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◆◆◆斯波氏
<◆◆人物
<◆室町時代(日本)
<戦史FAQ目次
【質問】
斯波高経について教えられたし.
【回答】
斯波高経は,嘉元3(1305)年に生まれた.
奇しくも宗家の足利尊氏と同年齢であった.
父は斯波宗氏,母は大江時秀の娘であった.
大江時秀は,源頼朝の有名な文筆官僚である大江広元の曽孫で,自身も鎌倉幕府の引付衆や評定衆を長年務めたエリート官僚であった.
従って,そのような名門の娘を妻に迎えた斯波氏の地位は,相当高かったと言えるのであるが,高経の祖父宗家まであった北条氏との血縁関係が失われていることは,やはり同氏の勢力低下を窺わせる.
もっとも,北条氏と直接の血縁関係がないのは,上杉清子を母とする足利尊氏・直義兄弟も同じであったが,彼らの父貞氏の場合は,一応北条氏出身の娘を正妻としていたと推定できるので,この辺宗家と庶流の差が垣間見えると思う.
斯波高経が初めて歴史上に現れるのは,元亨3(1323)年である.
この年,鎌倉幕府の執権北条高時が,亡父貞時の13回忌を催し,円覚寺を造営して盛大な仏事を営み,金沢貞顕以下北条一門・御家人・御内人182名が高時に贈り物を献上した.
このとき,足利一門からは,宗家の「足利殿」(足利貞氏),長老の「足利上総前司」(吉良貞義)に並んで,「足利孫三郎」も献上している.
この足利孫三郎が,斯波高経の若き日の姿で,このとき若干18歳であった.
この事実からも,斯波氏の足利家における地位の高さが窺われるであろう.
その10年後,元弘3(1333)年,足利尊氏が鎌倉幕府を打倒するために挙兵したとき,当然高経も足利軍の一部将として尊氏に従って合戦に参加したわけであるが,このときは後世語り継がれるほどの戦功は,特に挙げていないようである.
建武政権下においては,斯波高経は越前守護に任命されている.
越前守護は,当初は新田一族の堀口貞義であったが,建武1(1334)年3〜9月の間に,貞義から高経に交代したと考えられている.
これは,同年6月の護良親王・新田義貞の尊氏襲撃計画の失敗および8月雑訴決断所への上杉憲房・高師直等の参加といった,足利勢力の勢力拡大に伴う人事の一環と推定されている.
後に述べるとおり,室町幕府が発足してから,斯波高経は越前で新田義貞と死闘を繰り広げるが,そうした足利と新田の抗争の種は,すでにこのときに蒔かれていたのである.
同年10月には,北条氏の残党が紀伊国飯盛山で蜂起した.
建武政権は,まず楠木正成,ついでこの斯波高経を反乱鎮圧のために紀州に派遣した.
高経は,翌年正月,反乱軍の部将である六十谷定尚を討ち取って,反乱を鎮圧した.
この遠征の成功は,高経の武将としての評価を高めることに貢献したであろう.
建武新政時代の斯波高経の動向で現代に知られるものは,以上に述べたくらいであるが,看過できないのは,斯波一族と思われる尾張弾正左衛門尉が,奥州で活動していることである.
当時奥州では,陸奥将軍府という建武政権の地方統治機関が存在し,陸奥守北畠顕家が後醍醐天皇の皇子である義良親王(後の後村上天皇)を奉じて,経営に専念していた.
しかし一方で,足利尊氏が鎮守府将軍に任命され,東北地方の北条氏遺領の大半を後醍醐天皇から拝領していた.
尊氏は,尾張弾正左衛門尉を現在の青森県津軽地方に派遣し,陸奥将軍府と協力して奥州統治にあたらせた.
当時,青森県全域が北条氏から尊氏の所領となっていたのである.
斯波氏の一族である尾張弾正左衛門尉が奥州に派遣されたのは,陸奥国斯波郡が斯波氏の本領であり,奥州と関係が深い人物が奥州経営にあたるのが好都合と判断されたためであると思われる.
斯波氏と奥州の関係は,この後も断続的に続くこととなる.
【質問】
斯波家長について教えられたし.
【回答】
斯波高経・時家兄弟が西国を転戦しているころ,東国では高経の長子家長が,奥州の北畠顕家と激戦を繰り広げていた.
斯波家長については,一般的にマイナーである南北朝期の武将の中でもひときわマイナーであるにもかかわらず,当ブログでたびたび言及してきた人物である.
それだけ,現代知られている以上に家長の役割が大きかったことを意味すると思う.
斯波家長は,足利尊氏の挙兵と同時に奥州に派遣された.
これは,当時陸奥守として奥州を支配していた北畠顕家を牽制するためである.
そして,顕家が京都に攻め上った尊氏を追って西上するのを追って,家長も奥州を去り,鎌倉に入って,初代関東執事として当時まだ6歳であった幼君義詮を奉じて,関東地方・東北地方の広大な領域を統治した.
とは言え,家長自身も当時若干15歳の少年に過ぎなかった.
ちなみに,家長が戦った北畠顕家も18歳であった.
このように,当時の東国は,南北両朝ともにきわめて若い武将たちが戦っていたのである.
彼が奥州に派遣されたのは,陸奥国斯波郡が鎌倉以来の斯波氏の所領であり,建武新政時代の尾張弾正左衛門尉と同様に,斯波氏の家柄の高さと奥州との深い関係が考慮されたためである.
注目するべきは,この家長が,「大将斯波殿」「志和尾張弥三郎殿」「斯波陸奥守殿」などと,初めて斯波の名字を付されて呼ばれている事実である.
この事実からも,斯波氏の奥州との深い関係が,同地方統治の正統性の根拠とされたことが窺える.
しかし,斯波家長は,建武4(1337)年12月,尊氏を討つためにふたたび奥州から進撃してきた北畠顕家軍を鎌倉で迎え撃ち,戦死してしまう.
この後関東では高師冬・上杉憲顕が新しい執事となり,東北では石塔義房・義元父子が家長の地位を継ぐ.
斯波家長が,戦果的にあまりふるわなかったのは事実であるが,それでも北畠顕家を牽制し,その力をある程度削いだ点で,一定の歴史的役割は果たしたと言えると思う.
【質問】
中先代の乱以降の斯波氏の状況は?
【回答】
建武2(1335)年7月,北条高時の遺児・時行が建武政権に対して反乱を起こした.
中先代の乱である.
同年8月,足利尊氏はこの反乱を鎮圧するために関東に出陣したが,斯波高経・時家兄弟もこれに従軍している.
中先代の乱はほどなく鎮圧されたが,今度は尊氏自身が反乱軍の首領と見なされ,建武政権の追討を受ける立場となった.
高経・時家兄弟は,同年11月の三河国矢矧,翌12月の箱根竹ノ下における建武政権軍との合戦に参加している.
このとき,当初尊氏はまるで戦意がなく,出家・引退したいとさんざん駄々をこねて最終局面まで出陣を渋っていたので,斯波氏は矢矧の合戦には,直義に従って出陣したのであった.
ようやく尊氏が出陣し,竹ノ下で新田義貞軍を打ち破り,東海道を上ってからも,当然斯波兄弟は足利軍に従軍し,京都占領および九州落ちにも従った.
ただし,途中播磨国室津で尊氏は軍議を開き,一門諸将を中国・四国の各地へ派遣して,そこで工作させて足利勢力を増強させることにした.
このとき,斯波高経は長門担当を命じられ,尊氏一行と別れた.
尊氏は,翌年九州で菊池軍を撃破して態勢を立て直し,ふたたび京都に攻め上ったが,このとき高経も長門や周防で従えた軍勢を率いて尊氏軍に合流している.
ついで5月,尊氏は播磨で全軍を大手・山ノ手・浜ノ手の3軍に分割し,大手の大将軍は直義,浜ノ手の大将軍は鎌倉以来の筑前の大豪族である少弐頼尚,そして山ノ手の大将軍を斯波高経として,安芸・周防・長門の守護と軍勢を配置させた.
当時の足利軍の中で,斯波高経は尊氏・直義に次ぐ第3の地位を占め,中国地方を足利氏の勢力圏内にすることに成功し,尊氏の覇業実現に多大な貢献を果たしたと言えるであろう.
【質問】
斯波高経と新田義貞との戦いについて教えられたし.
【回答】
斯波家長が関東で戦っている一方で,斯波高経・時家兄弟は,足利尊氏が京都を再占領した直後に,それぞれ越前・若狭守護に任命され,現地に下っていた.
高経が越前守護に選ばれたのは,建武政権の時代に,彼が同国の守護を務めていたからであろう.
彼らは,後醍醐天皇が籠城する比叡山の補給路を遮断する戦略的使命を帯びていた.
ほどなく,新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて北陸に没落したので,新田軍を迎え撃って殲滅する目的もこれに加わった.
斯波時家は,若狭国に侵攻し,南朝軍の激しい抵抗を打ち砕いて,若狭最大の港湾都市にして国府・守護所所在地であった小浜を制圧した.
また,越前では斯波高経が北陸の補給路を遮断し,信濃守護小笠原貞宗が琵琶湖の舟運を止めて兵糧攻めを敢行したので,比叡山の後醍醐軍は飢餓に苦しんだ.
そして,新田義貞軍の進軍を妨害したので,新田軍はやむを得ず高経が阻んでいた七里半越えを避けて木目峠を越えたが,この年の記録的な厳冬によって多数の凍死者を出す損害を被った.
このとき関東の大豪族である千葉常胤が,高経の説得に応じて幕府軍に寝返る戦果も出した.
このように,斯波氏の軍事行動はそれなりの成果を生み出したのである.
しかし,斯波高経は結局,新田義貞の越前金ヶ崎城入城を阻止することができなかった.
斯波氏単独では新田氏を倒すことができないと判断した室町幕府は,北陸道や東山道の軍勢を大量に動員し,高師泰を大将として,高経の援軍として京都から出陣させた.
また,若狭守護も斯波時家から佐々木導誉に交代させた.
高師泰軍は,新田義貞の弟である脇屋義助等の救援を撃退し,建武4(1337)年3月,金ヶ崎城を陥落させて,尊良親王と新田義顕(義貞長男)を自殺させ,恒良親王を捕らえた.
このように,幕府軍は南朝方に大きなダメージを与えたわけであるが,この勝利はどちらかと言えば高師泰以下の援軍によってもたらされたものであり,高経の軍功はさほど評価されず,従って高経は莫大な恩賞を拝領することができなかったようである.
ただし高経の弟・時家は,ふたたび若狭守護に就任し,伊予守を拝領しているので,それなりに軍忠を評価されたようである.なお,時家は,このころ家兼と改名した.
しかし,新田義貞の勢力はこれで衰えたわけではなく,この後も越前国内で熾烈な抵抗を続けるのである.
それについてはまた次回に・・・.
敦賀の金ヶ崎城落城後も,室町幕府に対する新田義貞の熾烈な抵抗は続いた.
城を脱出した義貞は,南朝方の武士である瓜生保の居城杣山城に籠城した.
それに呼応して越前各地の南朝軍が蜂起し,隣国加賀の武士や平泉寺の僧侶たちも味方した.
建武5(1338)年2月には,新田義貞・脇屋義助兄弟は,鯖江で斯波高経・家兼兄弟と交戦し,これを撃破して府中を占領した.
家兼は若狭に退却し,高経は足羽城に立てこもったが,義貞は新田氏の勢力圏である越後の援軍も得てますます勢いづいて,足羽城を包囲・攻撃した.
こうなると,むしろ攻守所を変えて斯波氏が守勢一方に陥っている.
高経は,長年比叡山と藤島荘をめぐって裁判で争っていた平泉寺に対し,同荘を返還することを約束して味方につけ,ようやくピンチを脱したが,不利である状況には変わりなかった.
幕府は,美濃守護土岐頼貞や足利一門の石橋和義等を援軍として越前に派兵し,高経を支援しなければならなかったのである.
同年閏7月,高経軍は幸運にも新田義貞を討ち取ることができたが,義貞の弟脇屋義助が,なおも果敢な抵抗を続けた.
南朝軍は,金ヶ崎城を再占領して,越前に猛威をふるった.
幕府は,同年5月に若狭守護を斯波家兼から桃井直常,9月に大高重成,翌年3月に斯波高経,次いでその子氏頼と頻繁に交代させ,北陸戦線に梃子入れし続けた.
暦応3(1340)年,能登守護吉見頼隆が援軍に加わった頃からようやく幕府方は優勢となり,8月,幕府軍は金津・上野・千手寺の諸城を陥落させて三国湊周辺を制圧,次いで黒丸城も落とし,9月には府中を占領,10月には脇屋義助の属将畑時能を降伏させた.
翌暦応4(1341)年,南朝軍は必死に反撃し,5月まで両軍の激しい交戦が続いたが,6月に幕府軍は遂に南朝方の本拠地である杣山城を陥落させた.
脇屋義助は美濃国に逃れたが,同国守護土岐頼遠に攻撃されて吉野に没落した.
越前では,斯波高経と高師重を大将とする幕府軍が,越前国内の南朝最後の拠点鷹ノ巣城を包囲し,10月,敵将畑時能を討ち取り,ここに越前南軍は完全に滅亡した.
斯波高経は確かに勝利したが,以上の経過を見てもあきらかであるとおり,単独では新田氏を倒すことができず,近隣諸国の軍勢の助力を得てようやく目的を達成することができたのであった.
このことは,この後の高経の政治行動に大きな影響を与えたのであったが,それについてはまた次回紹介したい.
建武・暦応の頃,越前・若狭で新田氏と激戦を繰り広げ,これを打倒した斯波氏であったが,その後の活動は,それまでの活発さとは打って変わって著しく停滞する.
まず,康永1(1342)年,若狭守護に大高重成がふたたび就任し,斯波氏は分国若狭を失う.
本国と言える越前においても,高経の活動はまったく見られなくなり,遅くとも貞和5(1349)年までには越前も喪失したと推定されている.
康永3(1344)年から貞和4(1348)年にかけて,越中国で前守護井上俊清が南朝に寝返って反乱を起こすが,これに対しても斯波氏は援軍を派遣した気配が見られないそうである.
小川信氏は,斯波氏停滞の理由として,新田氏鎮圧を自分の功績として驕り高ぶった斯波高経を,これを援軍諸将の功績と見る将軍尊氏が疎んじたためと述べている.
しかし,斯波氏が戦った相手は,あの鎌倉幕府を猛烈な勢いで滅ぼした新田義貞である.
この歴史に残る偉大な武将が相手では,別に高経でなくとも,誰が守護だったとしても苦戦し,他国の援軍を必要としたのではないだろうか?
小川氏の見方は,高経に対して少々厳しすぎるのではないかと,個人的には考えている.
小川氏は,室町幕府の研究には,もともと細川氏から入っており,細川頼之に関する優れた伝記も執筆している.
そのため,細川氏に対する評価は非常に高いが,その政敵であった斯波氏,特に斯波高経に対する評価はきわめて厳しく,高経を無能・暗愚な武将として描いている.
しかし,小川氏自身が認めるように,細川氏の四国制圧が迅速・容易に達成できたのは,伊予の河野氏を除いて,四国には義貞のような強大な南朝方の武将が少なかった要素が大きい.
新田と総力戦を演じざるを得なかった斯波氏とは単純に同列に比較することはできず,この点差し引いて考えなければならないのではないだろうか?
確かに高経は,お世辞にも合戦上手とは言えないが,彼の長所は,戦争以外の部分に見ることができると思う.
尊氏の高経疎外の原因として,『太平記』は,鬼切・鬼丸事件を挙げている.
これは,新田義貞が所持していた清和源氏ゆかりの名刀鬼切・鬼丸を差し出すように,尊氏が高経に命じたのだが,高経は焼失と偽って別の刀を焼き損じて提出したので,これに激怒した尊氏が,事あるごとに高経の面目を失わせたという事件である.
この事件の真偽自体は不明であるが,このエピソードからは,尊氏が高経の高すぎる家柄を内心快く思っていなかった事実は窺えると思う.
『太平記』によれば,尊氏は,高経に送った使者に,
「この刀はお前のような,末々の源氏などが持っていいものではない」
と述べさせたという.
尊氏が高経を嫌った原因としては,戦功の大きさ云々よりも,むしろこちらの方が真相に近いのではないだろうか?
理由はともかくとして,尊氏と高経の不仲は動かない事実のようである.
尊氏に退けられた高経は,そのため直義に接近していくことになるのであるが,それについてはまた今度紹介したい.
【質問】
観応の擾乱の際の,斯波高経の姿勢について教えられたし.
【回答】
将軍尊氏に疎外され,要職からはずされた斯波高経は,尊氏の弟直義に接近していった.
康永3(1344)年5月,直義は今熊野社に参拝したが,そのとき高経は,樋口東洞院にあった自宅を直義の精進のために7日間提供し,参拝当日には,自ら随兵の先頭に立って直義を警備した.この事実からも,直義と高経の親密な関係が窺える.
この年の12月には,直義と高経は,かつて建武3(1336)年に九州に没落した途上,長門二宮忌宮社にともに参拝したことを記念し,祭神神功皇后への感謝として,法楽和歌をそれぞれ2首ずつ奉納している.
貞和5(1349)年8月,尊氏の執事で直義の政敵であった高師直が直義派を排除するためにクーデタを起こしたが,このとき当然斯波高経は,子息氏経・氏頼を率いて,直義を救援するために彼の三条第に馳せ参じている.
師直クーデタの結果,直義の側近であった上杉重能と畠山直宗が越前に流罪となり,その途上で暗殺された.
もし,この時点で斯波高経が越前守護であったならば,直義派である高経の分国に直義派の罪人を流すことなどあり得ないから,このときまでに高経は越前守護を解任されたと推定されている.
それはともかく,このように高経は終始直義派の武将として行動しているのであるが,斯波氏がすべて直義派となったわけではない.
高経の弟家兼は,師直クーデタのとき,直義邸に参上していない.
しかも斯波家兼は,クーデタの後師直に都合のいいように改造された引付方の頭人の1人に任命されている.
この時点で家兼を尊氏―師直派と言い切ってしまってよいかは微妙なところであるが,少なくとも兄高経と比べて直義に対する温度差があったことは確かであろう.
だが,翌観応1(1350)年10月,失脚・出家に追い込まれた直義が京都を脱出して挙兵したとき,斯波高経は当初は去就をあきらかにせず,在京して義詮に仕えていた.
これは,家兼が尊氏党であったために一族の結集が妨げられたことと,分国皆無の状態で軍勢の招集が困難であったためとする小川氏の推定は無論妥当であろうが,それらに加えて,日和見を決め込んでしばらく戦局の推移を見定めていたことも大きいと思う.
いくら普段直義派として行動していても,いざ生死をかけて戦わざるを得なくなると,特に軍事力に乏しい状況では二の足を踏んでしまうのも致し方のないところであろう.
翌観応2(1351)年1月,直義派の越中の桃井直常が京都に迫り,直義軍の優勢が明白になった時点で,斯波高経もようやく立場をあきらかにし,京都を脱出して男山に布陣する直義の許に奔った.
その後,1月17日,直義軍は尊氏・義詮軍を丹波方面に駆逐して入京したが,直義は高経に光厳上皇の御所の警備を担当させた.
19日には高師直が北陸に没落するという情報が流れたので,高経は千葉氏胤等とともに近江坂本に出陣して,師直の退路を遮断した.
小川氏は,直義は高経との親密な関係や高い家柄を考慮して,彼に重要任務を任せたとする.
確かに上皇の警備等は決して軽い任務ではないが,どちらかと言えば,直義は高経を尊氏軍主力との華々しい決戦の場には参加させず,地味で退屈な後方支援にとどめていたような気が私にはする.
むしろ,分国皆無のために強大な軍事力を持たず,戦下手である上に,終盤まで日和見して立場を明確にしなかった高経を,直義はあまり信用していなかったような気がしてならない.
ともかく,観応の擾乱の第1ラウンドは,直義の勝利で決着した.この続きはまた今度に・・・.
観応2(1351)年3月,将軍尊氏と弟直義は一時的に和平し,両者の共同統治体制が一応復活した.
これは,直義軍の圧倒的な優勢のもとに結ばれた和睦であったので,その後の幕府の人事は直義党の武将に有利に行われ,特に守護人事は,多くの直義党が以前に任命されていた分国を取り戻したり,新たに補任された事例が少なくない.
従って,このときに斯波高経が越前守護に復帰した確実な史料は存在しないのであるが,そうなったことはほぼ確実であると考えられている.
しかし,これまたこのブログでは何度も言及した事実であるが,尊氏と直義の和平は長くは続かず,両者はふたたび不和となり,同年7月30日,直義は自派の武将を率いて越前に没落した.
このとき,当然高経も直義に従って越前に下向している.
『太平記』では,直義に越前行きを勧めたのは石塔頼房と桃井直常であって,その理由として,越前の斯波,加賀の富樫,能登の吉見,信濃の諏訪など,北陸地方の直義方の勢力が非常に強いため,再起をはかるには好都合であるためとしている.
確かに妥当な判断であり,直義が斯波の勢力に期待したことは事実であろう.
ところが,同年10月,尊氏と直義の和平交渉が決裂し,畠山国清・細川顕氏以下多くの直義党武将が尊氏党に寝返るに及んで,斯波高経も直義を裏切って尊氏方に変節した.
そのため直義は越前を去り,鎌倉に向かわざるを得なくなってしまった.
小川信氏は,高経変節の理由として,越前守護に復帰して間もないため軍事力に不安があったためとする.
確かにその要素は大きかったであろうが,観応の擾乱が勃発したとき,直義軍有利があきらかとなるまで立場をはっきりさせなかったことからも窺えるように,そもそも桃井直常などと比べて,直義に対する忠誠度がもともと低かったこともあると思う.
さて,その後の政治・軍事情勢は,尊氏が京都に義詮を残して東国に直義を討つために自ら出陣し,その隙を突いて南朝軍が尊氏不在の京都を攻撃・占領し,近江にいったん逃れた義詮が翌観応3(1352)年3月,京都を奪還するなど,めまぐるしく転変した.
義詮が反撃したとき,幕府帰順により越前守護を維持した高経は,若狭を制圧した甥直持とともに,越前から若狭を経由して京都に攻め上り,義詮の京都奪回を援護した.
その後幕府軍は,石清水八幡宮に籠城した南朝軍に総攻撃をかけるが,このとき高経は,京都に残って北朝の弥仁王(後の後光厳天皇)の御所を警備した.
以前,直義に従ったときも高経は御所を警備したが,尊氏党に転じた後も同様の任務を担当したのである.
一方,子息氏経・氏頼と嫡孫詮経が率いる1000騎の軍勢は,淀川に向かい,淀川を渡って南朝の北畠顕能軍を駆逐した.
幕府軍の主力は石清水八幡宮を攻撃したが,斯波軍はこれを側面から援護したのである.
こうして見ると,斯波氏の軍勢というのは,長門国での工作活動,越前から比叡山への補給路遮断,御所の警備,師直の退路遮断,義詮軍の入京援護など,建武以来ほとんどすべて主力の援護や補助といった活動をメインに行っている.
華々しさはないが,こういうところが同氏の持ち味であり,幕府に果たした実質的な貢献度は決して低くなかったと思う.
この続きはまた次回に・・・.
観応の擾乱において,直義党から尊氏党に転身し,建武以来の越前(高経)・若狭(家兼)の2ヵ国守護に返り咲いた斯波氏であるが,その後の活動はふたたび低調となる.
文和3(1354)年には,斯波家兼が若狭守護を解任され,奥州探題に任命され,嫡子直持を連れてはるか遠くの陸奥国府へ旅立っていった.
斯波氏にとっては,建武期の家長以来の奥州赴任であるが,斯波家兼・直持父子の奥州経営は一応成功し,奥州探題斯波氏は後の大崎氏・最上氏の祖となり,戦国〜江戸初期まで勢力を保った.
であるので,長期的に見れば斯波氏にとってはこの人事は発展の契機だったのであるが,短期的に見れば,高経にとってはせっかく回復した越前・若狭の一括支配をふたたび崩され,勢力を削減されたに等しかったに違いない.
しかも,家兼の後任の若狭守護となった細川清氏は,1度もぶれずに一貫して尊氏―義詮党として活躍した,将軍の忠臣であった.
おまけに父和氏が早世したこともあって,父から継承した地盤をほとんど持たず,ほとんど合戦の手柄だけで出世してきた,己の実力だけを頼りとするたたき上げの猛将であった.
そもそも,細川氏は斯波氏と同じ足利一門とは言え,足利宗家とは早くに分岐したのでその格式は低かった.
合戦下手で家柄の高い斯波氏とは,何から何まで対照的で,到底相容れる仲とはならなかったのである.
そういうのもあって,高経の幕府に対する不満はさらに高まったに違いない.
従って,同年12月に山陰の山名時氏が足利直冬を奉じて京都に攻め上ってきたとき,斯波高経はこれに呼応して,ふたたび幕府を裏切って越前で挙兵した.
そして子息氏頼,越中の桃井直常・直信とともに京都に攻め上り,翌文和4(1355)年正月上洛し,直冬軍の主将として3月まで幕府軍と死闘を演じ,敗れて越前へ撤退した.
しかし,高経の弟で奥州探題の斯波家兼は,観応の擾乱に続いてこのときも高経には味方しなかった.
それどころか,高経の嫡子氏経は,将軍尊氏の陣営にとどまって直冬軍と戦ったのである.
このように斯波氏は分裂したのであるが,観応のときと言い,ことごとく敗北者側に加担する高経の政治的センスのなさは,やはり否定できないであろう.
ともあれ,氏経が父の赦免を幕府に要求したこともあって,高経は何とか許されて,翌文和5(1356)年正月,上京して幕府に帰参した.
越前守護は高経あるいは氏経が維持したが,2度にわたって裏切った高経は,尊氏父子にますます疎まれて,彼の幕府内部における地位はさらに低下した.
延文2(1357)年には,細川清氏が越前守護を要求して拒否され,一時本国阿波に逃れるという事件が起こった.
清氏のもくろみは失敗に終わったものの,高経の威信低下に乗じたものと言え,当時の彼の立場を反映しているであろう.
続きはまた次回に・・・.
【質問】
斯波氏経の九州探題任命について教えられたし.
【回答】
延文3(1358)年,将軍尊氏が死去した.
後を継いだ新将軍義詮は,細川清氏を新たに執事に任命した.
政敵清氏が幕府の要職に就いたことで,斯波高経の政治的地位は一層低下し,針のむしろに座る気分であったに違いない.
ただ,この時期,佐々木導誉が反清氏派に転じて高経に接近した事実は注目できる.
導誉は,加賀守護富樫氏春が死去し,その子竹童丸が幼稚だったのにつけ込んで,高経の子氏頼を婿として加賀守護につけようとしたが,清氏に阻止されたので,これを恨んで清氏の敵になったと言われている.
外様でありながら尊氏以来の幕府の功臣であり,義詮の信任も厚く,大きな発言力を有していた導誉と,親戚になって味方にできたことは,高経にとっては心強かったであろう.
さらにこの時期特筆するべき出来事として,延文5(1359)年3月,高経の嫡子斯波氏経が九州探題に任命された事実が挙げられる.
南北朝時代の九州の政治史についても何度か紹介したことがあるが,室町幕府発足以来,尊氏は一門の一色道猷を九州探題に任命し,九州地方の統治を担当させてきた.
しかし,探題道猷・直氏父子は,南朝の征西将軍宮懐良親王の勢力伸長を阻止することができず,懐良に敗北して九州から撤退していた.
一色氏の後任の探題として,斯波氏経が起用されたのである.
しかし,それまで九州とはほとんど関わりを持たなかった斯波氏にとって,九州遠征は既に準備の段階から困難に直面した.
斯波氏経が京都を出発したのは,九州探題に任命されてからようやく1年半後の康安1(1361)年6月頃であり,しかも率いていたのはわずか240騎あまりの弱小な軍勢であった.
九州に上陸できたのは同年10月になってからであった.
貞治1(1362)年9月には,筑前国長者原の戦いで,菊池武光率いる南朝軍に大敗を喫し,その後も痛手を回復することができないまま,彼の九州経営は不振をきわめる.
小川信氏は,このような散々な結果に終わった理由として,斯波氏の政敵細川清氏が主導する幕府が,氏経に対して冷淡な態度をとり,九州統治に必要な強い権限を与えずに非協力的な姿勢を貫いたからであると述べるが,これは少々差し引いて考えた方がいいと思う.
斯波氏経が細川清氏主導下の幕府から,大した権限も与えられずに苦しんだのは確かであるが,それは清氏が失脚して,高経が主導する幕府になってからも同様であった.
清氏には,政敵の嫡子だから意地悪をしようとの意図は特になかったのではないかと私は考える.
むしろ,奥州と九州という,列島の東西の端に足利一門の中でも最高の家柄を誇る斯波氏を配置して,幕府権力を浸透させようとの積極的な目的を義詮―清氏は有していたのではないだろうか?
もともと探題に選ばれるのは,斯波のほかにも石塔・吉良・畠山・渋川・今川など,一門の中でも上位に位置する家柄出身の武将が多い.
鎌倉公方に至っては,義詮・基氏と将軍尊氏の実子である.
そういう将軍に直結する武将でないと,地方の武士は命令に従わないのである.
九州探題を対して支援しなかったのは,清氏主導の当時の幕府が,畿内の南朝軍と軍事的に全面対決する政策をとっており,はるか遠くの九州まで配慮する余裕がなかった要素が大きかったのではないだろうか?
つまり,支援しなかったのではなくて,できなかったのである.
また,斯波氏経期の九州探題に限らず,基本的に幕府は,遠隔地の広域統治機関に強大な権限を与えるのを好まない傾向がある.
奥州探題も鎌倉公方基氏が登場する前の鎌倉府の権限も,かなり弱く設定されている.
遠隔地の機関に強い力を与えすぎると,その地方の南朝方を滅ぼすことはできても,その後その機関自身が幕府の敵となり,大きな脅威となる危険性を常にはらんでいた.
鎌倉府がその典型的な好例である.また,九州地方の場合は,少弐・大友・島津といった前代鎌倉幕府以来の伝統的な豪族が勢力を維持し,外来の探題と常に鋭く対立する構造的な特質があった.
そうした地域的特性も,かなりの影響をおよぼしたと考えられる.
ともあれ,斯波氏経は,何ら成果を生み出すことができないまま,ほどなく九州を撤退してしまう.
氏経はそのまま出家・遁世してしまい,結果的には斯波氏の勢力を削減させることとなってしまった.
【質問】
>最高の家柄を誇る斯波氏を配置して,幕府権力を浸透させようとの積極的な目的
確かに,ご指摘のような戦略構想があったということは十分考えられます.
同時に足利将軍家に匹敵する家格で,北条得宗に対する名越家のようなポジションにあった斯波氏を,日本の両端に配置して分断して,消耗させるという目論見もあったのではないでしょうか?
投稿: s_doi | 2010年1 月20日 (水) 23:34
【回答】
確かに短期的に見れば,斯波高経にとっては嫡子氏経を遠い九州に飛ばされるわけですから,分断されて勢力を削減される側面もあったことは,確かだと思います.
ただ反面,成功すれば東北と九州に斯波氏の強大な勢力を築いて,列島の両側から将軍を挟撃する体制となるわけですね(実際は失敗に終わりましたが).
だから虎を野に放つ,諸刃の剣的な要素もあったのではないかと思います.
つまり,斯波氏の奥州探題および九州探題赴任は,同氏にとってはメリットとデメリットの両方の側面を持っていたとも言えるわけです.
探題に限らず,守護・執事(管領)・守護・奉公衆など,室町幕府という政権は,各構成員が協力するとともに牽制し合う体制で,特に全盛期は権力の相互抑制の面で,非常によくできた政権だったと思いますね.
すべての動きが長所と弱点を備えている点では,麻雀のルールにもよく似ているのではないかと・・・(笑)
【質問】
斯波氏が幕政の表舞台に立つまでの経緯は?
【回答】
今まで見てきたように,斯波氏は室町幕府の中では,発足以来ほぼ一貫して体制内野党,非主流派・反主流派の立場にあまんじることを余儀なくされてきた.
しかし,康安1(1361)年の政変で執事細川清氏が失脚すると,斯波氏は主流派にのし上がって,ついに幕政の表舞台に立つこととなる.
翌康安2(1362)年7月,失脚した清氏に代わって,斯波高経の子息義将が新たに執事に就任するのである.
しかし,斯波義将の執事就任は,すんなりと決まったわけではないようである.
斯波高経は子だからにめぐまれていた.
しかし,長男家長は,25年も昔に南朝の陸奥守北畠顕家の進撃を関東で迎え撃って戦死している.
次男氏経は,当時九州探題として九州に赴任していた.
従って,本来であれば三男氏頼が執事に就任するべきであったのだが,なぜか氏頼を差し置いて,弟の義将が執事となったのである.
『太平記』によれば,人々は氏頼を執事にするように将軍義詮に勧めたので,一時は義詮も内諾したのだが,義将を偏愛し,佐々木導誉の娘婿である氏頼を嫌う父高経が異議を申し立てたためであるという.
そのため,斯波氏頼はこの人事に不満を抱いて出家遁世してしまった.
また,氏頼の舅である導誉もこれに怒って斯波派から離脱し反斯波派に転じたという.
斯波高経は,政権発足早々,有力な味方を2人も失ったのである.
また,次のような逸話も伝わっている.
斯波高経は,当初は将軍義詮の執事就任要請を再三断っていた.
しかし,斯波氏の執事は直義の例に準じて尊重して扱うと義詮が言ったので,高経はようやく将軍の要請を受諾して子息義将を執事にしたのだと.
そもそも,執事とは,鎌倉以来足利氏代々の家僕であった高氏や,足利一門の中でも格式が低かった仁木・細川氏のような家が務める役職であった.
この頃まで将軍家と同じ「足利」の名字を名乗り,将軍家に匹敵するほど高い家柄を誇っていた斯波氏がなるような職では本来なかったのである.
このエピソードからは,執事に対する斯波氏の価値観がよく窺える.
そして,斯波氏を本来は家僕が務める職に就けた義詮の政治力の高さも垣間見えるのではないだろうか?
さらに言えば,斯波高経が義将を寵愛していたという話も,差し引いて考えるべきではないかと私は思っている.
まあ,実は嫌っていたということはさすがにないであろうが,本当に寵愛していたのであれば,内心見下している立場につけるであろうか?
また,高経が執事を大して重要視していなかったであろうことは,ほかの事実からも窺えるのであるが,それについてはまた次回に・・・.
執事細川清氏失脚後,幕政を主導する立場となった斯波高経であったが,子弟を幕府の要職に就けたのは,四男義将の執事だけではなかった.
まず,高経の五男義種は,幕府の摂津遠征軍の大将に任命され,摂津方面に出陣している.この軍事作戦は,南朝方の楠木正儀が摂津に侵攻してきたのに対抗して行われたものであるが,斯波義種は当時12歳であった兄義将よりもさらに年少であったから,実態としては幕府軍を指揮していたわけではない.
父高経も摂津に出陣したようであるから,実質的に幕府軍の大将を務めていたのは高経であったと考えられる.
斯波義種は,京都帰還後,小侍所頭人に任命された.小侍所とは,将軍の儀式一般を取り仕切る役職だったらしく,前代鎌倉幕府においては北条一門の若手が就任するキャリアの出世コースであった.
その後,義種は侍所頭人に昇進した.当時,侍所は京都市政を担当した機関であり,しかもこの時期の侍所は山城守護も兼ねたから,義種は,現代で言えば10代の若さで京都府知事と京都市長を兼任したようなものである.
また,当時九州探題を務めていた嫡男氏経の嫡子義高は,引付頭人に登用された.義高は将軍義詮から1字拝領して詮将と改名し,多数の引付頭人奉書を発給した.
まとめると,斯波高経は,四男義将を執事,五男義種を侍所頭人,そして嫡孫詮将を引付頭人と,一族を幕府の要職に就けた.
ただし,高経自身ははっきりとした幕府の役職には就いていなかったようである.
もちろん,高経に権力がなかったというわけではなくて,将軍が主催する評定に出席していたし,大きな発言力を持っていたことは言うまでもない.
幼少の子弟を幕府の重要な立場に置いて,自らは彼らを操作することによって実質的な権力を行使する,それが斯波高経の政治手法であり,この時期の幕府の仕組みだったのである.
ところで,引付頭人斯波詮将の活動がきわめて活発であった一方で,執事義将の発給文書は,実は非常に少ない.
前回紹介した斯波氏の執事に対する蔑視観も考え合わせると,斯波高経が本当に重視して活動の中心に据えていたのは,引付方だったのではないだろうか?
そもそも当時の斯波氏の嫡流は,嫡孫で将軍の名前ももらっている詮将であって,執事義将は傍流であった.
この事実も,上の推定を裏付けるであろう.
そして,斯波高経の引付方重視政策から,彼の政治理念が垣間見えるのであるが,それについては次回考えてみたい.
【質問】
引付方とは?
【回答】
そもそも,斯波高経が嫡孫詮将を頭人に据えた引付方という組織は,前代鎌倉幕府から存在していた訴訟機関である.
引付方は,基本的に5つの部局,多いときは7つか8つの部局に分かれ,それぞれに頭人と呼ばれる長官と,以下評定衆・引付衆・奉行人が配置されていた.その組織や運営手続は,時代を下ることに整備され,複雑化していき,それぞれの部局で整然とした訴訟審議が粛々と進められ,手続を経た案件は執権北条氏が主催する評定に上げられ,そこで最終的に判決が下され,裁許下知状と呼ばれる判決文書が発給された.
室町幕府が発足してからも,引き続き引付方は設置された.
と言うより,足利直義主導下の初期の幕府において引付方の権限はさらに拡張され,その組織は一層強化されたと言った方が正確である.
執権が主催していた評定は直義が主催し,裁許下知状は直義の名で出されたのである.
初期の幕府では,将軍尊氏の恩賞充行袖判下文よりも直義下知状と直義配下の引付頭人奉書(ちなみに尊氏執事高師直も引付頭人を兼ねていた)の方が圧倒的に目立っていて存在感がある.
まさに,初期室町幕府は直義の幕府だったのである.
ところが,観応の擾乱で直義が失脚し,滅亡すると,引付方の力は衰え始め,たびたび廃止され,形骸化が進行する.
それまで引付方が行っていた業務は,将軍や執事が担当するようになった.
特に将軍義詮は大量の命令を出して,独裁的に権力を行使した.
今回の斯波詮将の引付頭人就任も,延文2(1357)年以来6年間廃止もしくは機能停止状態にあった引付方の復活でもあった.
こうして見ると,斯波高経の引付方重視政策は,単に斯波氏の権力を強化するだけではなく,直義期,もっと言えば前代鎌倉幕府以来の伝統的な幕府政治を復活させる意図を持っていたと言えるであろう.
その意味でも,斯波高経は生粋の直義派の武将であり,その継承勢力だったのである.
ただし,斯波高経が将軍義詮の権力を弱めて自らが実権を握ろうとしていたと見るのは,おそらく正しくないと思われる.
一方では,高経ほど義詮に忠節を尽くした武将もめずらしいほどである.
貞治1(1362)年,斯波氏が政権を獲得した直後に行われた将軍邸造営事業では,高経自ら陣頭指揮を執り,積極的に事業を推進している.将軍義詮邸は三条坊門にあったのだが,高経はわざわざ越前の自宅を解体し,木材を京都に持ってきて寝殿を建設するほど熱心に将軍邸建設に没頭した.
それまで高経の京都の屋敷は七条にあり,そのため高経は「七条殿」と呼ばれていたのだが,火災で焼失したのを機会に義詮邸の隣に引っ越した.
また,斯波氏失脚の一因として,幕府御家人に賦課する武家役と呼ばれる税金を50分の1から20分の1に引き上げて武士の不満を高めたことが挙げられるが,これも将軍権力を経済的に増強する政策であった.
要するに,高経は高経なりに直義政治の復活が上様のためになるという正義感に基づいて,引付方を振興したのである.
考え方と政治理念が違うだけで,将軍に忠節を尽くした点では細川清氏も斯波高経もまったく同じであった.
さらに見落としてはならないのは,高経の努力を持ってしても,直義政治の完全な復活にはならなかった事実である.
引付頭人奉書が発給される一方で,同内容の義詮の御判御教書も相変わらず大量に発給されていた.
引付方と義詮の権限が重複し,矛盾が生じていたのである
(一応,1回目義詮・2回目引付方というルールは存在していたようであるが).
直義が発給した裁許下知状も遂に復活しなかった.
また,引付方は実態として,寺社や貴族の荘園に対する武士の侵略を停止させる命令を出すケースが大半だったのであるが,これも諸国守護の権益を真っ向から損ねる場合が多く,守護の斯波氏に対する不満を強める一因となった.
というわけで,この時期の政策は結局は根づかずに,引付方は衰退し続け,管領制の確立とともに応永1(1394)年を最後に消滅してしまう.
斯波高経の政策は,やはり保守的で時代の流れに合わなかったと評価するべきであろう.
続きはまた次回に・・・.
【質問】
幕政において主導権を握って以降の,斯波氏の勢力状況は?
【回答】
室町幕府が発足して以来,斯波氏が守護を務めた国は,越前と若狭のわずか2ヵ国しかなかった.
しかも,そのうち若狭は,頻繁に守護が交代していたので,斯波氏が維持できた期間はごく短い.
つまり,実質的に,斯波氏の守護分国は越前1国のみだったのである.
しかし,斯波氏が幕政において主導権を握ってからは,同氏の守護分国も増加する.
基本的に,執事(管領)に就任すると,その家の支配領域も広がる法則がこの時期存在した.
まず,伝統的な斯波氏の分国であった越前は,高経の五男義種が守護に就任している.
次に,越中は,前執事細川清氏の失脚直後に,清氏の弟頼和から高経の四男で執事の義将に交代した.
越中は,守護分国としては斯波氏にとっては初めての獲得であったが,斯波氏の祖家氏の母方の実家である名越氏が鎌倉時代に代々守護を務めた国であり,越中国内には斯波氏の所領もあった.
だから,斯波氏にしてみれば,案外自分の国を取り戻した気分だったかもしれない.
そのためであろうか,斯波氏は相当精力的に越中経営を行ったようである.
以前も紹介したとおり,越中守護は桃井直常が務めていたのであるが,この直常が将軍尊氏に刃向かってからは,越中は南朝の有力な根拠地となっていた.
斯波氏は,この桃井氏の反乱を何度も鎮圧する.そのため,鎌倉以来の越中国の武士はほとんど滅亡し,室町期には逆に室町幕府の勢力がもっとも浸透した地域となったと言われているほどである.
室町期には越中は,畠山氏の世襲分国の1つとなるが,この時期の斯波氏の越中経営も看過できないほど重要であった.
そして若狭は,細川清氏失脚後に,清氏に代わって石橋和義が守護となったが,これも短期間しか続かず,斯波義種が守護となった.
まとめると,斯波氏は細川清氏失脚後,清氏の分国越中・若狭を取り上げ,それまでに掌握していた越前と新たに分国に加わった若狭は五男義種,越中は執事で四男義将を守護とし,北陸一帯を掌握したのである.
中央の要職と同様,高経自身は直接守護には就任せず,子弟を名目上の守護として実質的に支配した点が注目できる.
斯波一族は,京都で将軍の側に住んで中央の幕府の仕事に忙しかったので,実際の分国経営は守護代が担当した.
越前守護代は前信濃守某,越中守護代は建武〜暦応期に新田義貞と交戦した経験を持つ細川鹿草出羽守某,若狭守護代は細川完草上総介某が務めていた.
政敵細川氏の庶流と思われる武将を守護代としている点も興味深いが,小川信氏は,例によって守護代による間接支配を行うにすぎなかった斯波氏の領国支配の脆弱性を強調する.
しかし,室町幕府の守護というのは,このように普段は京都に在住して将軍に仕え,国の支配は守護代に任せているのが普通であり,斯波氏だけが支配力が弱かったわけではなかった.
戦国時代や江戸時代の大名に比べれば支配力が弱いのが当たり前であり,強力な南朝勢力が存在せず,長年守護を務めたために強力な支配を及ぼすことができた細川氏や,長年実力で幕府に敵対し,在地で直接経営にあたった山名氏の方がむしろ例外だったのではないだろうか?
なお,前々回も紹介したように,山城守護にも斯波義種が就任した.
ただ,これは将軍の膝下に位置し,寺社や貴族の荘園が多く,交代も頻繁であったので,必ずしも斯波氏の権力の増強に直結したわけではないが,後年「三管領四職」と称されたように,幕府の本拠地京都支配の要である要職に就任したことは,精神的に訴えるものがあったと考えられる.
【質問】
斯波氏の幕政の功罪は?
【回答】
斯波高経の政権は,貞治1(1362)年から同5(1366)年までおよそ4年続いたが,高経の政治に対する小川氏の評価は,例によってものすごく低い.
一言で言えば「無為無策」,行政的にも軍事的にも何もしていないと,それはもう高経に何か個人的な恨みでもあるのではないかというくらいの否定的な評価である.
私は大学3回生の頃にこの本を買ったから,もうかれこれ15年くらいこの本を読んでいるが,当初はもちろん小川氏の見解に賛同していた.
しかし最近は,高経の政治をもっと見直すべきではないかと考えるようになった.
結論を先に言えば,貞治2(1363)年,山陰一帯に強大な勢力を誇った山名一族を帰参させたことが,斯波政権の最大にして不朽の功績だと私は考えている.
山名時氏は,新田氏の一族であるが,幕府の創業以来尊氏に仕えて軍忠を重ねてきた.
しかし,観応の擾乱に際しては足利直義に味方し,その後南朝に帰順して直義の養子直冬を奉じて再三京都を占領するなど,幕府にとっておそるべき脅威となり続けてきた.
高経は,この山名一族を,話し合いによって無血で幕府に復帰させることに成功したのである.
もちろん,このために幕府が払った代償は決して少なくはなかった.
幕府は,それまで山名が実力で勝ち取った丹波・丹後・因幡・伯耆・美作5ヵ国の権益をそのまま認め,守護として安堵したが,強欲な時氏は,さらに若狭守護職まで要求した.
現代の若狭国,すなわち福井県西部は,正直後進的な地域であるが,中世当時にあっては,国衙領税所今富名という大規模な所領を有し,この国1国の守護に任命されるだけで,通常の守護分国2〜3ヵ国に匹敵する力を手に入れることができた.
鎌倉時代には,北条氏嫡流が代々若狭守護を務めたほどである.
そのため,室町幕府発足以来多くの武将がこの国の守護をめぐって争奪戦を演じ,和泉国などと並んで守護交代のもっとも激しい国の1つだったのである.
時氏が要求したのは,こういう国なのであった.
しかし,前回も述べたように,若狭守護は斯波義種が守護となったばかりであった.
高経としてはこの国は時氏には渡したくなかったので,妥協として,税所今富名を彼に割譲した.
だが,この名は,若狭三郡にわたって分布し,小浜港も含む上に,現代の県庁に相当する国衙機構の一部も有していた.
つまり,実質的には,山名氏は若狭国全部を掌握したに等しかったのである.
斯波氏は,せっかく実現した北陸一帯支配の一角を,早速突き崩されたわけである.
しかし,逆に言えば,そうした大きな代償を払ってでも,何が何でも山名氏は絶対に幕府に復帰させる必然性があったということである.
事実,山名氏が幕府に戻ってから,幕府と南朝の力の差はますます広がり,幕府の覇権確立に大きく前進したのである.
これ以降,京都が南朝軍に占領されることはなくなった.
また,斯波氏が復帰に成功したのは,山名氏だけではない.
同じ頃,周防・長門の大内弘世も幕府に帰参した.
関東では,上杉憲顕が鎌倉府に戻った.
憲顕は,鎌倉府において京都の斯波氏と類似した政治体制を構築し,後の関東管領の基礎を作った.
奥州では有力な南朝方であった伊達氏がこの頃幕府方となっているが,これも奥州探題斯波氏の仲介があったのではないかと個人的には推測している.
思えば,建武の頃,越前で新田義貞と戦っていた頃,千葉貞胤を話し合いで寝返らせて味方につけたのも高経であった.
敵方の有力武将を話し合いで戦わずに味方につけて,まるまる自軍の戦力とすること,これが斯波氏の最大の長所だったのではないかと最近は感じている.
高経の前任者細川清氏は,大規模な南朝征討軍をおこし,派手な戦争を行って華々しい戦果を多数収めた.
しかし,結局は幕府の内紛を抑えきれずに南軍の反撃と京都占領を許し,自らも失脚して敗死する羽目に陥った.
これに比べれば,斯波氏が幕府に果たした貢献は多大なものがあったのではないだろうか?
そして,斯波氏のこうした姿勢は,南北朝時代に限らず,あらゆる時代の政治を考える上で示唆的だと思うのである.
とは言え,物事にはプラスの側面もあればマイナスもある.
次回は,それについて書いてみたい.
1つの政権の盛衰は,スポーツ選手の寿命とよく似ているなあと感じることが個人的によくある.
どんなに優れた実績を挙げるスポーツ選手も,やがて怪我をしたり年齢的な問題もあって,徐々に衰えていく.
激しい練習や試合を続けるモチベーションも下がっていって,最後には引退せざるを得なくなる.
同様に,政権も,失政や内外の敵対勢力との対立や抗争によって打撃を受け,「飽き」もあって支持率も低下し,最後には辞職せざるを得なくなるパターンが大半である.
斯波政権も,まさにこのような形で衰退していったのである.
斯波政権の運営は,幕府の宿老佐々木導誉との対立・抗争を軸に推移した.
この点は,前任者の細川清氏も同様であり,執事と導誉の対立が,将軍義詮時代の一代特徴なのであった.
以前も述べたように,高経と導誉が対立した原因は,導誉の娘婿斯波氏頼が何の要職にも就けずに排除されたことがきっかけとされている.
この導誉に,創業以来の元老である石橋和義も味方した.
和義は,細川清氏失脚によって後任の若狭守護となったので,斯波派となっても不思議ではないのであるが,ともかく導誉派となった.
石橋氏も斯波家氏の子孫であり,和義は高経の再従兄弟にあたる.
斯波氏と匹敵する名門であったことが,石橋氏を反斯波に奔らせた原因なのかもしれない.
貞治1(1362)年8月,南朝軍が佐々木導誉が守護を務める摂津国に侵攻し,守護代箕浦次郎左衛門尉を撃破すると,幕府はこの責任を追及して,摂津守護を導誉から赤松則祐,ついで赤松光範に交代させた.
しかし,以前も紹介したように,九州探題斯波氏経が九州制圧に失敗し,敗退すると,導誉派の巻き返しが起きる.
貞治2(1363)年7月10日夜,多数の武士が京都市内を暴走する騒動が起こった.
これは,佐々木導誉以下の諸大名が高経を討とうとして,高経もこれに備えたためという噂が流れた.
この噂の真偽は不明であるが,幕府内部で何らかの混乱が起きていたことは確かであろう.
だが,結局この騒動で斯波高経が打倒されることはなかった.
この後,高経は導誉たちに露骨に反撃する.
まず,石橋和義の若狭守護を解任して,子息斯波義種に交代させた.
佐々木導誉からは摂津守護を取り上げていたが,残る導誉の分国であった出雲と清和源氏ゆかりの荘園である摂津多田院も取り上げた.
侍所頭人は,当時導誉の子息京極高秀が務めていたが,これも土岐直氏,次いで義種に代えた.
さらに,導誉と和義の引付頭人も解任し,評定からも排除する.
山名時氏を幕府に復帰させたのも,山陰で権益が衝突し,時氏と犬猿の仲であった導誉に対する対抗策であった側面も指摘されている.
佐々木導誉は幕府創業以来の忠臣であり,将軍義詮の信任も厚かったが,所詮は外様の小大名にすぎなかった.
将軍家と匹敵する家柄を誇り,幕政の中枢を掌握して権力をふるう斯波氏の敵ではなかったのである.
このブログの最初の記事で紹介したように,導誉は大原野で花見を催して高経に嫌がらせをするが,所詮は嫌がらせにすぎなかったわけである.
しかし,こういう嫌がらせが成功した事実が既に,斯波氏の政治に対する不満や批判が相当高まっていたことを反映している.
山名氏の帰参も,幕府のためであったとは言え,将軍を裏切らずにずっと忠節を尽くしていた武士たちにはやはり評判が悪くて,
「恩賞がほしければ将軍に敵対すればいいんだな」
と,陰ではさんざん嫌味を言われていたようである.
そして,高経の膝下である越前で起こった問題が,斯波政権に致命傷を与えることとなるのであるが,それについてはまた次回に・・・.
【質問】
越前国河口荘紛争とは?
【回答】
武士というのは,お寺や神社あるいは公家が領有する荘園を侵略する存在であった.
武士に荘園を侵略された寺社・公家は,武士の親分である幕府に提訴する.
幕府は,寺社・公家領の保護を政権の最大のスローガンにしていたので,寺社・公家に勝訴の判決を下し,武士に荘園からの撤退を命じることがほとんどであった.
しかし,武士は幕府から敗訴の判決を受けたにもかかわらず,荘園侵略をやめない.
幕府はやがて,荘園が所在する国の守護に判決の執行を命じるようになるが,武士はだいたい守護と密接なつながりがあることが多いので,ほとんど泥棒に警察官をやらせるようなもので,肝心の守護が幕府の判決を遵守することはあまりなかった.
鎌倉幕府が滅亡し,室町幕府が衰退したのも,究極的にはこうした武士と寺社・貴族の板挟みとなり,権益調整に失敗して矛盾を解消できなかったからであるとも言えるのであるが,こうした状況は,斯波氏が守護を務める越前国でも例外ではなかった.
特に大問題となったのは,越前国河口荘である.
この荘園は,越前最大の港湾都市三国湊の後背地に位置する1100町あまりの大荘園であり,経済的にも軍事的・政治的にも重要な所領であった.
しかも領主は興福寺・春日社であった.
並みの寺社であれば,武士の横暴に屈して泣き寝入りせざるを得ないケースも多いが,興福寺は藤原氏の氏寺で,古代から強大な勢力を誇り,室町時代には実質的に大和守護を務めていたほどの巨大寺院であった.
こうした発言力の大きなお寺の荘園が侵略されたことが,問題をさらに大きくしたのである.
河口荘は,建武期からすでに越前国目代や守護代の侵略に悩まされてきたが,観応の擾乱以降,侵略はますます激しくなった.
延文期頃からは,朝倉宗賢が河口荘の侵略者として出現してきた.
朝倉氏は,但馬国の日下部氏の子孫である.
朝倉広景は,元弘3(1333)年,足利尊氏の丹波国篠村の挙兵に参加し,やがて斯波高経に従って軍忠を重ねた.
新田義貞滅亡後は,坂南郡黒丸城を拠点とし,一条家領足羽北荘の代官職に任命された.
朝倉広景は,文和1(1352)年98歳で死去するが,その子宗賢(高景)が後を継いで活躍していたのである.
河口荘は,この黒丸城の北方わずか数里に位置する.
朝倉氏がこの荘園に進出したのは,当然の流れであった.
興福寺は当然,幕府に朝倉宗賢の侵略停止を訴える.
しかし朝倉一族は,文和4(1355)年,斯波高経が足利直冬方として京都に攻め上って幕府軍と交戦したときの,斯波軍の有力武将であり,貞治1(1362)年,斯波氏が摂州に遠征したときにも従軍している.
それだけではなく,普段は在京して幕府に仕えていたらしく,年始の幕府的始の儀式に射手として参加している.
何より朝倉宗賢は,将軍尊氏に恩賞として足羽北荘預所職を拝領しているのである.
要するに朝倉氏は,斯波氏の軍事力の有力な構成員であるだけではなく,将軍の信任も厚い武士であった.
そのため興福寺が提訴しても,訴訟は一向に進展しなかったし,当然宗賢の押暴も収まることはなかった.
しびれを切らした興福寺は,遂に強硬手段に出るが,それについてはまた次回に・・・.
斯波氏の配下の武将であった朝倉宗賢による越前国河口荘の侵略を,提訴しても訴訟が停滞し,一向に埒があかず,宗賢の侵略もとどまらなかったことに業を煮やした興福寺衆徒は,遂に強硬手段に出ることを決意した.
その強硬手段とは嗷訴,すなわち春日社の神木を奉じて入京し,朝廷と幕府に宗教的権威をもって圧力をかける政治闘争の手法であり,古来から歴代の権力者たちがたびたび苦しめられてきた行為であった.
南北朝期の室町幕府にとっても,もちろん重大な脅威であり,神罰は大いに畏れられたのである.
貞治3(1364)年12月,春日神木は遂に入京し,斯波高経の七条東洞院の屋敷の前に棄てられた.
北朝の使者である勅使がそこに出向き,神木を回収してとりあえず長講堂に収めた.
要求を貫徹しようとする興福寺と,何とか神木を奈良に返してもらって神罰を逃れたい幕府の,政治的な駆け引きがここから始まるのである.
この嗷訴の要求の1つに,春日社の建設費用を幕府・朝廷に捻出させるというものがあった.
交渉の末,興福寺の要求は通り,将軍義詮は,翌貞治4(1365)年,鎌倉公方足利基氏および山城以下37ヵ国の守護に対して,後光厳天皇の綸旨に従って,春日社建設費諸国棟別10文を課税するように命令し,ここに懸案の1つは解決した.
次いで幕府は,海老名備中入道遺族に預け置いていた,春日社領山城国葛原新荘の返還も認めた.
貞治4年,義詮は侍所頭人兼山城守護斯波義種に命じて,この返還の執行を命じ,それは実現した.
このように幕府は,興福寺の要求に精一杯応えたが,メインテーマである越前国河口荘の件については,朝倉宗賢が頑として返還に応じなかったので,興福寺は神木を撤退させようとはしなかった.
幕府は代替策として,河内国鵜殿関を春日社造営料所に指定し,貞治4年1月から年貢毎年500貫文と神木在京中の維持費として毎日1貫500文を春日社に支給することとしたが,その業務を担当することになったのは,ほかならぬ朝倉宗賢であった.
ここまで来ると,もはや何が何だかわからない状況であるが,おそらく宗賢に河口荘の権益を一定度放棄させる代償として,関務請負による利権を主君高経が斡旋したのであろう.
武士に対する利益分配と寺社領保護は,究極のところで矛盾するわけであるが,幕府はこうした苦肉の策で双方の権益を調整していたのである.
しかし朝倉宗賢は,鵜殿関の興福寺との契約さえも遵守せず,年貢を支払わなかったらしい.
そのため春日神木は貞治5(1366)年秋に至るまで,1年半以上の長期にわたって京都に滞在し続けた.
こうして春日社神木問題は長期化し,解決の糸口さえつかめぬまま,空しく時が過ぎ去っていった.
まるでどこかの国の基地の問題を見るかのようであるが,神木問題の混迷化は,斯波政権を確実に消耗させ,ダメージを与えていった.
河口荘を侵略していたのは朝倉宗賢であるが,家来の起こした問題は,結局は主君の責任となる.
事実,当時の人々は,河口荘を侵略しているのは斯波氏であると認識していたようである.
これまた,秘書の犯罪は政治家の〜というのを想起させる.
鵜殿関の契約不履行によって,高経と宗賢も不仲となったようであるが,そういうのも含めて,すべて斯波氏の責任が問われることとなったに違いない.
そもそも,以前述べたように,斯波氏は幕府の訴訟機関引付方を掌握することによって,全国の寺社領保護政策を強力に推進していた.
その斯波氏が,自身の本拠越前においては,家来の押妨をとどめることができずに,侵略を放置している.
その一事だけでも,他の守護の不満と怒りを増幅させ,斯波政権の求心力を急速に低下させたであろうことは容易に想像できる.
人間,嫌われたかったら不公平なことをたくさんすればいい,というのが私の考えである.
正義とは,はかりを釣り合わせることなのである.
春日神木は貞治5年8月12日,奈良に帰還することがようやく決まった.
斯波政権はやっと難問を解決したが,その寿命は既に尽きていた.
遂に終わりが訪れたのである.
それについてはまた次回に・・・.
前回の最後で述べたように,春日社神木の奈良帰還は貞治5(1366)年8月12日と決まったが,それを4日後にひかえた8月8日深夜,将軍義詮は突然軍勢を招集した.
そして使者を斯波高経邸に派遣し,「ただちに越前国へ下向せよ.下向しなければ討伐する」と宣言した.
翌9日早朝,斯波高経は自宅に火を放ち,引付頭人詮将・執事義将・侍所義種以下一族を率いて京都から没落した.
ここに貞治1(1361)年以来,およそ4年間にわたって幕政を主導してきた斯波政権は,義詮の一存で,実にあっけなく崩壊したのである.
この事件の経過を見るだけでも,配下の守護にしばしば背かれて,たびたび京都を占領されていた観応・文和の頃と比べて,将軍権力が非常に強大化している事実に容易に気づかれるであろう.
足利義詮というのは従来著しく評価の低い将軍であったが,実はかなりの名君であったのが,こういうところからも窺えるのである.
しかし,将軍の増強に全身全霊を傾けて打ち込んでいたのは,ほかならぬ斯波高経であった.
その高経の政治が成功した結果,高経自身が強化された将軍権力に打倒されたのは,何とも言えない歴史の皮肉である.
当時の人々は,高経の失脚を,春日大明神の神罰であると見た.
これは半分正しくて,半分間違っていると思う.
確かに春日社問題の紛糾が,斯波政権の求心力を低下させ,弱体化させたのは事実である.
しかし8月8日の時点では,春日神木は奈良に戻ることがともかく決定しており,この問題は何とか解決していた.
高経の失脚に,春日社の件は直接は関係ないのである.
どうも,斯波氏の没落は,佐々木導誉が諸大名を代表して高経を讒言したのが原因であるらしい.
導誉は,本家の六角氏頼,娘婿の赤松則祐たちを味方につけて,義詮に詰め寄ったらしい.
赤松則祐は,斯波政権下で摂津守護となったので,高経に恩を感じていてもよさそうなものであるが,一方では,将軍義詮の三条御所建設のノルマを果たせず,その罰として,恩賞として拝領していた荘園を一つ没収されて,高経に恨みを抱いていたらしい.
将軍のために全力を尽くして仕えるのが武士の務めであるから,高経の処分の方が実は正しいのであるが,ともかく彼がいろんな人の恨みを買っていたことは確かである.
佐々木導誉は,斯波氏に対する不満が増幅し,かつ春日社問題で斯波氏が寺社勢力をも敵に回して,人々の不満がピークに達した瞬間を狙って義詮を動かし,政敵打倒に成功したのである.
高経の前任者細川清氏を執事にしたのも失脚させたのも,斯波氏を復権させたのも没落させたのも,すべてに導誉が密接に絡んでいる.
佐々木導誉はまさにキングメーカーとして,幕府政治を裏から動かしていたのである.
さて,斯波氏失脚の大きなきっかけを作った朝倉宗賢は,その後どうなったであろうか?
朝倉宗賢は,主君高経が失脚すると,主君をあっさりと見捨てて将軍側についた.
彼はその恩賞として,越前国内に所在する所領を7ヵ所も将軍から拝領して,ますます勢力を強めた.
そしてさらに増長して,越前国河口荘と河内国鵜殿関の押領を続けた.
さすがの興福寺も,河口荘を奪還し,以前と同じ状態で支配することはあきらめ,同荘からあがるわずかな収益を回してもらうように,朝倉宗賢に交渉することしかできなかったようである.
そして,河口荘だけではなく,越前国内の他の荘園まで侵略したらしくて,高経の後任の守護畠山義深の時代に,泉荘や小山荘等の侵略を停止する命令が出されている.
ちなみに,この朝倉宗賢の四代後の直系の子孫が,あの有名な戦国大名朝倉孝景である.
斯波氏を追放した後,春日神木は予定どおり無事奈良に帰っていった.
幕府は,摂津・若狭に奉行人を派遣して寺社領返還を実施し,寺院勢力の支持を取りつけようとした.
また,政所執事代斎藤季基を斎藤玄観に交代させ,恩賞奉行依田時朝を罷免した.
政権交代に伴って,官僚の一部も交代させたのである.
後任の執事は当分設置しないことにした.
それまでの執事の権限は,将軍義詮自らが行使することとなった.
私は,このとき幕府は執事制度そのものを廃止して,将軍に吸収させたと考えている.
この後,義詮の急死という不測の事態が起こっていなければ,細川頼之が管領に就任することもなく,管領制度もできていなかったと思うのである.
また,幕府は斯波氏の守護分国3ヵ国を没収した.
越前は畠山義深,若狭は一色範光,越中は桃井直信をそれぞれ後任の守護とした.
次いで,斯波高経が恩賞として拝領していた越前国河北荘は朝廷に返還され,斯波一族や家来の所領も別人に与えられた.
そして当然,斯波氏を追討する幕府軍を編成して,越前へ出陣させた.
山名氏冬・佐々木氏頼・今川範国等の武将が京都から出陣し,また美濃守護土岐頼康と能登守護吉見氏頼も,それぞれ美濃と能登の軍勢を率いて越前へと向かった.
『太平記』によれば,その軍勢は7000騎あまりにのぼったという.
一方,斯波高経は杣山城,子息義将は栗原城に籠城し,幕府軍を迎え撃った.
杣山城は,かつて建武〜暦応の頃,南朝方の有力拠点だった城で,斯波氏もこの城の攻略にさんざん手間取ったのである.
その城に今,自分が籠城して幕府の追討軍を迎え撃つ,高経はどんな気持ちだったのであろうか?
高経は,この城に1年近く籠城し,幕府軍の攻撃を防いだ.
長期にわたる防戦が成功したのは,斯波氏の長年にわたる越前経営が一定の成果を収めていたことと,実は幕府に斯波氏を本当に滅ぼす意志がなかったこと,この2つの原因によるものであろう.
貞治6(1367)年7月13日,斯波高経は杣山城で病死した.
62歳であった.
高経は,将軍尊氏と同年齢であった.
しかし,尊氏の存命中は彼に疎まれて,将軍家と並ぶ高い家柄を誇る割にはあまりぱっとしなかった.
高経が幕政の中枢を占めてその本領を発揮したのは尊氏の死後,50代も後半になってからであり,その点で遅咲きの政治家と言えるであろう.
その政治理念は,基本的に鎌倉幕府の訴訟を踏襲する守旧的なものであり,現実的には直義の政治の復興を目指すものであった.
しかし一方で,将軍御所を意欲的に建造し,将軍家直轄領を増やして増税路線を採るなど,将軍権力の増強に努めたことも無視できない.
総合的に見て,彼の政治もまた,室町幕府の強化に一定の貢献を果たしたと言えるのである.
続きはまた次回に・・・.
【質問】
斯波氏への越中返還以降について教えられたし.
【回答】
斯波高経の死を知った将軍義詮は,ただちに斯波氏を赦免し,高経の子斯波義将を上洛させた.
貞治6(1367)年7月13日に高経が死去し,義将が上洛したのが同年9月1日であるから,この間2ヶ月も経っていない.
斯波義将の赦免が,きわめて迅速に行われたことがよくわかるであろう.
要するに,義詮には斯波氏を本気で滅ぼす意志など微塵もなかったのである.
しかし,斯波氏は以前の勢力を簡単に回復することはできなかった.
斯波氏が没収された越前・越中・若狭の3ヵ国は,いずれも同氏には返還されなかったのである.
しかし,同年12月に義詮が死去すると,幼少の将軍義満に代わって幕政を主導した管領細川頼之は,桃井直信から越中守護を取り上げ,斯波義将に与えた.
これについては以前も紹介したことがあるが,室町幕府にとって幼少の将軍に代わって管領が統治する体制は変則的で,しかも室町幕府史上初の事態であったので,頼之は不安定な政権を支えるために,やむを得ず斯波氏に権益を与えたのであろう.
ここで斯波氏に返されたのが,同氏が建武以来長年守護を務めた越前ではなく,越中であることに注意されたい.
しかも越中は,将軍尊氏をさんざん苦しめたあの桃井直常の守護分国であり,反幕の気運がみなぎる地方であった.
おまけに越前に比べると京都から遠く,軍勢を率いて攻め上るには困難である.
斯波には利益を与えるが,統治が非常に困難で,失敗すればまた失脚の口実にできる地方を与える,
何度も指摘してきたことだが,この時代の幕府の政治家は,実に細心の注意を払って,絶妙なバランス感覚で政治を行っていて,本当に感心させられる.
しかし当の斯波氏は,案外さほど不満に思わなかったのではないだろうか?
これまた何度も指摘するように,越中は,斯波氏の母方の祖先である北条一門名越氏が代々,守護を務めた国であり,国内には斯波氏の所領もあった.
越前よりもむしろ本国意識が強かったのかもしれない.
そして,この推定を裏づけるかのように,斯波義将は越中の支配に本腰を入れるのである.
失脚した桃井直常・直信兄弟は,早速越中に引き揚げて応安1(1368)年に反乱を起こすが,この反乱を鎮めるために,翌応安2(1369)年,斯波義将が自ら大将として出陣した.
義将は加賀守護富樫竹童丸・能登守護吉見氏頼とともに,加賀まで侵攻していた桃井軍を越中に押し戻し,諸城を攻め落として,応安3(1370)年,桃井直常の嫡子直和を討ち取った.
翌4(1371)年,ふたたび反乱を起こした桃井に対し,義将も再度自ら出陣し,遂に桃井氏の反乱を完全に鎮圧した.
一方,管領細川頼之の方は,南朝の楠木正儀を幕府に寝返らせることに成功したものの,この正儀を救援するための河内侵攻がうまくいっておらず,停滞していた.
室町幕府は武家政権なので,やはり戦争に勝った武将の発言力が高まるし,政治的地位も向上する.
それは高師直の時代から不変の鉄則であった.
こうして斯波義将は政治力を強化し,反細川派の盟主となるのである.
【質問】
白河結城家文書とは?
【回答】
白河結城氏というのは,下総の大豪族である結城氏の分家で,今の福島県の白河を本拠とした武家である.
分家と言っても本家の結城氏を凌ぐ勢力を持ち,南北朝初期には楠木正成等「三木一草」の一人で長く南朝の忠臣として称えられた結城親光が出現した.
その兄弟親朝も南朝方の武士で,北畠親房からおびただしい数の書状をもらったことで知られるが,結局幕府方へ寝返った.
白河結城氏は,その後も南陸奥の一大勢力として戦国に至るまで長く繁栄し,白河という戦略上重要な位置を占めた地域を支配したこともあって,京都の将軍や鎌倉公方,その他有力大名から多くの文書を受け取ったこともあり,この文書は現代中世の武家を研究する上できわめて重要な史料となっているのである.
村井章介編『中世東国武家文書の研究―白河結城家文書の成立と伝来―』(高志書院,2008年)という本は,その名のとおり,白河結城家文書という文書を研究した本で,東大の日本中世史研究者が中心となって長年研究してきた成果をまとめたものである.
この本の冒頭に収録されている論文・市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」に,非常に興味深い事実が記されていたので紹介しよう.
戦前,この家の研究を行ったのは,結城錦一という人である.
この人は高名な心理学者であったが,白河結城家のご子孫で当主にあたる人物だったそうである.
結城は当初,歴史をつまらないと思っていたそうだが,戦前の南朝賛美の時代風潮の中,南朝忠臣の子孫として仕方なく自分の家の研究を始めたそうだ.
そしたら,
「史料に基づく論証過程は心理学と同じ」
ということに気づいて,だんだんおもしろくなってきて,東大の史料編纂所に入り浸って研究に没頭するようになったそうである.
そのため,結城の白河結城氏研究は,戦前のものとしてはきわめて高い実証的水準を誇り,この家の文書が各地に分散して収集しづらかったこともあって,近年まで定説的地位を占めていたとのことである.
近年,『白河市史』が刊行されたり,東大でこの文書の研究が進められたこともあって,結城の研究の誤りがいくつか見つけられ,ようやく研究が進展しつつあるそうであるが,それはともかく,有名な武家の子孫が高名な心理学者となって,自分の家のルーツを探る優れた研究を成し遂げたなんて,なかなかいい話だなあとおれは思うのである.
【余談】
そう言えば,足利尊氏の子孫は西南アジア史の大家だったんだよな.
戦前,旧制高校に在学していたとき,歴史の先生に職員室に呼び出されて,
「明日は君の先祖の悪口を言わせてもらう.申し訳ないが我慢してほしい」
と言われたそうな.
はむはむ in mixi,2008年05月27日19:48