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戦史FAQ目次


 【Link】

『日本海軍地中海遠征記 若き海軍主計中尉の見た第一次世界大戦』(片岡覚太郎著,河出書房新社,2001/06)

 WW1当時,日本から三等巡洋艦『明石』(後に『出雲』)が二等駆逐艦『樫』『柳』『檜』『桃』『杉』『柏』『松』『榊』『桂』『楓』『梅』『楠』を従えて,日本から地中海まで航海し,多くの船団を護衛すると言う話.
 中々読み応えがあり,当時の風習や意外にも,日本人にも紳士的な各国の軍人の姿勢がうかがえる.
 価格2000円を安いと見るか,高いと見るかは貴方達に任せます.

------------アルザス:軍事板,2001/08/07(火)

 【質問】
 第一次大戦時の日本海軍の実力は?

 【回答】
 WW1の時点では日本海軍は帝政独海軍と比べ3位はおろか,2位独逸とは比べるべくも無い劣勢でした.
 当時,帝政独海軍に対抗できたのは英大艦隊だけです.
 実戦力3位どころか,質量とも圧倒的に帝政独海軍が上です.

 日本海軍は,ハンマーである遊撃戦力としては金剛型があり,コレはかなり有力です.
 が,お伴となるべき駆逐艦隊が皆無に等しく,総合戦力として多くは期待できません.
 因みに英独供かなり有力な水雷襲撃部隊を有していました.

 また金床たるド戦艦群の内,使い物になるド級以上は,大戦中竣工の扶桑型が最初で改正型の伊勢型まで含めても僅か4隻.
 ド級艦に分類されている河内型は.究極の準ド級というべき艦で,多くを期待できる艦ではありません.
 その扶桑型も,成功作と呼べるような艦ではありません.

 因みに英独は,1916年のジュトランドに参加したド級と超ド級戦艦だけでも英28隻(日本艦を上回る15in砲艦6隻含),独16隻に達します.

 基準戦艦(三笠と同等レベル)なら,日本も鹵獲ロシア艦も含めて前ドは腐るほど持っていましたが,その腐ってた基準戦艦~準ド級戦艦群が日本海軍の場合また曲者.
 66艦隊計画の残存4隻,香取,鹿島,薩摩,安芸,筑波,生駒,伊吹,鞍馬は多少の問題含み(2巨砲混載は運用が難しい,最有力の薩摩・安芸は同型艦なのに運動能力が違う等々)ではありますが,自国の要求仕様で造ってるからまだマシです.
 しかし,日露戦争で鹵獲・再整備した石見,肥前,丹後,相模,周防,壱岐は,相模と周防が同型(つってもドレッドノート・ショックの後では,基準戦艦はおろか装甲巡洋艦の価値しか事実上なくなっている)である以外,型も運動能力も速力も火力も全く別モノです.
 したがって,戦隊,艦隊といった戦術ユニットとしての一体性がまるで作れず,しかもそれらの整備再生にかけた労力予算は莫大でして,当然他に皺寄せが行きました.
 文字通り「腐っていた」と言えるでしょう.

 もちろん英独などは,そういう戦争によるアクシデント的なものがないので,それなりの斉一性を保ってます.

 唯一,日本海軍に後に繋がる利があったとすれば,「戦艦の定数」が増えたので,これらを廃艦にすると代艦を要求する名分が立つようになった位ですな.

 結論として,当時の海軍バランスは物凄く大雑把にあらわすと
英>>独>>>>>米仏日露墺伊(皆,脛に傷あり.どんぐりの背比べ)>>>>>その他.
といった感じ.

(世界史板)

 【質問】
 「第一次大戦時,日本海軍の駆逐艦隊は皆無に等しかった」ってどういうこと?

 【回答】
 まず,日露戦争までに造られた駆逐艦は数こそ多かったものの,基本的に日本海での活動しか想定されていなかったため,太平洋で活動するには凌波性と航続力が不足.まして大西洋まで行けるはずもなし.
 神風型なんて,その25隻の内23隻までもが日露戦争後の竣工(というか,日露戦争に間に合わなかった)だったのに,完成した途端に三等艦.とんだ無駄骨.

 太洋でも活動可能だったのは開戦当時
一等駆逐艦:海風型2隻
二等駆逐艦:櫻型2隻
だけで,たったこれだけでは「駆逐隊の編成すら不可能」(「日本駆逐艦史」(海人社,1992)という始末.

 大戦中に一等駆逐艦はさらに浦風型2隻が竣工するが,この型は蒸気タービンとディーゼルを混載して航続力を伸ばす計画だったのが,大戦勃発により,ドイツ・フルカン社製の減速流体継手の入手が不可能になって,ディーゼル搭載を断念.
 しかも浦風型2番艦の江風(かわかぜ)はイタリア海軍に譲渡.
 同型艦のなくなった浦風は駆逐隊編入が困難になり,専ら揚子江警備に従事した後,1940/4/1,除籍.

 そこで慌てて2等駆逐艦樺型10隻を量産.櫻型の図面を流用し,民間の造船所も総動員して1915年4月までに全艦完成.
 うち8隻が地中海で船団護衛に従事して,第一次大戦中の日本駆逐艦としては最も活躍することになる.

 その後,
一等駆逐艦磯風型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
二等駆逐艦桃型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
同楢型5隻(1918/6/30までに全艦竣工)
と急いで整備され,なんとか少しは格好がつくようになったとさ.

 以上,ソースは「日本駆逐艦史」(海人社,1992)より.

消印所沢 in FAQ BBS


 【質問】
 砲艦外交以外でも,日本がヨーロッパに軍艦を派遣した事例があれば教えてください.
 1920年頃のがあればうれしいです.

 【回答】
 第一次大戦中の1917年,英国の要請で連合国の輸送船等を護衛するため,巡洋艦「明石」を旗艦とする駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣しています.
(後に巡洋艦「出雲」「日進」その他3個駆逐隊を,交替のため派遣)

 これらの艦の内,駆逐艦「榊」はUボートの魚雷により多数の死傷者を出しています.
 その他多くの犠牲を払ったおかげで,日本海軍の護衛は非常に評価が高かった由.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2007/07/22(日)

 名無し軍曹殿に蛇足ですが,1919年12月19日,至難の業と言われ,各国海軍が挫折した旧ドイツ潜水艦U46/U55/U125/UC90/UC99/UB125/UB143を受領し,1920年2月18日に英国を出航し,6月18日に横須賀に回航する快挙を成し遂げています.
 この時に先の第二特務艦隊が付き添っています.

 また,1921年と1926年に巡洋艦「八雲」と「出雲」からなる練習艦隊が,パナマ経由で欧州方面を経て世界一周を行っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/07/22(日)


 【質問】
 第一次世界大戦のとき,日本はヨーロッパに戦艦などの主力部隊を派遣したのですか?

 【回答】
 なんでも,英国から金剛級の派遣(貸与も?)を求められたそうだが結局,巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣するにとどまっている.
 その後の増派等を含め計18隻.
 戦死,病死を含め78名がこの派遣中になくなっている.

 他に
第1特務艦隊(巡洋艦部隊)をシンガポールとケープタウンに派遣,
第3特務艦隊(実質は巡洋艦戦隊)をシドニーに派遣しています.

 海外派遣どころか,WW1そのものに日本は新鋭戦艦を使っていません.
青島攻略は周防・丹後・石見などロシア拿捕艦,
南洋攻略には伊吹・鞍馬など前ド級巡洋戦艦,
シベリア出兵には三笠・敷島・朝日など
旧式戦艦を使ったに過ぎません.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 C・W・ニコルの『遭敵海域』ってどうですか?
 WW1の日本軍モノが読みたかったのですが,もっといい本があったりしますか?

 【回答】
 あの三部作はむしろアクションを取り入れた外套と短剣ものに,海戦分を添えたものなので,『遭敵海域』でも日本海軍が出てくるシーンは,主に主人公が立ち寄った先で東洋艦隊の捜索に向かう艦を訪れるとか,どこそこでどういう艦が活動していて,周囲の反応はこうだとか,そんな感じ.
 日本海軍の海戦シーンを期待してはいけない.
 それならむしろ『特務艦隊』の方を読んだ方が良いかも.

 この巻のメイン・アクション・シーンは,シンガポールにおける英印兵の反乱で陸.
 停泊艦乗組員で編制された海軍陸戦隊も出てくる.
 日本でこの事件を題材にしたのは,この本くらいじゃないだろうか(笑)

 なお,どうせ読むなら,『盟約』から読んだ方が話が通じるからおすすめ.
 こっちは対馬海戦のシーンとか三笠爆沈の話があったり.
 一作目からとにかくよく調べてあるし,
「あれ?,こんなにかっこいい組織だったっけ?」
と思える程,日本海軍に対しては格好良く書いてある.
(あと,英国やカナダの郷土料理が,とても美味しそうに書かれてもいる)

> WW1の日本軍モノ

 論文やら背景主体だけど平間さんの本か『日英関係史 ⅲ 軍事』とか?
 あと,何かで青島戦の史料読んだ憶えがあるんだよなぁ.

軍事板,2009/10/22(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍地中海派遣艦隊の,輸送船護衛以外の任務について教えてください.

 【回答】
 この前,「マルタの碑」という小説を読んで,その辺の事を調べたくなったので,「日本海軍地中海遠征記」とか,その辺の書籍を買い込んで読んでいたのですが,日本海軍の第二特務艦隊に属する駆逐艦が,輸送船護衛からの帰還時,アドリア海の入り口を偵察する様命じられたくだりがあります.
 この時は,潜水艦の待ち伏せがある危険海域に,護衛艦船を入れて,万一失われたら大変だと言うことで,中止されました.

 また,休戦の後,1918年11月24日と26日の両日,第二十二駆逐隊の「桂」「楓」がマルタから出港し,イタリア半島の付け根にあるブリンジンに向かい,其処からアドリア海に入り,セベニコ,ザラを経て12月2日にポーラ軍港に入り,敵艦の監視任務に就いています.
 第二十三駆逐隊の「松」「榊」も同じくポーラ軍港で,敵艦船の監視と武装解除任務に就いていました.
 ポーラには12月8日まで滞在した後,ベニスに移動しています.

 ちなみに,「日進」と「楠」「梅」「桃」「樫」「柏」「栴檀」「橄欖」は,ギリシャからトルコのイスタンブールに入って,休戦監視の任務に就いています.

 その後,「楠」「梅」は,アドリア海に入って,12月下旬に先の「桂」「楓」と同じコースを通って,12月31日にフューメに向かったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 アメリカの第一次大戦参戦は,日本の造船業にどんな影響をもたらしたのか?

 【回答】
 1917年,米国が第一次大戦に参戦すると,彼の国は巨大な兵器廠と化し,基幹たる鉄が必要となり,各国に輸出する余裕が無くなります.
この為,8月2日になると鉄材の海外輸出を停止する措置を執りました.

 これで大きな被害を被ったのが,鉄材の殆どを輸入に頼っていた日本です.
 元々,日本国内では自給体制に乏しく,第一次大戦前には英国やドイツなど欧州から輸入していたのが,第一次大戦でその輸入が途絶えた為,その調達先を種々探し求め,中立国の米国からの輸入に頼っていました.

 当時の日本は,1915年から1918年までの間に,輸出総額54億円,輸入総額40億円と日本では製品を作り,輸出して稼いでいた上,海上運賃や用船料の暴騰で運賃収入が増大,保険料収入も増加したので,貿易外収支も増大し,受取超過額が13億円と産業界にとっては空前の好景気.
 最終的に正貨が27億円流入した為,日本の立場は債務国から債権国に転じることが出来ました.

 この好景気を引張っていたのが造船業で,米国に発注した鉄の納品を目論見にして,船の発注を受けていましたが,米国の鉄材輸出停止は,その造船業にとってピンチとなります.
 何しろ膨大な受注を抱えながら素材を絶たれてしまい,生産継続が出来ませんから.

 浅野造船所はNew Yorkの浅野合資会社支店に技師を派遣し,絶えず輸入を促進すると共に,船主の東洋汽船に優先輸送と言う便宜を図って貰っていましたが,鉄が輸入出来なくなると,東洋汽船も船荷が無くなり,欠損が生じます.
 1918年になると昨年8月に比し,工事分量は58%,在籍工員数は65%へと激減しました.
 更に残業はなくなり,工員の実収入は減り,退職者が増加しました.

 この米国の措置は,日本にとって看過出来ないものであり,政府と関係民間諸団体は様々のルートを通じて米国の鉄解禁運動を進めました.
 関東側の中心となったのは浅野造船所,関西側では鈴木商店が中心となり,船腹不足の米国に船舶を提供する代わりに,米国から鉄材を供給すると言う現物交換のアイデアを創出して,米国からの鉄材供給を依頼する様に奔走します.

 浅野造船所はこの交渉の参謀本部として,連絡場所を提供するだけでなく,社長以下奔走し,通訳や通信手段の提供,交渉などの事務方まで担当していました.

 1918年3月,駐日大使モリスとの間に仮契約を締結し,第一次船鉄交換契約が4月に米国政府との間で成立します.
 これは,日本側が現有船舶を直ちに米国側の鉄材と交換する条件で,且つ,船舶建造経験として6,000重量トンのものを建造した事があるか,又は建造しつつあること事などが条件で,多数の造船所が交換を希望したものの,浅野,鈴木,三菱を筆頭とする大手造船所にしか鉄材の供給が行われませんでした.

 因みに浅野造船所では,そうして得られた鉄材を6隻に割り振り,1919年1~5月に順次完工させて,ストックボートとして売ったのですが,丁度船価高の状況だった事もあり,純益が1,400万円に達しました.

 それに溢(あぶ)れた造船所は,5月中旬に行われた第二次船鉄交換契約に期待を繋ぎ,その確保に奔走します.
 第二次船鉄交換契約でも船舶建造経験は同様でしたが,その内容は些か緩和され,船台があれば可,しかも船2重量トンに対し新規鉄材1トンと言う交換比率になりました.

 こうして,この契約で日本は30隻,246,300重量トンの船舶を建造します.
 石川島造船所が2隻10,000トン,三菱造船所が2隻で16,600t,そして,浅野造船所は7隻を竣工させるに足る鉄材を入手し,横浜船渠も1917年下期に増資で資本金を1,000万円にし,これを船台整備に費やし,3隻で18,900トンの船と,余った鉄材で1隻の自前船を建造します.
 横浜船渠では,船舶修理も軌道に乗り,増資したのにも関わらず,1917年下期3割,1918年上期3割5分,下期3割と言う高配当を挙げ,毎期の利益は戦前の10期分と言う未曾有の好景気を生み出しました.

 また内田造船所では,全く建造経験のない小規模企業だったのにも関わらず,6,000重量トン級船台を一挙に3基整備し,第二次船鉄交換契約に食い込んだ上,2隻,17,000重量トンの船を引き受けることに成功しました.
 全く大型船の建造経験のない会社なのに,三菱並みの規模を誇った訳で,如何に好景気に沸いていたかが判ります.

 更にその余剰鉄材で,南満州鉄道向けの満州丸を建造します.
 この満州丸は,元々南満州鉄道が三菱が建造していた船鉄交換船と同型船を購入する予定だったのが,内田造船所のオーナーが横槍を入れて発注を取消させ,内田造船所の満州丸を購入する事になったと言う事で騒ぎとなり,政友会の代議士を通じて原敬首相に贈賄工作をして,不当の価格で南満州鉄道に売り込んだという事で,当時野党だった憲政会が倒閣運動をする騒ぎにまで発展しています.

 この疑惑捜査の過程で出て来たのが内田造船所のオーナーで,内田汽船の経営者である内田信也氏の金持ちっぷりでした.
 良く第一次大戦の日本の成金を皮肉った絵が教科書に掲載されていますが,正にその通りの人だったりする訳で….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/16 20:54


 【質問】
 大正期(WW1前後)に日本で建造された貨物船で,L級とM級と呼ばれているのがあるらしいのですが,正式名称を教えてください.

 【回答】
 郵船の貨物船ですね.

 まず,1907年建造の英国の貨物船デン・オブ・クロムビイを用船し,その性能を調査,研究して, その船を建造した英国ラッセル造船所で建造中の略同型貨物船を彼南丸,蘭貢丸として購入,
 1910年,更に同型船を徳島丸,鳥取丸として購入し,遠洋航路貨物船に使用します.

 1913年,欧州航路臨時船として,改良型の7,500総トン11ノットの貨物船を英国ラッセル造船所に2隻発注し,これを對馬丸,高田丸,更に日本の三菱長崎に豊岡丸,富山丸,川崎造船に豊橋丸,徳山丸を発注し,1915年に竣工させます.
 更に第一次大戦の船腹量増加に伴い,日本~欧州の定期航路の2週1回を維持するために,三菱長崎と川崎造船所各3隻を発注.
 これらは但馬丸,龍野丸,鳥羽丸,敦賀丸,常磐丸,津山丸と全て頭文字がTで始まる船のため,T型貨物船と呼ばれました.

 1920年,T型貨物船をベースに,更に改良を加えたのが,D型貨物船,L型貨物船,M型貨物船で,それぞれ,
D型はでらごあ丸,だあばん丸,だかあ丸と頭文字がDで始まるもの,
L型はりま丸,りおん丸,りすぼん丸と頭文字がLで始まるもの,
M型は水戸丸,松江丸,松本丸,前橋丸と頭文字Mで始まるもの
で,全て都市名が割り当てられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/02/07(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三井物産造船部宇野仮工場が完成させた商船について教えられたし.

 【回答】
 同工場は,第一次世界大戦を背景とする,当時の逼迫する造修工事に対処するため,同社玉工場に先立つ仮工場として,岡山県鹿島郡宇野町において,1917.11.4から操業開始.
 第一次大戦終結と共に,日本造船業の前途多難が予想されたため,1919.5.12に閉鎖されたが,その間,26隻を建造した.

 その主要建造船舶は,『三井造船35年史』によれば,以下の如し.
(100総トン以上 引渡順)

船名 種類 総トン数  速力      起工     進水     引渡   注文主
海嘉丸 木造貨物船 991 9.67 大正
6.10.4
大正
7.2.11
大正
7.4.5
三井物産
三天丸 鋼製貨物船 1211 9.51 6.11.7 7.3.10 7.5.20
海正丸 木造貨物船 758 9.02 6.8.22 6.12.2 7.5.30
三長丸 鋼製貨物船 1215 10.62 6.12.7 7.4.13 7.7.3
英山丸 1228 11.06 7.2.15 7.6.6 7.8.10 青木榮蔵
烏城丸 2494 11.10 7.4.25 7.8.25 7.10.17 津田資郎
海弘丸 木造貨物船 1095 11.18 7.3.14 7.11.20 7.12.12 三井物産
三嘉丸 鋼製貨物船  2489 11.13 7.5.25 7.12.1 7.12.30
三弘丸  630 9.60   7.7.3 8.1.21 8.2.20

 【質問】
 WW1終結までに,三井物産造船部玉工場が完成させた商船について教えられたし.

 【回答】
 『三井造船35年史』によれば,以下の如し.
(100総トン以上 引渡順)

船名 種類 総トン数  速力      起工     進水     引渡   注文主
三仁丸 鋼製貨物船  2494 11.05 7.10.19 8.5.10 8.6.28 三井物産
木曾丸 4066 14.26 8.11.12 9.5.15 9.6.11 東京海運
イースタン
インポーター 
5846 13.89 8.3.31 8.11.9 9.6.23 米国
イースタン
エキスポーター 
14.23 8.3.31 8.12.27 9.7.16
利根丸 4070 13.75 8.12.28 9.6.19 9.7.30 東京海運
歌神丸 2428 12.82 9.4.1 9.9.1 9.9.28 北海道炭礦汽船
布引丸 鋼製曳船 119 11.06 9.5.9 9.9.5 9.10.20 東神倉庫

 【質問】
 日本が初めて国産で建造した戦艦は「筑波」なんでしょうか?
 それとも「薩摩」なんでしょうか?

 【回答】
 「筑波」は,明治40年1月14日に一等巡洋艦として竣工し,大正元年8月28日に巡洋戦艦に類別変更.
 大正6年1月14日に横須賀軍港在泊中に火薬庫の爆発により沈没し,同年9月1日に除籍.

 「薩摩」は,明治43年3月25日に戦艦として竣工.ワシントン条約により大正12年9月20日に除籍.
 大正13年9月2日に東京湾外で砲撃の標的となって沈没.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「矢矧」のスペイン風邪罹患のケースについて教えられたし.

 【回答】
 旧日本海軍に矢矧という軍艦がありました.
 と言っても,第二次大戦で大和と共に撃沈された方と違って,今日は先代の話.

 先代の矢矧は1912年に竣工した明治最後の二等巡洋艦です.
 もう少しすれば,軽巡洋艦に進化したのですが,敵艦隊の攻勢予想正面に配備され,敵の動静を探る偵察用艦艇としての位置づけでした.
 この為,戦艦に続いて機関に蒸気タービンを採用したのですが,重油専焼方式ではなく,石炭も併用する混焼方式であり,石炭庫を舷側に配置して防御用に充当する防護巡洋艦として最末期の形式でした.
 因みに,1940年に廃艦となり除籍されますが,江田島で練習艦として使用され,太平洋戦争中は潜水学校用として使用された後,敗戦まで生き延びて戦後解体されました.
 初代大和と共に,矢矧も,二代目の海上特攻を見送ったことになります.

 この艦が竣工して間もなく,第一次大戦が勃発します.
 日本はこの機に乗じ,アジアと太平洋のドイツの権益を回収しようと目論んで,連合国側に立って参戦しますが,第2艦隊第4戦隊に所属していた矢矧は,僚艦の筑摩と共にドイツ極東艦隊の通商破壊艦対策として1917年6月にアジア地域,オセアニア地域に展開していた第1特務艦隊に編入され,シンガポールを基地として,マラッカ海峡,インド洋,豪州,ニュージーランド方面の警戒や船団護衛などの任務に就いていました.

 1918年10月頃,矢矧は豪州,ニュージーランド方面を遊弋していました.
 しかし,既に1年以上外地に派遣されていた為,シンガポールに戻って本国から新たに派遣される千歳と交代して呉に帰投せよとの命令を受け,シドニー,木曜島を経由して11月9日にシンガポールに入港しました.
 そして,11月中旬の千歳の来港を待って出港の予定でしたが,千歳の到着が遅れた為,出港は11月30日となりました.
 この間,第一次大戦は同盟国側の降伏で休戦となり,矢矧もその命令を受け,「戦闘動作中止」となります.

 とは言え,千歳は未だ来ずに,延々3週間もの間,赤道直下で気温30度に達するシンガポールに停泊し続けていました.
 この間の状況を写した写真が,『日本巡洋艦史』に掲載されています.

 当時,シンガポールでは10月頃から流行性感冒,所謂インフルエンザが猖獗を極めており,第1特務艦隊に属していた対馬,最上,それに第13駆逐隊の駆逐艦が相次いで感染した為,乗組員に禁足命令を出し,必要時以外,必要な者しか上陸をさせませんでした.
 ところが千歳到着が遅れ,長期の在泊となったため,11月21~22日,予防薬を服用し,4時間ずつ,行先は下士卒集会所に限る半舷上陸を行います.
 11月になると,10月の流行が終熄しつつあり,在泊中の各艦の上陸者に異常が生じなかった事もあります.

 ところが,24日に発熱患者4名が発生しました.
 軍医はこれを通常の風邪として,隔離しただけでそれ以上のことはしませんでした.
 しかし28日までに,乗組員の診断をすると同じ様な患者が10名発生していることが判明しました.
 ところが,寝冷えだろうと言うことでこれを黙殺し,30日に千歳との任務交替もそこそこに,一路,マニラに向けて出港しました.

 実は最初の4名,次の10名ともインフルエンザ罹患者でした.
 30日の午後6時,総員検診をすると,発熱患者は約25名,翌日には数回検診を行った所,その検診毎に毎回10数名の患者が発見され,午後には士官1名を含む69名に達しました.
 平時の乗組員は414名ですが,当時の矢矧の乗組員は戦時でもあり,第2特務艦隊から帰還途中の便乗者なども居て,469名が乗組んでいました.
 既に,この2日間で15%の乗組員が罹患していた訳です.

 とは言え,いずれも軽い発熱であり,シンガポールよりマニラに行く方を選択しました.
 念の為,近隣の港湾で医薬品補給の有無を旗艦に問い合わせましたが,各地ともインフルエンザの流行時期であるため,入手不可能との返信を貰っただけでした.

 12月2日,新患者は約50名発生し,最早隔離は不可能,看護卒2名も罹患,病床に伏す有様で,士官も2名罹患しました.
 機関部員は3日間で患者数が59名に達し,艦の航行にも影響が出始めます.
 翌3日,残っていた看護卒1名も倒れ,軍医長まで寝込んでしまう有様となり,患者は新たに79名が加わりました.
 機関部は部員が次々に倒れた結果,機械部,罐部,電機補機部に充当する乗組員が足りなくなり,通常は5直であるのに,4直,遂には3直となり,それでも足りないため,水兵部から12名を機関部に補填してやっと機関を動かす状況に陥ります.
 元々,27.5kts/hの快速を誇っていた矢矧でしたが,相次ぐ機関部員の罹病で,6罐中4罐が稼働するのみであり,速力は11kts/hに落ち,更に10kts/hに低下しました.

 隔離も実施されず,治療,看護も出来なくなったことから,罹病者は更に増え,4日には106名が新たに患者の列に加わり,初めて1等機関兵1名が死亡すると言う事態に陥りました.
 4日の航海日誌にはこうあります.

――――――
 四日ニハ僅少ノ士官ト三,四十ノ下士卒ノ外殆ント全員罹病シ,軍医長モ遂ニ就床スルニ至リ診療ニ対シテハ独リ便乗中ノ菅大軍医僅少ナル士官下士卒ト共ニ患者ノ治療看護ニ従事セリ.
 右ノ如キ状態ナルヲ以テ患者ノ診療投薬看護意ニ任セズ艦内至ル所患者転顛シ呻吟苦悩ノ声ヲ聞クモ又如何トモスル能ワズ惨憺タル光景ヲ呈セリ
――――――

 烹炊員も減じたため,食事も作れず,飯と塩と言う状態になりましたが,不幸中の幸いで便乗者,これは第2特務艦隊の旗艦であった巡洋艦明石の乗組員でしたが,彼等は不思議と罹患せず,彼等の応援があって初めて艦が運航出来ました.

 インフルエンザと病気は,一旦感染してしまうと抗体が出来ています.
 シンガポールで流行が下火に見えたのも,住民達が一度は感染して,抗体を持つ事になり,インフルエンザ・ウィルスが宿主を一時的に失った為です.
 そこへ,今までこの病気に罹ったことのない矢矧の乗組員が大挙して猖獗の地を訪れた訳ですから,ウィルスは新たな宿主が出来たと言う訳で,彼等に感染していきました.
 明石の乗組員も,多分,米国から齎されたウィルスに地中海か,アレキサンドリアか,マルタやシンガポールまでの寄港地の何処かで感染したはずです.
 この為,矢矧乗組員の殆どが感染した猖獗状態でも,明石の乗組員達が罹患しなかったと考えられます.

 兎に角,矢矧は機関停止状態,漂泊寸前の状態で,5日正午にマニラに到着しました.
 防波堤の南端に投錨したものの,錨を引いて艦を安定させる揚錨機を扱える者も居なければ,舷梯を降ろす者さえおらず,これらの作業は明石の乗組員達が行いました.

 結局,11月30日~12月4日の5日間に,士官14名,特務士官・准士官6名,下士卒286名の合計306名が罹患し,これは矢矧乗組員の65%に当りました.

 そして,在マニラ日本領事に連絡し,重症者の准士官以上11名,下士卒35名を当地の病院に入院させました.
 しかし,その後もインフルエンザは蔓延し,5日に患者96名,6日には64名となり,罹患者累計が466名となります.
 ただ,この数字は軍医の診療を受けた者であり,複数回診察された者もその度毎にカウントされたため,実際にはもう少し少ない数になろうかと思われます.
 とは言え,マニラ到着で機関部は愁眉を開きました.
 機関部員の患者数は5日に112名を数え,壊滅状態に至っていたからです.
 患者は7日,8日に4名ずつ,9日に1名を数え,以後発生しなくなりました.

 ところが,7日には兵1名が病院で死亡した後,9日には副長と3名の下士卒が病院で死亡,10日には病院で8名,艦内で5名,病院への搬送中に1名と全部で14名が死亡しました.
 11日に5名,12日には8名,13日4名と死亡者は日を追って増え,重態は約50名に達しています.
 最終的に死亡者48名を数えました.
 死亡率は10.2%にも上ります.

 海軍は,一等砲艦最上をマニラに派遣し,乗組みの軍医を臨時に矢矧乗組みとして治療に当らせ,馬公要港部から巡洋艦秋津洲を派遣し,軍医,看護人,薬剤を送り込みました.
 17日に,最上は明石の乗組員を乗せて出港し,矢矧は1月10日,やっと出港出来る状態になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/01 23:18


 【質問】
 八八八艦隊とは?

 【回答】
 黒野耐によれば,大正7年(1918年)国防方針の下での日本海軍の軍備構想.
 問題は,八八艦隊すら予算上から整備の目途も立っていないのに,さらに1個艦隊を増加できるのかという点にあったという.
 結局,大正9年度予算が閣議決定される前に,高橋是清蔵相,田中陸相,加藤海相が軍備充実について協議した結果,
・当時の財政状況,国力に沿った軍備整備要領を立てること
・海軍は経過的措置として八六艦隊の建設で我慢すること
・陸海軍間の兵力整備の優先順位を当面は海軍に置き,海軍の計画が完了する大正16(1927)年以降に陸軍の計画を実行すること
で合意が成立したという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.74-75
を参照されたし.


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