馬蹄型配船を実施し,米国の太平洋航路は「$」マークで統一されました.
少し先走りましたが,パシフィック・メール汽船会社が運航していた船を買い取ったのが,当時,船価高騰で乗りに乗っていた,浅野総一郎率いる東洋汽船で,先ずは1881年建造,4,380総トンのペルシャ号を波斯丸と改名してサンフランシスコ航路に投入します.
此の船は,老朽船ですが,以前は大西洋航路に投入されて,「大西洋の女王」と言う異名を取っていた船で,船客の評判も良かったと言われています.
東洋汽船は,更に,パシフィック・メール汽船会社からコレア号,サイベリア号の2隻を買い取り,「これや丸」「さいべりあ丸」と命名して運航しました.
東洋汽船は更に第一次大戦後,日本政府がドイツから賠償として接収した4隻の船の内,1911年と比較的新しい14,458総トン,16.6kts/hを誇る豪華客船,カップ・フィニスター号を大蔵省から運航委託され,これを大洋丸と名付けてサンフランシスコ航路に投入し,以後,天洋丸,春洋丸と共に活躍しました.
因みに豪華客船3姉妹の内,地洋丸は,1916年3月31日,濃霧により香港で座礁して全損に帰しましたので,その代船と言う意味もあります.
ところが好事魔多し.
1920年頃になると,世界的な船腹過剰により,海上運賃が大暴落します.
更にこの頃,米国船舶院は,米国海運業界を世界の海運界でも優位を得ようと,第一次大戦末期に計画し,その後続々と竣工した軍隊輸送船を民間の貨客船に改造して,民間企業に運航を委託し,予備船隊の維持を図ろうとします.
この軍隊輸送船が,何度も出て来ます様に,俗に全長のフィート長を取って,「502型」「535型」と呼ばれたものです.
元々は軍隊輸送船ですから,師団などの装備を丸ごと大量に大西洋を輸送するくらい大きく,短時間で目的地に着く為に,商船にしては不釣り合いな程,高速であり,更に大戦末期から戦後に掛けての竣工ですから,船齢も新しい.
これらの船を,米国船舶院は特に太平洋航路の船会社に委託したのです.
郵船のシアトル航路も打撃を受けますが,それ以上に打撃を受けたのが東洋汽船でした.
船腹過剰による不況に加え,サンフランシスコ線での米国の優秀船就航で,瞬く間に船客は元より,貨物まで奪われ,深刻な経営不振に陥りました.
更に,1923年の関東大震災と,1924年の排日機運が高まった事に拠る米国新移民法の制定がこれに追い打ちを掛け,1926年5月1日,東洋汽船は南米西岸航路を含む定期船部門を第二東洋汽船として分離し,東洋汽船本体は不定期船部門だけとなり,即座に第二東洋汽船は郵船と合併して,郵船がサンフランシスコ線を継承 することになりました.
この時,天洋丸,春洋丸,これや丸,さいべりや丸,銀洋丸,墨洋丸,楽洋丸も引き継ぎ,大洋丸は引き続き大蔵省から運航委託を受け,1929年5月4日を以て郵船に払い下げられています.
一方,商船も内情は苦しく,1929年10月より日本郵船各務社長と大阪商船堀社長が会見したことから開始された両社協調機運の進展により,1931年4月6日,日本郵船,近海郵船,大阪商船三社による,重複航路の整理,競合航路での賃収合算,陸上施設の共用について協定,所謂,郵商協約が締結され,これによって,郵船が南米東岸線を休止する代わりに,商船はタコマ線を休止することになり,4月19日のあらびあ丸を最終船として,タコマ線から撤退することとなりました.
因みに,此の後,郵商合同についても話し合われたのですが,東京日日新聞記者によってその内容がスクープされてしまい,正式な交渉に入ることなく立ち消えとなりました.
こうして,米国に次いで,日本でも北米航路の統合がなりました.
カナダは,相変わらずカナダ太平洋鉄道による北米航路が運航されていましたが,1921年,ロンドンにカナダ太平洋鉄道の子会社として,カナダ太平洋汽船を設立し,航路はこちらに委譲しました.
1922年,1913年竣工の「エンプレス・オブ・ロシア」に加え,21,517総トンと今までの船の1.5倍,最高速力20kts/h(航海速力18kts/h)の大型優秀船「エンプレス・オブ・カナダ」を投入し,又,英国政府から第一次大戦の賠償としてドイツから接収した21,860総トン,航海速力17kts/hの優秀船「ティルピッツ」を,「エンプレス・オブ・オーストラリア」として就航させました.
当時,カナダの商船は,高速でホノルルに寄港しており,同地への避寒客を多数乗せたほか,香港,上海からカナダへの中国人移民を一手に輸送していた強みがありました.
因みに関東大震災で,当日丁度,横浜に停泊中の「エンプレス・オブ・オーストラリア」は,焼け野原となった横浜市に食糧や水を供給し,2,000人余に達する負傷者や罹災者を本船に収容して負傷者には船医の手当を,罹災者には食事を与え,外国人避難民600名を神戸に移送し,神戸で補給した食糧や飲料水を再度横浜に届けるという八面六臂の活躍をしています.
また,「エンプレス・オブ・カナダ」は9月3日に横浜に入港して救援活動をしたのに加え,2週間後には,「エンプレス・オブ・ロシア」が横浜に入港して,救援物資の他,最初に海外からの義援金25,000ドルを届けた船となっています.
余談は扨措き,更にカナダ太平洋汽船では,1930年6月に,26,032総トン,23kts/h(航海速力21kts/h)の「エンプレス・オブ・ジャパン」を投入しました.
これは,太平洋航路での最大,最高速の豪華客船でした.
これに対抗する為にも,郵船は新造船の投入を検討せざるを得なくなります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/11 22:42
【質問】
フランス海軍についてボーっと眺めていると,
>巡洋戦艦 ジル案 - 0隻 (構想のみ). ※ディール案
- 0隻 (構想のみ).
と言う内容がありました.
このジル,ディールそれぞれの案がどういったものであるか,教えていただけますでしょうか??
【回答】
ソースがコーエーの「戦艦名鑑」及び「未完成艦名鑑」なので,信憑性についてはかなりあてにならないのだが,ノルマンディー級に続いて計画されたリヨン級戦艦と,同時期の1913年頃に計画された巡洋戦艦の試案らしい.
ジル案は基準排水量28,100t,速力28ノット,主砲は未成に終わったノルマンディー級と同じ34cm四連装砲を,艦首側に1基,艦尾側に背負い配置で2基装備,舷側装甲が270mmとのこと.
ディール案は載っていないが,デュラン・ヴィール案があり,こちらはジル案と同じ34cm四連装砲を2基か3基,あるいは37cm四連装砲を2基と,ぶっちゃけ基本的な仕様も固まってなかった様子.
いずれにせよ,第一次大戦の勃発により,試案から先に進むことなく中止されてしまってる.
軍事板,2009/06/12(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
エドガー・キーネ級装甲巡洋艦について教えてください.
【回答】
エドガー・キーネ Edgar Quinet 級は、フランス海軍が建造した最後の装甲巡洋艦.
戦艦艦隊への付随行動や通商破壊作戦を外洋で行えるよう,艦体は大型化されており,また,缶室分離配置による6本煙突が特徴.
2番艦ワルデック・ルソー Waldeck-Russeau
は極東艦隊の旗艦となり、親善のため日本各地に寄航している.
【参考ページ】
http://www.worldnavalships.com/edgar_quinet_class.htm
http://www.cityofart.net/bship/french_armor.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_Quinet_class_cruiser
エドガー・キーネ級
(http://www.cityofart.net/bship/french_armor.htmlより引用)
(画像掲示板より引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/05/16 20:40
を加筆改修
【質問】
WW1のギリシャ海軍について教えてください.
【回答】
ギリシャ海軍は,トルコに対抗して可成りの戦力を保持していました.
装甲艦では,1889~90年竣工のHydra級(フランス製/4,885t)があります.
これは,砲塔艦として,10.8in34口径砲を2門,10.8in28口径砲を1門装備していましたが,流石に口径の違う砲では取り回しが難しく,1908~10年に5.9in速射砲5門に換装されました.
他に装甲艦は1860年代竣工の旧式艦がありましたが,これらは大戦前に退役しています.
その後,Balkan戦争後の軍備拡張の際,ドイツに超弩級艦Salamis,フランスにProvence級の略同型艦を1隻発注していますが,これらは第一次大戦勃発のため,前者は工事中止となり,後者もキャンセルされています.
戦艦Salamisは艦体はドイツのA.G.Vulcan,タービンはドイツのAEG,ボイラーは英国のYarrow,主砲と
副砲は米国のBethlehem Steel,主砲塔は英国で製造されるという国際分業の見本みたいな艦で,1915年3月竣工予定でしたが,主砲始め武装は米国製だったので,ドイツ製の砲熕兵器が装備できず――砲塔の口径が合わなかった――,接収は免れました.
ちなみに,主砲塔のうち2基は,英国海軍のAbercrombie級Monitorに流用されました.
同艦はその後,未完成のまま放置されましたが,1923年にギリシャ政府はこの艦の引き渡しを拒否します.
これの支払いを巡って,裁判やら話し合いやらが行われ,結局,ギリシャはA.G.Vulcanに対して,建造前に提示された450,000ポンドのうち,30,000ポンドを支払い,1932年に漸く艦は解体されました.
代わって入手したのが,米国では旧式化した前弩級艦のMississippiとIdahoで,前者がKilkis,後者がLimnosと命名され,軍籍に入りました.
巡洋艦としては,Balkan戦争直前にイタリアよりPisa級装甲巡洋艦(1911年竣工,9,958t)を買収し,Georgios
Averofと命名します.
ちなみに,この艦名は,この装甲巡洋艦を購入する資金,300,000ポンドを拠出した大富豪の名前だったりします.
この艦は,我が国の日進・春日のケースのように,Balkan戦争直前に海軍に編入され,旗艦として活躍しました.
また,第二次大戦でも艦ごとAlexandriaに脱出し,インド洋で船団護衛に活躍した後凱旋し,現在では記念艦として展示されています.
我が国の三笠並の扱いを受けているわけですね.
巡洋艦はもう1隻,米国製のHelle(1913年竣工,2,600t)があります.
元々は,日清戦争で海軍か壊滅した清朝が発注したものですが,革命で清朝が瓦解し,売りに出されたのをギリシャが1914年に購入したものです.
この艦は,英国で武装を施す関係上,結構英国に止め置かれ,1916~17年にかけてはフランス海軍の所属艦として任に就いていました.
このほかに近代的な軽巡洋艦として,英国にAntinavarhos
Kontouriotis,Lambros Katsonisの2隻が発注されましたが,これらは第一次大戦勃発によって,英国海軍に接収され,Birkenhead級として竣工しました.
駆逐艦としては,
ドイツ製のNiki級(1906~07年竣工/350t)が4隻,
英国製Thyella級(1906~07年竣工/352t)が4隻,
アルゼンチンから買収した英国製Aetos級(1911年竣工/980t)4隻
があります.
これらは,第一次大戦参戦時にフランスの指揮下に置かれ,その旗の下で活動しています.
うち,1隻のDoxaは,Sicily沖でUB47に撃沈されました.
駆逐艦には,更に,英国に発注したKriti級が4隻有りましたが,これらは巡洋艦と同じく,英国に接収されてしまいました.
水雷艇としては,ドイツ製のAigli級6隻(1913年竣工/120t)がありました.
潜水艇としては,フランス製のDelfin級2隻(1911~12年竣工/310t)を保有しています.
DelfinはBalkan戦争において,潜水艇による世界最初の雷撃をトルコの巡洋艦,Medjidiehに対して行っています.外しましたが.
フランスには,このほか2隻の潜水艦を発注しますが,これらは接収され,Amazone級としてフランス海軍に就役しました.
更に,ドイツからはU31級潜水艇を4隻購入する話が進んでいましたが,大戦で没になりました.
他に,機雷敷設艇を2隻,砲艦10数隻を保有していました.
このほか,Balkan戦争時には,9隻の仮装巡洋艦を使用しており,うち1隻は,トルコの巡洋艦,Hamidiyeによって撃沈されています.
さて,ギリシャは1916年に連合軍側に参戦します.
その参戦は可成り特殊で,軍艦は全てフランス海軍旗を掲げ,フランス海軍の指揮下で任務に就いていました.
で,戦後の軍艦分配に際しては,ドイツ艦と共に,二重帝国海軍の艦も分配されました.
駆逐艦Huszar級である,Ulanがそれで,先に撃沈されたDoxaの代替として,1931年まで使用されました.
また,水雷艇Tb82F級のうち,Tb92F/94F/95Fが引き渡され,Prousa,Panormos,Pergamosとして使用され,1938年に座礁して失われたPanormosを除き,いずれも枢軸国のギリシャ侵攻で撃沈されています.
【質問】
巡洋艦Averofについて詳しく教えてください.
【回答】
ギリシャは,1919~21年のトルコ出兵で国内経済が疲弊し,国王の死(猿に手を噛まれて破傷風だか何だかで)によって国内が混乱した状況で,1924年に王制が廃止され,共和制に移行しました.
その後も政権は目まぐるしく変わり(内閣平均寿命6ヶ月,最短が1日.),国内が混乱したため,1935年再び王制が復活します.
この国はトルコと長らく対立していたので,海軍も空軍も,トルコを仮想敵国として編成していました.
ただ海軍は,第一次大戦前にトルコが英国に発注した弩級艦,超弩級艦に対抗して,ドイツにSalamis級戦艦を発注したのが,第一次大戦で接収され(ドイツは工事を続けたものの,砲塔は米国,砲は英国だったので,ドイツ製の武器が載せられず断念),その後フランスに発注したのも工事中止となり,戦後の混乱で折角戻ってきたSalamis級戦艦も建造契約を破棄してしまい,結果的に当時中立国だった米国から前弩級艦2隻を購入する形でお茶を濁していました.
さて,ギリシャと言えば,JFK夫人と再婚したOnassisが有名ですが,船舶の保有数が非常に多かったりします.
なので,船舶関係で財を築いた人も非常に多かったりするわけです.
そんな一人に,Georgios Averofと言う人がいました.
彼は,愛国者で,トルコに比して自国の海軍の増強がままならないのを憂えていました.
1909年,そこで彼は数十万ポンドを海軍に寄付し,この金額で海軍の増強を願ったわけです.
丁度その頃,イタリアでは建造した巡洋艦をストックして売りに出すと言うことをしていました.
Giuseppe Garibaldi級がそれで,1894年から建造を開始し,12隻が計画されましたが,当のイタリア海軍は3隻しか装備しておらず,改良を加えた4隻が更に引き渡されただけ.
他は船台上で売りに出されました.
ちなみに,4隻がアルゼンチンに売られ,1隻はスペインが購入しています.
また,アルゼンチンはこの艦形を気に入り,更に2隻を発注していますが,この艦は途中で売却されました.
ちなみに,購入したのは日本.春日,日進の2隻がそれで,この艦型は世界中に散らばっていた訳で.
1894年から建造を開始した装甲巡洋艦ですが,リソースの少なさから建造ペースは遅々として進まず,最後に建造された艦が竣工したのは1911年.
既に,世界では装甲巡洋艦の代わりに巡洋戦艦が有望な時代に入っていたりします.
1911年のそれは装甲巡洋艦としては,日本の筑波級を除けば,世界最強艦だったりしますが.
その一つ前に建造されたのが,Pisa級です.
1905年頃から建造に着手したものの,完成が1910年と生まれながらの旧式艦でした.
しかし,発展途上国から見れば,安くて武装が強力で,ある程度の旗艦機能もあるその艦は魅力的であり,丁度ストックもあったため,ギリシャ海軍は先ほどの30万ポンドで建造中の艦を買い取りました.
このほか,ドイツとアルゼンチンから駆逐艦もその資金で購入したり.
但しギリシャでは,主砲だけはイタリア製が信用置けなかったのか,25cm砲を英国Armstrongの23.4cm砲に換えています.
こうして1911年に竣工した艦は,出資者の名前を取って,Averofと名付けられ,ギリシャ海軍の旗艦として,第二次バルカン戦争で活躍しました.
また,第一次大戦ではフランス海軍指揮下で海上護衛に活躍し,戦後はフランス式の火器管制装置に換えたり,機関を交換して,弩級艦の無いギリシャ海軍の主力として活動しています.
1940年にイタリアが参戦しますが,相手のイタリア海軍が不活発だったために,ギリシャ海軍は精々砲撃程度でお茶を濁していました.
しかし,1941年4月にドイツが参戦するとドイツ空軍によってギリシャ海軍の軍艦は次々に沈没し,4月25日には遂に,Averofもアレキサンドリアに向けて亡命を余儀なくされました.
彼の地では,インド洋向けの船団護衛に従事し,ギリシャからドイツが撤退すると,本国に戻って母艦任務に就きました.
この時には,ご自慢の23.4cm砲を初めとする各種大口径砲は撤去され,3インチ砲8門,3インチ高角砲4門,37mm機関砲6門になっていました.
完全な船団護衛艦艇になっていますね.
1946年にこの艦は除籍されます.
しかし,この数十年間,海軍の主力として活動した訳で,その功績からこの艦は永久保存となり,今でもアテネの南40マイルにあるポロス島に係留されているそうです.
日本の三笠みたいなものなのでしょうね.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年10月29日21:20
『イェロギオフ・アヴェロフ』 RHS Armored Cruiser G Averof (デジタル着彩写真)
【質問】
マルコ・ポーロって?
【回答】
改エトナ級防護巡洋艦を設計変更して建造された,イタリア最初の装甲巡洋艦
Armoured Cruiser,マルコ・ポーロ Marco Polo
級の1番艦で,1894/7/21,カステラマーレ・ディ・スタビア工廠にて竣工しました.
1917から18年にかけ,ヴェニス工廠で軍隊輸送艦に改造され,ヴェネチアでの兵員輸送任務に従事.
1918/4/4にコルテラッツォ,1920/10/1にエウロパ,さらに1921/1/16ヴォルタと改名され,1922/1/5除籍後売却解体されました.
【参考ページ】
http://hush.gooside.com/Text/6m/61Ma/M18fMaru_.html#anchor285947
http://www.kasado.net/OldCruisers/Marco_Polo.html
http://web.ukonline.co.uk/aj.cashmore/italy/italian-armoured.html
http://web.ukonline.co.uk/aj.cashmore/italy/cruisers/marcopolo/marcopolo.html
http://www.battleships-cruisers.co.uk/italian_cruisers.htm
輸送艦時代の「マルコ・ポーロ」
(画像掲示板より引用)
【質問】
この艦の詳細を教えてください.
艦名も分からないので,ぐぐることができないのです.
【回答】
イタリアのモニター艦「ファ・ディ・ブルーノ」です.
1917年就工で排水量2,854トン.
第一次世界大戦中,地中海方面の要港防衛のために急遽建造されたモニター艦で,未成戦艦クリストファー・コロンボに搭載予定だった,38.1センチ40口径連装砲一基を装備し,艦首と艦尾がない箱型の船体を持ちます.
その船体ゆえに,速力は約3ktと非常に低速でした.
faq39i02m01b.jpg
(http://www.steelnavy.com/images/RMFaaDiBruno/Bruno420photo.JPGより引用)
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2010/01/02(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
WW1開戦前のオスマン海軍の勢力は?
【回答】
主力艦は,
・トルゴウト・レイス(1894)&ハイレディン・バルバロッサ(1891);ともにドイツの旧式戦艦,1万トン・17ノット,11インチ砲6門
・メッソウディ(またはメシュディエ);艦齢40年以上,1万トン・14ノット・9.2インチ砲2門
「世界の艦船増刊第30集イギリス戦艦史」所収の「イギリス製戦艦輸出ノート」中名生正己著によると,1876年テームズ社で完成の中央砲郭艦メシュディエ(幸福をもたらすもの)は,9120トン・13.7ノット・254ミリ砲12門・178ミリ砲3門(要目の違いは改装?)
なお二番艦メムドゥヒュド(賞賛に値するもの)は,1876年即位の新スルタン,アブドル・
ハミド二世にちなみハミディエと改名したが,露土戦争の開戦のためイギリスが買収,シュパーブとして1906年まで在籍.
周知のとおりイギリスはこの手を何度も使っています.やはり国産しないと駄目ですね.
メシュディエは老兵に鞭打ち,ギリシア海軍とダーダネルス海峡で交戦,1914年12月にチャンク沖で英潜B11の雷撃で撃沈されています.
・ハミディ&メジディ;軽巡洋艦(防護巡洋艦?),3800トン・22ノット・6インチ砲2門・4.7インチ砲8門
・他駆逐艦8,水雷艇9他
大日本絵画「第二次大戦駆逐艦総覧」によると,WW1前のトルコ水雷戦力は,1911年時点で
仏製デュランダル級駆逐艦280トンを4隻(1909年購入),
98~165トン級水雷艇15隻(伊との戦争で5隻喪失)
同年独より購入の新鋭ムヴァネティ・ミレート級が4隻.
607トン・34.5~36.2ノット・10.5㎝砲2門・45.7cm魚雷発射管3.
1914年英4・仏4・伊6の駆逐艦計14隻を発注するも,WW1開戦により,仏伊艦はキャンセル,英艦は徴発されています.
開戦後の追加(購入)
・巡洋戦艦ヤブス・スルタン・セリム(独巡洋戦艦ゲーベン)
;22400トン・27ノット・11インチ砲10門・6インチ砲12門
・軽巡洋艦ミディリ(独軽巡洋艦ブレスラウ);4550トン・28ノット・4インチ砲12門
なお,Ottoman-Turkeyの19世紀海軍に関しては,最近,「オスマン帝国の海運と海軍」という好著が山川から出ています.
これの縮小版が山川ブックレットになってたか,と.
巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」
(画像掲示板より引用)
【質問】
ポルトガルの海防戦艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」について,どういうスペックだったのかお尋ねします.
googleっても本国では黒歴史なのか出ません(涙
どうか詳しいことを教えてください.
【回答】
1875年1月12日竣工,Thames Iron Works建造
排水量:2,384t 全長:60.96m 幅:12.19m(砲郭部14.17m) 喫水:5.79m
機関:石炭炊きレシプロ機関 3000ihp 石炭搭載量:300t
速力:10.3kts
装甲:鉄製 装甲帯 9~4インチ 砲郭 10~6インチ
武装:10.2インチ/20口径砲×2 5.9インチ/25口径砲×1 9ポンド砲×4
乗員:232名
1903年に改装し,砲郭を撤去し,スポンソンに8インチ砲を装備,機関換装,船体延長を実施.
排水量:2,972t 全長:70.86m 幅:12.19m 喫水:6.27m
機関:石炭炊きレシプロ機関 6000ihp 石炭搭載量:300t
速力:15.5kts
装甲:鉄製 装甲帯 10~4インチ
武装:8インチ/40口径砲×2 5.9インチ/45口径砲×1 12ポンド砲×1 9ポンド砲×4 3ポンド砲×6
乗員:260名
1935年除籍
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/30(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ロシア海軍は日露戦争の痛手から,なぜ急速に回復できていたのか?
【回答】
偉大さへの渇望に基く意志の力だという.
以下引用.
------------
ロシアの保守系紙「ノーボエ・ブレーミャ(新時代)」は1914年の新年号で,ロシア人は「依然として恐ろしいほど偉大さへの渇望」4にとりつかれていると記している.
これは現実には,伝統的に帝国の代償を払ってきた農民大衆の感情というより,むしろロシアのエリートについて述べたものだった.
たとえ軍の急速な再建が純粋に防衛的な措置だったと見なせたとしても,莫大な費用を必要とするバルト艦隊の戦艦隊を迅速に再建することを,同じように見なすことはできなかった.
1907年に政府は高等教育に690万ルーブルを拠出したが,当時,戦艦1隻につき3000万ルーブルかかっていた.5
1914年にはバルト艦隊の全く新しい戦艦隊が完成間近だった他,さらに数隻も建造中だった.
こうした艦隊が建造されたのは,ロシアが威厳,戦略的な柔軟性,国際的な影響力を得るためであった.コンスタンチノープルを西方から威嚇するため,艦隊を地中海へ派遣する計画が進行していたのである.
長期的に見れば,公海用に手強い艦隊を保有すれば,英独間の海軍力バランスを崩さず,ロシアが両国に対して潜在的な影響力を持つこともできた.
〔原注〕------------Dominic Lieven「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.114-115
5 K.F.Shatsillo, Russkiy imperializm i razvitiye flota, Moscow, 1968, p.210
プーチンのスローガン「強いロシアの復活」も,この「偉大さへの渇望」の延長上にあるのかもしれない.
まあ,軍備にカネがかかるのは,1907年に限った話ではないが.
それにしても,基本的には大陸国であるロシアが,海軍力の必要性を当時はきちんと認識していたことは注目すべきだろう.
【質問 kérdés】
戦艦「ガングート」について3行で教えてください.
Kérem, mondja meg az Orosz csatahajó Gangut a három sorban.
【回答 válasz】
ガングート(Гангут/ Gangut)はロシア海軍最初の弩級戦艦であり,1914年10月,ガングート級戦艦の1番艦として竣工.
1915年7月,リガ湾において,姉妹艦ペトロパブロフスクと共にドイツ艦隊を迎撃するが,その後,ロシア革命による混乱でしばらく放置.
1925年7月27日にはオクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤと改名され,1926年3月23日に再就役し,第二次大戦では主として対地砲撃任務に従事した.
【参考ページ Referencia Oldal】
海人社編『世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史』(1992),p.86-91
http://military.sakura.ne.jp/navy3/ur_petropavlovsk.htm
http://hosokawa18.exblog.jp/24383732/
https://www.linkedin.com/pulse/gangue-class-bb-imperial-russiansoviet-navy-chalkley-j-hambleton
https://stefsap.wordpress.com/2016/01/06/battleships-of-the-imperial-russian-navy-part-5/
http://englishrussia.com/2014/07/01/battleship-gangut-1911/
「ガングート」二面図
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2017/5/14 20:00
を加筆改修
【質問 kérdés】
戦艦「皇帝アレクサンドル3世」について教えてください.
【回答 válasz】
ロシア帝国海軍の改「ガングート」級(「女帝マリーヤ」級)戦列艦「皇帝アレクサンドル3世 Император Александр Третий(イムピラータル・アリクサーンドル・トリェーチイ)」は,1911年10月17日にニコラエフの「ルッスード」工場で起工され,1914年4月2日に進水しました.
基準排水量:22600トン
全長:168.0m
幅:27.4m
吃水:8.4m
機関:ボイラー20基,蒸気タービン4基,4軸
出力:28960馬力
速力:21ノット
航続距離:12ノットで3000海里
乗員:1220名
兵装:52口径305㎜3連装砲4基
55口径130㎜砲18基
76㎜高射砲4基
457㎜魚雷発射管4門
(二面図)
1917年6月15日に竣工.
この間,1917年2月にはロシア2月革命が起こってロシア帝国は消滅しており,同艦は就役前の4月29日に「ヴォーリャ」と改名され,革命臨時政府の管轄下に置かれました.
1917年12月16日には赤色黒海艦隊へ移管され,1918年4月30日にはセヴァストーポリからノヴォロシースクへ移動しました.
(写真1)
6月19日にはセヴァストーポリへ戻り,その後,ドイツ軍に接収されました.
ドイツ帝国崩壊後の1918年11月24日,再びロシア海軍旗(聖アンドレイ旗)が掲げられましたが,今度はブリテンに接収され,1919年10月,ロシア白軍艦隊へ引き渡されて「ゲネラル・アレクセーエフ」と改名されました.
しかしロシア白軍は赤軍に敗れてロシア本国から追い出され,「ゲネラル・アレクセーエフ」は旧ロシア帝国残存艦隊を率いて1920年11月14日にはトルコのイスタンブールへ逃れ,その後,地中海へ出て,最終的にはフランス領チュニジアのビゼルトへ落ち延びました.
(写真2)
1924年11月30日,「ゲネラル・アレクセーエフ」を初めとする旧ロシア帝国艦隊は聖アンドレイ旗を降ろし,終焉を迎えました.
フランスは旧ロシア残存艦隊をソヴィエト連邦政府へ引き渡しました.
が,実際には各艦はソ連の手に渡る事は無く,現地で解体されました.
「ゲネラル・アレクセーエフ」の主砲(30.5㎝砲)はフィンランドに売却され,沿岸砲として使用されました.
最後のロシア帝国艦隊の乗員と,同行してきた家族は,ビゼルトに留まる者,他所へ移住する者に分かれ(この内のオーストラリアへ移住した士官が「アレクサンドル3世」の聖アンドレイ旗も持って行った),その最後の生き証人でビゼルトに留まっていたアナスタシア・アレクサンドロヴナ・シリンスカヤ-マンシュタイン(ロシア残存艦隊の駆逐艦「ザルキー」艦長の娘)は,2009年12月21日に亡くなりました.
なお,アナスタシア・シリンスカヤ-マンシュタインが存命中の2007年12月25日には,ロシア海軍北方艦隊の艦船がビゼルトを訪問しています.
[ロシア機動部隊の駆逐艦および補給艦,チュニジア訪問]
「ロシア海軍情報管理局」, 2014/08/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
第一次大戦までの建艦競争に英国が勝てたのは何故か?
【回答】
イギリスが,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかったためだという.
以下引用.
イギリスは島国としての地理的条件のおかげで,最初はフランス,その後はドイツというヨーロッパの主要なライバルに対して決定的に有利な立場にあった.
イギリスが抜群の海軍力を保有する限り,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかった.
フランスもドイツも,海上でイギリスに挑戦しようとしても,他の強国から陸上で攻撃を受け易いことを無視するわけにはいかなかった.
かつて,フランスを負かしたように,1914年以前の海軍軍拡競争でイギリスがドイツより多額の資金を費やし,多くの艦を建造できたのも,こうした理由があったからだ.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.211
イギリス海軍とイギリスの商業は共生関係にあった.
18世紀の海軍はイギリスの貿易を保護し,新たな市場を開拓することによって,政府の歳入を増やし,イギリスの商船や造船業までも後押しした.
逆に,これら3つの要素は海軍にとっても極めて重要だった.
戦時に勝ち抜くために海軍は,訓練を積んだ水兵の予備兵力に頼る必要があった.
海軍力,とりわけ武装艦隊の中でも,軍艦は近代技術の最先端を組み込んでいた.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.213
【質問】
第一次大戦に航空母艦は投入されてたんでしょうか?
【回答】
第一次大戦ではイギリスの水上機母艦フューリアスが実戦に参加してますね.
図1:フューリアス(画像掲示板より引用)
1918年に艦尾に着艦甲板を設置して着艦が出来るように改装されたフューリアスは,18年7月17日に7機のソッピース・キャメルでTondernトンデルンにあるドイツ飛行船基地を空襲し,二隻の飛行船を撃墜しています.
これは空母艦載機による史上初の航空攻撃でした.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
このFuriousは,1917年7月に完成しますが,艦の前部のみに飛行甲板を設け,後ろは戦艦そのままの状態でしたので,着艦が難しく,8月2日に2回の着艦に成功した操縦士は,8月7日に失敗して死亡しました.
以後,後部砲塔を撤去して後部にも着艦用飛行甲板を設け,その改装が完了したのが,1918年2月です.
同じような改造を商船のCampaniaに対して行っていましたが,これは前部に120ftの飛行甲板を設けるもので,発艦した機体は,陸上に収用されるものになります.
但し,発艦距離が短すぎ,200ftに延長され,1915年8月6日に初めての発艦に成功します.
1916年当時の搭載機はSopwith11/2StrutterのN9722,A6919-6922,N5333,5635,5638の各機でした.ちなみに,この艦はJutland海戦にも参加(回敵はしませんでしたが)しています.
余談ですが,帝政ロシアも数隻の水上機母艦を黒海艦隊で運用していたりします.
眠い人◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
なお,フューリアスは元18インチ単装砲2基搭載のハッシュハッシュクルーザー.
前甲板を飛行甲板にした当時は,後甲板の18インチ砲は残っていた.まるでデスラー砲搭載のガミラス戦闘空母の如く(笑).
で,後甲板をも飛行甲板にした当時は巡洋艦の檣楼がそのままだった.
つまり前甲板から発艦して後甲板へ着艦,檣楼両舷の回廊を手押しで移動.
しかも檣楼後部には激突防止のネットまで装備(笑)
途轍もなく運用が難しそう,つか運用したくもない艦だった.
軍事板,2006/02/25(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
フューリアスから撤去された18インチ砲は一時期,シンガポールで要塞砲やってたってホント?
【回答】
ウソ.
私の持っている本ではモニター艦〔戦艦並みの主砲を装備した,比較的小型の砲艦.その始祖的存在「モニター」の名に因む〕に搭載されたと書いてありました.
ジェネラル・ウルフにはフュリアスの前部砲,ロード・クライブには予備砲が搭載された.
プリンス・ユージンにはフュリアスの後部砲を搭載する予定であったが,砲架の製造がおくれ,十月に搭載工事を開始した直後に(第一次世界大戦が)休戦のため工事を中止し,未搭載におわっている.
(省略)
同(一九一八年)九月より,二隻はベルギー海岸地帯の砲撃にくわわり,ジェネラル・ウルフが八一発,ロード・クライブが四発を発射し,これが実戦でもちいられた一八インチ砲のすべてであった.
これらモニターは,戦後そうそうに除籍されたが,三門の一八インチ砲のその後は,未搭載に終わったフュリアスの後部砲は実験目的で一九四二年まで用いられ,一九四七年にスクラップにされた.
他の二門は,一九三三年まで保管されたのち,売却スクラップされた.
よくいわれるシンガポール要塞砲への転用は事実ではない.
(引用元:石橋考夫著「艦艇学入門」(光人社文庫,2000.7))
先にmixi支隊において,
>わざわざ主砲なんていうドデカイ代物を〔英国からシンガポールへと〕運んでくるかなあ…という気がしますが.(by K)
と指摘を受けましたが,考えてみればその通りですね.
フューリアス
(画像掲示板より引用)
【質問】
「英海軍は性欲処理のため軍艦の中でヤギを飼っていたが,日本海軍にプレゼントしたら知らずに食べてしまった」
との逸話は実話ですか?
【回答】
その話はけっこう広まっているが,出典が明らかでないし,英海軍で山羊をそういう用途に使っていたという話の確証はない.
帆船時代に英海軍では軍艦で山羊を飼っていたが,長期航海中に高級士官に新鮮なミルクを供給するためのものだった.
(ここから海軍のスラングで,軍艦のラウンジや下士官の居室を「goat
locker」と呼ぶようになった)
ただし水兵の中には,そういう用途で密かに使ったものがいるかもしれない.
日本では禽獣の乳を飲む習慣は元々なかったので,前者の話にちなんで親善のために寄贈された山羊を,勘違いして食べてしまった可能性はある.
その話と後者が結びついてできたジョークかもしれない.
艦内で飼われていたヤギ
(画像掲示板より引用)
【質問】
アメリカが第1次大戦の際に大量に作ったという平甲板型駆逐艦について知りたいのですが.
【回答】
そんな時のためのwiki
・クレムソン級
・ウィックス級
上記の記事の英語版の方にいけば,両クラスで建造された各艦のデータもある.
いわゆる平甲板型駆逐艦(フラッシュ・デッカー)は3タイプ270隻あまりが建造されましたが,
第二次世界大戦前に約100隻が除籍され,50隻が英連邦に貸与されて大西洋の戦いに参加し,残りの120隻弱が米海軍の艦籍にあって活躍しました.
このうち,さらに70隻あまりが戦前から戦時中にかけて高速輸送艦・敷設艦・掃海艦・水上機母艦などに改装され,終始駆逐艦として活躍したのは40隻あまりでした.
また,フラッシュ・デッカーのうち,クレムソン級の4隻がいったん解体のために民間に売却されましたが,これを買い取ったスタンダード・フルーツ社が,中南米諸国からフルーツを運ぶ通称“バナナ・ボート”として4隻を一括購入し,改装した後にニューオリンズ~中米間に投入しています.
4隻のうち,タバスコ(旧ワーデン)は座礁喪失しましたが,残りの3隻は第二次大戦まで可動.
昭和17年に陸軍徴用船としてコレヒドール島救出に投入されます.
残念ながらコレヒドール島は早期陥落したため,その任務は果たせず,その後2隻は事故と爆撃で損失,
最後の一隻となったテアパ(旧パットナム)は戦争を生き延びて再びバナナ・ボートにカムバック.
昭和30年に廃船となりました.
ちなみにこの船が,最後まで洋上で稼動していたフラッシュ・デッカーでした.
【質問】
第一次大戦はアメリカの貿易にどんな影響を与えたのか?
【回答】
第一次大戦は,アメリカの大西洋沿岸の貿易業界に大打撃を与えた.
ドイツが海上貿易からの撤退を余儀なくされたことにより,嵩が大きく単価の低い貨物を運ぶ船がなくなってしまい,ドイツの潜水艦作戦が保険料を暴騰させた.
アメリカ政府は規制を緩め,また,他のあらゆる海域から船が北大西洋の戦争需要をまかなうために動員され,当座の危機を軽減したという.
アメリカの輸出自体は戦争需要により急増したが,第一次大戦中の海運業の殆どは,アメリカ人以外にしか利益をもたらさなかった.
1916年にはウィルソン大統領は海運法を作り,1914年以前の全世界の商船隊の合計の2倍,1700万トン以上の船舶建造に十分な予算を割り当てたが,鋼鉄製貨物船ホッグ・アイランダーの第1船が進水したのは,1918年12月になってのことだった.
詳しくは,『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(John Curtis Perry 著,PHP研究所,1998.11.4),p.300-305を参照されたし.